夜会 1
ドロシーが初めて王城に招かれてから、すでにひと月足らずが経過していた。
通いだした当初は、六時課の鐘を聞きながら昼食を食べ、しばらく他愛のない話をして帰宅していた。このところ、帰り道で聞いていた九時課の鐘を耳にしてから、ようやく腰を上げている。
話している内容は、さほど変わっていない。時には、互いに黙り込んで気まずくなり、何とはなしに食べ物や紅茶へ手を伸ばすこともある。けれど、沈黙は断じて居心地の悪いものではなかった。
会話の端々やノエルの態度から、グレンとリリアンの情報がちらほら入っていることはうかがえた。けれど、ドロシーはあえて尋ねはしない。ノエルも、たまにポロッと、うっかりしたようにこぼす程度だ。
聞きたいとは思わない。むしろ、これ以上煩わせないで欲しいと思ってしまう。
「そうだ。君には急な話なんだが、三日後にある夜会に出ないか?」
九時課の鐘が鳴り終わった直後のことだ。
「……夜会、ですか?」
思わず聞き返してしまった。
今さら取り繕う必要はないだろう。嫌がる気持ちをかすかににじませつつ、ドロシーは漫然と見上げた。
普段は感情が表に出にくい彼女の露骨な嫌悪に、ノエルは苦笑とも微笑ともつかない顔を見せる。
「君が夜会嫌いというのは、キースにも聞いている。実際、ほとんど夜会に顔を見せたことがなく、来る時はキースが同行していることも。こんな時期だけに、君はことさら嫌な思いをするだろうが……」
「……殿下は、私がなぜ夜会が嫌いか、ご存知ですか?」
あの兄のことだ。理由までは、明確に伝えていないに決まっている。伝えていたら、彼は誘わないだろう。
他人にどんな醜聞を囁かれようとも、一人きりで参加したはずだ。
「キースに聞いたわけではないから、あくまで推測だが……俺はリリアン嬢が原因と考えている。今まで、ただの噂話はあまり耳に入れてこなかったんでな……昨日いろいろと聞き回って、驚かされたところだ」
知らず知らず、ドロシーの頬がふわりとゆるむ。
連日話し込んだ結果、少々偏りはあるものの、ノエルの知識は幅広いとわかっている。流行や、華やかで話題にあがりやすいことやもの。そういった辺りは、特にそつなく押さえているようだ。いくらか薄い部分は、王太子にはさして重要でない。その上、頭の回転が速く、どこまでも行動的な人だ。
兄がかなり親しげなつき合いをしている理由が、やっと理解できた気がする。
そして、知れば知るほど、そばにいたいと願ってしまう。
「もし君が、気分の悪い思いをしてもかまわないと考えてくれるなら、ぜひとも来て欲しいんだ。もちろん、そうならないように守るつもりでいるが……」
「三日後ですね。わかりました」
すんなり承諾するドロシーに、よほど驚いたのか。ノエルはずいぶんと忙しく目を瞬かせている。
「姉絡みでの不愉快は慣れていますから、ご安心を」
サッと立ち上がるとドレスを両手でちょっとつまみ、軽やかで優美に礼を取った。
本当は、嘘だ。
慣れてなどいない。慣れて、傷つかない振りをしているだけ。
何を言われるのか。どんな目に遭わされるのか。想像だけでは追いつかず、怖くて不安でたまらなくなる。
それでも、夜会という場で正式に、彼の隣にいたい。
これが、嘘偽りのない本心だ。
「では、また明日伺います。その際には、流行の髪型や飾りなどを、いくつか教えていただけますか?」
「ああ。楽しみにしている」
できるだけ平静を装う。軽く頭を下げ、ドロシーはその場を後にした。
§ ‡ §
夜会当日は、昼食をともにしなかった。代わりに、九時課の鐘を、王城へ向かう馬車の中で兄と一緒に聞いた。
普段は、王城を辞する頃合いだ。
「この時間に城へ向かうのは、何だか落ち着きませんね」
「僕も、こんな時間に君といるのは、やっぱり奇妙だと思うよ。いつもはまだ、城で雑務に追われているからね」
雑務、と聞いて、思わず笑みがこぼれる。
兄の言うそれが、噂話の聞き歩きだと知っているからだ。貴族間はもちろん、下働きたちの何気ない立ち話まで、とにかく入念に拾い集めているらしい。こうなると、もはや趣味の域だ。
「まあ、殿下に君を引き渡したら、僕はちょっと雑務に明け暮れてようかな。何かあったら、言うまでもなく駆けつけるけど」
「同時に多方面から手出しをされない限りは、兄様の助けは不要かと思います」
ドロシーをよく知らない人間が聞けば、つんけんした人間と誤解される声音と表情だ。しかし、キースはにこやかに笑って、ドロシーをまじまじと見つめている。
彼の目は、表情と違って笑ってはいない。
「殿下に任せるってことはね、君の安全の確保も一任するってことだよ。だから、僕としては、殿下に不測の事態が起きて君が一人にならない限りは、当たり前だけど手も口も出さないよ」
「はい、わかっています。兄様は兄様で、存分に夜会を楽しんでください」
少しだけ目を細め、わずかに口角を上げ、ドロシーは兄をしっかり見つめ返す。
兄は、確かに甘い。時々、いくら何でもそれは甘やかしすぎている、と感じるほどだ。けれど、むやみやたらと庇護するわけではない。危険な目に遭わないよう、常に気を配っている。そんな表現が似合う。
(兄様や殿下がいてくださるのだから、何も怖いことなどないですよね)
そんなに怯える必要はないのだと、フッと肩から力が抜ける。
カタカタと、細かな振動が伝わってくる。窓の外を眺めれば、やや黄色がかった、不思議な色合いの空に変わりつつあった。
ただ何となく眺めているだけなのに、なぜか妙に、不安を煽る色だ。
(最後に顔を出した夜会は、いつでしたか……)
ぼんやりと思い出した兄は、目の前の姿よりいくらか幼い。だが、身長は変わらないから、二、三年ほど前だろうか。
そこでようやく、合点がいった。
記憶にある最後の夜会は、姉の婚約発表の場だ。家族が欠席するわけにいかず、渋々兄と参加した。他人との接触も、極力避けた。自分が、どんなドレスを着ていたかも思い出せない。
グルリと巡らせた視線の先に、ノエルを見つけることもできなかった。
あの日は、兄しか、覚えていないのだ。
無事に王城へ到着したドロシーは、キースの手を借りてゆっくり馬車を降りる。
ここ最近は、いつも一人で訪れていた場所。そこを、兄とはいえ、誰かと歩くのは何となく落ち着けない。
ドレスも、軽めの普段着とは違い、華やかだがずっしりと重い。靴も、踵がいつもより高いものだ。自然と、足取りが遅くなる。
きつく締め上げたコルセットに、ふんわりとふくらませたスカート。共布で作った花飾りに、たっぷりの繊細な手編みのレース。丁寧にきっちりとまとめ上げた髪には、生き生きした生花をあしらっている。耳飾りと首飾りはそろいで、ドレスに合わせたのか、色合いが同じだ。
何もかもが非日常的で、どこか遠い。そのくせ、妙に息がつまる。
キィ、と甲高い耳障りな音が鳴って、ドアがゆるゆると開いていく。何度も来ているのに、一度もくぐったことのないドアだ。
どこまでも広々とした玄関ホールは、二階へ続く階段までの距離がやけに長く感じる。左右の壁も、正面を見据えていては視界に入ってこない。上から降り注ぐ淡い光に目を向ければ、巨大なシャンデリアが吊るされていた。左右にも、階段の踊り場にも、美しい絵画が所狭しと並んでいる。
(そういえば、まともに中へ入ること自体、ほぼ初めでですね……)
ノエルとは、外から回って中庭で会うばかり。一度も、王城内へ足を踏み入れたことがなかった。三年前に、挨拶と夜会のために連れられてきた時のことなど、一切覚えていない。
今も、新鮮というよりは、これからのことが億劫で仕方がなかった。
上り階段の左右から、ダンスホールを兼ねた広間へ入るようだ。しかし、キースはドロシーを伴い、階段を上っていく。踊り場で左に折れ、さらに上へ。ドロシーは、黙ってついていく。
三階の奥まった一角で、キースはやっと足を止めた。
「……兄様?」
聞きたいことはたくさんある。けれど、すべてに答えてはくれないだろう。それでも、必要最低限は教えてくれるはず。そう、信じている。
「殿下……僕は、ほぼ正確な到着予想時間を伝えておいたはずですよ。それなのに待っていないってのは、どういうことですか?」
丁寧なのか、不躾なのか。あまりに微妙で判断に悩む口調と声音のキースを、ドロシーは静かに見上げた。
「……これじゃ、ドールは貸せないかな」
ぼそっと呟く兄は、このドアの向こうに、目当ての人間がいると考えているのか。
見上げたまま、ドロシーはわずかに首を傾け、パチパチと瞬く。その視線に気づいたのか、キースはニッコリ微笑んで見つめ返す。
「玄関ホールで待ってる約束だったのに、来てみたらいないし。その上、いつもだいたい引きこもってる部屋にもいないとなったら、じゃあどこにいるんだろうね。そんなやつに、何で僕の可愛いドールを渡さなきゃいけないのかって気分になるのは、もうしょうがないでしょ」
「そういうものですか?」
約束を反故にされ、よくいる場所にもいない。となれば、あとは、人が集まっている広間くらいしかないだろう。
ぼんやりと考えていたら、見透かされたのか。
「もし仮に、もう広間にいるんだったら、一人で寂しく参加してろって言い切ってやるよ。しっかし、普段はちっともフラフラしないくせに、こういう時ばっかり……」
かすかな怒りを混ぜた語調に、愚痴のような小言が漏れ聞こえる。
やたらと気安い雰囲気が見え隠れしていたから、素の独り言に驚きはしない。けれど、思っていたより深くつき合っている様子に、少なからず面食らった。
「まあ、しょうがないから、殿下を探してあげようかな」
呆れ顔で小さなため息をついたキースに、ドロシーはクスクスと笑い声を立てる。
基本的に他者には手厳しい兄にしては、ずいぶんと寛容な行動だ。
「兄様は、私だけでなく、殿下にも優しくていらっしゃるのですね」
「ちょっとだけだよ。君以上に尽くすのは、まだ見ぬ妻子だけって決めてるから」
辛口な判断を下すゆえに、いまだ納得できる女性が見つからない。兄はよく、そうこぼしている。
そんな兄の認める、甘やかしがいがある女性とは、いったいどんな人だろうか。どうにも想像できない。
そもそも、貴族令嬢というのは多かれ少なかれ、リリアンに近いものがあるはずだ。甘やかせば際限のない、天井知らずの令嬢ばかりだろう。
(……兄様の理想の方は、どこかにいらっしゃるのでしょうか……)
ここホリーデール王国にはいなくとも、別の国にはいるかもしれない。だがそれは、泥の中にうっかり落としてしまった小さな金の粒を探し出すことに似ている。
あまりにも現実的な話ではない。
慣れた足取りのキースに連れられて、ドロシーも黙々と歩く。
階段を下りる時は一段ずつ待ってくれ、手は絶対に離さない。さりげなく、ごくごく自然に、体を支えてくれる。不仲でなければ、当たり障りなく接してくれ、話題も幅広い。常ににこやかというわけではないが、まったく笑わないわけでもなく。
完璧で、自慢の兄だ。
女性からの人気が高いことも、家族からちょこちょこ漏れ聞いている。
こっそり見上げた兄は、相変わらず飄々とした顔だ。どう好意的に見ても、今の状況を心から楽しんでいるとしか思えない。
恐らく、王太子につける貸しをどの程度にするか、真剣に考えているのだろう。
どこに向かっているのか。まったくわかっていなかったドロシーは、不意に足を止めたキースより一歩、前に出てしまった。
「……やれやれ、困った殿下だね」
玄関ホールでスッと背筋を伸ばして立つ男性を、キースは冷え冷えした目で眺めている。
ドロシーは兄の視線を追う。
呟きは聞こえなかったようで、背中しか見えていない。それでも、このところずっと目にしていたものだ。そこにいるのが誰なのか、絶対に見間違えるはずはない。
「もしかして、入れ違ってしまったのでしょうか」
たとえば、急な用事が入った。そんな理由で、ほんの少し離れていたのかもしれない。だから、互いに行き違いに気づかなかった。
そんな可能性も、十分あり得る。
「まあ、どっちにしても、ちょっと苦言を呈さないといけないね。殿下!」
ノエルに声をかけたキースは、するりと自然に腕をほどく。ドロシーを踊り場に残し、さっさと階段を下りてしまう。取り残されたドロシーは、逡巡した末、その場に留まることを選んだ。
背後のドアからは、広間のざわめきが漏れ聞こえてくる。階下の二人が声を潜めているためか、話している内容は何ひとつ聞こえてこない。
ドロシーに顔を向けているノエルの表情にも、キースの背中にも、取り立てて変化は見られなかった。
手すりにそっと手を置いて、ドロシーは黙って待つ。
どうせ、兄が貸しをどの程度にするか、交渉しているに決まっているのだ。わざわざ聞きに行く必要も、興味もない。
「ドール」
ドア越しの喧噪の合間を縫って届く、唐突に振り返ったキースの呼びかけ。
「行くよ」でもなく、「おいで」でもない。どうしたらいいのか。迷ってしまって、ちょっと首を傾けて見つめてしまう。
「ああ、ゴメン。今行くから、そこで待っててね」
コクッと頷いたドロシーは、手すりを握る手にギュッと力を込める。
軽い足取りで階段を上ったキースは、左手でさりげなくドロシーの左手を取った。横に立ち、彼の右手が腰に回される。とはいえ、ドレスに何となく触れているだけだ。
「全部終わらせたはずの仕事が残ってたって、最近手抜かりが多いですよね、殿下は」
コツコツと靴音を立てて、階段を上る人に呆れた声を投げつける。そんなキースを、ドロシーは密かに見上げた。
ジッと見つめていることが知られるのは、少し気恥ずかしい。そんな気分だ。
「少々急いていてな。一枚だけ承認がないと、やり直しを食らったんだ」
「……それ、このところ毎日じゃないですか。そんなだから、リリーに駆け落ちされたショックでおかしくなった、なんて噂が出るんですよ」
「打ち消しておけ」
知っている彼とは違う。完全に、公の顔だ。いつもの穏やかさも、包み込むようなやわらかさもない。
見慣れない姿に、戸惑いがじわじわと湧き上がる。
乗せていただけの左手が、無意識に温もりをつかむ。その温もりは、安心させるようにギュッと握り返してきた。
「消したかったら、ご自分で努力してくださいね。僕がリリーの評価を下げたら、あちこちから恨まれるんで。せっかく作りあげた完璧な土台が、こんなことで揺らぐなんて冗談じゃありませんよ」
「相変わらずだな。それで、本音はどの程度だ?」
「割と、本音ですよ?」
にこやかに言い放つキースの横顔を見上げ、事実だとドロシーは推測する。
こと男性には受けのよかった姉だ。この時期に犯した失態は、すべて結びつけられても仕方がない。その点に関しては、自力でどうにかするのが最善だ。
そして、姉の悪評を流すことに関しても、間違いなく本心に違いない。
手を貸すべきかどうか、兄の中で明確な基準を設けているのだろう。
そして今は、助力する時ではないと判断した。もしくは、何らかの企みがあって、その邪魔になる。そんな可能性も、大いにあり得た。
後で片づいた時に初めて、これは企みによるものだった、と知る。もしくは、わからないまま終わってしまう。そういう話になるに決まっている。
「きっちり守ってくださいね」
彼の性格をよく知っていれば、しっかりと嫌味が含まれているとわかる。そんな言い草と笑顔だ。
わずかに持ち上げられた左手が、強引にほどかれる。ひょいと渡された先は、どことなくひんやりしていた。
温かいものがなくなって冷やされて、急に心細くなる。
知らず知らず、小さく身震いしてしまう。
「わかっている」
キースと立ち位置を変わったノエルは、右手でドロシーの手を受けていた。
まだ、正式な婚約者ではない。互いの立場をかんがみれば、これが妥当な距離だ。それはわかっている。わかっているけれど、もう少し近づいて欲しいと願ってしまう。
(……私は、わがままですね)
手に入らない存在だと思っていた。独り占めにできない人だと、理解している。だからこそ、不意に近づいてしまったことで、届きそうな錯覚をしているのだ。自分のものになるかもしれないと、勘違いをしている。
ただ、それだけのこと。
他に選択肢がないから。あくまで、それだけの話だ。独占することなど、夢でしか叶わない。
きちんと理解しているつもりだった。それがいつから、こんなにも欲張りになってしまったのか。
ため息のひとつくらい吐き出したいところだが、普段どおりの呼吸を心がける。目ざとい兄に後で問い詰められるくらいなら、我慢することは大して難しくない。
「帰る頃合いに、迎えに行くからね」
「はい、わかりました。ごゆっくりどうぞ」
パチンと片目をつぶったキースに、ドロシーはほのかに浮かんだ笑みを向ける。彼女にしては珍しく、はっきりと笑顔とわかる表情だ。
弾んだ足取りで階段を下り、スタスタと歩いていく。キースの背中を見送ったドロシーは、左に立つ人をそっと見上げた。
今日は、ほんのり黄色がかったジュストコールだ。同色のベストに、自分が着ているドレスと似た、濃緑色のクラヴァット。いつもと違って、きちんと固めて整えた髪が、まるで別人のようだ。
普段は前髪がかかっている瞳が、すべて覗いているからか。心が無性にフワフワして、何だか落ち着かない。
スカート部分の布にやんわりと波を作る、丁寧な造作の花飾りに視線を落とす。カフスや髪飾りなど、変えられるものは流行を意識した。けれど、ドレスの型は最新ではない。首回りを大きく開けた最新のドレスと比べれば、襟の詰まっているそれに、野暮ったい印象は避けられない。
姉だったら、流行のドレスを華麗に着こなしてみせるのだろう。
考えて、胸の内で苦笑する。
(元々、あの人に華やかさでは敵わないのですし、競う理由もありませんものね)
今日やるべきことは、そつなく夜会を終えること。ただ、それだけだ。