再会 3
三時課の鐘がなる前に、キースは王城へ着いた。その足で、ノエルの執務室へと向かう。
半年前であれば、いつ出向いてもたいてい執務室にいた。けれど今は、六時課の鐘が鳴る前にここから出ていき、九時課の鐘が鳴り響くまでは戻ってこない。
その理由を、キースは嫌になるほどよく知っている。だからこそ、わざわざこの時間にやってきたのだ。
「殿下、入りますよー」
声かけとほぼ同時に、許可なくドアを開け放つ。
左右の壁には、端から端までびっしりと、本か書類の詰まった書棚が並ぶ。ドア正面の窓は大きく、部屋の隅まで何となく光を届けてくれる。執務室だけあって、窓を背にした机と、応接用のソファしか置かれていない。先ほど届けられた朝の仕事は山積みで、これから始まるところのようだ。
室内にいたノエルは、露骨に呆れた顔で目をすがめる。そんな彼を見て、キースはますます楽しそうに微笑む。
「せめて許可を待て、と何度言えばわかるんだ?」
「どうせ「入れ」っておっしゃるでしょう? だったら聞くまでもないですし」
「まったく、お前は本当に素直じゃない男だな」
「お褒めにあずかり光栄です」
にこやかに微笑んでキースが言うと、なぜかノエルは盛大的に噴き出した。とたんに、キースから笑顔が消える。
「あー、殿下、ドールを褒めましたね? 何でリリーの時と違って、そんなに手が早いんです?」
今度は、キースがノエルを睨む番だ。
片目を細めて、苦々しげに見つめてくる。そんなキースに、ノエルは両手のひらを顔の横まで持ち上げた。
「昨日のドレスは薄紅色の地が華やいで見えたから、素直にそう言っただけだ」
「うっわ……そんなこと、リリーには一回も言わなかったくせに」
「待て、お前はどうして俺が何を言ったか、そうこと細かに知っているんだ?」
「そこは僕の素晴らしき情報収集のたまものですよ。リリーは知り合いに、脚色した愚痴ばっかり言ってたらしくって。もう、面白いくらい集まりましたね」
ニコニコしたまま、つらつらと並べ立てる。そんなキースに、ノエルの口から盛大的にため息がこぼれ落ちた。
「ドロシー嬢は、お前にもリリアン嬢にも似ていないんだな」
露骨な嫌味になると、言ってから気づいたのか。バツの悪い顔をしたノエルは、キースからわずかに視線を逸らす。
王太子という立場上、どうしても許されないことがある。それを時々、自分相手にやらかしてしまう。そんな彼を、キースは気に入っていた。
人には裏と表がある。その事実を、記憶にある頃から知っていた。中でも、妹のリリアンはひどいものだ。あれだけ、いい顔と悪いところを使いわけられる娘など、そうそういるものではない。
できることなら、ドロシーには知らないまま育って欲しかった。あれが姉でなければ、もっと純粋だっただろう。もっともっと素直で可愛らしい、それこそ誰もが欲しがる娘に育っていただろうに。
(まあ、リリーがいたからこそ、ドールのいいところが今までうまく隠されていたんだけどね)
生まれた時から、両親にもあまり気にかけてもらえなかった下の妹。誰かを愛し、誰かに愛される喜びを知って欲しいと思っていた。
とはいえ、誰が相手でもいいわけではない。
利害が一致しているから、という理由でもかまわない。ただし、最期まで、ドロシーだけを見て愛し続けてくれる男であることが条件だ。この条件だけは、何があっても譲るわけにいかない。
(リリーを諦めきれなかった時点で、グレンはもう終わったんだよ)
気持ちを切り替えて、ドロシーをじっくり見つめる。たったそれだけで、死ぬまで平穏な生活が約束されていたというのに。
「だからこそ、最初は殿下におすすめしなかったんですよ。そもそも、リリーがいるのにドールを選んだら、いらない注目を浴びるでしょ? 自分から向かっていくのは平気だけど、流された結果っていうのは、あの子が弱くなってダメになるんでね」
「なるほど……だから、こうなるようにわざわざ仕向けた、というわけか」
机に頬杖をつき、キースから視線を逸らせたまま、ノエルはぼそりと呟く。そんな彼に、キースは大げさに肩をすくめてみせる。
「いや、殿下相手じゃ、リリーは近々こういうことをすると思ってましたよ。僕の知る中じゃ、リリーにとって殿下は、とにかく一番つまらない男ですからね。ただ、近づいた相手がちょっと意外でしたよ。もっとも、リリーに迫られたらグレンがその気になるのも想定内でしたけど……一応ドールを選ぶなら、まあ目をつぶっておこうかな、と思っていたんですけどね。ところで殿下」
「何だ?」
やけにもったいぶって間を空けるキースに、ノエルは胡乱げな視線を向けた。
「ドールの印象はどうですか?」
思っていた質問とは違っていたのか。ノエルが安堵の息を吐いて、軽く眉根を寄せる。それからすぐに、小さな笑みを見せた。
気を許している時の微笑に、自然とキースの頬もゆるむ。
「芯のある、しっかりした娘だな。年齢に似合わず冷静で、感情ではなく理性的に語るところは、間違いなくお前の妹だ。あれだけはっきりした意思があるなら、周囲から何を言われても、簡単には揺らぎそうにないな。ただ、自分のことより他人のこと、となりそうな点が、彼女のよさであって不安の種か? あの様子だと、ずいぶん我慢というか、溜め込んでいそうだと思うが」
「殿下にそこまで褒めていただくと、これまで育ててきたかいがありますね」
「お前が育てたのか!」
目を細めて感慨深げに独りごちたキースに、ノエルは思わず突っ込んでしまった。
六歳離れているとはいえ、兄は兄だ。親代わりとなって、様々なことを躾けるなどできるのか。
そんな疑問をありありとぶつけるノエルに、キースはただただ微笑んでいる。
「淑女の礼儀作法から何から、最低限は僕が叩き込みましたからね。あ、リリーは知りませんよ? さすがに年が近すぎるし、そもそも、あんなのをいったいどこで覚えてきたんだか、と呆れたくらいですから。ただ、親の目が僕とリリーに向いてたせいで、ドールは何でもかんでも一人でやることも覚えちゃったんで、たまーに淑女らしからぬこともしでかしますけどね」
「ああ、それでか」
「ひょっとして、椅子を引いて驚かれました?」
「そうだが……よくわかったな」
苦笑いのノエルに、キースは考えの読めない完璧な微笑で答える。
ノエルはいつもどおり、紳士として当たり前の行動を取っただろう。けれどそれは、ドロシーにとって予想外のものだ。誰かに何かをしてもらうことに慣れていない彼女は、恐らくかなり動揺したことだろう。
「ドールは、淑女としての扱いを受けることには不慣れなんですよ。だって、誰かいなきゃ、椅子を引いてくれないでしょ? そうならないように、僕もなるべく一緒に食事を取るようにしたかったんですけど、平凡な父と忙しい職務は罪作りですよね……ちょっと仕事に追われている間に、気がついたら一人で勝手に座って食べるようになっちゃってて。完全に手遅れでしたね」
あれはいつだったか。
久しぶりに可愛い妹と夕食が一緒できると喜び、浮かれて帰宅した日のことだ。夕食だと呼ばれて食堂に向かうと、すでに妹は椅子に座っていた。周りには誰もおらず、一人で勝手に座ってしまったのだと気づくのに、少し時間が必要だった。
あの時の衝撃と落胆は、今思い出してもいただけない。
「そういう扱いには、今後慣れてもらえば済む話だ。だが、すんなりと他者に気を回せる気質は、俺にはなかなかありがたいな」
「自分が一番のリリーには、そういうとこ、ひとっつもありませんからね。まあ、自分をよく見せるための技術はすごいけど」
すっかり手のひらを返したキースの態度に、ノエルは心持ち首を傾げる。
リリアンが出奔するまでは、彼女の評価を下げることは言わなかった。もちろん、高く評価していたわけでもない。ただ、ごく一部の事実を淡々と教えていただけだ。
それが今はどうだ。彼女の評価がどうなろうと知ったことではない。傍目にも、そう言いたげな態度を貫いている。
「……お前は、何を企んでいる?」
「企むだなんて人聞きの悪い。はっきり言えるのは、僕はドールを王太子妃に──ひいては、王妃にします。リリーが戻ってきて、それを殿下が許そうがどうしようが、ドールの未来は変わりません。たとえ殿下でも、絶対に、変えさせませんから」
剣呑ささえ感じさせる、キースの真剣な眼差し。それをしっかりと真っ正面から受け止め、ノエルは呆れたように微笑む。
「お前の好きにすればいい。どうせ、お前の妹のどちらかを迎え入れるしか、俺には道がないからな」
未婚の辺境伯の娘をすっ飛ばして、伯爵家に声をかけるわけにはいかない。しかも、ヘイデン辺境伯は国内有数の貴族で、伯爵家では換えが利かないのだ。
十年前だったら、伯爵家の有力な家にも声がかかったかもしれない。それを許さないよう、政治の中核へ切り込んだのはキースだ。そのために、ドロシーは妙に自立した少女に育ってしまった。
ドロシーのことは、後悔している。けれど、たとえやり直せたとしても、キースはまた同じ道を選ぶだろう。
(僕はドールに、近いところにいて欲しいんだよ。困ったり、つらかったりした時に、すぐに手が差し伸べられるくらい、すぐそばに……)
名を売ることにかまけて、寂しい想いをさせてしまった。その償いをする機会を得た際には、すぐさま行動できるように。