再会 2
翌日も、ドロシーは王城へ向かった。時間も、前日とほぼ同じ頃だ。
少しは慣れたのか、昨日と違い、それほど恐怖を感じない。かといって、胸が高鳴るような期待があるかと言われると、それはまた違う。
(……殿下は、どうしたいのでしょうか)
姉が戻ってきて謝罪をすれば、受け入れるつもりなのか。それとも、何があっても決定を覆さないのか。
ノエルの人となりをほとんど知らないドロシーには、さっぱり計り知れない。
馬車から降りるなり、ほう、とため息がこぼれ落ちた。
夜半に降ったらしい雨で、地面はしっとりと湿っている。なるべくドレスの裾を汚さないよう、軽くつまみ上げて歩く。
腰の左右で、幅の広い薄紅色のリボンがフワフワと揺れる。ドレス全体にふんわりとかかる、下の色が透けて見える薄い白色の布。それが、薄紅色のドレスをやわらかな桃色に近づけている。靴も色を合わせ、薄紅色だ。珍しい色らしく、探すのに苦労した、と兄が自慢げに胸を張っていたことをふと思い出す。
着るものには頓着しない。流行遅れだろうと何だろうと、人に見られて恥ずかしいボロボロの服でなければ、気にする理由もなかった。
そもそも、他人の評価が気になるほど、屋敷の外には出ていない。
(……ですが)
ノエルがどう思うかは、気になってしまう。
似合うと思ってくれるだろうか。少しでも可愛らしく、映るといいのだけれど。
とりとめもなく、そんなことを考えてしまうのだ。着る服に迷った経験は、生まれてこの方初めてだった。
ドロシーが中庭へ着くと、やはりノエルが待っていた。今日は濃紺色のジュストコールと白いベストだ。クラヴァットは一見すると白だが、ベストと比べるとわずかに青みがかっていた。
「昨日のドレスも似合っていたが、今日は一段と華やいでいるな」
「お褒めにあずかり光栄です」
昨日と変わりなく、ノエルは椅子を引いてくれる。どうやらこれは、彼にとって、呼吸をするのと大差ないようだ。
座る前に礼を言うドロシーを、また不思議そうに見つめている。
沈黙に包まれた食事を終え、口火を切ったのはやはりノエルだった。
「リリアン嬢とシプリー子爵の行方は、なるべく休みなく探させているが……今のところ、どこから、どちらの方角へ向かったのかすら、残念なことにつかめていない」
「昨日の今日ですから、すぐには難しいでしょうね。一昨日の夕食の席には、姉はおりましたけれど……その後はわかりません」
少し遅れたため、姉はすでに食事を終えて入れ違うとところだった。もともと苦手意識がある姉と、わざわざ好んで食事をしたいわけでもない。そのため、やや冷め始めていた夕食を済ませた日だった。
思い返せば、あの日は兄も、先に食事を済ませていた。遅くなれば待っていてくれる兄が珍しいと、そんなことを思った覚えがある。
「ヘイデン辺境伯も細君も、やはり夕食後からリリアン嬢を見かけていないそうだ」
「そうなのですか? そういえば、兄も、あの夜の姉はいつにも増して、足が地に着いていなかったと言っていました。その時の兄は、てっきり、殿下との式の詳細が決まった嬉しさだろうと、勝手に思い込んでしまったそうです」
今朝、王城へと出向く前に、兄から何の気なしに聞かされた話だ。確かめもせずに決めつけるなど、兄らしくはないと思う。
けれどそれは、口に出せなかった。不思議と、口に出してはいけない気がしたのだ。
姉に興味のなかったドロシーには、浮かれていることさえ見て取れなかった。そもそも、いつ見ても春の陽気にうかうかと、のんきに踊らされているような人だ。じっくり思い返しても、言われてみればそうだったかもしれない、と答える以外にない。
むしろ、いつものことだと答えてしまいたいくらいだ。
「キースが? くそっ! 昨日会った時には何も言わなかったぞ、あいつ!」
やけにに仲が良さそうな言い方に、ドロシーは首をことりと傾けた。
(兄様も、殿下をずいぶん詳しくご存知の口振りでしたものね。時々、お会いになっていらっしゃるのでしょうか)
いずれ父親の後を継ぐキースだ。ノエルとの面会が許されていたとしても、取り立てておかしくはないだろう。しかし、お互いに腹を割って話す姿は、どうにも想像できない。ただ、何かの拍子に、共通の話題を少し口に出すことはありそうだ。
そういった細かな積み重ねから、キースはさまざまなことを推測したに違いない。
「兄は昔から、ああいう人です。気が向けば教えてくれますが……」
これまでにも、何となく気乗りがしないからと、徹底的に秘密にされてきた。
たとえば、何らかの祝いごとをこっそり計画している時。ただ単に、驚かせてみたいだけの気分だから。他にも、驚いた顔が最高の贈り物と言って、キース自身の誕生日にドロシーへ贈り物をくれたこともある。
いい意味でも悪い意味でも、意表を突かれたことは、とにかく数知れない。
「言わないということは、兄にとって重要でないか、言うべき時ではないと判断しているのでしょう」
「まあ、そうだろうな。あいつはリリアン嬢の話はしたが、君の話はひとつもしなかった。おかげで、顔はおぼろげに覚えていても、名前はすっかり忘れてしまったんだ」
「兄はそういう人です」
ドロシーもまた、尋ねられない限り答えない。せいぜい、互いに面識のある人物の話を、場に合わせて答える程度だ。自ら話題を提供することはない。そもそも、知らない人物の名を、いちいち説明したりされたりする。それがこの上なく苦手で、いかんせん苦痛を覚えてしまう。
聞いた話と想像で補った人物像は、時にまったく違う様相を呈する。たいてい、大きく裏切られるものだ。
見知らぬ人と接する時には、先入観は欲しくない。
(……もしかして兄様は)
ノエルのことをあえて、ドロシーに語らなかったのかもしれない。
「ところで、君から見たリリアン嬢について、聞いてもいいだろうか」
つい思わず、ドロシーは思い切り眉を寄せてしまった。ノエルは驚いた様子で、軽く目を見開いている。
失敗した。
普段なら、決して表には出さない。その自信がある。それが崩れてしまったのは、少なからず動揺があったのか。はたまた、ノエルの前だからか。
こっそりと息を吸い込み、吐き出す。
いまだ破談にしていない婚約者の話を、彼が聞きたがるのは無理もない。誰も話していないだろうから、姉妹仲があまりよくないことも知らないはずだ。
それは、十分すぎるくらいにわかっている。
とはいえ、わざわざ聞かせたい話とは思えない。
「キースとは確執があるようだったが……君もか?」
察してくれるのはありがたかった。ついでに、質問を撤回して欲しくなる。
華やかな美少女で、誰からも好かれる。そんな姉に対する感情を吐露すれば、正反対の姉をうらやんでいる、単なるやっかみとしか思われないだろう。
(……殿下には、そう思われたくはありませんから……)
兄が褒めてくれるいいところを見せられる前に、嫌なところを見せてしまう。それだけは、絶対にしたくはなかった。
「リリアン嬢の悪口でかまわないから、ぜひ聞かせてもらえないか?」
「……婚約者に対する非難をお聞きになりたいだなんて、殿下はずいぶんと変わっていらっしゃいますね」
迂闊にも皮肉がこぼれる。
気負えば気負うほど空回りするところは、子供の頃からちっとも変わらない。悔やんでも悔やみきれない失態だ。
きっと怒っているだろうと、ドロシーはそっとノエルをうかがう。しかし、彼はなぜか楽しそうに微笑んでいた。その表情には、かすかな親しみが浮かんでいる。
「彼女が婚約者であったのは、ただの結果だ。いずれは結婚するのだろう。その程度は考えていたが、絶対に彼女でなければ結婚はしない、と思うほどの恋情も、興味や関心も、私にはなかった」
「…………」
どうしても言葉が出ずに、ドロシーは口を二、三回、開けたり閉めたりした。
誰もが好きになる。家族以外の男は誰であれ、一度は彼女に愛を囁く。そう言われていた姉に、興味も関心もなかったと言われても。
(……にわかに、信じがたいですけれど)
駆け落ちを知っても、彼は烈火のごとく怒らなかった。そのことからも、姉への愛情も熱心な執着も、確かになかったのだと推測できる。
そもそも、姉たちを探しているのも、罪を罪として裁くためなのか。実のところ、取り戻すためではないのかもしれない。
ノエルの視線を、真っ向から受け止める。
せめて、姉たちの減刑を望まない理由くらいは、話しておいてもいいだろう。そんな気分になったドロシーは、おもむろに口を開く。
「兄が姉を快く思わない原因は、すべて姉にあります」
やや顔を伏せているドロシーを、ノエルは瞬きながら見つめる。彼の表情には、何らかの感情さえも見られない。
言葉に音をつければ、渦巻いていた感情はどんどん外へとこぼれていく。
「私自身は、物心ついた頃には、姉に対する興味も関心もありませんでした。今回の件まで、正直なところ、そこにいてもいなくても、特に気にならない存在でした。そうはいっても、年齢が近く、外見や性格に少しも似たところのない姉妹です。誰彼かまわず、比較する言葉だけは、うんざりして無意識に聞き流せるほど浴びました」
『リリアンは愛想がよくて可愛いが、ドロシーは無愛想だ』
これはほぼ毎回、本当にげんなりして、聞き飽きるほど聞かされた。わかっていると、何度声を荒げそうになったことか。
『本当に、リリアンちゃんはお利口さんね』
そう言って褒める大人たちを、幼いドロシーとキースは冷めた目で見る。
リリアンが得意げに披露する知識の大半は、ドロシーがキースと交わした会話から得たものだ。リリアン自身が学んだものは、何ひとつない。それを、さも自身が会得した顔で触れ回られれば、キースもいい気分はしないだろう。その上、時として、跡継ぎとしての勉強中に邪魔をされたこともあるらしい。
ドロシーには、キースほど明確に嫌うほどの理由はなかった。けれど、血を分けた家族であっても、相性というものが存在する。そう知らしめる程度には、わかりあえない存在だった。
「褒められ、ちやほやされることこそが天職。姉は、どうもそう思っている節はありました。大人から可愛げがないと言われる私を、明白に下と見ていたのでしょう。私と兄がかかわりを極力断つうちに、姉は媚びることまで覚えたようですから」
自身に夢中にさせ、もてはやされる楽しみをいくらか味わいたい。それが叶うなら、相手に恋人や婚約者がいようと、姉には一切関係なかったようだ。
目当ての相手にしなだれかかって、とことん甘えた声音で話しかける。褒め言葉を聞かされるたびに、その甘え方をより甘く変えていく。それを、同時に何人もやってのけていたらしい。
姉が原因で恋人や婚約者と不仲になり、現実でも社交界でも、すっかり肩身が狭くなった者が何人かいると聞いた。
そんな彼らを、兄は「根っからのバカだよね」と嘲笑う。
おかげで、リリアンの妹と知れた瞬間から、社交界での風当たりが強くなった。男女問わずその調子で、『あのリリアンの妹』としか見てもらえないのだ。夜会での対応がすっかり面倒になり、兄の同行がなければ顔を出してもいない。
実際の婚約者であるノエルに、姉はなぜ同じことをしなかったのか。それとも、やってみたけれど効果がなかったのか。
そんな疑問が一瞬頭を過ぎったが、どうにも興味が持てなかった。
いや、違う。興味はある。ただ、聞きたくないのだ。姉がどんな言葉や態度で近づき、それに彼はどう返したのか。
知りたいけれど、知りたくない。
ドロシーはそっと目を閉じて、ふうっと息を吐き出す。
「もっとも、姉が大人たちを独り占めにしてくれたおかげで、私も兄も、煩わしい大人の相手をすることなく、好きなことができました。その点だけは、感謝してもいいと思っています。だからといって、姉の不始末を私が詫びる義理はありません」
ピシャリと言い切って、ドロシーはゆるゆる目を開けた。
真っ先に見えたのは、微笑もうとして失敗したような、ひどくぎこちない表情のノエルだ。わずかに頬が引きつっている。心なしか、顔色も悪く見えた。
「もしかしなくとも、殿下は、こういった姉の顔はご存知ありませんでしたか?」
花の女神のように美しく、甘えてしなだれかかる姉しか、ノエルが知らないなら。ドロシーの話に驚き、言葉や顔色を失ってもおかしくはない。
「元々、私は社交界にもそう顔を出していない。その上、婚約してからもあまり顔を合わせていないから、リリアン嬢に関してはそこまで知る術がないな。キースはあのとおり、自分が不利になることは教えてくれない男だ」
「そうですね。私でも、こうして表沙汰にならなければ、殿下にお教えすることはなかったでしょうから……兄ならばなおさらです」
素行の悪さを口実に、早々に婚約を解消されたくない何か。それが、兄にはあったのだろう。そうでなければ、さっさと手を回してとっくに破談にしている。悪い噂で家名が貶められる前に、姉を最も適当な家に嫁がせていたはずだ。
いったい、どんな利益があったというのか。
(兄様が何を考えていらっしゃるのか、私にはわかりかねますけれど……)
『ドールは絶対に、近場に嫁いでもらうよ。僕がいつでも気軽に会いに行ける距離じゃなきゃ、相手は認めないからね』
五年前にそう言って軽く片目を閉じた兄を、今でも鮮明に思い出せる。
幼い頃から、家族の中で気にかけてくれていたのは兄だけだった。その兄の利になれるのなら、自身の感情すら押し殺すこともできるだろう。
いつか嫁ぐ相手は、父ではなく兄の決めた人。たとえそれがどんな相手であろうと、妻として仕える覚悟はとっくにできている。相手が望んでいようがいまいが、自身の気持ちがどこにあろうが、一切関係ないのだ。
今でも、その思いは変わっていない。
(実のところ、シプリー子爵との縁談を、兄様があれほどすんなりと認めるとは思っていませんでしたから……あの時から不思議でしたけれど、兄様はきっと、こんな時が来るとわかっていたのでしょうね)
どんな話からそうなったのかすら、ドロシーは聞いていない。兄から、こうと決まったから、と聞かされ、承諾しただけだった。
タイン辺境伯領は、ドロシーの自宅から馬を飛ばして鐘二つ分弱の距離だ。シプリー子爵領は、タイン辺境伯領を越えた向こう側。近場を望んでいた兄の希望とは、明らかに正反対だ。
姉を遠方に放り投げるための、遠回りの下準備だった。そう言われれば、納得できなくもないが。
(兄様でしたら、もっと機転を利かせた方法を取れたはずです)
あちこちに角を立てず、誰もが何となく納得してしまう、軽妙なやり方。それを、あの兄なら知っている。わざわざ話を大きくしたのは、それが狙いだから。
もはや、そうとしか考えられなかった。