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最良の道  作者: 日咲ナオ
2/17

再会 1

「ヘイデン辺境伯令嬢、ドロシー様です」

 厳つい顔の門番に御者が伝えると、すんなり馬車を通してくれた。

(あちらから呼び出したのですから、話が通っていて当然ですけれど……)

 門番の顔にほんの少し同情の色が見えたのは、どういった理由なのか。ドロシーはあえて考えないようにして、御者に馬車を進めてもらう。

 両親から詳しい話を聞き、仕事始めの三時課(さんじか)の鐘を聞いた後のことだ。朝一番に連絡を受けたらしい王太子から、早速公的な封蝋で封のされた手紙が届いた。

 ──昼前に、城の中庭へ来て欲しい。

 時候の挨拶の後にそう書かれた手紙の宛名は、両親ではなくドロシーだった。正確には、「レディ・リリアンの妹御」だ。

 それでも、ドロシーにとってそれは、これまでの何よりも大切な宝物となった。

 王城まで馬車で二時間少々かかることと、妹とは直接触れ合う必要はない。そのため、あれ以来、王太子との接点は一切なかった。取り立てて話題が出ることもないだろう。だから、名前を失念してしまったことも、まったく不思議はない。

 姉のことは忘れない人たちも、比べると地味なドロシーのことは忘れてしまうのだ。もしくは、似ても似つかない地味な妹がいた、と記憶に引っかかっている程度だろう。

(私が、あの人たちの不始末を問い詰められるのでしょうね)

 当事者の妹であり、婚約者なのだから。

 姉は、年齢の釣り合う相手がいる家が片っ端から縁談を申し込んできたほどの、名の知れた美少女だ。その姉が王太子の婚約者に収まったのは、同等以上の他の家に嫁げる娘がなかったからだった。

 仮に姉が頑として拒否しても、妹であるドロシーを差し出せば済む。他の家には、ドロシーより年下の娘しかいないのだ。ただし、家の名はいくらか落ちるだろう。その辺りを加味したとしても、最終的に話を受け入れたのは姉自身だ。

 そんな理由で婚約者に選ばれた姉には、当然不平不満があっただろう。けれど、腹立たしいことに、王太子側にそれがあったとは思えない。

 向こうから詰問されることはとうに覚悟の上、とはいえ。

(何ひとつ、納得がいきませんけれど)

 物心ついた頃には、何となく姉が嫌いだった。どうにも気の合わない者が存在すると知識を得るより早く、本能は彼女を嫌がっていたのだ。

 大人には、無邪気な少女の仮面をかぶって接する。同年代の異性には、普段聞いたこともない、露骨に甘えきった声で話しかける。その際、彼らの比較対象になるのが、同性で年の近い自分だ。

 見た目からして、姉妹には見えなかった。性格に至っては正反対だ。愛想笑いすらできない子供は、誰が見ても可愛げがないに決まっている。

 グレンと婚約した当時、彼は「貧乏くじを引かされたな」と慰められていたはずだ。そのくせ、他人にはいつも優しい人だった。もちろん、ドロシーにも。

 一度決めたことならば、きっちり貫き通して欲しかった。それができないなら、最初からこの道を選ばなければいい。後から「やっぱりこっちがいい」とコロコロひっくり返されては、こうして振り回される側がいい迷惑だ。

 どうにか気分を切り替えようと、ドロシーは大きく息を吸って吐き出す。

 ガタンと音を立てて、馬車は王城の入り口で止まってしまった。たった一回来たきりの王城を、ドロシーはよく覚えていない。この先は誰かに案内を頼んで、どうにかして中庭まで行かなければならないのだ。

(姉様でしたら、誰彼かまわず気軽に声をかけてしまうのでしょうけれど)

 初対面の相手には、どうしてもうまく話しかけられない。だから、なるべく目立たないよう、ひっそりと隅にいることが好きなのだ。とてもではないが、見知らぬ人に話しかける真似はできない。

 悩みつつも、ドロシーは渋々馬車を降りることにした。来るかもしれない他の客の、邪魔をするわけにはいかない。

 恐る恐る馬車を下り、靴が石畳の道に触れた。コツン、と響いた音に、ついと心臓が止まりそうになる。

 早速馬車を移動させる御者を見送り、しばらくドロシーはそこで迷っていた。

 意を決して中へ入るべきか。はたまた、外から中庭へ続く道を調べるべきか。

(……外を、回ってみましょうか)

 中庭という構造上、外からの出入りは基本的に考えられていないだろう。しかし、一縷の望みにかけてみたい気持ちが上回る。

 そもそも、いきなり中へ入ったとして、出会った誰かにうまく事情を説明できる気がしない。せいぜい、名乗るだけで精一杯だろう。

 乾いた土をそっと踏みしめ、ドロシーは恐る恐る右手に折れた。

 淡い水色のドレスの裾が、背中でキュッと縛った共布のリボンが、サラサラ流れる長い髪が、ゆるやかに吹き抜ける風にふわりと揺らされた。真っ直ぐ前を見据え、背筋を伸ばして歩く。彼女の姿は、実に颯爽としている。

 王城の、ちょうど裏側へ回った時だ。

「君が、リリアン嬢の妹御か?」

 静寂からの完全な不意打ちに、声どころか息すら出せなかった。

 金茶色で癖のない髪。青緑色の瞳だけを見れば、切れ長だが穏やかで優しそうだ。けれど、鼻梁の通った端正な顔には、何の感情もうかがえない。濃い緑色のジュストコールの下には、薄い黄色のベスト。白いクラヴァットが首元を隠している。

 かつて対面した時より、顔立ちも雰囲気も、ずっと大人びた印象だ。

 少しの間息を止めていたからか、はたまた別の理由か。心臓が急にドキドキと大きな音を立て始める。頭がクラクラして、まっすぐ立てている自信がない。ユラユラと揺れていないかと、不安になる。

「確か、以前、顔を合わせたことがあったな。申し訳ないことに名前を失念してしまったのだが、教えてもらえるか?」

 かけられた言葉に、ハッと我に返った。

 ニコリともせず、彼はゆっくり歩み寄ってくる。彼をジッと見つめるドロシーもまた、にこやかな笑顔どころか、仮面よりも完璧な無表情だ。

「ヘイデン辺境伯が娘、ドロシー・メイフィールドと申します」

「ドロシーか、覚えたぞ。私のことは知っていると思うが、改めて名乗ろう。ノエル・セルウィッジ・ホリーデールだ、この国の王太子でもある。お互いの名がわかったところで、ドロシー嬢、まずは昼食にしないか? そろそろ六時課(ろくじか)の鐘が鳴る頃だ」

 言われて、何となく空腹感を覚える。けれど、どうせ楽しい話にはならないのだ。とてもではないが、彼とのんきに食事を取る気にはなれなかった。

(せっかく一緒にお食事をするのですから、楽しく過ごしたいものです……)

 昼食抜きでも一向にかまわないから、とにかく早く話を終わらせて帰りたい。そんな気持ちが、ますます強くなる。

「腹が減ると思考が鈍るぞ」

 言葉はそれなりに砕けていて、少なからず気安さを感じた。しかし、声音も表情も、まったく弾んでいない。少しばかり好意的に見ても、不機嫌としか思えなかった。

 何のために、食事をしながら話をしたいのか。理由がまったくわからず、ドロシーはすぐに頷けないでいる。

 とはいえ、王太子直々の申し出を断ったことで、父の立場が悪くなる可能性もある。ただでさえ追い込まれている状況だ。これ以上余計な問題を起こすわけにはいかない。

「……では、お言葉に甘えさせていただきます」

「よし、ついてこい」

 ここは同席し、失礼にならない程度につまんでおこう。逡巡の結果そう決めたドロシーは、背を向けて案内してくれる彼についていく。

 どうやら、王城は少々変わった造りをしているらしい。途中で壁が消え、左手側に開けた空間が見えた。その中へ、ノエルは足を進める。

 二人どころか、十人でもゆったり囲めるテーブルには、淡いピンク色のクロスがかけられていた。その上に、横に切り開いて野菜やハムをたっぷり挟んだ丸パンや、ふんわりと湯気の立つ紅茶が置かれている。苦手なものを警戒しているのか、スコーンとジャムも大量に用意されていた。

 テーブルの向こうの壁には、建物内への出入り口が見える。

(……ここが、中庭なのでしょうか?)

 ドロシーの知る中庭とは、ずいぶん違っていた。

 もちろん、ドロシーの暮らす屋敷にも中庭は存在している。これほど広くはないが、家族でお茶の時間を楽しむこともできる広さだ。ただし、そこには家の中からしか出入りができない。

(城だというのに、ずいぶんと不用心ですね)

 チラッと目を向ければ、すぐに裏手の壁が見える。そこを越えたら、あっという間にここへは到達できてしまうだろう。要人と歓談中に教われでもしたら、いったいどうするのか。

 そんなことをドロシーが考えている間に、ノエルはテーブルのすぐ脇に立っていた。その手は所在なげに、テーブルの縁に触れられている。

「女性の好む昼食がよくわからなかったから、料理人に任せたんだが……」

「……二人分には多いようですけれど、他にもどなたか見える予定なのですか?」

「いや、君以外には来ないが……多いのか?」

 わずかに眉を寄せたノエルに、ドロシーはようやく、彼が困惑していると察した。

 丸パンだけなら、確かに二人分だ。そこに、五人前はありそうなスコーンが、皿にびっしりと並んでいる。

 この量を食べきるために、どれだけ長い時間を過ごすつもりなのか。夕食は取らずに眠るのか。逆に、そう問い詰めたい気分になる。

「……とりあえず、食べないか?」

「そう、ですね……あ、ありがとうございます」

 当たり前の顔で引いてくれた椅子に、怖ず怖ずと腰かけた。そんなドロシーを、彼はあからさまに意外そうな表情で見下ろしている。

(そういえば、姉はこうしてもらうことが当然でしたね。他人の厚意を何と考えているのかと、常々思っていましたけれど)

 彼も、姉にすっかり慣らされてしまった一人なのだろうか。それとも、王太子という立場では、ごくごく常識的なことなのか。

 ふと思い返してみれば、たまに兄と食事を取る時は、兄もこうして椅子を引いてくれた気がする。それでも、決して多くはない。週に一度あれば多い方で、月に一度も見かけないこともある。

 いつしかドロシーは、一人で食事をすることに慣れてしまった。誰もいないことが、当たり前になっていたのだ。

 それを寂しいと思うこともなく、誰かに何かをしてもらう必要性も感じない。

 これでは確かに、誰が見ても可愛げはないだろう。

「…………」

 初対面に等しいことと、呼び出された目的は相応しい話題ではないため、食事中は互いに黙りこくっていた。

 そもそも、知らない人間と差し向かいで食事を取ること自体、この上なく緊張してしまう性格だ。ドロシーから気の利いた話を振ることは、とてもできそうにない。

(……せめて、兄様みたいになれたら……)

 誰とでもそつなく会話を楽しむことのできる兄を思い出す。顔立ちは似ているが、性格はやはり違う。

 作り笑いひとつ、満足にできない。

 そんな自分自身に、ドロシーは嫌気が差す。かといって、今さら弾みそうな話題が出せるわけではなく、ただひたすら食べるしかできなかった。

 自覚している以上に空腹だったのか。丸パンを一つ、それからスコーンの二つ目を食べかけにして、ドロシーは落ち着き払って温かい紅茶を飲んでいる。目の前にいるノエルは、丸パン三つを食べきった挙句、今度はスコーンに手を出していた。

 よくそんなに入るものだと、つくづく感心してしまう。

 何度か一緒に食事をしたことのあるグレンは、ここまで豪快に食べることはなかった。たった一人の兄とは、ここ数年、たまの食事以外はともにしたことがない。それでも、これほどの量は食べていなかったように思う。

 物珍しさが手伝って、ドロシーはカップに口をつけたまま、ぼんやりとノエルを観察してみた。

(殿下は、甘いものはお好きでないのですね)

 ノエルのスコーンには、クロテッドクリームと少なめのオレンジジャム。多めに木イチゴのジャムを塗ったドロシーのそれとは、彩りからしてずいぶんと違う。

「早速だが」

 スコーンを丸々一つ食べきった直後、ノエルが口火を切る。ソーサーにカップを戻し、ドロシーは自然と背筋を正した。

 何しろ、こぞって縁談を申し込まれていた姉だ。そうは見えなかったが、彼も、婚礼の日を今か今かと待ちわびていたに違いない。きっと、かなりきつい調子で責められるのだろう。

 膝の上に置いた手を、ギュッと固く握り締める。

「君が代わりの婚約者となるなら、リリアン嬢たちの件は不問にするつもりだ」

「……え?」

 覚悟していたものとは違う言葉に、間の抜けた声がこぼれた。パチパチと瞬きを繰り返して、呆気に取られて彼を見つめる。

 ドロシーの態度に、ノエルは不思議そうに首を傾けた。それでも彼は、さらに言葉を続けるために口を開く。

「ただし、あくまで、こちらとしては彼女たちの罪を問わない、というだけだが」

 思い切り殴られたような衝撃で、頭の中が真っ白になり、目の前がフッと暗くなる。

 よりによって、王太子を裏切っても。妹の婚約者と、いきなり行方をくらましても。それでもまだ、あの姉は許されるというのか。

 どこまで神に愛され、恵まれて生きたら気が済むのだろう。

 怒りなのか、悔しさなのか、落胆なのか。そのどれでもあって、どれでもない。言葉では言い表せない感情が、グルグルと体の中で渦を巻く。

(結局、姉様は……)

 どこで何をしようと、あの姉の望むとおりに世界が動いていくのだ。

 そんな絶望感が、ドロシーの中に重く暗く広がっている。

 自然と、目線が下へ落ちた。可愛らしさを感じる、淡いピンク色のテーブルクロスすら、今は憎たらしい。ギュッと強く握り込んだ手から、指先の色がなくなっていた。

「……殿下との婚約は、こちらに拒否権はないと思っております」

 もしこれが、こんなことの結果でなければ、こっそり泣いて、喜んで承諾していただろう。三年前から、姉の位置に立ちたくて仕方がなかったのだから。

 視線を自身の手に落としたまま、ドロシーは必死に声をしぼり出す。

「けれど、どうか、姉とシプリー子爵の罪を、明らかにしてください」

「……そうなると、彼らはこの国に居場所がなくなるだろう? タイン辺境伯も、ヘイデン辺境伯も、穏便に済めば白い目で見られることはないと思うんだが……」

 彼の声に、明らかな困惑の色が混ざった。

 二人の人間と、二つの家の『これから』がかかっているのだ。彼が戸惑うのも無理はない。しかし、どうしても、ドロシーは二人のことを不問にしたくなかった。

「どうなろうとかまいません」

 姉が、のうのうと幸せに暮らす。その光景を想像するだけで、身も心も焦がす強烈な憤りが、体の底から沸々と湧き上がるのだ。

 死を願うほど不幸になれ、とまでは思わない。けれども、やったことの責任すら問われずに悠々と生きていくのは、どうあっても許しがたい。

「姉は殿下を裏切り、シプリー子爵はホリーデール王国の未来の王太子妃を奪いました。本来であれば、メイフィールド家とウェイクリング家のみならず、双方の一族郎党の首を、残らず捧げる必要に迫られてもおかしくありません。少なくとも当事者は、何らかの形で責任を取り、相応の生き方をすべきでしょう。何より、彼らの不始末を私一人が請け負うのは、どれほど好意的に見ても理に適っておりません」

 心の中では、憎しみの炎が燃えさかっているのに。髪の毛一本残さず、徹底的に焼き尽くしてしまいそうなのに。

 語るドロシーの口調と表情は、あくまで淡々としたものだ。姉どころか、婚約者に対する恋情のかけらも見受けられない。

 こういうところが冷たいと言われる理由だと、理解はしている。けれど、感情のままに振る舞うことは、どうあがいても自尊心が許さないのだ。

「それから、姉の代わりに婚約者となる件ですが、当面の間、公表は控えていただけませんか?」

「なぜだ?」

「第一に体面です。逃げられた者同士で仕方なく婚約した、と取られるよりも、今回の件がきっかけとなった縁となれば、世間の見方が変わります。どのみち、我が家と同程度の家には、適齢期の娘はおりません。結論はひとつでも、行き方はいくらでもあるのです。その中で、最良の道を選ぶべきでしょう?」

 運がいいのか悪いのか。王太子と釣り合う家に適齢期の娘がいるのは、メイフィールド家だけだ。いくらか格下の家ならば、妙齢の娘が星の数ほどいるというのに。

 他国に目を向けたところで、同年代で同格の娘といえば、内乱の気配が色濃いバルホナー王国の第二王女くらいだ。まだ国内で打つ手があるのに、いらぬ火種をわざわざ抱え込む理由はない。

 ただし、元の婚約者が他の男と出奔したメイフィールド家も、決して最高の縁談相手とは言えなくなった。その点だけは、どう取り繕おうとも変わらない事実だ。

「それから、個人的なことですが……形の上とはいえ、残された側は誰が見ても幸せであれば、追い込まれた姉たちへの報復になると考えております」

 妙に納得した表情で小さく息を吐き、ノエルは一度だけ頷いた。

「では、しばらく公表は見送ろう。その代わり、明日も今日と変わらない時間に、ここへ来てくれるか?」

「もちろんです。もし、体調を崩したり、どうしても外せない急用が入ってしまった場合には、その旨を連絡いたします」

(殿下はあまりお怒りのようではないのですけれど……姉に対する怒りが、ないはずはありませんものね)

 わざわざそんなことをする謂われはない。面倒なことにならぬよう、今すぐ婚約を公表する。

 そう言い放たれたとしても、別段おかしくはなかった。それでも彼がこちらの提案を呑んでくれたのは、裏切りへの報いを何らかの形で与えたかったからだ。それほどまでに、彼の憤りは深いのだろう。

 そんなふうに考えなければ、彼の見た目の冷静さには、どうにも合点がいかない。

「それでは、また明日伺います」

「ああ、待っている」

 ドレスを軽くつまんで一礼し、ドロシーはその場を後にした。


 うっすらと夕焼けていく中。ようやく家へ着くと、玄関ホールでジッと待っている人影があった。

 癖のない髪に、切れ長の瞳。すらりとした長身の彼は、口元にかすかな笑みを浮かべている。ドロシーと似た顔立ちで、冷ややかな印象だ。ジュストコールとベスト、クラヴァットという、上流階級ならではの格好がよく似合っている。彼はゆったり腕を組んで、手すりに軽く体を預けて立っていた。

 顔立ちから雰囲気から、彼は何もかもドロシーによく似ている。

 ドロシーを目にしたとたん、彼はふわりとやわらかく破顔した。天井のシャンデリアからこぼれる淡い光が似合う、人好きのする微笑だ。とたんに冷ややかな印象がかき消え、穏やかで優しい空気をまとう。

「お帰り」

「ただいま戻りました、兄様。わざわざ出迎えていただけるからには、何かお聞きになりたいことがおありですね?」

「ご明察。さすがはドールだ。まずは、殿下はお元気だった? まあ、あの方のことだし、あまり落ち込んでなかったかな? 次に、婚約を持ちかけられたでしょ? どう対応した? あと、これから君はどうするつもり?」

 いっぺんに尋ねられたが、ドロシーは一切聞き返さない。数回瞬く間だけ、考え込むように首を左に、ほんの少し傾けた。

 兄はいつも、質問は立て続けに言い放つ。聞き返すことも、的外れな返答も、決して許してはくれない。それが当たり前だったドロシーは、問われると熟慮してから答える癖がついている。

 そうして考えてから口にするため、会話はまず弾まない。見た目の印象も相まって、敬遠されてしまう原因だ。

 ただ、ドロシー自身は、それを嫌がってはいない。

 誰からも疎遠にされてしまうことは、やはりよくないだろう。もう少し、人の輪に入るようにしなければ。そう考えることもあるが、実行はできていなかった。

「まず、殿下は落ち込んでいる様子も見られず、大変お元気そうでした。もっとも、過去に一度お目にかかっただけですし、私には、殿下の正確な胸の内はわかりませんけれど。それから、姉の代わりに殿下と婚約すれば、姉とシプリー子爵の件は不問にすると言われました。婚約に関しては承諾しましたが、公表はしばらく控えていただくようお願いいたしました」

 事前に質問内容がわかっていて、前もってじっくり考えていたようだ。スラスラと、ドロシーの口から言葉が流れ出る。

「最後に、私がこれからどうするのかは、見守っていただければおわかりいただけるかと思います」

「いや、何となくわかってるけどね。君は僕と、考え方が似てるから」

「光栄です」

 口角を軽く持ち上げてみせたドロシーは、兄と並んで玄関ホールの正面にある階段を上る。踊り場のドアの向こうは広間で、左右に伸びる廊下は二階の各部屋へとつながっていく。振り向いた先の階段を上がれば、ドロシーたちの私室がある三階だ。

 二階へ向かう兄と別れ、ドロシーは自身の部屋へとのんびり足を向ける。夕食までは休むつもりだった。

 ドロシーの部屋は、右手側の階段を上って左に曲がった廊下の突き当たりだ。姉の部屋は、反対側の突き当たりにある。部屋の位置を決めたのは、昔の兄だ。

(……兄様は、何を考えているのでしょうか)

 懸命に考えたところで、二歩も三歩も先のことを考えている兄の思惑など、わかるはずもない。すぐに兄に関して考えることはやめてしまう。

 応接間を兼ねた入り口の部屋には、三人掛けのソファが二客と、低めのテーブルがある。壁は薄いオレンジ色で、フワフワの絨毯は淡い緑色だ。白いレースのカーテンが、ドアの動きでかすかに揺れた。

 人を迎え入れることなどないだろう。そう考えたドロシーの意志を汲んでくれた兄は、何もない応接間を用意してくれた。その代わり、寝室には文机や鏡台、ベッドにクローゼットやチェストを設置してくれ、手狭な部屋となっている。

 寝室にいるとノックの音も聞こえづらいため、ドロシーはソファに座った。すうっと体が沈む。

(……殿下は、大人びていらっしゃいましたね)

 三年前に、たった一度会ったきり。それでも、忘れることはなかった人だ。まだ幼さの残っていた顔立ちはすっかり精悍になり、大人の男性を感じさせた。終始微笑むことすらしなかったことも、そんな印象を強めたのだろう。

 まともに言葉を交わしたのは、今日が初めてだった。姉とは似ても似つかず、つまらない娘と思われたことだろう。可愛げがないとも、感じたかもしれない。

(もう少し、親しみやすくできていたら……)

 回りくどい真似をしなくても、駆け落ちの事実だけで、新たな婚約の発表は受け入れられていたかもしれない。

 これまでを後悔しても遅いのだ。現状を受け入れ、これから努力するしかない。

 せめて、愛想笑いくらいは覚えるべきだろうか。

 その場で微笑んでみようとするものの、強張っているのがドロシーにもわかった。引きつった笑顔など、場を和ませるどころか冷え切らせるだけだ。

「……はぁ……」

 ため息をこぼして、ふと先ほどの兄の様子を思い出す。

(そういえば、あの兄様が、殿下とずいぶんと親しそうでしたけれど……)

 他人とのつき合いは、にこやかに表面上だけで行う。楽に息をしていくためには、それが秘訣だ。そう断言して笑う兄だというのに。

 気難しくて、自分の内側にほとんど人を受け入れない。少しでも親密なつき合いのある他人など、せいぜい数人といったところだろう。

 夕方の兄の印象からすると、まったくの他人よりは、少なからず踏み込んだつき合いをしているようだ。そのくせ、兄からノエルの話を聞いたことは一度もない。

(殿下のどんなところが、兄様の気に入ったのでしょうか)

 もう少し言葉を交わし、彼の人となりを知りたい。

 そんなことを考えながら、いつしかドロシーはゆるやかな眠りに身を任せていた。


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