襲撃 2
やや俯き加減のまま、ドロシーはノエルと城へ戻った。今日はグレンたちが来ているからか、卵が降ってくる気配はない。
門を入ったとたんに、地面に伏せている二つの人影が見えた。いやが上にもげんなりしてしまう。
ノエルはさりげなく、進路をグレン側に寄せる。結果、ドロシーはより王城に近く、リリアンから遠い場所を歩くことになった。
「茶の用意を急がせるか、それとものんびり待つか?」
「……おいしく食べたいのですから、じっくり待ってはいかがです?」
「待てば待つほどおいしい、か。そうだな、そうしよう」
伏せている二人に、わざと聞かせているのだろう。そう判断し、ドロシーは努めて普段どおりに受け答える。
ほんの少し、何となく、彼も、無理に無理を重ねている気がした。そのことに、ズキリと胸が痛む。
「…………い」
しぼり出された、低い女性の声がかすかに聞こえた。背中や腰に、何かが勢いよくぶつかってきたような、強烈な衝撃を受ける。
耐えきれず、ドロシーはよろめく。
ノエルがすかさず手を強く握ってくれたため、どうにか転ばずに済んだ。立て直しつつ振り向いた瞬間、喉が痛くなって息が詰まる。
(……え?)
何が起きているのか、把握できなかった。ただ、喉の辺りがギリギリと締めつけられ、息を吸うことも吐くこともできずにいる。
苦しくて、頭がぼんやりして、目に映る風景が次第ににじんでぼやけていく。
「ドールから手を離せ!」
喉からの振動で、全身がグラグラと揺さぶられる。力の抜けた膝は、自分の体重を支えきれなかった。ドロシーは力なく、地面へドサリと崩れ落ちる。
突然入ってきた空気に刺激され、喉と胸が疼いて激しく咳き込む。先ほどとは違う涙が視界を歪ませて、あふれて目尻を滑り落ちる。
今、どんな状態なのか。息を吸いたいのか、吐きたいのか。それさえ、よくわからない。
咳き込むたびに、新しく入ってくる空気でまた疼く。その繰り返しだ。
少しずつ咳が収まるにつれて、ようやく。たった今、実の姉に首を絞められ、殺されかけたのだと気づく。
「……して」
苦しい呼吸の中、ドロシーは視線を上げて声の主を探す。
土の上に座り込んでいたリリアンが、ゆらりと立ち上がった。警戒心をあらわにしたノエルが短剣を抜き、ドロシーの前に出て立ちはだかる。その瞬間、リリアンの顔は憤怒の色に鮮やかに染まった。
「どうしてドロシーなんかを庇うんですか? 殿下はわたくしの婚約者でしょう? わたくしは、春には王太子妃になる人間なの。そこのみすぼらしい小娘が未来の王妃じゃ、ホリーデール王国の名折れだわ」
「黙れ!」
表立って肯定はしないが、徹底的に否定もできない。いや、むしろ、大多数は支持しただろう。彼女の言い分は、そんな内容だ。
だからこそ、ドロシーにとって、ノエルが即座に怒鳴ったことが意外だった。
「確かにドールは、見た目の華やかさは少々劣るかもしれない。だが、お前にない魅力がたくさんある。そばにいて、話していて、落ち着くんだ。会っていると時間を忘れ、別れが寂しく、またすぐに会いたくなる」
すっかり我を忘れているようだから、彼の本音なのだろう。
そう気づいたドロシーは急に恥ずかしくなって、そっと顔を伏せた。
きっと姉なら、嬉しいことを言葉と態度で示すはずだ。それができない自分が、情けなくて腹立たしくて、悔しい。
「何より、いつだって、俺の立場を慮って行動してくれるんだ」
(……気づいて、いらしたのですか?)
問いかけは、声にならなかった。驚きで咳が完全に出なくなった隙に、息を止めてただ呆然と見上げるだけだ。
「ドールなら、俺と婚約しながら、他の男と出奔しない。断言できる」
リリアンの耳にきっちり届くよう、ノエルはひと言ひと言に力を込める。その言葉ひとつひとつが、ドロシーの心に突き刺さって温めていく。
「……立場を、慮る、ですって? 一歩下がって、バカのひとつ覚えでニコニコしてるだけなら誰でもできるじゃない! 昔っから愛想の悪いドロシーに、そんな真似ができてるわけ!?」
「そんな妻がいいと、思っていた時期もあったな」
興奮し、声を荒げるリリアンに、淡々とノエルが告げた。
「街に出れば、卵だの湯だの、ドールばかりが嫌がらせを受けた。それでもなお、真っ直ぐ前を見つめる向日葵のような彼女と、まさに根なし草のようなお前と。どちらかを選べと言われたら、俺は迷わずドールを選ぶ」
目を大きく見開き、全身をプルプルと震わせる。やがて、顔を真っ赤にしたリリアンは、ノエルの背後へ駆け込もうとした。
だが、それさえも予想の範疇だったのか。ノエルは短剣を右手に持ち替え、左手でリリアンを容赦なく突き飛ばす。
地面に倒れ込んだリリアンは、長い時間、凍りついたように動かなかった。誰一人、動くことも声を出すこともしない。
ひっそりと静かな空間に、いくつかの呼吸音だけがただよっていく。
重く苦々しい沈黙は、唐突に破られた。
「あっはははは!」
とうとう気を違えたのか。そう疑うほど、リリアンは狂った笑いを見せている。いきなりのことで、ドロシーはもちろん、ノエルもグレンも動けないでいた。
絡んでもつれた髪もそのままに、リリアンは笑い続ける。
「殿下ってば、ホントつまんない男のままなんですね。真面目で真面目で生真面目で堅苦しくって、小難しい話ばっかりで面白くないし。ニコニコ聞いてても苦痛だし。そんなのにつき合ってられるドロシーも、やっぱり頭がおかしいのよ!」
頭に、カッと血が上った。
自分を貶められるのは、慣れているから耐えられる。でも。
「……あなたに、殿下をけなす権利はありません」
誰もが羨む婚約者に逃げられた、不幸な男。そんな目で見られ、政務の些細な失態すらすべて、不幸のせいにされてきた。それでも、たゆまぬ努力を重ねていた人だ。
ますます深く尊敬しても、嘲る理由などない。
憤りに任せて、ドロシーはすっくと立ち上がる。
「下賤の者が、自国の王太子殿下に、そのような口を利くこと自体が、そもそも間違っているのです」
「なっ……何ですって! 誰が下賤だって言うの!?」
「あなた方の他に、誰がいるのですか? グレンはウェイクリング家と、リリアンは我がメイフィールド家と、すでに関係のない人間であると公知されています。そのことは、ご存知なのでしょう? そうでなければ、遠く隠れ住んでいる場所からここまで、わざわざ出てくる理由がありませんから」
猛烈な怒りに染まるリリアンを前に、ドロシーは平然と立っている。真っ直ぐリリアンを見つめ、決して揺らがず、怯まない。
揺らぐ理由がないのだ。
「まさか、王太子を裏切った罪を、自ら償うためにやって来たのですか?」
リリアンからグレンへと、ドロシーは順々に視線を移す。
憤怒の形相で、今にも飛びかからんとしているリリアン。グレンは彼女を止めることなく、立ち上がりかけた格好のまま、ぼんやりしている。
どちらにしても、本気で謝罪に来たようには見えない。
「大方、建前の謝罪で許しを請い、勘当を解いて欲しいだけだろう。貴族の子女とただの庶民では、周囲の扱いもまったく違うだろうからな」
図星だったのか。グレンは顔を滑稽に歪め、居たたまれない様子で、ゆるゆると目線を地面へ落とした。
(こんな人が、私の婚約者だったのですね……)
兄と話している姿は、少々頼りない印象はあれど、ごく普通の貴族子息だった。それが、ひとたび事が起きると、立ち上がるでもなく、強靱な意思を持って正しい側につくわけでもない。ただひたすら小さくなって、嵐が通りすぎるのを待っているだけだ。
露骨な軽蔑に値するほど、気概というものが感じられない。
確かに、兄にとっては、手駒にするのに最適だろう。強くあればあるほど、へつらって言うことを聞いてくれそうだ。
「謝罪だったら、グレンがずっと手紙で出してたでしょ! 勘当なんてバカなこと、さっさと取り消すようにってお願いも一緒に!」
「知らんな。少なくとも俺は、そんなものを見た覚えはない」
冷ややかな声音が告げる、嘘。
ドロシーが読んだのは最初の一通だけだが、その後も数日に一度、同じ封筒が届けられていた。目を通したかは知らないが、それを廃棄したのは、ノエルの判断だ。
約束どおり、なかったことにしてくれた。
たったそれだけのことが、無性に嬉しくて仕方がない。
「だったら今言うわ。わたくしとグレンの勘当を撤回するよう、お父様とタイン辺境伯に命令してちょうだい」
「俺の婚約者でなければ、貴族でもない。ただの小娘に命令される謂われはないな」
「何ですって!?」
グレンは一応、自分の立場というものをわかっているらしい。しかしリリアンは、自身の装いが華やかなドレスではないことを、すっかり忘れてしまっているのか。
まだ貴族令嬢のつもりで──王太子の婚約者のつもりでいるようだ。
ひれ伏した際についた服の泥にも気づかず、リリアンは血走った目でひたすらノエルを睨みつける。
気の弱い者なら、その視線だけで心臓を止めてしまいそうだ。
「俺は、婚約者の裏切りを理由に、すでにかつての婚約を破棄している。ちなみに、ドールも同様だ。その上、お前たちはそれぞれの家から勘当された。こちらがお前たちの言い分を呑む理由は、どこにもない」
初めて街へ出て攻撃を受けた時は、あれほど激昂したのに。今はどこまでも凪いだ声音で、淡々と告げるべきことを語っている。そんな印象だ。
庶民には、上から怒鳴りつけることで効果が出る。貴族は、非を冷静に説かれる方がよほど堪える。その辺りの細かな使い分けを、経験上知っているのだろう。
「それでもまだ何か言いたいというなら、正式な手順を踏んで謁見を申し込め。ただし、いつ許可が出るかはわからんがな」
「ふざけないで! 何でわたくしが待たなきゃいけないの!?」
ノエルはおもむろに腕を組み、目をすがめてリリアンを見下ろす。
「貴族ですら待つんだ。一介の民はなおさらだろう? わかったらさっさと帰れ。いい加減目障りだ」
カッと目を見開き、下唇をギュッと噛み締める。そんなリリアンは、誰もが絶賛する美少女の面影を失っていた。今の彼女を見ても、誰もノエルを哀れとは思わないだろう。
それほどに、すっかり様変わりしている。
「……リリアン、帰ろう」
今にも飛びかからんとするリリアンの手を、グレンがそっとつかむ。門へと一歩踏み出した彼に引っ張られ、リリアンはヨロヨロとよろめきつつ歩く。それでも懸命に後ろを振り返り、一心不乱にノエルとドロシーを睨んでいる。
社交的では、明るく可愛らしく見えるリリアンを、誰もがことさらに欲した。
だから、グレンが彼女と駆け落ちしたこと自体は、すぐに仕方がないと諦めがついたのだ。
容姿と愛想のよさが評判だったのに、見る影もなくなった姉。ぐったりと、疲れ切った足取りで去っていく、一気に老け込んだ婚約者だった人の枯れきった背中。
どちらに対しても、哀れみや同情のかけらさえ湧いてこない。
たとえ殺されかけたことを差し引いても、あまりに非情な人間だ。
──だから、ひどい目に遭っても、きっと仕方がない。




