襲撃 1
何をされても反応を示さないドロシーが、さすがに薄気味悪くなったのか。それとも、彼らに何らかの変化があったのか。馬車に対するものや、街へ出た際の攻撃は、徐々にゆるやかになっている。
特に街では、帰り道にいくつか、卵をドレスで受け止める程度に落ち着いていた。
ちょうど、その頃だ。
『リリアン・メイフィールドは、ヘイデン辺境伯及びメイフィールド家及びその親族と、何の関係もないことをここに宣言する』
『グレン・ウェイクリングは、その爵位継承権をすべて剥奪する。タイン辺境伯及びウェイクリング家及びその親族と、何の関係もないことをここに宣言する。今後、シプリー子爵を名乗る者はジュード・ウェイクリングとする』
そんな宣言文が、それぞれの辺境伯の名を添えて公表されたのは。
「……兄様がおっしゃっていたのは、これでしたか」
「うん。リリアンは正直、どうでもよかったんだけどね。でも、結果として、君をあんな目に遭わせることになったんだから、グレンともども追い出すことにしたよ」
腹の中の考えなど、一切読ませない。にこやかなキースを見上げながら、ドロシーは小さく息を吐き出した。
「グレン様……では、いけませんね」
けれど、呼び捨てにするのはためらわれる。すぐに、割り切ってしまえない。
「……彼を勘当させた理由は、ジュード様に継がせるためでしょう? 兄様は、ジュード様と気が合うようでしたから」
「ご明察。まあ、別に、リリアンのことはすっぱり諦めて君を選ぶんだったら、グレンのままでもよかったんだよ。あれで頭が悪いわけじゃないし、得だと思えば僕につく人間だったから。まさか、殿下も君も裏切った上に、いろんな不始末の詫びひとつないままだなんてね」
本当に、これで終わるのか。ふと不安に駆られ、何となく兄の顔をうかがう。
珍しく、険しい表情だ。
まだ何も終わっていない。なぜか、そう語っている。
「これから、グレンとリリアンがどう出るかで、今後の対応も変わってくるんだよ。できれば、こちらの思うとおりに動いてくれるといいんだけど」
ひどく寂しげに、ぽつりと、キースは呟いた。
§ ‡ §
グレンとリリアンの勘当が知れ渡ると、ドロシーへの攻撃は再び激化した。
街へ出るたびに飛来する卵は、おおよそ嫌がらせ開始当初と同数だ。怒り狂って狙いも定まらないのか、まれにノエルへぶつかる卵も出ている。
手元の狂った狙撃手を、ドロシーが思わず睨む。相手もわかっているのか、にらみ返すものの、その顔色はかなり悪い。周囲に慰めの言葉をかけられているようだ。
飛んでくるものは、卵だけではない。
「……熱っ」
浴びせられる水は、思わず声が出るくらいに熱くなっていた。かといって、火傷を負うほどの高温ではない。ぬるま湯より、さらに立派な嫌がらせだ。
庇うノエルにも湯がかかり、彼がさらに激怒する。その繰り返しばかりになっていた。
やや荒んだ日々の中、卵で汚れた馬車から降りると、一通の手紙を渡された。薄いクリーム色の、どこにでもある封筒だ。すでに開封されており、一読した後らしい。
表書きはノエル宛てだ。くるりとひっくり返したドロシーは、露骨に眉を寄せる。
「……これを、私に読めとおっしゃるのですか?」
「俺は目を通した。これをどうするか、君に任せる」
ムッとしたまま、ドロシーは渋々手紙を取り出して開く。
質素な便箋に並ぶ文字は、確かにグレンのものだ。以前に見たことがある。けれど、懐かしさも、感慨も、何ひとつ湧き上がってこない。
こういうところが、冷淡だと言われる大きな要因だろう。
「……このたびは、多大なご迷惑をかけてしまい、大変申し訳ありませんでした。殿下を裏切ってしまったことを、深く謝罪いたします。どうか、どうか、一度だけでかまいませんから、弁明の機会をいただきたく願います?」
途中までを声に出して読んだドロシーは、続きを黙読して即座に破り捨てた。丁寧に、丁寧に、細かくちぎって。
小さくなった便箋は、ゆるやかな風に乗って、ヒラヒラと遠くへ舞い散っていく。まるで、風に舞い散る花びらのように。
「つらつらと謝罪を並べ立てながら、これほど悪気のない保身に走る人間が、かつては私の婚約者であったことが、何よりも恥ずかしくてなりません。ですから今、私は何も見ませんでした」
あまり興味を持てず、申し訳なかった。姉ほどではなくとも、せめて人並みに愛嬌があればよかったのに。
彼が出奔してから、そう考えることもあった。だが、もう考えない。
あの二人は、彼ら自身の愚かな選択で窮地に陥っている。どう取り繕おうと、明らかな自業自得だ。
「今日、俺には、手紙は届かなかった」
右の口角をグッと持ち上げて、ノエルはどこか呆れたように笑った。
§ ‡ §
卵も、熱湯も、数日ごとに一通だけ届く手紙も、気に留めない。まったく気にしていないふうを装って、日々をどうにか過ごしていた。
ドロシーは王城へ日参し、街へも出る。攻撃を受けても、平然と歩く。そんな毎日が、すでにひと月ほど続いている。攻撃はまた少しずつ、収まる気配を見せていた。
この日も、ドロシーは王城を訪れた。
卵のかかった馬車も、すっかり見慣れてしまった。だからといって、胸が痛まないわけではない。毎回降りるたびに、帰って掃除をする御者には謝っている。
「しかし、懲りないやつらだな」
「ええ、本当に……困ったものです」
帰っていく馬車を見送り、少し庭を歩く。散策を始めた頃は薔薇が見ごろだったが、今は別の花々が咲き誇っている。鮮やかで賑やかな花ばかりだ。
中庭での昼食も、日よけの傘が必要となった。湿っぽさはないが、歩いているだけでじっとり汗ばんでくる。
「この花は、君のようだな」
鮮やかな黄色の、大きな花。まるで、地面から伸びる小さな太陽だ。降り注ぐ日の光を逃すまいと、顔を太陽に向けている。
「……私と、向日葵が、ですか?」
強さを感じさせる花を前に、どうしても戸惑いを隠せない。
光を浴び、堂々と咲き誇る向日葵と似ているとは、どうしても思えなかった。
「常に前を向き、どんなことがあっても顔を上げている。よく似ているだろう?」
穏やかに微笑み、眩しそうに目を細めながら、ノエルは呟く。
どことなく自慢げな彼に、急に恥ずかしさが込み上げる。見つめていられなくて、顔を向日葵へと向けた。
どの向日葵も、重そうな花を細い首でしっかりと支え、前を見据えている。燦々と降り注ぐ熱い日差しには負けない、と言いたげだ。
「……私は」
こんなに強い花のようではいられない。
そう続けようとしたドロシーを、別の声が遮った。
「殿下!」
「どうか、わたくしたちの話を聞いてくださいませ!」
何となく聞き覚えのある声と、よく知っている声。表情が冷ややかに強張り、背筋がじわじわと凍りつく。
ゆっくりと振り向くどころか、指先をわずかに動かすことさえできずにいる。
「誰だ!」
振り返ったノエルは誰何した。
彼の声に、ドロシーもようやく、ぎこちないが体を動かせるようになった。ゆるゆると体の向きを変えて、そこにいた者たちの出で立ちに、露骨に眉をひそめる。
頭からすっぽりと、全身を暗い色の布で覆い隠している。見ただけでは性別がわかりづらい二人は、怒りをはらんだノエルの怒声に怯んでしまったようだ。黙りこくって、返事ができずにいる。
「名乗れない者か?」
どこに隠していたのか。するっと短剣を取り出したノエルに、怪しい二人は慌てて布を払い落とす。
ドロシーの右手側は男性で、癖のある茶色の髪に、優しげな茶色の瞳を有している。彼は街でよく見る、簡素なシャツとズボン姿だ。左手側に、ゆるやかにうねる白金色の髪と、薄紫色の大きな瞳の、やや幼い印象のある少女が立っている。きらびやかなドレスが似合いそうな外見だが、着ているものはありふれたカートルだった。
どちらも、知った人間だ。
まずは男性がバッとひれ伏し、少女は慌てて男性にならう。特に男性は、地面に額をこすりつけている。少女は汚れが気になるのか、心持ち頭が高い。
「私はグレン・ウェイクリングと申します。誓って、殿下を傷つける意思はございません。どうか剣をお納めください!」
「グレン・ウェイクリング? 知らん名だな」
思わず見上げた彼は、これ以上ないほど冷徹な顔をしていた。
(……殿下は、王太子ですものね)
自分の立場をかんがみて、今はどうするべきか。それが、身についているのだろう。
突然のことに硬直し、何も考えられなくなってしまう自分とは、大違いだ。
「ウェイクリング家に、グレンという若者はいない。ドール、そうだな?」
突然愛称を呼ばれ、心臓がぴょこんと跳び上がる。
「…………私の知る限り、いらっしゃらないはずです」
急に話題を振られて、どうしても動揺してしまう。けれど、できるだけ静かに、彼の言葉を肯定した。
すでに、勘当は公になっている。だから、ウェイクリング家に、グレンという名の青年は存在していない。していては、いけない。
それは、メイフィールド家も同じだ。
「ではっ! ではっ、リリアン・メイフィールドはご存知でしょう?」
「知らん」
そうくると読んでいたのか。ノエルはばっさりと、躊躇なく切り捨てた。
「だが、アトウッド子爵とドロシー・メイフィールドなら、よく知っているぞ」
リリアンの肩が、プルプルと小刻みに震えている。自尊心を大きく傷つけられただろうに、顔を上げずに耐えているようだ。
(あの姉が……)
人というものは、これほど短い間に変われるのか。そう思わされるほど、ドロシーの知るリリアンとは別人だ。
以前のリリアンならば、感情に任せて立ち上がり、ノエルに詰め寄っていただろう。
自分の立場が、わかっているのか。それとも、何か企んでいるのか。
(……言い聞かせられるような人では、ないはずですが……)
よほどきつく言われてきたのか。
疑問ばかりが過ぎってしまって、思考がまとまらない。
「貴族の子女でない者が、軽々しくここへ入ってくるな。さっさと出て行け」
すげなく告げたノエルは、ドロシーの手を引いて中庭へ向かう。チラッと振り返ったドロシーの目に、まだ伏せたままの二人が見えた。
ふとした拍子に、二人が気になる。そんな状態ながらも、それなりに楽しく昼食を済ませた。
中庭から先ほどの場所は、通らなければ街へは出られない。
もし、まだ二人がいたらどうしよう。そう気をもみつつ、ドロシーはノエルに手を引かれて歩いていた。
遠目にも、リリアンの髪は目立つ。だから、依然として二人がそこにいると、すぐにわかってしまう。
「……まだいるのか」
苦々しげなノエルの呟きに、ドロシーはこっそりため息をついて同意する。
恐らく、許しの言葉を引き出すまで、通りかかるたびに熱弁を振るうつもりでいるのだろう。けれど、それを聞く義理は、一切ない。
顔を上げたら見えそうな距離まで近づいた時だ。
「ドール、今日も街へ行こうか」
昨日までは、確かに『ドロシー嬢』だった。それが急に愛称になると、心の準備がないこともあって、無駄に動揺する。
だからといって、やめて欲しいとは言えない。むしろ、もっと呼んで欲しい。そう思ってしまう。
「……わかり、ました」
いつもと同じ返事を、どうにかしぼり出す。それで精一杯だ。
「どこへ行きたい? たまには、君のわがままが聞きたいから、今日は君が自由に行き先を選んでくれ」
「え?」
とっさに返事ができず、間の抜けた顔で見上げてしまった。彼はニッコリ微笑んで、返事を待っている。
「……で、では、午後のお茶請け用に、街で評判の焼き菓子を買いに行きませんか?」
懸命に考えている間に、グレンとリリアンの横を通りすぎていた。そのことに、ドロシーは気づいていない。
「ああ、それはいいな」
完全に無視された形の二人は、それでも頑なに顔を上げなかった。
ノエルとドロシーは門を抜けて、街へ入る。目抜き通りを歩いても、卵や熱湯が降ることはない。それどころか。
「殿下……その、今日はどちらへ行かれるのですか?」
「彼女の希望で、評判の焼き菓子店へね」
いくらかぎこちなさはあるものの、住人たちが話しかけてくる。それはノエルだけでなく、ドロシーに対しても同じだ。
グレンとリリアンの勘当。ヘイデン辺境伯側からタイン辺境伯へ、ノエルからヘイデン辺境伯へ、正式な婚約破棄を申し出たこと。
どちらも、貴族のみならず、一般市民にもしっかりと知れ渡っているようだ。
その上、ノエルが口も手も出さず、それらを黙認している。つまり、リリアンたちを許すつもりがないということ。
その事実を、様々な角度からの積み重ねで察した者たちが、今のノエルとドロシーを受け入れているのだろう。
「今まで、申し訳ありませんでした」
そんな謝罪を口にする者も出てきた。
街の者たちは、ヴィクター側に嘘を吹き込まれていたらしい。
リリアンをグレンと遠方へ発たせ、駆け落ちしたと偽った。その目的は、日陰者から、同情を集めて王太子妃になることだ、と。
実のところ、リリアンの名はよく知られている。兄であるキースの存在も、たいていが知っているだろう。けれど、二人の妹であるドロシーは、庶民にはほとんど知られていない。
貴族の間では常識の醜聞が、庶民には流れないように。あまり外に出ないドロシーを、彼らが知る機会はまずなかった。
もしかすると、急に軟化した理由のひとつに、キースの根回しがあるのかもしれない。リリアンの醜聞をいくつも聞けば、多少は印象も変わる。
その上、日々見かけるドロシーは、すぐそこでつぶさに観察できるのだ。やはり、抱く印象は変わっていく。
「あなた方は騙されていたのでしょうから、私は気にしません。何より、私も、私のことを知ってもらう努力を怠ってきました。それがこうして、目に見える形になっただけのことです」
謝罪を受け、ドロシーはあっさり許してしまう。隣に立つノエルは、やや不満げだ。
彼らから攻撃を受けて、はっきり理解できたこともある。決して、悪いことばかりではない。
もちろん、中にはまだ反抗している者もいる。数日に一度の卵攻撃を、街の人が庇ってくれて未遂に終わったこともあった。
好転した状況と、人々の態度に、ノエルの怒りも今は解けているようだ。笑顔で住人に答える姿に、ドロシーはホッと安堵する。
「焼き菓子なんて、城の料理人も作ってくださるでしょう? そちらの方が、ずっとずっとおいしいのではないですか?」
「いいえ。おいしいものに優劣はありません」
真剣な面持ちで伝えるドロシーに、問うた人は苦笑混じりの笑みを返す。
楽しそうなノエルといると、ドロシーはたまに笑う。不意にからかわれて、面白くなさそうに眉を寄せる。褒められては下を向いて、指先を忙しく絡ませる。
無表情で薄気味悪い。以前は明らかにそう思われていたのだろう。だが今は、ごく自然な様子で寄り添い合う二人を、年配の人ほどより微笑ましく見つめているようだ。
「この通りを歩いていくと、すぐわかりますよ。いっつもいい匂いがして、人がたくさん集まっていますから」
年配の女性が指差す方向は、外へと続く門の方角だった。
この目抜き通りも半分ほど制覇したが、まだ『いい匂い』には出会っていない。どうやら、かなり外門まで近づかなければならないようだ。
「距離がありそうだが、行くか?」
「もちろんです」
言うが早いか、ドロシーは大きめに一歩踏み出した。軽く目を見開いたノエルが、慌てて手をギュッとつかむ。そのまま無造作に、引き寄せるように引いた。
ふらりとよろめきかけたドロシーの腰を、ノエルの腕がしっかりと支える。
「行くなら一緒だ」
「では、行きましょうか」
ドロシーはわずかに目を細め、ほんの少し口角を持ち上げた。
実のところ、最初から、二人で行くという選択肢しか持ち合わせていなかった。一人で悶々と悩むより、どれがいいかをあれこれ悩んで相談して、二人で決めたい。その方が、何倍も楽しいからだ。
目抜き通りを外へ向かって、どんどん突き進む。両脇に並ぶ商店は、洋品店や生地屋、道具屋といった日用品に近いものから、青果や出来合いの食べ物を扱う店へと、徐々に変わっていく。
食べ物を見かけるようになると、どこからか、ふわりと鼻をくすぐる甘い香りがただよってきた。その匂いはゆるりと風に流され、くるりと渦を巻いて、するりとほどけていく。風向きの関係か、前からかと思えば、後ろからも来る。
「ああ、あそこだな」
ノエルの指を辿ると、やけに人の集まっている場所があった。そこにいる人の顔はぼやけてしまい、はっきりとは見えない。まだまだ距離があるようだ。
「……残っているといいのですが」
あれだけの客だ、さすがに売り切れてしまうのでは。そんな不安が、ついつい口を滑り落ちていく。
「残っているさ」
やたらと自信たっぷりに言い放つノエルを、ドロシーは胡乱げに見上げる。
「なかったら、すぐに作らせてやる」
「……もし売り切れていたら、今日は諦めますから、そういう名を貶める真似は」
「わかった、わかった。他の誰に何を言われようと平気だが、君に軽蔑されてはたまらないからな。絶対にしないと約束しよう」
(この方は、どうしてこう……)
なるべく自然に見えるように。ドロシーはできるだけ、ノエルから顔を背けた。
言っていることは、どことなく兄と似ている。だが、兄の時とは違い、彼に言われると無性に恥ずかしくなってしまう。熱くなる頬や、顔を見られたくない。
そのくせ、彼がどんな表情をしているのか、しきりに見たくてたまらなくなるのだ。
「さあ、早く行かないと、本当に売り切れるぞ」
楽しげな声に手を引かれ、つと顔を上げる。
心の底から嬉しそうな、華やいだノエルの笑顔につられて、ドロシーの表情もゆるゆるとゆるむ。
人だかりに近づくと、胸を焼く甘い香りが濃厚になった。匂いだけで体中が味を感じたような気分さえする。
「あ、殿下!」
誰かのひと言で、サッと人垣が割れて道ができる。人々の視線は、ノエルとドロシーに熱く注がれていた。
「きちんと並ぶから、最後尾を教えてくれればそれでいい」
「え、いえ、でも……」
「長く待った方が、食べた時の幸福感もひとしおだろう?」
当たり前の顔で、ノエルは言い放った。その言葉に、ドロシーは知らず知らず体を硬くする。
いつだったか。至急の案件を片づけて戻った彼に、待つことの楽しみを説いた時だ。
『退屈を嫌というほど味わった後に訪れる幸福は、どんな幸せも敵わないものですよ』
そんな言葉で締めくくった。それを、覚えていてくれたのか。
嬉しさと気恥ずかしさで、顔を上げていられなかった。不自然にならない程度に顔を伏せ、目線をドレスの裾へ落とす。
「ここは匂いだけ楽しむ人も多いんですよ。ちょうど今、客足が途切れたところなんです。よかったら、殿下たちが買ってくださいませんか?」
ニコニコ笑顔の店主と、頷く周囲の人たちに促され、ノエルとドロシーは前へ出た。
ドロシーの腰の高さくらいの細長いテーブルに、真っ白なリネンが優しくかけられている。その上に、小さく浅い籠に盛られた焼き菓子がいくつも並ぶ。綺麗に切りそろえられたショートブレッドに、いろいろな形のジンジャービスケットで、小さな籠は今にもあふれてしまいそうだ。どの籠を選んでも不公平のないように、同じ形を同じ数だけ入れているらしい。
「じゃあ、これをふた籠くれ」
「はい、ありがとうございます!」
ちょうど、それがふたつ並んで入りそうな大きさで、持ち手のついた籠。そこに、店主は小さな籠をそっと優しく、慎重すぎるくらい丁寧に置いていく。
「目当てのものは無事手に入ったし、戻って茶の時間にするか?」
「もうお茶の時間にするのですか?」
昼食を食べてすぐ、城を出てきた。それからここまで歩いたとはいえ、大して時間はかかっていない。さすがに空腹ではないし、戻っても、紅茶が用意できるまでしばらくお預けを食らうことになる。
「紅茶が来るまで、どんな味がするのかと想像するのも一興だろう?」
やわらかくて穏やかな、優しい微笑だ。うっかり見つめてしまって、胸焼けしそうな甘ったるい匂いも、周囲のざわめきも、急速に遠のいていく。胸の奥からじわじわと温かなものが湧き上がってきたのに、それがすべてをふさいで息を詰まらせる。
苦しくて、胸がギュッと絞られるように痛くて、たまらない。
「さあ、戻ろう」
右手は菓子入りの籠を持った彼の、左手にグッと力がこもる。つぶそうとする強さではなく、絶対に離さないと言いたげな加減。
顔を上げることも、声を出すこともできなくて、ドロシーは小さく頷いた。




