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最良の道  作者: 日咲ナオ
10/17

来訪者 3

 ともに昼食を食べ、雑談をしながら甘い焼き菓子をつまむ。天気がよければ、二人で楽しげに、少なからず人目につく場所を散策する。そんな時間が、不思議と楽しく感じられるようになってきた。

 散策を始めてから、帰る時間がさらに遅くなった。迎えの馬車を待たせてしまうことも増えたため、最近は王城の馬車で帰宅している。その辺りは、ノエルの采配だ。

 ヴィクターの来訪もなくなり、すっかり初夏の日差しとなってきた頃。

「今日は、街へ出ないか?」

「……街へ、ですか? かまいませんが、何かあったのですか?」

「使用人だけでは、思ったように話が広がっていかないようなんでね。もっと大勢の目に触れさせて、痛手を乗り越えているところを見せつけたくなったんだ」

 手に取るようにわかる、とまではいかないが、筋は一応通っている。

 人の噂は地味なものだ。けれど、広まり始めるとあっという間に、時には歪んで伝わってしまう。

 だからこそ、キースは言葉や態度を選ぶのだ。誰にも悪く言われないように。

「わかりました」

 ドロシーがしっかり頷くと、ノエルはあからさまに安堵の表情になった。

 立ち上がり、手を取られ、中庭から門へと歩く。

 普段の移動は、基本的に馬車だ。徒歩で街を歩いたのは、せいぜい、まだ幼かった頃の話だろう。それでも、ほとんど記憶にない。

 馬車の窓から眺めるだけの景色と、歩いて目に入るもの。その違いを思うだけで、いやが上にも期待してしまう。

「まずは、すぐに城へ戻れる範囲だけにしよう。慣れたら少しずつ遠くへ行こうか」

「はい、わかりました」

 門を出て、真っ直ぐ進む。

 外へ続く門までが、いわゆる目抜き通りだ。石畳の道はゆるやかに下り、両脇に商店が建ち並ぶ。見える範囲の建物は、赤茶けたレンガ造りだ。普通の家は、両側の壁を隣家に接した、横に連なった造りになっている。王城がある街だが、貴族の多くはここに暮らしていない。通える距離の者は自宅から通う。領地が王城から遠い者は、近隣に大きな邸宅を構えている。

(……そういえば、タイン辺境伯の別邸が、この近くにありましたね)

 うっかり自宅へ帰れなかった日に、困らないように、そんな目的で建てたと、ずいぶん昔に聞いた覚えがある。建てたはいいが、あまり使っていないと自嘲気味に笑っていたことも、忘れ果てていた理由のひとつだろうか。

 今になるまで思い出せなかったのは、まったく重要視していなかったからだ。

 しかし、近場に留まれる場所があるとなれば、話は別だろう。再びヴィクターが押しかけてくる事態も、きちんと想定しておくべきだ。

「向こうの門まで歩いて、戻って来ようか」

 スッと指差されたのは、正面にある、外との境の門。いくらかぼんやりしているが、視認できる距離だ。

 ドロシーが頷くと、ノエルは一歩踏み出す。軽く手を引き、ごく自然な形で、ドロシーをおもむろに連れ出していく。

 通りへと、ドロシーが足を踏み入れた瞬間。

 ドレスの左側に、わずかな衝撃を受けた。同時に、グシャリと何かがつぶれたような、奇妙な音が立て続けに耳に入る。

 そちらに視線を落としたとたん、今度は頭に何かが当たった。軽い衝撃とつぶれた音の直後、どろりとしたものが頭から顔や首筋へと、ゆっくり流れていく。

 何となくひんやりした、ぬめり。思わず眉をひそめるほど、ひどく不快な感触だ。

 細めた視界の中を、透明と黄色の二種類の液体が、ゆったりと流れていく。青いドレスにおかしな模様を描く、黄色と白い小さなもの。丸みを帯びた、同じ白いものが、地面にいくつも転がっている。

「……卵、でしょうか」

 誰に確かめたかったわけではない。声に出し、これが現実なのだと、自分自身で確認したかっただけだ。

「誰がこんなことをした!」

 ノエルが浴びせた怒声に、反応する者はいない。それ以前に、ドロシーへの行為に、誰一人として驚きの声をあげなかった。

(……そういう、ことですか)

 ヴィクターが姿を見せなかったのは、街の人間に根回しをしていたからだろう。

 どんなことを言い、彼らの同情を引いたのか。それらは推測できないが、少なくとも今、周囲は敵ばかりだ。

 ここで争うのは、明らかに得策ではない。

 とはいえ、同じ当事者だが、一人は王太子なのだ。ケガの恐れはないが、わざわざ狙うとは思えない。貴族でも大罪になるのだから、街の者は特に注意するだろう。

 集中砲火を浴びるのは、どうせ自分だけだ。

「殿下、放っておきましょう」

 そう結論を出したドロシーに、今度は水がかけられる。頭からドレスまで、ほどほどに濡れていた。

 すかさず隣を確認するが、飛び散ったものだろうか。ノエルのジュストコールがわずかに濡れて、そこだけ色が濃くなっている。

(殿下が……)

 濡れてしまった。とばっちりを受けさせてしまった。

 じわりと浮かんだ涙を、とっさに堪える。

 ここで泣けば、被害に心を痛めたと思われてしまう。自分だけで済まなかったから泣いたのだとは、誰も考えてくれない。こんな幼稚なやり方でいいのだと、思わせるわけにはいかないのだ。

 ドロシーは、クッと顔を持ち上げる。

 真っ直ぐ伸びたドロシーの栗色の髪から、卵の黄身が混ざった雫がいくつか、ぽとぽとと落ちた。やはり卵で汚れたドレスは、浴びた水で被害が広がっていく。

「……この国の人間は、何の非もない女性に、往来でこんな真似ができるのか!」

 声を荒げたノエルに、眺めていた者たちがビクッと体を震わせた。ドロシーはただ呆然と、彼を見上げるしかできずにいる。

 これほど怒気をあらわにしている彼は、初めて見た。

「私は今まで、国をよりよくするため、努力してきたつもりだ。だがそれも、今この時をもって終わりにする。こんな真似をして、一切恥じない人間たちのために、私がしたいことは何もない!」

「殿下、どうか落ち着いてください」

 空気をビリビリと震わせ、緊張させるノエルの怒鳴る声にも平然と、ドロシーは静かに制止する。

「誰がこんなことをさせたか、わかっています。彼らはある意味、だまされた被害者でもありますから、あまりきつく責めないでください」

 淡々と、普段より小声で囁く。そんなドロシーに、ノエルは怪訝な表情だ。

「私は、私自身の考えを改める気は、一切ありません。それでも諦めないのでしたら、こちらも全力で打って出させていただきます」

 顔をグッと上げ、堂々と宣戦布告する。

 きっとどこかで聞いているだろうヴィクターにも、しっかりと聞こえるように。できるだけ、声を張り上げた。

 絶対に、屈しない。

 そう告げる力強い眼差しを、自身の真正面に向ける。その間にも、左から卵が飛び、水が浴びせられた。それらが目に入りそうになった時だけ、ドロシーはそっと目を閉じる。けれど、体は微動だにしない。

「いい加減にしろ!」

 一番の怒号が飛んだ。それでも、卵は投げつけられる。

 いきり立った表情で、ノエルは庇うように立ち位置を左へと変える。だが、今度は右側から卵が飛来した。

 ドロシーの口から、ほうっと安堵のため息がこぼれる。

「……殿下」

 静かに呼びかけた。

「今日はもう、散策どころではありませんね。申し訳ありませんが、これで失礼させていただきます。また明日、いつもの時間にお伺いいたします」

 水と卵がしたたる姿のまま、ドロシーはくるりと踵を返す。

 幸い、まだ早い時間だ。城の早馬に迎えの馬車を頼む手紙を届けてもらえば、いつもより遅くなるが家にはつけるだろう。

 できれば、兄に見られる前に着替えてしまいたい。事実を知った兄がどんな行動に出るか。想像以上のものになりそうで、怖くてたまらない。

「いや、送っていこう。キースはとっくに帰っているし、何より、こんな格好の君を一人で帰らせるわけにはいかないからな」

「……兄は、すでに帰っているのですね」

「ああ。今日は朝一番で会議があったんで、キースがヘイデン辺境伯の代理で出席していた。早く来た分、早く帰るそうだ。今夜は君と夕食を食べると、朝から張り切っていたぞ。そもそも、あいつが在宅で都合が悪いのは、君ではなくて愚かな彼らだ。決して、君が気に病むことではない」

 素直に受け入れるか、はたまた断るか。逡巡した結果、送ってもらうことを選んだ。

 あれほど熱狂的に、卵や水を浴びせてきたのだ。メイフィールド家の家紋をつけた馬車を見たら、どうなるか。

 自身と、御者の安全。どちらも満たせるのは、王家の所有する馬車しかない。

「……馬車を、お借りできますか?」

「何なら湯殿と、着られそうなドレスがあれば貸すが」

「いえ、そこまでは結構です。ただ、馬車を汚さないよう、リネンをお借りできればありがたいのですが」

「わかった、用意させる」

 乗り込む前にしたたる水と卵をある程度拭い、座る場所に折り畳んだリネンを敷く。きっと、何とかなるはずだ。

 城へ戻ると、即座にノエルが使用人にてきぱきといくつか指示を出す。その間、ドロシーは彼から少し離れたところに立って、ぼんやりとしていた。

 やがて、リネンが届けられた。連日の散策で、すっかり顔見知りとなっていた侍女が二人がかりで、ドロシーの水と卵を丁寧に拭ってくれる。

 髪から落ちる水滴は、ほぼなくなった。首筋や顔に残っていた卵も、拭き取られて綺麗さっぱりだ。ただ、ドレスに当たった卵だけは、あまり綺麗に取れなかった。

「ドロシー様に、本当にお似合いのドレスでしたのに……申し訳ありません」

 染み込ませないように、けれど少しでも落ちるように。必死に卵を叩き出してくれた彼女に、これ以上何を望もうか。

 ゆるゆると、ドロシーは首を横に振った。

『たまにはさ、流行の型でも着てみたら?』

 そんな文言で兄に誘われ、連れ出されて仕立てたドレスだ。何もかも兄の見立てだから、似合うと言われると素直に嬉しい。

 知らず知らず、頬がゆるんでしまう。

「いえ、気にしないでください。きっと、兄が喜んで、また新しいドレスを仕立ててくれると思いますから」

「ああ、あいつならやりそうだな」

 言葉を交わしながら、ドロシーは侍女からリネンを受け取る。それを、ノエルのジュストコールの袖に優しく当てた。一度離し、今度は違う場所に押しつける。

「俺も汚れていたか?」

「いいえ。でも、濡れてしまいましたから」

 まずは見て、覚えていた範囲を。それからじっくり観察して、まだの場所を。

 丁寧に水気を吸い取る間に、馬車がカラコロと軽快な音を立ててやってきた。

 見間違えようのない、他とは形からして違う、王家の紋。それが、両側面と御者の頭上、背面に一つずつつけられた、大きく立派な馬車だ。これと同規模の馬車を所有できる家は、そう多くない。

 するっと降りた御者が、踏み台を置いてサッとドアを開ける。汚れ防止用のリネンを手に、ドロシーが乗り込もうとすると。

「……え?」

 思ってもいなかったノエルの行動で、ドロシーは小さく頓狂な声をこぼす。

「送ると言っただろう?」

 先に馬車へ乗り込んで、手を差し出してきた。その手と彼の顔をしばらく交互に見つめ、やがてドロシーは怖ず怖ずと手を借りる。

 ぐいっと力強く引き上げられ、いつもよりずっと楽に馬車へ乗り込めた。

 リネンを片手に、呆気に取られているドロシーに、ノエルは好きなところへ座るよう促す。それでもスッと動けずにいる彼女に苦笑いし、彼はリネンをさりげなく取り上げる。ドアの右手側の中央にそれを置き、やや強引にドロシーを座らせた。

 彼女の正面に座ると、ノエルは背後の壁を叩いて御者に合図を送る。

 かすかな嘶きの後、馬車は静かに、ゆっくりと動きだした。

 振動はあまり伝わってこない。けれど、窓の外を流れる景色は、それなりに速度が出ていることを示している。

 何を言っていいかわからず、とにかく押し黙っていた。彼もなぜか、一向に口を開こうとしない。

 膝に置いた手が、いつの間にか、汚れたドレスをギュッと握っていた。

 沈黙と緊張で、どうにかなってしまいそうだ。

 いつしか馬車は、ヘイデン辺境伯領へ入っていた。

「……キースに、謝らないといけないな」

 前触れもなく、ぼそっと呟かれた言葉に、思わず顔を上げる。ひどく沈痛な面持ちの彼に居たたまれなくなって、また顔を伏せてしまう。

「君をこんな目に遭わせて、あいつに思い切り殴られても仕方ないだろう?」

 囁くノエルの声音に、からかいの色が薄く含まれ始めた。だが、申し訳なさで頭がいっぱいのドロシーは、そのことにまったく気づかない。

 彼女の中で、キースの怒りが向かう先は、扇動した人間と乗った者だ。

 今後を考えるだけで、気が重くなる。

「……兄は、一時の感情に任せて、不敬を働く人間ではありません」

 そう、しぼり出すだけで精一杯だった。


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