来訪者 3
ともに昼食を食べ、雑談をしながら甘い焼き菓子をつまむ。天気がよければ、二人で楽しげに、少なからず人目につく場所を散策する。そんな時間が、不思議と楽しく感じられるようになってきた。
散策を始めてから、帰る時間がさらに遅くなった。迎えの馬車を待たせてしまうことも増えたため、最近は王城の馬車で帰宅している。その辺りは、ノエルの采配だ。
ヴィクターの来訪もなくなり、すっかり初夏の日差しとなってきた頃。
「今日は、街へ出ないか?」
「……街へ、ですか? かまいませんが、何かあったのですか?」
「使用人だけでは、思ったように話が広がっていかないようなんでね。もっと大勢の目に触れさせて、痛手を乗り越えているところを見せつけたくなったんだ」
手に取るようにわかる、とまではいかないが、筋は一応通っている。
人の噂は地味なものだ。けれど、広まり始めるとあっという間に、時には歪んで伝わってしまう。
だからこそ、キースは言葉や態度を選ぶのだ。誰にも悪く言われないように。
「わかりました」
ドロシーがしっかり頷くと、ノエルはあからさまに安堵の表情になった。
立ち上がり、手を取られ、中庭から門へと歩く。
普段の移動は、基本的に馬車だ。徒歩で街を歩いたのは、せいぜい、まだ幼かった頃の話だろう。それでも、ほとんど記憶にない。
馬車の窓から眺めるだけの景色と、歩いて目に入るもの。その違いを思うだけで、いやが上にも期待してしまう。
「まずは、すぐに城へ戻れる範囲だけにしよう。慣れたら少しずつ遠くへ行こうか」
「はい、わかりました」
門を出て、真っ直ぐ進む。
外へ続く門までが、いわゆる目抜き通りだ。石畳の道はゆるやかに下り、両脇に商店が建ち並ぶ。見える範囲の建物は、赤茶けたレンガ造りだ。普通の家は、両側の壁を隣家に接した、横に連なった造りになっている。王城がある街だが、貴族の多くはここに暮らしていない。通える距離の者は自宅から通う。領地が王城から遠い者は、近隣に大きな邸宅を構えている。
(……そういえば、タイン辺境伯の別邸が、この近くにありましたね)
うっかり自宅へ帰れなかった日に、困らないように、そんな目的で建てたと、ずいぶん昔に聞いた覚えがある。建てたはいいが、あまり使っていないと自嘲気味に笑っていたことも、忘れ果てていた理由のひとつだろうか。
今になるまで思い出せなかったのは、まったく重要視していなかったからだ。
しかし、近場に留まれる場所があるとなれば、話は別だろう。再びヴィクターが押しかけてくる事態も、きちんと想定しておくべきだ。
「向こうの門まで歩いて、戻って来ようか」
スッと指差されたのは、正面にある、外との境の門。いくらかぼんやりしているが、視認できる距離だ。
ドロシーが頷くと、ノエルは一歩踏み出す。軽く手を引き、ごく自然な形で、ドロシーをおもむろに連れ出していく。
通りへと、ドロシーが足を踏み入れた瞬間。
ドレスの左側に、わずかな衝撃を受けた。同時に、グシャリと何かがつぶれたような、奇妙な音が立て続けに耳に入る。
そちらに視線を落としたとたん、今度は頭に何かが当たった。軽い衝撃とつぶれた音の直後、どろりとしたものが頭から顔や首筋へと、ゆっくり流れていく。
何となくひんやりした、ぬめり。思わず眉をひそめるほど、ひどく不快な感触だ。
細めた視界の中を、透明と黄色の二種類の液体が、ゆったりと流れていく。青いドレスにおかしな模様を描く、黄色と白い小さなもの。丸みを帯びた、同じ白いものが、地面にいくつも転がっている。
「……卵、でしょうか」
誰に確かめたかったわけではない。声に出し、これが現実なのだと、自分自身で確認したかっただけだ。
「誰がこんなことをした!」
ノエルが浴びせた怒声に、反応する者はいない。それ以前に、ドロシーへの行為に、誰一人として驚きの声をあげなかった。
(……そういう、ことですか)
ヴィクターが姿を見せなかったのは、街の人間に根回しをしていたからだろう。
どんなことを言い、彼らの同情を引いたのか。それらは推測できないが、少なくとも今、周囲は敵ばかりだ。
ここで争うのは、明らかに得策ではない。
とはいえ、同じ当事者だが、一人は王太子なのだ。ケガの恐れはないが、わざわざ狙うとは思えない。貴族でも大罪になるのだから、街の者は特に注意するだろう。
集中砲火を浴びるのは、どうせ自分だけだ。
「殿下、放っておきましょう」
そう結論を出したドロシーに、今度は水がかけられる。頭からドレスまで、ほどほどに濡れていた。
すかさず隣を確認するが、飛び散ったものだろうか。ノエルのジュストコールがわずかに濡れて、そこだけ色が濃くなっている。
(殿下が……)
濡れてしまった。とばっちりを受けさせてしまった。
じわりと浮かんだ涙を、とっさに堪える。
ここで泣けば、被害に心を痛めたと思われてしまう。自分だけで済まなかったから泣いたのだとは、誰も考えてくれない。こんな幼稚なやり方でいいのだと、思わせるわけにはいかないのだ。
ドロシーは、クッと顔を持ち上げる。
真っ直ぐ伸びたドロシーの栗色の髪から、卵の黄身が混ざった雫がいくつか、ぽとぽとと落ちた。やはり卵で汚れたドレスは、浴びた水で被害が広がっていく。
「……この国の人間は、何の非もない女性に、往来でこんな真似ができるのか!」
声を荒げたノエルに、眺めていた者たちがビクッと体を震わせた。ドロシーはただ呆然と、彼を見上げるしかできずにいる。
これほど怒気をあらわにしている彼は、初めて見た。
「私は今まで、国をよりよくするため、努力してきたつもりだ。だがそれも、今この時をもって終わりにする。こんな真似をして、一切恥じない人間たちのために、私がしたいことは何もない!」
「殿下、どうか落ち着いてください」
空気をビリビリと震わせ、緊張させるノエルの怒鳴る声にも平然と、ドロシーは静かに制止する。
「誰がこんなことをさせたか、わかっています。彼らはある意味、だまされた被害者でもありますから、あまりきつく責めないでください」
淡々と、普段より小声で囁く。そんなドロシーに、ノエルは怪訝な表情だ。
「私は、私自身の考えを改める気は、一切ありません。それでも諦めないのでしたら、こちらも全力で打って出させていただきます」
顔をグッと上げ、堂々と宣戦布告する。
きっとどこかで聞いているだろうヴィクターにも、しっかりと聞こえるように。できるだけ、声を張り上げた。
絶対に、屈しない。
そう告げる力強い眼差しを、自身の真正面に向ける。その間にも、左から卵が飛び、水が浴びせられた。それらが目に入りそうになった時だけ、ドロシーはそっと目を閉じる。けれど、体は微動だにしない。
「いい加減にしろ!」
一番の怒号が飛んだ。それでも、卵は投げつけられる。
いきり立った表情で、ノエルは庇うように立ち位置を左へと変える。だが、今度は右側から卵が飛来した。
ドロシーの口から、ほうっと安堵のため息がこぼれる。
「……殿下」
静かに呼びかけた。
「今日はもう、散策どころではありませんね。申し訳ありませんが、これで失礼させていただきます。また明日、いつもの時間にお伺いいたします」
水と卵がしたたる姿のまま、ドロシーはくるりと踵を返す。
幸い、まだ早い時間だ。城の早馬に迎えの馬車を頼む手紙を届けてもらえば、いつもより遅くなるが家にはつけるだろう。
できれば、兄に見られる前に着替えてしまいたい。事実を知った兄がどんな行動に出るか。想像以上のものになりそうで、怖くてたまらない。
「いや、送っていこう。キースはとっくに帰っているし、何より、こんな格好の君を一人で帰らせるわけにはいかないからな」
「……兄は、すでに帰っているのですね」
「ああ。今日は朝一番で会議があったんで、キースがヘイデン辺境伯の代理で出席していた。早く来た分、早く帰るそうだ。今夜は君と夕食を食べると、朝から張り切っていたぞ。そもそも、あいつが在宅で都合が悪いのは、君ではなくて愚かな彼らだ。決して、君が気に病むことではない」
素直に受け入れるか、はたまた断るか。逡巡した結果、送ってもらうことを選んだ。
あれほど熱狂的に、卵や水を浴びせてきたのだ。メイフィールド家の家紋をつけた馬車を見たら、どうなるか。
自身と、御者の安全。どちらも満たせるのは、王家の所有する馬車しかない。
「……馬車を、お借りできますか?」
「何なら湯殿と、着られそうなドレスがあれば貸すが」
「いえ、そこまでは結構です。ただ、馬車を汚さないよう、リネンをお借りできればありがたいのですが」
「わかった、用意させる」
乗り込む前にしたたる水と卵をある程度拭い、座る場所に折り畳んだリネンを敷く。きっと、何とかなるはずだ。
城へ戻ると、即座にノエルが使用人にてきぱきといくつか指示を出す。その間、ドロシーは彼から少し離れたところに立って、ぼんやりとしていた。
やがて、リネンが届けられた。連日の散策で、すっかり顔見知りとなっていた侍女が二人がかりで、ドロシーの水と卵を丁寧に拭ってくれる。
髪から落ちる水滴は、ほぼなくなった。首筋や顔に残っていた卵も、拭き取られて綺麗さっぱりだ。ただ、ドレスに当たった卵だけは、あまり綺麗に取れなかった。
「ドロシー様に、本当にお似合いのドレスでしたのに……申し訳ありません」
染み込ませないように、けれど少しでも落ちるように。必死に卵を叩き出してくれた彼女に、これ以上何を望もうか。
ゆるゆると、ドロシーは首を横に振った。
『たまにはさ、流行の型でも着てみたら?』
そんな文言で兄に誘われ、連れ出されて仕立てたドレスだ。何もかも兄の見立てだから、似合うと言われると素直に嬉しい。
知らず知らず、頬がゆるんでしまう。
「いえ、気にしないでください。きっと、兄が喜んで、また新しいドレスを仕立ててくれると思いますから」
「ああ、あいつならやりそうだな」
言葉を交わしながら、ドロシーは侍女からリネンを受け取る。それを、ノエルのジュストコールの袖に優しく当てた。一度離し、今度は違う場所に押しつける。
「俺も汚れていたか?」
「いいえ。でも、濡れてしまいましたから」
まずは見て、覚えていた範囲を。それからじっくり観察して、まだの場所を。
丁寧に水気を吸い取る間に、馬車がカラコロと軽快な音を立ててやってきた。
見間違えようのない、他とは形からして違う、王家の紋。それが、両側面と御者の頭上、背面に一つずつつけられた、大きく立派な馬車だ。これと同規模の馬車を所有できる家は、そう多くない。
するっと降りた御者が、踏み台を置いてサッとドアを開ける。汚れ防止用のリネンを手に、ドロシーが乗り込もうとすると。
「……え?」
思ってもいなかったノエルの行動で、ドロシーは小さく頓狂な声をこぼす。
「送ると言っただろう?」
先に馬車へ乗り込んで、手を差し出してきた。その手と彼の顔をしばらく交互に見つめ、やがてドロシーは怖ず怖ずと手を借りる。
ぐいっと力強く引き上げられ、いつもよりずっと楽に馬車へ乗り込めた。
リネンを片手に、呆気に取られているドロシーに、ノエルは好きなところへ座るよう促す。それでもスッと動けずにいる彼女に苦笑いし、彼はリネンをさりげなく取り上げる。ドアの右手側の中央にそれを置き、やや強引にドロシーを座らせた。
彼女の正面に座ると、ノエルは背後の壁を叩いて御者に合図を送る。
かすかな嘶きの後、馬車は静かに、ゆっくりと動きだした。
振動はあまり伝わってこない。けれど、窓の外を流れる景色は、それなりに速度が出ていることを示している。
何を言っていいかわからず、とにかく押し黙っていた。彼もなぜか、一向に口を開こうとしない。
膝に置いた手が、いつの間にか、汚れたドレスをギュッと握っていた。
沈黙と緊張で、どうにかなってしまいそうだ。
いつしか馬車は、ヘイデン辺境伯領へ入っていた。
「……キースに、謝らないといけないな」
前触れもなく、ぼそっと呟かれた言葉に、思わず顔を上げる。ひどく沈痛な面持ちの彼に居たたまれなくなって、また顔を伏せてしまう。
「君をこんな目に遭わせて、あいつに思い切り殴られても仕方ないだろう?」
囁くノエルの声音に、からかいの色が薄く含まれ始めた。だが、申し訳なさで頭がいっぱいのドロシーは、そのことにまったく気づかない。
彼女の中で、キースの怒りが向かう先は、扇動した人間と乗った者だ。
今後を考えるだけで、気が重くなる。
「……兄は、一時の感情に任せて、不敬を働く人間ではありません」
そう、しぼり出すだけで精一杯だった。




