プロローグ
差し込んだ光の眩しさからか、少女の精巧な人形めいた顔がギュッと歪む。ゆるゆると開かれていく切れ長の瞳から、わずかに茶褐色が覗く。開ききった瞳は、まるで冬の空気のように冷え冷えとして見えた。
少女はゆっくりと体を起こし、ベッドの端に座って軽く伸びをする。
渋皮まで綺麗にむいた栗の実によく似た色の、艶やかで真っ直ぐな髪。それが好き勝手に、あちこちへさらりと流れていく。
ずるりと下がった袖から、ほっそりとした健康的な腕がこぼれた。
(久しぶりによく眠れた気がしますが、恐らく、体が限界だったのでしょうね)
もう何年も、同じ夜の繰り返しだ。その原因も、はっきりと理解している。同時に、まだしばらくは繰り返されることも。
今日も、昨日と変わらない。明日も、これまでと大差ない日が訪れる。ずっと、そう思っていた。
「ドール!」
中年の男女がそれぞれに同じ名を呼びながら、ドアを蹴破る勢いで入ってきた。その様子を、ドールと呼ばれた少女はこてんと首を傾げ、瞬いてぼんやり見つめる。
青ざめた顔の男女は、彼女の両親だ。しかし、これまで一度も、朝から部屋に乗り込んできたことなどなかった。
物わかりのいい、手のかからない子供でいたのだから当たり前だ。
(何か、あったのでしょうか?)
とっさに頭を過ぎったのは、二歳年上の姉の顔だった。
物心ついた頃から、姉には散々迷惑をかけられてきた。こういう時に彼女の顔がちらつくのは、当然と言えば当然だろう。
(今度は、何をやらかしたのでしょうね)
呆れ果ててため息がこぼれる。
白金色の長くゆるやかな巻き毛に、ぱっちりした薄紫色の瞳。常に淡く色づいている、ややぽってりした唇とふっくらした頬。曇っている日でも日よけを欠かさないため、肌は抜けるように白い。平均より背は低いが、出るべきところはきっちり出ている。少々幼く見える顔立ちと愛嬌のある笑顔は、彼女の重要な武器であり、最大の魅力だろう。
そんな姉は、この国の王太子の婚約者だ。早ければ半年後、雪が降る前に国をあげての挙式となる。そんな彼女に何かあれば、一族郎党の首をすべて並べても、とても足りない。
両親が真っ青になってやってくる理由としては、最も妥当だ。
「い、いいかい? お、落ち着いて聞いてくれ」
「ぜ、絶対に、絶対に取り乱さないでね?」
ベッドに腰かけたまま瞬いている少女は、よほど興奮している両親に、露骨に呆れた眼差しを向ける。
先を促すために、ため息をついた。
「朝から何があったのですか?」
「リリーが、シプリー子爵と駆け落ちした」
「……はい?」
シプリー子爵。そう呼ばれる人を、よく知っている気がする。だが、顔も名前も頭に浮かんでこない。ただかろうじて、「リリー」が姉の愛称であることは理解できた。
そのうち、じわじわと言葉が浸透していく。
(ああ、そうです……)
ようやく、シプリー子爵のことも思い出せた。彼はグレン・ウェイクリングという名の、タイン辺境伯の長男だ。社交界では、タイン辺境伯の持つ下位の爵位を用い、後継者と知らしめている。社交的で、品のいい顔立ちの彼は──。
(私の、婚約者……ですよね? 彼が、姉と、駆け落ち……ですか?)
理解した瞬間、血の気が、ザッと音を立てて引いていく。クラクラする頭につられて倒れてしまわないよう、ベッドにかけた手にグッと力を込めた。それでも腕は、ガクガクと揺れている。
(で、では、殿下と姉の成婚は、いったいどうなるのでしょうか……)
あと半年。もしそれまでに姉が戻ってこなければ、これまで空想の中にしかなかった光景が、現実になるかもしれない。
歓喜に震える心を押し殺し、微笑んでしまいそうな顔を懸命に真顔で保つ。彼女にはそうできているつもりだが、怒っているのか泣きそうなのかわからない、奇妙な表情になっている。
当然、心配そうに見ている両親にも気づかない。
「……わかりました。着替えてから、食堂へ出向きます。そこで、朝食を取りがてら、詳しいお話を聞かせてください」
できるだけ感情を混ぜず、淡々とした声で両親に告げた。
両親がチラチラと振り返りながら部屋を出ていくのを見送って、彼女はふらりと立ち上がる。けれどすぐに膝が崩れて、その場に力なく座り込んでしまう。
「……なぜ」
ここにいない人に、問いかけたかった。だが、わざわざ本人に聞かなくとも、返ってくる言葉はわかっている。
あふれ出てくる感情は、決していいものではない。
(どうせ、殿下が地位だけで面白みのない方だから悪い、と言うのでしょうけれど)
それは、今まで出会った人間のほとんどにちやほやされていた姉だからだ。決して褒め称えない王太子は、確かにつまらないと思うだろう。会うたびに、ちっとも褒め言葉を言わないと、姉は愚痴をこぼしていたものだ。
(……でも)
三年ほど前、姉との婚約が決まった後、家族として王太子と出会った。両親が妹であることと、名前を伝えてくれた。
青緑色の瞳はやわらかく穏やかだが、秘めた強さがうかがえた。けれど顔には愛想笑いすらなく、無愛想にも見える表情で、喜んでいる雰囲気はかけらもない。ただ、家族の顔を覚えるように、ジッと見つめていたことだけ覚えている。
視線を感じていた間、心がざわついて落ち着かなかったものだ。
家に戻り、あの瞳に自分だけが見つめられたいと願った。それが叶わないものだと、痛いほどわかっていながら。
あれからずっと、基本的には眠りの浅い夜を繰り返している。
(……姉様が、あの方を必要としないのでしたら……)
しっかり顔を上げた少女は、目尻にうっすらとにじんだものを強く拭う。それから今度こそ、自身の足ですっくと立ち上がった。