どこでも○アに対する考察
部活中に考えてました
どこでもドア。
某ネコ型ロボットが使う未来道具の中でも、有名な道具のひとつでもある。
今作は、このドアについて考えてゆくものとする。
※注意事項
・この件は個人の思考で成立するものとする。
・単なる考察であり、某作品を非難、支援する立場ではないものとする
まず、このドアについて語るには仕組みを考えなければならない。
漫画の中では、主に『場所の指定』を行うと、その場所に一瞬で移動する事が出来るという性質を持つ。
だが、時間の指定までは行う事が出来ない。
以上2点より、どこでもドアは座標軸を『言葉』によって指定しなければならないという事だ。
つまり、細かく指定をしていけば、より正確な場所へと移動できるという事も言える。
そして『一瞬で移動する』という点から『どこでもドアは転送装置の一種である』と言い換えることも可能である。
しかし、ここで考えられる問題が『ドアである必要はあるのか』と言う点だ。
ドアを概念的なものとして捉えた結果なのか、ドアの細部に音声の認証システムが含まれており、ドアを開くという行動が転送を起動させるのかは、現段階では捉える事は不可能だろう。
先程述べた『一瞬で移動する』という点について考察をしていく。
移動するという括りの中には様々な方法がある。
『一瞬で』という条件付でもそれは変わる事は無いだろう。
そして、私が考えた中で現実的な方法は『人を素粒子レベルまで分解して転送し、指定先で再構築させる』という方法だ。類似例としては電子メールの送信などが挙げられる。
原理は至極単純なもので『ドアをくぐった瞬間に何らかの作用で分解、転送され、指定場所で構築される』というものだ。(なお、この何らかの作用は現時点で存在し得ない技術と思われる為、未来で発達した技術のひとつだと仮定する)
ドアをくぐると同時に、記憶(個人情報)をドアへ保存し、目的地で情報を元にし、新しく作り変える。という事もできる。
ここで、ひとつ哲学的な問題が発生する。
それは『転送前の人間と転送後の人間は同じ人間なのか』という事だ。
もちろん、寸分の狂いも無く再構築されているために、原理上は同じではある。
もちろん記憶もインプットされてある。
だが、再構築された自分は本当に自分なのだろうか。
似たような話で、人間は60日で体中の細胞が変わっていると聞く。
つまり、自分は今までの記憶を持っているが、体は過去の自分のものではない、という考えだ。
問題点も多く、考えなければならない点もあるが、一度此処で考察を中断しようと思う。