狐持ち 中
息も白む、E県は人里離れた山中にて。
碌に整備もされていない獣道同然の山道を、若い男女が息を切らせ下って行く光景があった。
夕暮れとなる時刻であるが、木々が光を遮っているため殊更辺りは暗い。
ギィン。
けたたましい金属音が木霊する。
男が持つ、現代ではまず見る事の無くなった抜き身の日本刀が、何か固いモノを弾いた音だ。
日本刀は本来、刀身が金属音を上げるほど固い物に打ち付けるような使い方はしない。
折れず、曲がらずと評されど、時代劇のように刀同士で打ち合えば刃毀れは勿論あっさり折れてしまう事もあるのだ。
しかし男が持つ日本刀は幾度もけたたましく金属音を鳴らし、時折火花すら散らせども、刃毀れどころかその美しい刀身が折れる気配は皆無であった。
だから、であろうか。
その刀は不思議と、見る者に力強さと得体の知れぬ不気味さ、そしてどこか蠱惑的な印象を抱かせるのである。
対照的に男――立花宗太は息を切らせ、鞘から解き放った“傾国”を手にして、必死に山道を駆け下りてゆく。
まるで、“ナニカ”から逃げるように。
ギィン、ギギン。
金属音。
時折宗太が上空、或いは左右のどちらかを向き、虚空に向かって手にした怨霊刀“傾国”を振るった時の音である。
『後じゃ宗太! 足下!』
サツキヒメの叫び声に宗太はふり返り様、後を走る宗像瑞紀を先へ行かせながら、“傾国”の切っ先を地へと向け衝撃に備えた。
ギン。
“ナニカ”が刀身に強くぶつかり、一瞬だけ火花が散る。
しかし何が刀身にぶつかっているのかは全く視認出来ず、宗太にしてみればまるで透明人間が振るう透明のバットかなにかを受けているような心地であった。
「上! 立花様、横薙ぎに! 一拍置いて!」
今度は先頭を走る瑞紀が叫ぶ。
同時に瑞紀はしゃがみ、息を切らせた宗太が側に立ち、合図に合わせ上空に向かって横薙ぎに剣を払った。
ギィン。
まるで花火のように、ぱっと一際大きな火花が散る。
「立てるか?! 宗像!」
「ごめんな、さい。 もう、無理、そうです。この、足ではこれ以上、は」
「くそ!」
『宗太! そこの木を背にさせて宗像の前に立ちや! はよう!』
珍しいサツキヒメの余裕の無い声に宗太は息を切らせたまま、地に蹲り立ち上がれなくなった宗像瑞紀に肩を貸し、近くにあった大木の根元まで彼女を運んだ。
通常時ならば宗太の肩に腕を回す事など断固拒否するであろう彼女だが、左足の太ももと背中を大きく裂く傷が宗太の行為を黙認させたのである。
裂傷はまるで宗太が持つ日本刀でスッパリと斬りつけたかのようなもので、既に大量の血が瑞紀の着衣を赤く湿らせていた。
『正面! 縦……今!』
ギィン。
瑞紀を大木の根元に座らせ、“ナニカ”から守るように彼女を背に“傾国”を青眼に構えた瞬間。
サツキヒメの叫びに呼応し、宗太は刃を縦に振る。
先程と同じ大きさの火花が散り、同時にけたたましく不吉な金属音が山中に鳴り響いた。
「くそ! 宗像、大丈夫か?!」
「……はい、出血は酷いですが、傷はもう、塞がりはじめてます。“赤目”はこの位では、死にはしません」
「本当だろうな?! その割には血が止まって無いようだけど」
「……、常人なら、胴ごと両断する、立花様の“技懸かり”を喰って、肋骨を折るだけで済んだ“赤目”の私ですよ? むしろ、そっちの怪我の方が、痛い位です」
「……この後に及んで、まだ憎まれ口を叩く余裕があるのはわかった」
「恐縮です」
『乳繰り合うのは後じゃ! 右! 横に構え! “強い”ぞ、踏ん張りや!』
瞬間、宗太は“傾国”を横に倒し、万力の力を籠めて払う。
――ギァアン。
これまでで最も大きな音が響き、派手に火花が散った。
「……お見事。“アレ”を相手取りここまで、しのげる者など、そうはいません。さすが、私の肋骨をヘシ折った方」
「もしかして励ましてんのか?! それ! いいから黙って傷の応急処置をしてろよ!」
悲鳴のような宗太のツッコミに、場の空気は一瞬だけ緩む。
しかしそれも宗太達を襲う“ナニカ”によってすぐに引き絞られた。
――金属音。
疲労の濃い男女の荒い息使いだけが、後に残る。
今度は言葉は無い。
焦燥と疲労だけがその場に溜まってゆく。
宗太は絶望が這い寄る音を聞くような心地のまま、現実から逃げるように後悔して奥歯を強く噛んだ。
そんな彼のズボンの裾を引っ張る者がいる。
周囲への警戒をしながらも視線を背後、下の方へ向けるとそこには息も絶え絶えといった様子の宗像瑞紀の姿。
すっかり見慣れてきた彼女の美貌は、凛とつり上がった眉尻はかわらず、しかし意志の強い瞳には不安と情けなさが滲んで見えた気がする。
だから、であろうか。
宗太は思わずそう、言ってしまうのだ。
「心配すんな。今度は俺が守るから」
◆
E県で新幹線を降りた二人は、予約したビジネスホテルでその日は一泊し、予定通り翌朝目的地である某村へと向かった。
美しい女子高生と二人きり、タクシーの後部座席で立花宗太は何を想うか。
本来ならば旅行は非常に心躍るものであるはずだ。
それも、お泊まり旅行である。
恋人同士とはいかなくとも、親しい友達関係ならば新幹線では楽しい会話が、ビジネスホテルでは一緒に夜更かしをしたり、あわよくば淫らな関係を築いて距離を縮めたのかもしれない。
しかし立花宗太と宗像瑞紀の関係はそのようなものではなく、当然楽しい会話も、手違いからシングル二部屋ではなく大きなベッドが一つのツインの部屋しか無いだとか、何故かシャワーを一緒に浴びる事になるだとかそんな、ラッキースケベと呼べるようなイベントも皆無に、ただひたすらお互いに壁を高くして行動を共にするのだった。
「いいえ、兄妹です。親戚の家に遊びに行く所です」
目的地である某村は、二人が泊まったホテルからタクシーで一時間程。
運転手から尋ねられた二人の関係について、極めて事務的に答えた瑞紀の台詞が、道中で唯一車内で発生した会話であった。
当初はサツキヒメは姿を現していたが、流石に狭い車内で一般人には見えない彼女の相手をする訳には行かない。
いつしか彼女の姿は消えて、宗太は新幹線の時とは違い、暇を持てあましてしまった。
だから、であろう。
既にすっかり外の景色に飽きていた宗太がふと視線を反対側へ向けると、不覚にも一瞬だけ目を奪われてしまった。
そこにはどこか物憂げに窓の外を眺める宗像瑞紀の姿が有り、スラリとした彼女の体躯と相まって非常に絵になって見える。
寒くないよう山登りでよく見かけるような格好のためか、それとも彼女の体自体が未発達なのか、女性らしい膨らみは皆無であったがそれ故に、彼女自身の美しさに宗太は目を奪われてしまう形となった。
そんな、窓に映る彼女の目とふとした瞬間、視線がぶつかった気がして。
宗太は気まずく再び車外へと視線を戻して、照れ隠しに頬杖をつくのである。
それからの時間は、少なくとも宗太にとって長いようで短く、いたたまれないもので目的地に着いたのは九時を回った頃。
「それではよろしくお願いします」
依頼主と落ち合い、事の経緯を聞いて“何”を何処で探すのかを確認した三十分後、宗太と瑞紀は早速山に登る運びとなった。
依頼主は田端と名乗る中年の男性で、瑞紀が言っていた通り“狐持ち”と呼ばれる憑きもの筋の家系であると二人に説明し、自宅の裏山に逃げ込んでしまった“管狐”(クダキツネ)と呼ばれる狐の怪異を捕らえて欲しい、と説明したのだが――
「はぁ、ふぅ、み、みずきたん? ちょっと、休憩、しない?」
「またですか? って、やめてください、その呼び方。気持ち悪い」
「ちょっと、ちょっとでいいから……」
「……ちゃんと名字で呼んでくれるなら。私はちゃんと立花、とお呼びしていますよ? それも、様までつけて」
「わかった。だからたのむ、“宗像”」
「しかたありませんね」
矢鱈険しい道が続く裏山の、頂上に程近い場所で宗太はとうとうへたり込み、荷物と“傾国”を脇に降ろした。
無理も無い。
朝、昼とかけて山中を歩き回り、日は大分傾いて既に夕刻の時分となっているのだ。
ごく普通の大学生として、体育会系のサークルに所属していない宗太の体力はとっくの昔に尽きていたのである。
対して宗像瑞紀は宗太の倍はあろうかという大きさのリュックを背負い、手には木刀を持ったまま、息切れ一つ見せずその場に立ち止まっている。
まるで凹凸の少ないファッションモデルのようなその細い体躯の何処に、これ程の体力があるのか不明であるが、これも幼少の頃からの稽古の賜なのであろう。
だが他者と己の根本的な体力の違いなど一顧だにしないつもりであるらしく、宗太を見下ろすその目は、蔑むように冷たい。
大方、これしきの事で無様な、等と考えているのだろうと宗太は考えながらも、交わしたばかりの約束をとりあえずは破る気にはなれなかった。
「はぁ、ふぅ、あ、ありがと宗像。しかしマジき、きついな、山登り」
「立花様の体力がなさ過ぎるだけです」
「なんか、運動をしないといけない、かな、こりゃ」
「そうですね。“難行”に挑もうかという人間がそれでは、生き残れる確率は低いと思いますし」
「……ところでさ、さっきさ、依頼主さんに聞こうかと思って、辞めといたんだけど」
「はい?」
「“管狐”(クダキツネ)って、何?」
質問に瑞紀は表情を変えず、しかし少しだけ間を開けた。
宗太は始め、そんな事も知らないのかと呆れられたかと思ったが、瑞紀の表情は変わらず、やがて僅かな間を取り説明の手順を整理したのだと理解する事になる。
「“狐持ち”については大丈夫ですね?」
「ああ。キツネの怪異が家や家系に憑いている一族、だよな」
「では“狐持ち”には幾つか種類がある事は?」
「そこまでは……」
「ではそこから。依頼主である田端さんは、“狐持ち”の中でも“クダモチ”と呼ばれる一族の方で、主に飯綱――イタチを使役しているようです」
「イタチ……そういや最初に言ってたな。まあ、キツネに似ている、かも知れないって程度には思ってたけど」
「“狐持ち”にに限らず、その辺の解釈は昔と今では違うので、現代の価値観から来るイメージと合致しない事は多々あります」
「とりあえず、イタチを使役するけども“狐憑き”って事か」
「はい。キツネは稲荷大明神、イタチは飯綱権現として古くから神性を見出されておりますが、“管狐”の場合怪異としては俗世寄りですね」
「俗世寄り?」
「他の“狐憑き”と比べ、主となる人間に忠実で式神のように扱えるのです」
「ポケ○ンみたいなもんか」
「……やった頃はありませんが、携帯ゲームの奴ですよね? まあ多分、そんな所でしょう」
「え? 宗像ってポケ○ンやった事無いの?!」
「……言いませんでしたか? 私、いつ来るかもわからない立花様の為に、二才になるかならないか位の頃から剣を振ってきて、それ以外は全て見向きもしなかった、と」
「う……なんか、すまん」
「お気になさらず。先日アバラ骨をヘシ折られ、色々と考える機会をいただきましたので、今ではスッパリと忘れたい少々恥ずかしい思い出です」
「お前絶対根に持ってるだろ!」
思わずがう、と吠えるようにツッ込む宗太に対し、瑞紀はふぃっと視線だけを逸らした。
指摘通り根に持っているようではあるが、一方でそれにしても最初に見せて居た憎悪や嫌悪は薄まっている風にも感じ取れる宗太であった。
曲がりなりにも剣には素人の宗太が、宗像瑞紀の十五年の結晶とも言える剣術を否定し恥をかかせて見せたのだ。
宗太を本気で恨むならば、彼女の気性からして憎悪や嫌悪は更に強く向けられ、口も訊いては貰えぬのが道理である。
なれば実際の所、宗太――というか立花家に対するわだかまりは解けてはいても、宗太に負けた事が面白くないのも事実で、単に拗ねているに過ぎないのではないか。
――だとしたら、何かと肋骨折られた折られたとネチネチ言うのも、俺んちに土足で上がってくるのも理解出来る……のか?
いや、それにしても常識というか……いや、こいつ案外お嬢様っぽいし。家、大きかったし、ポケ○ンやった事無いとか……
「……ちなみに、“管狐”は普段小さな竹の筒に入れて持ち運びます。狐以外を入れて使役する憑きもの筋の場合は“お外道さん”と呼ばれたりしますが、“クダモチ”と“お外道さん”の最大の違いは“クダモチ”は一定の周期で栄えたり衰えたりする事ですね」
「……なんで?」
「増えるからです」
「は? 増えるって……“管狐”がか?
「ええ」
「その分便利になるんじゃねえの」
「便利にはなりますが、“管狐”は普通の餌の他様々な財を喰います。だからこそ、使役する数が少ない内は“管狐”が集めてくる財でその家は栄えるのですが、何十、何百も増えて行くと今度は喰わせる財が集めきれなくなるのです。すると、どうなると思います?」
「……さぁ? 喰わせる財が無いんだったら、お前を獲って喰う、とか?」
「惜しいですね。正解は、その家の財を全て平らげ、飼われている管から方々に散って“管狐”は居なくなります」
「……惜しいのか? それ」
「ええ、場合によっては。家人……特に若い娘や子供は財と見なされ、頭から囓られる事もありますので」
「うへぇ……えげつな」
「最終的にその家は衰えてゆき、家系は途絶えてしまうのですが、この時散った“管狐”の内数匹は再び人に憑いて仕える事から、“クダモチ”は一定の周期で栄えたり衰えたりするという訳です」
「なるほどな」
少々強引な話題の逸らし方であったが、宗太はあえてこれを指摘せず瑞紀の言葉に耳を傾けた。
そうすると不思議なもので、彼女の語り方が上手いのか、次第に話に引き込まれ雑念が消えて行く。
気が付けば宗太は瑞紀の口から語られる“管狐”について、真剣に考えるようになっていた。
「あと、“クダモチ”の元から“管狐”が逃げ出すという現象は、ロクにエサを与えていないと起こりうる現象です」
「って、事はあの、えっと……田端さんは……」
「かなりマズイ状況になりつつあるのでしょうね。本来なら“クダモチ”は外部の人間に助けを求めたりはせず、一族総出で逃げた“管狐”を捕まえるのですけれど、田端さんは他に身寄りが居ないようなので……」
「やべぇじゃねえか!」
「だから『百鬼夜行』で助けを求めたのでしょう。現在、この山全体に田端さん自身が結界を張っています。私達の役目はその間に“管狐”を捕まえる事です」
「あ、それで田端さんは登ってこなかったのか」
つい先程まで“なんで俺が”と考えてしまうほど、息も絶え絶えに険しい山道を登っていた宗太であるが、この時初めて飼い主(?)である田端が山狩りに参加していない理由を知り、納得した。
それから、ふと。
ならば何故、自分と宗像瑞紀の二人だけで山狩りをしなくてはならないのかという疑問に思い至り、瑞紀に新たな質問をぶつけたのである。
――どちらかと言えば休憩を少しでも長く取ろうという見え透いた下心が働いてもいたのだが、瑞紀も又そこをあえて触れる様な事はしない。
「ならさ、なんで俺達二人だけなんだ? 山狩りするなら、もっと人手が多い方がいいだろ」
「ただでさえ、一般の人には関わらせる訳のいかない怪異を抱えた者は少ないですし、人数を集めるのは至難だと思います。それに、“狐持ち”の中でも“クダモチ”は特に忌避されますから。」
「なんで?」
「飯綱は手癖が悪いですからね。集めてくる財も、大抵は盗品です」
「……なるほど」
「さて、そろそろ行きましょうか。田端さんが結界を張っているのでこの山から“管狐”が逃げる事はないでしょうが、その間は私達も山から出られませんし」
「行くって行ったって、そう簡単に見つかるモンなのか?」
「“赤目”の私なら、大体の位置や痕跡は見つけるのも容易です。それに捕まえる時に抵抗されたとしても、“管狐”単体ではそんな危険な怪異ではありませんので」
「そか。よっこら、せっと」
「……気持ち悪い。オヤジ臭いかけ声ですね、気持ち悪い」
「うっせ。二度も言うなって」
キリの良い所で休憩も終わりとばかりに促され、宗太はじじむさいかけ声と共に立ち上がった。
その際、女子高生特有の感覚から来る辛辣な指摘に宗太は内心では傷つきながらも、最近サツキヒメの言葉遣いが一部移ってきているのではないかと感じて白いため息を吐かせた。
丁度、その時である。
『宗太、宗太』
これまで姿を消していたサツキヒメが、突然現れた。
山中にもかかわらず、鮮やかな緋色の着物を身に纏って。
「なんだよ。って、いままで何処にいたんだ?」
『妾は寒いのは嫌いじゃし。それに宗太に握られておるのは、中々良い心地だしの。あな、そんな事はどうでもよい』
「どうかしましたか?」
『お主に用があるのではないわ。妾は宗太に用があるのじゃ』
「だから、なんだよ」
『ん、獣臭い』
端的な物言いに、場には静寂が満ちた。
ただし宗太は呆れての、瑞紀は“赤目”をやや強めに発言させ辺りを警戒させての沈黙ではあったが。
しかし当初こそ何言い出してんだコイツ? とばかりの宗太であったが、瞳をうっすら輝かせて辺りを伺う瑞紀の姿にやっとサツキヒメの言わんとする所を理解して周囲を見渡す。
――だがこの時。
不運にも、宗太と瑞紀はサツキヒメが言わんとしていた内容を、先走り誤解してしまう。
言うなれば、警戒はすれど質が追いついてはいなかったのだ。
ざぁ、と木々が音を立て、周囲に風が吹き込む。
その風が不意に強く、下向きに吹き下ろした。
「うっ、く――」
「宗像?!」
瑞紀の押し殺したような悲鳴と共に、からんと二つに切断された木刀が地に落ちて、追うように宗太は異変に気が付いた。
見るといつそうなったか、蹲る瑞紀の左太ももの辺りから夥しい血が滲んでいるのが見える。
よくよく観察してみると、瑞紀の左太もものズボンは縦に裂けており、そういえば彼女は左手で木刀を握っていたのだと思い出してはじめて、“ナニカ”が鋭利なモノで上か下、彼女の左半身を縦に裂いたのだと理解した宗太である。
「だ、大丈夫か? むなかとぅうわあ?_!」
とにかく止血せねば。
そう思い背負っていたリュックを降ろし彼女の側に駆け寄った宗太であるが、不意打ちに瑞紀によって押し倒されゴロゴロと山道を転がる羽目になった。
山道は急な坂であるが、引っかかりとなる木や岩は無数にあった為、衝撃と共に転落はすぐさま停止する。
「う……」
「ふ、う……」
うめき声は二つ。
一つは甘いと息のように、宗太の耳元で聞こえた。
宗太はぼんやりと、あまり長い事くっついていると何を言われるかわかったものではないな、等と考えながら思わず抱きしめていた瑞紀をゆっくりと引きはがし、そこで始めて転がりながらも“傾国”を手放さなかった自分に感心を抱き、ぎょっとしてしまう。
なぜならば。
「ぐ、ふ、はぁ、あ、ご、ご無事、で?」
何故か甘く喘ぐように息を荒げた宗像瑞紀の顔が、目の前にあったからだ。
彼女は心なしか頬を上気させ、瞳を先程よりも強く赤く輝かせてキスでも求めるかのような距離にその唇を置いていた。
宗太は思わずドキリとしてしまい、刹那体を強ばらせ状況を整理しようと試みる。
すると彼女の背に回していた手の平がやけにヌメっている事に気がついて、瑞紀を体の上に乗せたまま腕を上げ、至近距離にある美少女の顔ごしにこれを確認するのだった。
――血。
夥しい、血。
宗太のものでないソレは、手と掴んでいた“傾国”の鞘をべっとりと紅く染めている。
そこでやっと宗太は状況を掴めて、慌てて彼女を抱き止めながら、ゆっくりと体を起こすのだった。
「宗像!」
「う、ぐ……不覚、です」
「喋るな! お前、結構な怪我だぞ」
「大丈、夫、です。今から、“先祖返り”をしますので」
「大丈夫って、宗像、お前この前、なんか様子が……」
「あの時は特別、でしたし。……ふぅ、ほら、この通り」
そう言って、先程までの苦しげな様子など嘘のように宗像瑞紀はすくと立ち上がる。
いつか見たように、凛とした瞳を強く赤く輝かせながら。
だがこの時、視線が下からであった宗太は、彼女の足下が僅かにふらついているのをはっきりと見て取っていた。
思い出されるのはその日、一日。
彼女はずっと山中を歩き回り、休憩の度に座りもせず、辺りを見渡して“管狐”を探していたのだ。
その宗像瑞紀が、足下をフラつかせ立ち上がっている。
聞いていたよりもずっと危険な、怪異を目の前にして。
そして彼女は言った。
「大丈夫です。私が立花様をお守り致します。“赤目憑き”は宗像の家名にかけて」
気高くそう宣言した彼女の姿を、宗太はどの様に表現するだろうか。
苦境に遭って汚れず、凛々しく、それでいて決して手の届かぬ存在。
宗太はそのように見惚れながら、同時に自身が酷く矮小で情けない存在に思えて自己嫌悪を覚えた。
しかしそれも僅かな時間での事、宗太はサツキヒメの叫びに現実へと引き戻されてしまう。
『宗太! 妾を抜け! 来るぞ! 宗像の頭上目がけ剣を振れ!』
いつものサツキヒメとは違う、余裕の無い声。
反射的に宗太は手にしていた“傾国”を引き抜き、言われた通りに瑞紀の頭上めがけて刃を振るう。
ギャン。
短く、金属音が山中に響いた。
『よし! ――この莫迦娘が! 格好をつけとる場合か!』
「サ、サツキヒメ様?」
『まだわからぬか、たわけめ! “アレ”は手負いの“赤目憑き”が徒手空拳でどうにかできるような甘い代物ではないわ!』
「お、おい?」
『宗太、気を抜くな! お主が居ねば、宗像は死ぬ。なれば、“赤目”を失なわば、宗太はここで死ぬ羽目になろうぞ!』
「何を――、まさか!」
サツキヒメの言葉にどの様な思考を添わせたか。
宗像瑞紀ははっとして、輝く赤い瞳でもって四方を見渡す。
そして、血の気の無い声で呟いた。
痛恨の判断ミスを告白するような、重苦しい声で。
「あれは“管狐”なんかではありません。あれは……“鎌鼬”(カマイタチ)です。私達は……嵌められました」
拍手とメッセージをありがとうございます。
非常にモチベーションとなりました。
また、上下構成にしようと思いましたが、ちょっと長くなりすぎたので上中下となってしまいました。
次こそ下をお届けしたい。