天狗憑き 七
「と、いうわけで、立花様には大学を退学していただく手続きは完了致しましたのでご報告致します」
大上蔵人の“神降ろし”より一週間後の朝。
いまだ床に伏せる宗太の横で、艶やかな薄桃色の振袖を着た宗像瑞紀が座り、そのように報告してきた。
宗太が意識を取り戻してより、二日後の出来事である。
場所は宗像家、宗太が寝込んでいた一室。
青天の霹靂となる報告に、布団から半身を起こし目覚めに水を飲んでいた宗太は思わずぶっと吹いてしまった。
「おや。直ぐに着替えと替わりの布団をお持ち致しますね」
「まて。……今、なんつった?」
「ですから、直ぐに着替えと替わりの布団を……」
「そうじゃなくて! その前に、今、お前は何を報告しに来たんだ?!」
「その前の報告、ですか? 大学を辞めていただく為の手続きはすでに完了した旨、お伝えしただけですが。と、いうわけで、後は大学側の受理完了を待つのみとなっております。新しい生活を始めるにあたってのご説明はまた後日、と」
「いっ、いやいやいや! そうじゃなくてだな、みずきたん?! 何が『と、いうわけ』だ!」
「大丈夫です。何も心配はいりません。金銭的・肉体的なサポートも、我が宗像家と『百鬼夜行』ネットワークにて行いますから。ええ、大丈夫です。何も心配はいりません」
「心配しかわかねぇよ! そこじゃなくて! なんで俺、知らない間に大学辞めさせられてるんだよ?!」
「立花様のご実家に方にも事情をご説明申し上げ、了承を得ての手続きですので法的に問題はないかと」
「本人の了承がないだろうが!」
「必要なんですか? “死人”に」
冷たく言い放つ瑞紀に、宗太はぐっと罵倒を飲み込んでしまった。
“死人”。
今の、宗太を指す言葉。
二日前、目を覚ました宗太の混乱は想像に難くないほど大きな物であったが、その後宗像瑞紀よりなされた説明は、混乱を通り越して呆然とさせるほど俄には信じがたいものであった。
一つは大上蔵人の“神降ろし”の件。
結果から言うと、問題を孕みつつも儀式は成功していたらしい。
どの様な行程を経たとして、降臨した天狗を撃退したのだからこれは当然の結果であった。
ただ、降ろした天狗がよりにもよって崇徳院の大天狗“黄金の鳶”である。
案の定、市外のホテルにて大上蔵人にこれが封じられた如意宝珠を引き渡した後、翌々日に大上家から連絡があり、大上蔵人では制御が効かず相当な被害が出たのだとか。
詳しい状況は聞かせて貰えなかったが、大上蔵人は直接対峙していなかった為、“黄金の鳶”の猛烈な神威にあてられて気を失い、制御どころではなかったようだ。
何故、大上家から宗像家にそのような醜聞を連絡してきたのかというと、以後の対策――つまりは、婚約解消の取り消しを打診する為である。
如意宝珠自体は大上家の者であれば誰もが扱える品であるのだが、大天狗の神威を降ろした事は過去数える程しか無く、それだけに扱うには相当な修練が必要なのは言うまでも無い。
対して、大上蔵人は通常の如意宝珠ですら、十全には扱えるのか不安が残る腕前であるらしく、そこで出て来たのが宗像瑞紀との婚約解消を取り消して貰えれば、という話であった。
実際には違うかも知れないが、大上家にしてみれば宗像瑞紀は“神降ろし”を執行し、大天狗に力を示した当人だ。
当初は一族の中では不出来な者を差し出し、引き替えに“赤目”の一族との繋がりと戦闘能力を得る心づもりだったのだろうが、思いがけず大天狗の如意宝珠を得て欲が出たのだろう。
“神降ろし”を行い認められた本人ならば、一族の者で無くても制御出来る可能性を見出し、婚約解消の取り消しを持ちかけてくるも、宗像瑞紀の返答はやはり変わらなかった。
そして、もう一つ。
“神降ろし”の場で宗太が行った何かしらの秘術について。
つまりは、サツキヒメの真の名を口にする儀式のようなものは、宗太を動く“死人”(しびと)に変える代物であったらしい。
儀式の名は“御贄”(みにえ)。
本来は“難行”を終えた術者のみが扱える、立花家秘伝の奥義とされる。
無論剣術の類では無く端的に説明するならば、サツキヒメを使役し、その真名を口にすることで荒御霊である彼女の祟りを制御し、術者を“一時的”に死人とする蠱術の類である。
常世にその身を置くことで、これまで“傾国”でもって斬った人や怪異、歴代の所有者の技や知識、経験や身体能力をすべて我が物として扱える外法であるのだが、行使には依り代となる“傾国”に相応の生贄を捧げねばならない。
その、生贄の血を刀身に吸わせる行為も“難行”に含まれていたわけであるが、宗太の場合は足りぬ分を己の体と魂で補った結果、一時的ではなく永続的に“死人”となってしまったのだが――
「俺はまだ死んでねぇって。ほれ、この通り喋るし、体温もあるし、水も飲むし、寝て起きて、腹も減るぞ」
「それはサツキヒメ様がギリギリの所で、全て平らげるのを我慢していただいたからです」
「なんでそんな事がわかんだよ」
「“旦那様”にお聞きしましたから。このままですと早くて半年、持って一年程で立花様は完全な死体となるそうですよ?」
「う、ぐ……、それ、ぜってぇ嘘だって。だってほら、サツキヒメに喰われた左手、なんともないし」
そう言って、宗太は左腕を上げ袖を捲った。
介護しやすいようにか、それとも宗像家では当たり前なのか、着ていた浴衣の袖から伸びる左腕には傷一つついてはいない。
しかし瑞紀は宗太の返答を予期していたのか、懐から手鏡を取り出して徐に宗太に向けたのである。
「……」
「と、いうわけです」
果たして、鏡には何も映ってはいなかった。
いや、正確には宗太の左腕だけが映ってはおらず、垂れた袖だけを映し込む鏡を確認して、宗太は絶句した。
固まる宗太を余所に瑞紀は手鏡を脇に置き、ふぅ、と大きなため息をつく。
「どうかご理解を。状況は最悪の一歩手前です。あそこまで詰んだ状況でしたので、立花様の選択は責めることは出来ませんが……」
「……まあ、なんとかなるだろ」
「ええ。一応、これ以上サツキヒメ様に魂を喰われぬよう、人や怪異を“傾国”に喰わせれば進行は防げるとのことです」
「それも、“旦那様”情報?」
「はい」
「“旦那様”、ねぇ。まったく覚えてねぇ」
「……一目で“立花宗太”ではない、とわかるほど凛々しい御方でした」
そのように呟き、宗像瑞紀はほぅ、とため息をもう一つ。
先程の呆れかえったようなものではない。
甘い色を帯びた吐息の類であった。
宗太はそんな彼女の様子にギョッとした。
自身に向けてくる視線のなかに、突如として好意や憧憬のような色を感じ取ったからだ。
勘違い、ではないだろう。
これまでの付き合いの中でも、唯でさえ乏しい彼女の表情の中から、ある程度は感情を読めるようになっていた宗太である。
先程からの仕草を思い起こしつつよくよく監察してみれば、宗像瑞紀はこれまで自分に見せたことの無いような態度を僅かに滲ませている。
例えば、これまで無遠慮に合わせていた視線は、時折逃げるようにして外されて。
例えば、心なしか頬が上気して見えて。
例えば、あれ程やめろと注意した『気持ち悪い』というフレーズを、みずきたんと言われようとも口にしない。
――まさか。
まさか、まさか。
「な、なあ? 宗像?」
「はい」
「も、もしかして……惚れた?」
「……はい?」
「その、“旦那様”、に」
――俺は何を言ってるんだ。
内心で自身の言動にそうツッコミを入れる宗太であったが、混乱から出た言葉は既に口には戻らない。
と、いうか、自分自身何故こうも混乱しているのか、焦燥を感じているのか理解できない宗太である。
一方で、宗像瑞紀は宗太の言葉にすっと居住まいを正し、目を細めて宗太の質問に答えた。
「……惚れる、とは少し違うかも知れませんが、あの方は私の理想そのもの、と評せる御方だったのは確かですね」
「そう、なのか? 見てくれは“これ”だぞ?」
何故か落胆を感じつつ、宗太は自身を指差した。
対する宗像瑞紀は、いつものように淡々とした様子で一度首を横に振る。
「容姿など、些細なものですよ。あの佇まい、あの剣技の冴え、落ち着いた声色……幼い頃憧れた“立花様”その物です。サツキヒメ様がべた惚れしておいでのご様子でしたが、誰が接しても“あの”彼女と釣り合いが取れると納得出来る御仁でしょう」
「そ、そうか。そいや、サツキヒメの姿が見えねぇな?」
「サツキヒメ様は“傾国”の中に篭もっておいでです。“御贄”の影響で荒魂となっていますので、暫くは顕現を控えておいでになるとか」
思わず、逃げるように宗太は話題を変えてしまう。
自身の予想を遥かに越えて、彼女が他の男性を褒める様を見たくはなかったからだ。
嫉妬、なのであろう。
ここの所彼女の将来を案じ、遂には己の命を賭けて救おうとしたのだ。
知らず、嫉妬する程執着していてもおかしくは無い――という風に言い訳を心に並べる辺り、立花宗太は女々しくも往生際が悪いようだ。
「ともあれ、以後“傾国”を抜く場合はお覚悟を。抜かば荒魂となったサツキヒメ様は必ずや、立花様の魂の残った部分を喰らおうとするでしょう」
「……もし、喰われたら?」
「死人らしくなりますね。普通に、喋らない、体温もない、水も飲まない、寝たままで、勿論空腹も感じない、いずれ腐り行く死人です」
「俺、マジで死人になっちまったのか……」
「……申し訳ございません。私の力が至らなかったばかりに」
「それは言うなって」
一転、沈んだ空気が二人の間に漂った。
今回の事を思い起こすかぎり、相当危険な綱渡りであったと二人とも理解している。
否、宗太にしてみれば無事に綱を渡りきれてはいないと断言出来るだろう。
そしてその事実は宗像瑞紀にとって、敗北を意味する。
「しかしですね。“神降ろし”にしても、私が立花様を守り切れない状況になるとしても、全ての想定が甘かった事は事実です」
「次に生かせばいいじゃねぇか。こうして二人とも無事だったんだし、さ?」
「無事な物ですか!」
突如。
宗像瑞紀は声を荒げ、宗太の襟元を掴み上げた。
先程までの落ち着いた雰囲気や、垣間見せた甘い感情の発露が嘘のような豹変ぶりである。
「死んだのですよ?! 立花宗太は、あそこで死んだんです! 私などを守る為に!」
「だから、生きてるって。いま、ここで、お前と喋っているだろ」
「今だけです! 半年後には普通の死体になるんですよ?!」
「人……は無理でも、怪異を斬ればいいんだろ?」
「進行を遅らせるだけです! もう、元には、もどらないんです!」
「んだよ、責めないんじゃなかったのかよ」
「茶化さないでください! 人の気も、しらないでっ!」
掴み上げられた襟元は、苦しいほど力を籠められていたが宗太は苦悶を上げる事無く瑞紀の顔を見ていた。
ボロボロになりながらも山から宗太を担いで降り、騒ぎにならぬよう様々なつてを頼り帰宅してより一週間。
内に色々と溜まっていたものがあったのだろう。
いや、無い筈は無いのだ。
彼女とて、感情のある人間なのだから。
宗太は何時の間にか溜まっていた涙が一筋、白い頬を流れおちるのを見て、なんと言って良いのかわからず言葉を失ってしまう。
後悔はない。
死んでも構わない、と覚悟もあった。
だが、それは宗像瑞紀もそうで、それだけに無念は深い。
何しろ彼女は命を賭して戦い、守りたい物を護れなかったのだ。
その事実を宗太はここで初めて気付いて、愕然とした。
我が身がどうなろうと護るという覚悟はあっても、結果護られた側の感情を受け止める覚悟は無かったらしい。
宗像瑞紀は捨てるように宗太を離し、ぐいと一度だけ涙を拭った。
たったそれだけで何時もの凛とした彼女に戻ったのだが、赤く充血した目だけは残ってしまう。
気まずい沈黙。
どこかに古い掛時計でもあるのか、カチコチという作動音が聞こえて来る。
やがて、先に口を開いたのは宗太だった。
「……謝らないぞ。宗像だって、そうだろ?」
「……何が、ですか」
「俺だって、宗像には死んで欲しくなかった」
「それは――、私は、立花家に仕える宗像ですし、どの道そう長生きは出来ないからいいんです」
「知るかよ、それは宗像の立場と都合だろ。俺には関係ねぇ」
「関係っ、あ、あなたがそれを言うんですか?!」
「巻き込んだのは俺で、婚約解消した原因も俺で、宗像があと数年しか生きられない状況を選ばせたのも俺で、命がけで戦う理由も俺なんだけど、それを強要した覚えは無いぞ」
「そんな言い方! 私は自分の意思であなたを護ろうと――」
「俺だってそうだ。宗像が死ぬのは嫌だから、何でもするしあの時も出来る事は何でもやった。やれって言われたからやったんじゃねぇ。そん時は必死で、相手がどう受け取るかまで考える余裕とか無かったけど、宗像もだろ? お互い様じゃないか」
「そう……ですけども」
「付き合ってくれるのは嬉しいけどさ、やっぱ……俺のせいでお前が死ぬのは嫌だ。絶対に、嫌だ」
強く、意思をのせて言い切った。
宗像瑞紀からは否定の言葉は返っては来ない。
「さっき、人の気も知らないでって言ってたけど、宗像だってそうだろ? 俺だって護ってくれようとしてる奴が無茶して、死にそうな目に遭うのを見たくない」
「……無茶するのはいつも、立花様の方ばかりなんですが」
が、流石に調子には乗らせてくれないらしい。
これまで彼女が気付いていなかったであろう部分を指摘すると、カウンターとばかりに大きな矛盾点を指摘されてしまう。
容赦無いツッコミに、宗太は再び言葉を詰まらせた。
確かに今回の事を思えば宗像瑞紀は相当無茶をしたと言えたのだが、その他の記憶を手繰ると己が無茶をした事実しか思い出せない宗太である。
「う、うるせ。とにかく、俺はお前が死ぬのは嫌なんだよ!」
「嫌嫌って、子供ですか。……私だって、立花様がこのまま本物の死体になるのは御免です。ですから、わかるでしょう?」
「……何がだよ」
「暢気に大学など通っている余裕などないって事です。怪異を斬り時間を稼ぎつつ、“元”に戻る方法を探りませんと」
どうやらここで話は振り出しに戻るらしい。
何時の間にか冷静さを取り戻した宗像瑞紀は、ぴしゃりと言い放った。
「お前、さっき元に戻らない、と言ってたよな?」
「言いましたし、そう“旦那様”に伺いました。ですが、探せばあるかも知れません」
「……宗像の血の事も、“旦那様”に聞いたか?」
「いえ。あまり長く“旦那様”が立花様におりますとそれだけ早く魂が蝕まれるようなので、必要最小限の情報を口にした後お引き取りに」
「なんで聞かないんだよ!」
「私はいいんです。今は立花様のお体の方が大事でしょう」
「良くねぇってさっきも言っただろ!」
「……今日はこの辺にしておきましょう。話が堂々巡りになってきておりますし」
言って、しゅるりと衣擦れの音を残し宗像瑞紀は立ち上がった。
そのまま宗太の事など一顧だにもせず、とすとすと畳の上を歩き廊下へと続く障子を開ける。
宗太は彼女の背を一切の妥協をするつもりもないとばかりに睨むように見送っていたが、飽き足らず彼女を呼び止めてしまう。
そして、つい、口にしてしまったのだ。
「まてよ! 俺はそんなの、認めないからな! いざとなったら――」
「……いざとなったら?」
「お前を押し倒して、孕ませる! 無理矢理でも何でも、絶対に死なせないからな!」
体が、音が、時間が止まるような、堂々たる宗太の強姦宣言だった。
何を意味するのかは明白である。
宗太はぴたりと動きが止まった瑞紀をみて我に返り、激しく後悔をした。
見れば、宗太に背を向けたままの宗像瑞紀はその場に固まり、怒りのあまりか耳を赤く染めている。
正対したならばきっと、その黒瞳を赤く光らせていることだろう。
ハッタリや冗談ではなく、真摯に瑞紀のことを考えての言葉ではあるが、勢いで口にした事は否めない。
せめて、もうちょっとオブラートに包んだ言い方というか、冷静な会話中であったならば。
――これは無い。
宗太はそう、冷静に自己分析を行う。
宗像瑞紀は軽々に暴力を振るうような少女ではないが、今回ばかりは殴られても仕方無い。
いや、殴られるならまだいい。
折角良好な関係を築いてきた(と思いたい)のに、この台詞をきっかけにまた元の状態に戻ってはたまらない。
否、元の状態よりも更に関係が悪化してもおかしくは無い宣言だ。
そんな風に宗太が真っ青になりながら戦々恐々としていると、やっと瑞紀が行動を起こした。
「……いざとなれば、お願いするかも知れません」
細く、消え入りそうな声。
しかしして、その内容は雷鳴に似た衝撃を伴い宗太の体を打ち据えた。
やがて何事も無く宗像瑞紀は廊下に出て、背を向けたまま障子を閉め去って行く。
ぱたぱたと遠ざかる足音はどこかしらぎこちない。
後に残された自失したままの宗太の表情は誰も窺い知れないが、顔色は天狗のように赤かった。
拍手による感想をありがとうございます。
これにて天狗憑き終了。
反省点が山盛り…