天狗憑き 六
立花宗太はその名を口にした瞬間、意識が朦朧として視界が暗くなったのを実感した。
――滝夜叉姫。
先程口にした、名。
どこかで耳にしたことはあったが、具体的にどのような存在であったのか、まったく知らない名。
ほんの少しでも雑学に厚ければ、その名は丑の刻参りを行う女性のモデルとなったモノであったり、平将門公の娘の名である事に驚いたのかも知れない。
「……サツキ、ヒメ?」
呼び慣れた名を呼び、宗太は童女の姿を探す。
思考は既に泥濘のように沈み、視界の半分以上は暗くなったがそれでも彼女の派手な和装は直ぐに見つかった。
サツキヒメ――否、滝夜叉姫は、宗太の折れた左腕を持ち上げてそこに顔を埋めていたのである、が。
「うふ。なんじゃ、宗太? まだ喋れるのか。良い、良い。遠慮せず、妾の忌み名を呼べ」
顔を上げながらそう言って、花のような笑顔を浮かべた後、再び宗太の左腕に顔を埋めた。
ぞぶり、という肉を噛まれる感触の後、くちゃくちゃと咀嚼する音が耳に届く。
痛みは感じない。
恐怖も、嫌悪も、焦燥も、何も感じない。
ただ、ただ、見慣れた童女が己の左腕を愛おしそうに抱きかかえ、噛みつき、肉を咀嚼し、血をすする音と感触だけがハッキリと伝わってきていた。
――立花宗太は、その身を滝夜叉姫に喰われていたのである。
生きたまま。
「宗太? まだ、“そこにおるかや”?」
「……?、ああ、さっさ、と……済ませてくれ。宗像が……」
「これ。妾との契りの最中に、他の女の事を口にするでない。折角、宗太の左腕を喰ろうて、睦めるまで体が大きくなったというに」
言うや、滝夜叉姫は最早申し訳程度にしか肉が残っていない宗太の左腕をもぎ取り、立ち上がる。
ゴリン、と骨が折れる音が生々しい。
それからしなを作りつつ、やおら宗太に跨がりその頬に触れた。
座る宗太に正面から馬乗りになる形である為、童女であっても多少は目線が高くはなるのだが、それにしてもやけ高い。
いや、先の言葉のように実際に体が大きくなっているのだ。
宗太に跨がり、愛おしそうにその頬に手を添える滝夜叉姫は、どう見ても十四、五才程の少女に見える。
跨がる際に露出した足や頬に触れる振袖がずり下がった手、そして肩口まではだけ鎖骨の見える襟と柔らかな胸元は、童女の面影など微塵も残っておらず、妖しい色香が漂っていた。
何より、宗太を覗き込むその顔は、朦朧としていても尚我を忘れるほど美しく――
「うふ。ほんに、宗太は愛いの。味も格別、極上じゃ」
と囁き、愛おしそうに宗太からもいだ左腕に頬ずりをして、肉では無く骨に齧り付く。
ボリ、ゴリという、堅い骨を咀嚼する音。
一方で、やはり痛みおろか何も感じない、宗太。
生きながらに人でないナニカに喰われている、という状況は理解している。
常人ならばそれは痛みに泣き叫び、恐怖に抗えず直視すらできぬ情景であろう。
――もしかしたら自分はもう狂っているのか、あるいは死んでいるのかも知れない。
宗像瑞紀を助ける為に必要な事ならばそれもいいだろう、と宗太はぼんやりと考えた。
眼前では相も変わらず、美しい怪異が己の左腕を味わっている。
その口元は着物と同じく血色に染まり、時折見える白い歯が生々しくもおぞましい。
それから、彼女の食が進むごとに意識と視界が暗く濁って行き、微かに意識を繋ぐのみとなった頃。
耳鳴りのような、金属音が止んだ。
宗像瑞紀の生存を示す、剣戟の音が。
同時に、歓喜に満ちた滝夜叉姫の声を聞きいて、宗太は根拠もなく“間に合った”と悟り笑みをこぼす。
直後、遂に意識を手放したのだが、最後の瞬間に聞いた妖女の台詞は、不思議と心地よく懐かしい響きであった。
旦那様、と呼ばれたことが。
◆
ソレに気付いたのは宗像瑞紀ではなく、“黄金の鳶”の方。
“黄金の鳶”こと崇徳院の大天狗は、猛烈なまでに強い神威の気配を振りまき、容赦無く瑞紀を打擲し続けていた。
その速度、膂力、そしてこれまで宗太と共に遭遇した怪異など比べものにならぬ神威の圧は、圧倒的で如何に“赤目”であろうとも抗う事もままならない。
女であることもお構いなしに繰り出してきた拳が、左目の瞼が上がらなくなる程瑞紀の顔面を腫れ上がらせた。
腹に繰り出された掌底は、地に這いつくばり嘔吐を強要し、吐く物が無くなれば血反吐を吐かせた。
のたうち、悶えていると顎の下を蹴り上げられ、無理矢理に立ち上がらされた。
――立ち上がらねば。
そのまま意識を刈り取られては目的が果たせなくなるが為に、瑞紀は立ち上がり続けた。
一方で考え得る全ての攻撃を加えようとしても、蠅でも払うかのように、蚊にでも刺されたかの如く払われ、逸らされ、直撃しても効果は認められない。
せめてもの救いといえるのか、嬲り殺しにする為にか骨だけは折られずに済んでいた事のみ。
幾度も昏倒させられ、倒され、立ち上がらされ、また倒れては立ち上がる。
ただただ決めた、“護る”という目的の為に。
とはいえ、例え意志の強さが肉体を凌駕していても、限界は確実に存在する。
何度目かの蹴りを腹に受け、血反吐すらまともに出なくなり、宗像瑞紀はとうとう立ち上がれなくなってしまう。
そこで初めて、崇徳院の大天狗は一歩踏み出した。
足下に倒れ伏している、一方的に蹂躙した瑞紀を無視するようにして。
向かう先は宗太がいるお堂。
先に護ろうとする存在を殺すつもりなのか、それとも立ち上がらなくなり興味がなくなったのか、どちらにせよ今はトドメを刺すつもりはないらしい。
“黄金の鳶”は二歩目、三歩目と歩を進め、しかし四歩目でその歩みを止めてしまった。
「いかせ、ません」
地を這うようにして、宗像瑞紀の白く細い手が男の脚を握っていたからだ。
狩衣姿の男は烏帽子の乗った頭を下に向け、息も絶え絶えに宣言した瑞紀に対し、ニチャリ、と笑う。
笑みは不思議と感情のようなものは読み取れない。
だが“黄金の鳶”の注意は再び瑞紀に移ったようで、踵を返し最早起き上がれぬ瑞紀を睥睨すると、片足を高く上げた。
頭でも踏みつぶすつもりなのだろうか、それとも振り払われた腕を踏み折るつもりなのか、いずれにせよ瑞紀は来たるべき衝撃に備えて目を閉じ口を固く結ぶ。
少しでも長く耐え、宗太に時間を与える為に。
回避や反撃する力は既に残ってはいない。
出来る事といえば、直ぐに死なないよう耐える事だけ。
「……え?」
しかし何時まで待っても衝撃は来ず、瑞紀は目を開けて驚きの声を上げた。
つい先程まで自身を睥睨していた“黄金の鳶”が、無防備に背を向けていたからだ。
一瞬再びお堂に興味を向けたのかと瑞紀は焦ったが、どうも様子が違う。
地に倒れて見上げている為かその背しか見えなかったが、“黄金の鳶”は前に進む様子はない。
一体何が起きているのか、全身を覆う痛みと疲労を一時忘れて瑞紀が状況を確認しようとした時である。
一歩、“黄金の鳶”が後ずさった。
同時に、瑞紀の背にブワリと冷や汗が吹き出る。
うなじの産毛が全て逆立ち、鼓動が早鐘のように鳴って、本能が危機を知らせていた。
“黄金の鳶”のものではない、濃密な神威の気配がお堂の方を中心にして渦巻き立ちこめはじめていたからだ。
一体何が起きているのか、傍らの神威と同じ疑問を抱えて瑞紀が血の味がする喉を鳴らした時。
ジャリ、と音を立てて“黄金の鳶”が大きく後方へ跳んだ。
それとほぼ同時に、視界の端に見覚えのあるだれかの足が映り込む。
見覚えのある、スポーツシューズ。
見覚えのある、ズボンの裾。
慌てて見上げると、やはり足は宗太のものであった事が確認出来た。
「た、立花……さま?」
瑞紀は激しい混乱に陥ってしまう。
お堂まではゆうに十メートルはあり、つい先程までは自分と“黄金の鳶”以外この場には居なかった筈である。
勿論宗太にはその距離を一瞬で詰める技術も身体能力も無い事は知っているし、何より、纏う雰囲気と発するその神威は――
「避けたか。存外に使いにくいな、タキ」
「ほほ、所詮“刻留め”がごとき低妖の力じゃ。戯れの奇襲にしかならぬが精々でございましょう、“旦那様”」
「ふむ」
何時の間にそこに居て、“そう”なったのか。
宗太は足下の瑞紀など見向きもせず、傍らに侍るすっかり童女から年頃の少女へと成長したサツキヒメとそんなやり取りをして、ヒュンと手にした刀を振った。
軽やかに振られた切っ先はピタリと空に停止する。
それからこちらも何時拾ったのか、持っていた鞘に“傾国”を納めるのだった。
たったそれだけの動作であったが、見上げていた瑞紀は息を飲んでしまう。
剣については素人であった筈の宗太の動作はそれほどに、堂に入った剣士の所作であったからだ。
呆然とする宗像瑞紀と立花宗太は、そこでやっと互いの視線を交わす。
「宗像、だな? 立てるか」
「た、立花……様、ですよね?」
「む。タキ?」
「ここ数代は“難行”もなく、宗像もその庇護から離れておった故。“立花家の”伝承は途絶えておりますれば、愚鈍なのは仕方なき事でございましょう、旦那様」
誰を指して愚鈍と言ったのかはさておき、タキ、と呼ばれたサツキヒメはそう言いながらしなをつくり、宗太に寄り添うのだった。
その声色は恋する乙女そのものであり、鎖骨が見えるほど肩口をはだけさせた和装と白い美貌は、以前に増して強く匂うような色香を漂わせている。
年こそ中学生かそこらの姿ではあるが、その姿は老若男女を問わず虜にし、劣情を誘う妖婦そのものだ。
宗太のみてくれこそ変わらぬものの、纏う空気とその中身が激変した二人に宗像瑞紀は混乱から立ち直れず、かける言葉すら見つからない。
そんな瑞紀の事など気にも留めぬといった体で、宗太は今一度距離を取った“黄金の鳶”へと視線を向け、何かを確かめるようにゆっくりと今一度抜刀し、手の中の剣の先を軽く向ける。
「……それにしても“黄金の鳶”、か。勿論“本人”ではないとはいえ、“難行”も終ておらぬ者が、立花の奥義を使ってなんとかなる相手であるか?」
「……お気づきかえ、旦那様」
「まぁ、な」
そう相づちを打って、宗太はサツキヒメに寄り添われたまま、鈍いと言いながら数度剣を振るう。
ヒヒュ、と風斬りの音がして、言葉とは裏腹に切っ先は先程と寸分も変わらぬ位置に戻った。
「タキ」
「あい、旦那様」
「それ程に入れ込んだか、今代の立花に」
今代の立花、とは宗太の事を指すのだろう。
他ならぬ宗太自身の言ではあるが、サツキヒメが旦那様と呼び、サツキヒメをタキと呼ぶ今の宗太は他の誰かであろうことは、立ち上がれぬ瑞紀にもすぐに理解が及んではいた。
果たして宗太ではない誰かの問いに、サツキヒメは顔を背け、細く消え入りそうな声で応えた。
「……旦那様に、よく似ておりまする」
「そうか」
途切れる、会話。
“黄金の鳶”は距離を取ったまま動かない。
瑞紀の目にも二人は隙だらけに見え、その上暢気な会話を交わしている風に見える。
その実隙などない、というわけでは無いのだが、にもかかわらず向けられた切っ先を前に“黄金の鳶”は動けずにいるようだ。
「納得した。奥義が半端なのは“そういう事”か」
「……時間が惜しゅうございます、旦那様」
「良い。気にするな、タキ。すぐに終る」
言うや、宗太は一歩前に出る。
軽やかで、一切の躊躇の無い一歩だ。
辺りに渦巻く二つの神威の程を考えれば、あまりに不用意な歩みであるが、宗太が意に介している風ではない。
対峙する“黄金の鳶”もまた、一歩前へ。
二人はそのまま歩を進め、片や剣を、片や徒手を掲げ、やがてすれ違う。
その際、二閃の斬撃を捉えた宗像瑞紀であったが、しかしそれがどちらのものか、どちらの斬撃が相手に届いたのか、判断はつかなかった。
勝負は、“旦那様”の言葉通り一瞬。
体を交差させた後、先に宗太が動き剣を下げ納刀すると同時に、“黄金の鳶”は音も無く消えていく。
「う、そ――」
「お美事、旦那様」
あまりに呆気ない幕切れを飾るように、二つの女の言葉が漏れた。
一つは敬愛に溢れ、一つは驚愕に潰されるかのような声音。
やがてその場に満ちていた、禍々しい神威の気配は薄れてゆく。
否、宗太が発する神威の気配のみが残った、と表すべきか。
しばし、静寂。
“旦那様”は刀を鞘に納めたままその場に立ち尽くし、サツキヒメはうっとりと宗太を眺め、宗像瑞紀は驚愕に固まり続けた為だ。
そんな静寂を破ったのは、穏やかな宗太の声であった。
「宗像」
「――、は、はい」
「今の“俺”の状況がわかるか?」
「いえ……、皆目」
「“これ”は立花の奥義故、タキ……む?」
「今代には幼名を名乗っております、旦那様」
「そうか。宗像。“これ”は立花の奥義故、サツキヒメは内容を口にすることは出来ぬ。なので、俺から説明しておく」
「……いいの、ですか?」
「いいも悪いも、そうせねば俺はこの場で自害せねばならん」
「なっ?! それはどういう?!」
「落ち着け、宗像。それを説明してやる、と申しておる」
「……わかりました」
様々な感情を噛みつぶした、宗像瑞紀の返答であった。
その瞳は依然として赤く輝く。
“赤目”としての力なのか、あれ程痛めつけられていたにもかかわらずいまでは何とか起き上がり、地に座る事ができるまでに回復しているようだ。
殴られ無残にも腫れ上がっていた顔も大分元に戻ってはいたが、読み取れる表情は暗く深刻なものばかり。
そんな瑞紀とは対照的に、“旦那様”はまるで他人事のように淡々と語り始める。
立花家とサツキヒメについて。
奥義と難行について。
そして、立花宗太が選んだ運命を。
拍手による感想をありがとうございます。
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