天狗憑き 三
“憑きもの筋”大上家は、“狗神憑き”の家系である。
犬神、ではなく“狗神”と書く。
犬神とは、地方や文献によって様々な解釈や伝承が残されているが、“憑きもの”としての犬神を指す場合、主に蠱術や呪詛によって発生した怪異を指す事が多いのではないか。
代表的な犬神と言えば、犬蠱が挙げられる。
犬蠱とは蠱術の一つで、他人を呪ったり、願望を(他者を不幸にする事が前提となるが)成就させる怪を生み出す術だ。
その歴史は古代中国にまで遡る事ができ、日本に伝わった後の平安時代には、公的に行う事を禁じられた記録が残されている。
呪術であるのだから人を呪う為の代物なのは当然、基本的には犬を利用した儀式を行うのが特徴である。
その方法は様々であるが、生贄となる犬を飢餓状態にし、生死の差はあれど人への怨念を増幅させて呪いの核とする、というのが共通点だ。
勿論完成した犬蠱は人に仇なす存在となるのだが、有史以前から人と歩んできた犬の性か、人に恨みを遺し死して尚、人の主に仕えるのは皮肉な話なのだろう。
かつて呪術が身近にあった時代、こういった犬蠱をはじめとした蠱術を扱う者達が居て、やがて彼らは犬神の“憑きもの筋”となったのは想像に難くない。
しかしそのような“憑きもの筋”は、過去に宗太と瑞紀が対峙した“狐持ち”のように、“犬神持ち”と表現される。
つまり、“狗神憑き”大上家は“犬神持ち”ではない。
「大上家の“狗神”とは、古神道や山岳信仰に度々出てくる山神を指します。ですので、犬のような怪異をイメージしている程度では、大怪我で済みませんよ?」
宗像瑞紀は息一つ切らせず、足下で蹲る宗太を見下ろしながらそう言い放った。
宗像邸の道場、朝も早い刻限である。
道場には胴着に袖を通した宗太と瑞紀が二人きり、互いに木剣を手に白い息を荒くあげている。
否、宗太だけがはっはっはと息を荒げ膝をついているのに対し、宗像瑞紀は白い胴着を着崩しもせず、凛と立っていた。
「ふっ、はぁ、ぐ――、大怪我で済む、ってかなり高い確率で死ぬって事じゃねぇのか?」
「それはありません。その前に私が終わらせますから。“神降ろし”は生半な覚悟と認識で干渉すると、それだけ危険である、というたとえです」
「いっつ、これ、折れてねぇ? アバラが……」
「大丈夫です。まともに話せる内は問題ありません。ヘシ折られた経験者が言うんですから間違いありません」
「根にもってんな」
「まさか。……しかし、確かに今回の“難行”は危険度が高いですので、立花様だけ辞めておくというのも、一つの手です。私が言うのもなんですが」
「冗、談じゃない。みずきたんがフィアンセ振ってまで、俺の“難行”に付き合ってくれてんだ。やらねぇわけには、いかん、いっつ、痛ぅ……、だろ」
途切れ途切れにそう言い放ちながら起き上がり、瑞紀から離れた場所で木剣を構える宗太。
そんな、昨日までとは違う宗太の態度に、宗像瑞紀は怪訝な表情を浮かべた。
これまでの宗太ならば、打ち据えた場所を痛がり、鍛錬を早く切り上げたがり、今の状況を呪うような言葉を吐いて現状に流されるがままであったはずだ。
それが一夜明けて、いきなりなりを潜めたのである。
そのような性質は一朝一夕には変わらず、長い年月を経て克服してゆくものであると知っているだけに、内心では困惑していた瑞紀であった。
――何か、立花宗太をそこまで変える出来事があったのだろうか。
心当たりと言えば自分の婚約解消の件しか無い瑞紀であるが、それは数日前での話。
昨日、今朝といきなり変わるキッカケになりそうな出来事など、心当たりはない。
あるいは、先日までなにやら迷っていた様子であったので、それに対する答えを見つけたのか。
宗像瑞紀は、決して鈍い性質ではない。
見目麗しい外見であるだけに他者の視線には慣れていて、相手がどの様な感情を抱いているのか、読み取る事にはむしろ敏感な方である。
まして宗太の抱えて居た迷いの内容には、心当たりがある。
間違いなく先日下した、自身の婚約解消に伴う結果についてだ。
勿論、迷いが無くなる、と言うことはどのような答えにたどり着いたのか、想像に難くない。
大方、大上蔵人は無理だとしても数年以内に良い人を探し出し、“難行”など放りだして子を作れ、とでも言い出すのだろう。
或いは、早く“難行”を終わらせれば宗像である自身が付き合う理由も消え去る為、積極的に挑む気になっているのか。
宗太の様子や為人から、自身を孕ませる相手として立候補してくる事はまず無いと言い切れてしまうあたり、その人畜無害ぶりがどこか頼りなく有り難いが、いずれにしても翻意を促されるのは面倒である事には変わりない。
そんな風に考えながら、瑞紀は思考を一旦停止させる。
目の前で構える宗太から、打ち込んでくる気配を感じ取ったからだ。
構えは教えた通り、切っ先を相手の喉に向ける正眼。
所詮付け焼き刃ではあるが、ここ数日の特訓のお陰でかなり様になってきていた。
「……今日は随分と張り切っておいでのようで。気持ち悪い。大方、大上家との婚約を破棄した私の身体目当てに、在りもしない可能性を夢想しましたか? 気持ち悪い」
僅かに残る困惑を払うかのように、瑞紀はいつも通りに軽口を叩く。
しかし、宗太の反応は意外なものであった。
「――、そんな所だ」
「は?」
「サツキヒメにな、お前を助けたいなら俺が宗像を孕ませればいい、とそそのかされたもんで、その気になってやってんだ、よ!」
言い終わると同時に、道場の床を蹴る。
構えた切っ先はそのまま、最短距離を奔らせるようにして瑞紀との距離を詰め、喉元に突き入れる動きだ。
ここ数日間、基本的な筋力トレーニングやストレッチを除いて何度も反復した、唯一教えられていた剣術らしい動きである。
筋力、技、胆力、経験、センス、いずれも圧倒的な差がある瑞紀に対して、少しでも混乱を与え、意表を突く渾身の初動に全てを賭けた宗太の一撃は、ここ数日間繰り返してきていたように、宗像瑞紀には届かない筈だったのだが。
「えっ」
声を挙げたのは宗太。
先日まで意図的に触れてこなかった、瑞紀の婚約解消騒動についての軽口が、思いの外効いていたらしい。
これまでとは違い、初めて繰り出した突きが瑞紀に届きそうになり、焦って声をあげてしまった。
一撃はまごうことなく、宗太の渾身が込められている。
向かう先は乙女の白く細い喉元。
まともに当たれば只では済まない。
宗太は咄嗟に切っ先を逸らそうとしたが、所詮は素人だ。
判断は既に遅く、棒立ちとなっていた瑞紀の喉元に乾坤一擲の攻撃が届いた後だった。
――鈍く堅い感触が木剣を通して伝わってくる。
「えっ?」
今一度、宗太の声。
困惑に彩られたそれは、全霊を込めて突いた攻撃の結果を見届けたからだ。
華奢な美少女剣士が、自身の軽口に気を逸らされ不覚をとり、大怪我を負い崩れ落ちた――からではない。
大の男の全力が込められた突きを喉に受けたままの姿勢で、何事も無く立ちつづけていたのだから、困惑は仕方の無いものであろう。
次の瞬間、ゴキンと重く鈍い衝撃が宗太の顔面を襲い、視界の端々にチカチカと火花のようなものが散った。
混乱する中刹那に見たモノは、比喩では無くうっすらと赤く輝く少女の瞳。
“赤目憑き”としての力を使ったのだ。
そう気が付いた時には既に景色が流れて行き、宗太は宙を舞っていた。
“赤目”の力を顕現させた瑞紀が、珍しく木剣ではなくその拳でもって宗太を殴り飛ばしたのである。
宗太は華奢な少女に殴られたとは思えぬ程吹き飛び、二度床にたたきつけられてゴロゴロと道場の端まで吹き飛んでいた。
「いっ、痛ぅう、ぐ……」
「……焦りました。立花様があまりに気持ち悪い冗談を言う物で、一瞬虚を突かれてしまいました。咄嗟に“赤目”の力を使わなかったら、大怪我をする所でしたよ? 気持ち悪い」
「そ、そのつもりで……おお、いてぇ。そのつもりでやれって、初日に言ったのは、みずきたんだった筈なんだけど?」
「そうでしたっけ? うふふ」
半ば棒読みにそう言って、宗像瑞紀は作り笑いを浮かべた。
それでも苛立つというよりも見とれてしまいそうな笑顔であるのだから、流石の美少女という事であろうか。
瞳の輝きは徐々に失われつつあったが、朝の薄暗い道場内である為か瑞紀の顔を紅く照らしている。
宗太にはそれが、羞恥に顔を火照らせている風にも見えて、情けなくも過剰な攻撃力で反撃された事を責める気にはなれなかった。
「つか、今のは宗像が大怪我をしなくても、下手したら俺が大怪我してたと思うんだけど。“赤目”は使わない約束じゃなかったかと記憶してるんだけど」
「だから拳で殴ったんです。加減し易いですし。流石に木剣だったら頭を砕いてしまいますから」
まるでクマやゴリラに殴られたかのような有様であったのだが、それでも瑞紀は加減したと表現した。
嘘だ、と宗太は反射的に否定しそうになるも、目の前の少女は加減しなければ拳で頭を砕くくらいやりかねないと考え直し、言葉を飲み込んでしまう。
というか、加減するならばもう少し優しく殴れないものか。
美少女からの殴打をご褒美とは思えぬ宗太にしてみれば、当然の主張であろう。
「いや、そもそも殴る意味がわからん」
「これから先の事を考えると、痛みには慣れておいた方がいいですよ」
「そういう問題か?」
「それにまぁ、立花様の構えも様になって来てますし。“神降ろし”では恐らく、“赤目憑き”と同等の存在と対峙することになるでしょうから、そろそろこちらも“赤目”を使って鍛錬をするには頃合いでしょう」
「……あいつ、そんなに強いのか?」
宗太の問いに、瑞紀は首を横に振った。
あいつ、というのは勿論大上蔵人の事である。
宗太と顔を合わせてから既に数日が経過していたが、今は宗像邸に逗留してはいない。
現在は少し離れた都市部のホテルに居を移し、数日後の“神降ろし”の日に再訪する予定であった。
宗像家を出たのは、実家に婚約解消の件について事実確認と抗議を行う為なのか、それとも単に周囲に遊び歩けるような場所が無いからか。
言動の端々からは瑞紀を諦めきれない様子が伺えたので、今頃は婚約解消の解消に向けて動いているのかも知れない。
もしくは、単に数日にも渡る待ち時間を遊び倒したいだけなのか。
どちらにせよ、“神降ろし”とはその主役にとっては気楽なものであるらしい。
逆に、サポートを行う方には多大な負担を覚悟する必要があるのは、確かなようだ。
未だに“神降ろし”の詳細は聞かされていないが、これまでの瑞紀の言葉と行動の端々から、大上蔵人に憑く危険なナニカと対峙するのだろうと宗太はあたりを付けていた。
そして宗像瑞紀は、それを否定してはいない。
「いいえ。“今”の蔵人様は一般の方より少し弱い位でしょう。カラスに手も足も出ない位、と思っていただければ大丈夫です」
「何気に元婚約者相手に随分な評価だな」
「客観的な評価です。私情を混ぜると立花様よりもずっと評価が下がりますが、“神降ろし”を終えればあの方は相当強力な“天狗憑き”となるでしょう」
「天狗? “狗神”じゃなくて?」
宗像瑞紀の私情を混ぜない大上蔵人の評価が、暗に自分よりも上であると言われ軽くショックを受けつつも、宗太は誤魔化すように尋ねた。
頭の中ではカラスぐらいなら勝てる、などと少々的の外れた反論が飛び交うが、今優先すべき話題では無い。
根に持つ程度で収めておいて、話を先に進めた方がずっと建設的である。
そうでないと、自身が痛めつけられる時間が延びてしまう。
「狗神ですよ? “だから”天狗じゃないですか。わかりませんか?」
「ああ、サッパリわからん。休憩がてら、わかりやすく教えてくれないか、みずきたん」
「気持ち悪い。――まあ、いいでしょう。ほら天狗って“天の狗”って書くでしょう? だから狗神と一緒なんだよー。わかったかな? 宗太くん」
「……みずきたんが俺を幼児と同じ知能しか持ってないと考えていることは、よっくわかった」
思いがけず、宗太くんなどと呼ばれ内心ではどぎまぎしつつも、宗太は憎まれ口に憎まれ口で返した。
今朝方サツキヒメに宗像瑞紀を孕ませろなどと言われてから、どうも意識してしまう部分があるらしい。
多少の毒を吐かれようとも、いつものように強く否定しきれない自分が居る。
それは宗太にとって好ましいものなのか、そうでないのか、恐ろしく小さな感情であるが故にハッキリとはしなかった。
そんな宗太を余所に、宗像瑞紀は木剣を持ったままタオルを二つ持って来て、道場の端でボロボロになりながら腰を降ろす宗太に一つ投げ渡すと、宗太の隣り、少し離れた場所に腰を下ろす。
渡されたタオルは朝の空気を吸ってかヒンヤリとして心地よく、ふわりと甘い香りがした。
香りは宗像瑞紀と同じもので、恐らくは彼女が普段着るものと同じ洗剤で洗ってあるのだろう。
隣では瑞紀が、手にしたタオルで顔や首元を拭いている。
その仕草や時折見えるうなじに何とも言えぬ艶めかしさを感じ、宗太は思わず視線を逸らしてしまった。
何となくであるが、タオルの香りが宗像瑞紀そのものの香りと錯覚して、邪な想像を膨らませそうになったからだ。
幸いそんな宗太の視線に瑞紀は気が付かず、頃合いと見てか先程の話の続きを始めた。
宗太は煩悩を追い散らす為、そちらに集中する事にした。
「まあ、端的に申しますと大上家に憑いているものは、確かに半人半狼の神威が殆どではありますが、こちらが本来の“天狗”を指すんです」
「へぇ。前にやりあった、“狐持ち”みたいなもんか。半人半狼ってことはあいつ、狼人間になるタイプとか?」
「いいえ、“狐持ち”とは全然違います。管狐や鎌鼬、犬神とは違い古い山岳信仰での“狗神”は狼などを指しますが、大上家のそれは少し特殊なのです」
「あ、だから“大上”ってわけね」
「……それは憑きもの筋の犬神の方ですね」
「一緒だろ」
「オオカミやイヌガミと関連づけて名字を名乗っているように見えますが、大上家は“大神”の方ですよ」
「大神? 犬や狼って、日本の信仰の中じゃそんな特別なんだっけ?」
「特別、といいますか、形を何度も変えつつ山岳信仰の中では今も中心的な存在ですよ。早い話が“狗神”は即ち天の狗――“天狗”を指しますから」
「天狗、ねえ。どうも、あの赤ら顔に鼻の高い妖怪が思い浮かぶな」
「そちらは中世からの、比較的新しいイメージですね。『人にて人ならず、鳥にて鳥ならず、犬にて犬ならず、足手は人、かしらは犬、左右に羽根はえ、飛び歩くもの』と平家物語では表現されています。天狗は山の神ですが、基本的に山岳信仰における神は様々な姿を持ちますから」
「その説明を聞く限り、あいつが狼人間って認識であってるとおもうんだけど」
そう言った宗太に、宗像瑞紀ははぁ、とこれ見よがしに深くため息をついた。
すっかり赤みが消え去った瞳には、露骨な落胆と侮蔑の光りが見え隠れする。
「私の説明の仕方が悪かったようですね。そもそも、“天狗”とは何か、そこから説明しなくてはいけませんでした」
「お、おう……」
宗太が想像する以上に、瑞紀が抱く“天狗”に対しての認識と宗太のそれにはズレがあるらしい。
その認識の是正には必要を認めたようで、彼女は言葉の端々には棘がふくまれているものの、特に嫌みを口にするでも無く“天狗”について説明を始めたのだった。
――天狗、という言葉は元々“流星”を意味した。
古代中国では凶兆を告げる流れ星として、日本書紀においては轟音と共に空をかける星と指して天狗と表記されている。
その凶星を目撃した者がどのように感じたのか、天狗は平安時代頃から密教を初めとした山岳信仰と結びつき、山の神となった。
火薬も無い時代、落雷に匹敵する轟音と夜空を照らす火球を伴って山々の間を落ちて行くその姿は、確かに荒ぶる神に見えただろう。
山神はあらゆるものに宿り、とりわけ神使となるのはクマやオオカミ、オオワシなどの強い捕食者や、白い個体の生物など目立つ存在が殆どだ。
役小角などにより修験道が隆盛し、鼻天狗と呼ばれる現在の“天狗”の姿が確立されるまでの間、天狗はそれら山神の神使に当てはめられ様々な姿をもっていたのだった。
現代でも狼を神使とする神社がいくつかあり、特に秩父地方では神としても祀られている。
ただし、それらの様々な天狗観には共通点もまた、存在する。
“強さ”である。
荒々しい山神の化身とされるだけあってそれは当然ではあるのだろうが、天狗は何時の時代も力の象徴として伝えられてきた。
源義経に剣を教えたとされる事もある、鞍馬山の僧正坊。
三大怨霊が一柱、崇徳上皇の化身とされる黄金の鳶。
人々を苦しめた鬼が調服され天狗となった、大峰山前鬼坊。
他にも鎌倉時代より続く天流の開祖・斎藤伝鬼坊など、優れた力を持つ者が“天狗”であるとして畏怖された例は多々ある。
「大上家はとあるお山を護る一族なのですが、修験者と同じく山岳信仰を抱き、“天狗”の血を引くとされております。中でも特に血が濃く出た者は儀式を執り行い、“天狗”をその身に降ろすのです」
「それが“神降ろし”か」
「はい。流石に“天狗”――山神その物を降ろす事などはできないとされておりますが、“天狗”の神通力の一部を得られるのだとか」
「神通力、ねぇ。どんなのかわかる?」
「いえ。先にも申しましたが、山神は“天狗”と同一視できるように、様々な形を持ちます。大上家は半人半狼の神威が宿ることが多いと聞かされていますが、儀式の数だけ神通力の種類があっても不思議ではありません。確かなのは、強力な神威が降りて来ると予測出来ることだけですね」
「……で、俺はその訳のわからん、強力なもんに突っ込んで行かなきゃならん、ってわけか」
「主に荒事は私が担当します。立花様におかれましては、万一の際に身を守れるよう“慣れて”いただければ、と」
「辞める、って選択肢は?」
「“あの”大上蔵人様と契れと?」
問いに、瑞紀はすっと唯でさえ乏しい表情を、その美しい相貌から消す。
大上家とはどの様な約束をしていたのかは不明であるが、“神降ろし”を辞めても大上蔵人との婚約は成立してしまうらしい。
分かり辛いが、それは一人の年頃の娘としての瑞紀にとって、非常に不快な事態であるようだ。
つい、瞳を赤く輝かせてしまう程に。
つい、元婚約者を“あの”と表現してしまうように、ぽろりと本音を漏らすほどに。
彼の子を産むくらいなら死んだ方がマシ、という理由だけで今の選択をしたのでは無いだろうが、それが皆無であったとも言えないのは確かなようだ。
そんな瑞紀に、宗太は焦りながらも心のどこかで安堵を覚えた。
「い、いや! 宗像、落ち着け! 目を光らせるなって! 真面目な話、な? な?!」
「……私にはありませんね。大上家との約束もあります。立花様だけならば、今回は辞めておくという選択肢はありますが」
「ん、俺も辞めないよ」
いつもとは違い、淀みなく出た宗太の返答に珍しく瑞紀は困ったようなそぶりを見せた。
表情にこそ出ないが、次にかけるべき言葉を探して僅かに視線が彷徨っているのがわかる。
宗太の“難行”は、彼女にとっても生きる目的の一つだ。
どのような価値観でもって、生を繋ぐ婚約よりも死が待つ“難行”を選んだのかは、未だ宗太には理解が及ばない。
しかし、それでも彼女が自発的に“難行”を選び、それでいて宗太の身の安全を考えている事は理解しているし、伝わってもくる。
勿論、極力危ない目に合いたくないという、宗太の考え方も彼女には正確に伝わっているのだろう。
だからこそ危険度の高い“難行”を前に、挑むと即答した宗太の変化に瑞紀は困惑したのかも知れない。
「……天狗は相当強いですよ」
「だろうな。何日も前から鍛錬と称して、こうもボコられてりゃわかるし」
「無いとは思いますが、万一、八大天狗と呼ばれる存在を降ろしてしまった場合、手に負えない可能性もあります。なにせ、西欧で言う所の大魔王のような位置付けですから」
「手に負えない可能性、ね。手も足も出ないわけじゃないんだ」
「……私も、同じように血の中に濃い力を宿す“赤目”ですから。天狗そのものが降りて来たらどうしようも無いですが、あくまで力の片鱗・神通力という名の神威の発現ですし」
「なら、多分大丈夫」
「根拠を伺っても?」
隣からかけられた質問に、宗太はこの日はじめてニヤリと笑い返した。
頬が僅かに熱いのは、心なしか返答を待つ宗像瑞紀が近くに感じられているからでも、慣れぬ少し気障ったらしい返答である為では無い。
先程殴られた痕が腫れてきているからだ。
それが思いの外心地よいのは、眼前の少女がそうするように、自身も彼女の為に剣を振るう動機が生まれたからか。
宗像瑞紀は、このままでは数年以内に死ぬ。
それを救うには、誰かの子を宿す他は無い。
感情を抜きにすれば、サツキヒメの言う通り宗太自身こそが適役であるのだろうが、瑞紀はさておき肝心の宗太には“そうなる”覚悟は無かった。
だからこそ、宗太は考えた。
少しでも早く“難行”を終わらせる事が出来れば、宗像瑞紀は考えを変えるかも知れない。
今すぐは無理であっても、側に居て少しずつ心変わりを促していけば、生きる為の選択を採るかもしれない。
その時に瑞紀の相手が誰になるかは不明だが、これだけの器量があれば不自由はしない筈だ。
――最悪、自分が居る。
僅かに残っていた迷いが晴れ、そんな逃げ道のような情けない答えが、宗太の背を押していた。
それでも、この瞬間は立花宗太が初めて己から“難行”に挑むと決めた瞬間であった。
立花宗太の中に、“難行”へ挑む確かな動機が生まれたのである。
質問への返答は、そんなものが込められていた。
それこそが立花宗太の変化の正体であるのだが、互いに気付けないのは時が足りないからなのだろう。
「俺には、“赤目”の宗像とサツキヒメが憑いているからな」
果たして、その言葉を聞いた宗像瑞紀が浮かべてしまった表情は、年相応の少女のそれであったようだ。