序
立花宗太はある悩み事を抱えていた。
今年で十九になる彼は、地元の大学に進学し一見順風満帆な人生を送っているかに見えるのだが、悩みは深く彼を蝕む。
否、蝕む、とは少し表現が大げさであるのかもしれない。
深刻であるのは確かだが、同時に自身認めたくはないものの、すっかり慣れてしまっていたとも言えたのだから。
つまり、悩みとは一種病気と言えた。
つまり、医者によって診断されるであろう病名は、一昔前ならば精神分裂病。
つまり、今風に言えば解体型の総合失調症と表現すべき所なのかも知れない。
かといって、立花宗太は本当に精神を病んでいるわけではない。
単に科学的に説明出来ぬ事象を、彼だけが観測できるだけの話であるのだ。
否、“それ”を観測できるのは彼だけでない。
立花宗太の周囲にも幾人か“それ”を認識出来る者がいるにはいた。
ただ、その者達は立花宗太にとって一般人であるとは言い難く、故に彼の悩みは深く根深い物となっていたのだろう。
――だからこそ、慣れてしまったのだ。
慣れて、考えないようになったのだ。
人の力の及ばぬ存在に。
その、恐怖と混沌をもたらす存在に。
それらはそこら中に在って何処にも居らず、境界を隔てて本来ならば一生感知できぬ筈の存在。
神、悪魔、精霊、鬼、幻獣、妖魔などの呼び名が在って、どれにも当てはまりどれにも当てはまらない存在。
『おっかえりぃ、宗太。丁度良いところに帰ってきたのぅ』
午前中の講義も終わり一人暮らしをしているはずの、築二十年程のアパートの二階。
帰宅した立花宗太を、部屋中をビールの空き缶と清酒の空き瓶で埋め尽くし、コタツに下半身を埋めた、目も眩む和装の美女が上機嫌に出迎えた。
年の頃は二十代前半位か、宗太よりも年上に見える彼女は上気した頬を歪め笑顔をつくり、うなじが見えるほど着崩れた紅い和装は何とも艶めかしい。
一方、立花宗太は表情を少し曇らせ無言の内に玄関ドアを絞めて、和室六畳ほどの1Kの自室に入り、靴を脱ぐや美女の言葉など無視してコートを脱ぎ、荷物を狭い部屋の隅に置いた。
『宗太、宗太。妾はツマミが欲しいのぅ』
「……その前に、やるべき事があるだろ?」
『ほほ、宗太、しっぽりと睦むには、まだ日は高いぞえ?』
「……酒代にいくら使った?」
『さあ? 妾は金勘定は苦手じゃ。最近の金子は小判じゃのぅて紙切れじゃて、わかりにくくていかんのぅ』
「い・く・ら、使った?」
『んー? んふ、怒るな、宗太。ちょいと、そこな茶封筒の中身をそうさな、半分ほどか』
女は剣呑な空気でコタツに座る宗太へ、寝ながら頬杖をついて気怠く笑いかけ、優雅に散らかった部屋の隅を指差した。
宗太はドスドスと足取りも荒く、女が指差した方へ歩み寄り程なく開封された茶封筒をつまみ上げる。
“今月の生活費・十二万円”と書かれた封筒はすでに開かれて、わびしくもつまむ宗太の指に厚みは感じられない。
今時銀行振り込みでなく茶封筒による生活費の支給は、それにかこつけて母親が宗太の部屋に様子を見に訪れる方便を作り出す為である。
来訪した母は何時の間に作ったのか合い鍵を使用して勝手に上がりこみ、掃除洗濯洗い物を敢行するのだが、当然宗太と一悶着が起きる。
その度にこの茶封筒の存在が、プライバシーを侵害された宗太の怒りを鎮める効果を発揮するのだが、つい先日もそのようなやり取りがあったばかりだ。
程なく中に入っている筈の一万円札が五枚で在る事を確認した宗太は、肩をわなつかせ、意を決したように唯一室内にある、押し入れの前へと移動したのだった。
果たして押し入れの引き違い戸の一方を乱暴に開いた宗太は、中から細長い、1.5メートル程の古めかしい桐箱を取り出したのである。
『うふ、宗太。“妾”を取り出してどうするのじゃ? とっくにサムライの時代は終わっておろうに』
「きまってんだろ、“コイツ”を売り飛ばすんだよ。お前が呑んだ酒代位にはなるだろうしな」
『こりゃ、罰当たりな事をするでない。“妾”は立花家は何十代も前からの守護刀じゃぞ?』
「そんな話、聞いた事もネェよ! 何が守護刀だ、妖刀の間違いじゃないか」
『んー、まあ、そう言われては見も蓋も無いがの』
「くっそ、大学受かって一人暮らし始めたってのに……何が『家宝の守護刀だ。縁起物だぞ?。持っているだけで御利益があるからもっていきなさい』だ、クソ親父め」
『立花家の跡取りは代々独り立ちをした時、三年間当主より“妾”を貸し与えられる慣わしじゃったからの。宗二を責めるでない』
「知るか! 大体、お前が“出て来て”から半年、ロクな事がありゃしない!」
『そりゃ、興味本位に“妾”を抜くからじゃ。厳重に封印を施されておったというに……自業自得という奴じゃな』
やや感情的に声を荒げる宗太に対し、女は呆れたように片眉を上げ口を尖らせながらスンと鼻を鳴らした。
どうやら女の台詞は宗太に思い当たる節を突いたようで、うぐ、と一瞬言葉を詰まらせる宗太である。
間を置き、やがて宗太ははぁ、とため息を深くついて肩を落としながら、なんとか気持ちを落ち着かせた。
「……俺、なに“幻覚”相手にマジになってんだろ……」
『む? 宗太?』
「ネットで調べて、“コレ”が総合失調症とかいう精神病だって理解しているはずなのに」
『おおい、宗太? まーた現実逃避かえ?』
「やっぱ医者に行くべきかな……。『伝来の刀抜いたら女の霊が出て来て、部屋に居ついている妄想をリアルに見るんです』って誰も信じやしないし」
『すまんなぁ、宗太。一昔前ならば妾は誰の目にも映るほど力が有り余って居ったが、流石に起きたばかりではな。精々、狐狸の如くどこぞの誰かに化けて、酒を買う位しかできぬ故。じゃが、その辺をうろついておる、男をそうさな……百でも喰らえば、まあソコソコには元にもどろうぞ』
「……本気か?」
『うふ。そうやって妾を“幻覚”と断定し無視を徹底できぬ所は、好きじゃぞ宗太』
「ぐ……この」
『まー、冗談じゃ。封印されておったとて、眠っておった訳でも無し。時代の姿くらいはわかる。心配すな』
「……はぁ。マジでお前、なんなんだよ」
もう一度、深いため息。
それと、この半年間幾度も投げかけた質問を女に投げかける宗太である。
宗太の問いに対しての女の反応もまた、この半年間同じものであった。
『“妾”は縁あってその刀に憑いておる荒御霊。名はサツキヒメ、と名乗ろうかの。古き約定と郷愁に囚われ、ここにおる』
幾度も聞いた筈の女の言葉は、不思議とよく響いて宗太の心に残る。
女はこの台詞を口にする時、いつも見せるおどけた雰囲気を瞬時に変えて、悲しそうな、それでいて懐かしむような声色と慈しむような眼差しになるのである。
――そのカタチは凄艶。
匂い立つような色香を感じながらも、侵しがたい気品と凛とした雰囲気は、若い宗太を知らず圧倒し生唾を飲み込ませる程の存在感を放つ。
だからか、とても己が作り出した幻影とは思えぬ佇まいは宗太を惑わせ、心の病と断じる事も、超常現象であると信じる事も否定させたのだった。
――なんなんだよ、ホントに。
宗太は心中でそうゴチて、苦虫を噛みつぶし細長い桐箱を抱えたままその場に座り込む。
それから改めてビールの空き缶と清酒の空き瓶が散乱する室内を見渡し、三度目、はぁああと深く深くため息を吐いた。
サツキヒメと名乗る、物の怪のような女の行いに対してでは無い。
貴重な生活費が半額以上消えた事に対してでも無い。
抗いがたく逃げ切れぬ、現実に対峙してのため息だ。
幻覚が酒を呑んだり、金を使い込んだりはしない。
あるいは自身が“それ”を行い、幻覚がやったと思い込んでいるかも知れないが、生憎それを否定出来る判断材料は既に山程あった。
切っ掛けは半年ほど前、興味本位で引き抜いた刀から。
その日より立花宗太の前に現れた女はこの部屋に居座り、宗太の生活費を使い込み、日がな酒を呑んで過ごす姿は、ある日突然煩った心の病が見せる幻覚と信じるには些か無理があった。
そも、立花宗太にはそのような疾患を患うようなストレッサー(原因)など存在しない。
かといって現代人としての常識もまた、眼前に現れた人ならざる怪異とは相容れず、結果どれも受け入れず、誰にも相談せずに時間だけが過ぎたのである。
そしてこの日。
立花宗太はとうとう“結論”を受け入れ、女の名を呼んだ。
否。
“口にしてしまった”。
「――わかったよ。お前は“幻覚”なんかじゃない。ついでに、人間でもないんだよな? サツキヒメ」
『うふ。やっと妾の名を呼んだな、宗太』
「で? なんなんだ? なんの目的でお前は俺に取り憑いているんだ?」
『さあ? ただ言えるのは……』
女はそこで言葉を句切り、上体を起こしてコタツの上、缶ビールに手を伸ばしてぐいと煽る。
中身は僅かにしか残っていなかったのか、数度白い喉をコクコクと動かしてすぐに紅い唇から銀色の缶は離れた。
その様は宗太にとって、いつもなら苛立たしい姿であるのだが、この時ばかりはどこか違って映る。
それは予感であったのかも知れないし、彼女の存在を受け入れたが故、その妖艶な喉元に初めて肉欲を覚えたからかもしれない。
『……言えるのは、宗太が“妾”の、守護刀の名を口にした事で本格的に“難行”が始まる、という事かの』
「……は? なんぎょう?」
『災難の“難”に行う、じゃ』
「え? 難って……いや、意味はわかるけど、なんだそれ?」
『む? 親父殿あたりから聞いておらぬかえ? 立花家の男子は代々独り立ちをした際、三年間当主より“妾”を貸し与えられる慣わしでの』
「それはお前から何度も聞いてる」
『ほほ、そうか』
「でも“難行”とやらは初耳だけど?」
『む、そうだったのか? まあ、妾としても親父殿からその辺りは聞いて居ると思うておったが……ま、いいか。特別に教えて進ぜようぞ』
「勘弁しろよ……どうせロクなもんじゃねぇんだろ」
『よいかや? 立花家の男子は代々独り立ちをした時、三年間当主より“妾”を貸し与えられる。それは、“妾”が呼び寄せる“難”を祓い、最後の修行とするためぞ』
「は? あ、え? な、なんだそれ?」
――わけがわからない。
宗太の顔色を言葉にするならばそのような言葉となるであろう。
一方サツキヒメも宗太の反応が予想外であったのか、意外そうな表情を浮かべ、次いで何やら困ったように宗太から視線を外し眉根を寄せたのである。
その、初めて見せるサツキヒメの困惑は宗太に更なる悪い予感を抱かせた。
『もしかして……宗太。“難行”の事もしらんと、“妾”を抜いたのか? 純粋な好奇心だけで?』
「わ、わるいか?」
『いや、悪くは……あるか。しかし、驚いたのぅ。立花家の言い伝えを知りつつも興味本位で、という事ならまだ話はわかるが……』
どうやら悪い予感は当たって居るらしい。
サツキヒメは宗太にも聞こえるような声で独り言を掃き出し、すぐにこちらに向き直ってあの、悲しそうな、それでいて懐かしむような声色と慈しむような眼差しで宣言するのであった。
『宗太。そなたは、死ぬやもしれぬぞ』