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『眼帯』『コンビニ』『まな板』

作者: 桧月彩花

   『眼帯』『コンビニ』『まな板』


「ただいま」

 そう声を掛けて家に入っても、返す人は誰もいない。

 私は学生鞄を自室に放り、冬服のブレザーを脱ぎ捨て、私服へと着替えた。

 キッチンテーブルの上に、粗雑に置かれていた千円札一枚を見つけ、指で弄ぶ。

 お母さんは仕事の帰りが遅いので、いつもこうやってお金だけくれる。たまに早く帰ってきていても、寝室にこもって、寝ているか、テレビばかり見ていることが多い。

 あの、お父さんが借金を残して逃げた日から、私とも全く話さなくなった。

 たとえ朝夕顔を合わそうとも、風呂トイレがかち合おうとも避けられ、私はまるで植物であるかの様に、触れてもくれないし、目を合わせてもくれない。……目か。

 私の右目は、白い眼帯で覆われている。

 見えない訳ではないのだけれど、青い痣になっていて、鏡なりで傍から見ると、とても見苦しいので眼帯を付けることにしたのだ。

 まだお母さんが、家で料理を作ってくれていた時に、私が「今日、あんまり美味しくなかった……」なんて口を滑らせたばかりに、酷く怒らせてしまい、丁度シンクで洗っていたまな板を投げ付けられ、弾いて当たり所が悪く今の状態になった。

 学校のみんなは、こんな目を見ても嫌がらなかったけれど、やっぱり電車の中等では、人目が気になってしまう。先々週より、大分青味は引いてきている。

 怨んではいない。私にも非がある訳だし、それに、何より悲しさが先立った。

 借金を抱えつつ、私を養い、高額な私立中学にまで通い続けさせてもらっている中で、日に日に情緒不安定になっていくお母さんは、辛く、見るに耐えなかった。

 いつかまた、並んで食卓を囲める、普通の生活が戻るといいな……。

 さて、日が落ちないうちに、外での用事は済ませておきたい。溜まっている洗濯もしなければいけない。私は縒れた千円札を、ポケットに捻じ込んだ。

 夕飯は何にしよう、なんて考えるまでもなく、コンビニ弁当しかない。

 

 出たはいいけれど、携帯を忘れてとんぼ返り。玄関のドアを開けてすぐ、お母さんの草臥れたヒールがあることに気が付いた。珍しく夕方に帰っている。

 ちょっと話し掛けてみようかな。きっと無視されるだろうけど、何もしないよりは。

 ダイニングチェアーに掛け、うな垂れているお母さんの背をつんつん突き、

「お母さんおかえり、今日は帰るの早かったんだね!」

 私は努めて明るく声を掛けた。でも、

「……早くて悪かったわね。私がいて煩わしい?」

 隈の出来た、虚ろな双眸をぎょろりと向け、

「楽しそうな声しちゃって。あんたは何の仕事もしなくていいものねぇ?」

 金食い虫と吐き捨て、さっさと自室へ行ってしまった。

「…………」

 残された私は、お母さんのあまりの態度に心崩れ、爪が食い込むほど強く両拳を握り締め、唇を噛み、ついにシンク下から包丁を取り出して手に握った。

 握ったのだけれど、瞬く間に我に返り、お母さんが台所に立っていた姿が彷彿と蘇る。

 笑っていた、優しかった、温かい手料理、美味しかった、嬉しそうな顔、一緒にした後片付け、割ったお皿、困った顔、切った指、巻いてあげた絆創膏、『ありがとう』。

 想い出に溺れてからは、包丁なんて持っていられなかった。傍らの真鍮台に置き、私は膝を折って嗚咽を漏らした。私には出来ない。

 やっぱり、元のお母さんに戻ってほしい。どうしたら……。涙が眼帯に染み込み、沁みる右瞼に触れながら、私が出来ることを考えた。


 小一時間経ち、近所のスーパーまでの買出しから戻る。

 結局、お母さんに倣って、手料理をして返すことにした。コンビニ弁当ではないので、失敗したら、今日はご飯抜きになってしまう。

 私はフライパンやまな板等の調理器具を、戸棚から引っ張り出して、被っていた埃を流し、調味料を準備し、さっきの包丁を改めて握り締めた。

 野菜を切りボールに入れ、鶏肉を断ち下味を付ける。学校の家庭科実習で数回やっただけだけれど、曲がりなりにも形にはなるものだ。つと換気扇を回す。

 油を敷き、野菜から炒める。フライパンが汚れるから、肉は最後なんだと言っていた。

 火が通ったら、一種一種別に避けておく。肉を炒め終わったら、そのまま全部を混ぜ合わせて、下味があるので軽く薄く塩胡椒を振り、醤油で香ばしい匂いを付ければ完成。

 味見をしてみれば、以前のお母さんのと似た味で、また涙が溢れそうになる。

 一人きりの食事。お母さんの分は、ラップをして、テーブルの上に置いておいた。

 食べてくれるかな、食べてくれるといいな、そういう想いを何度も反芻しながら過ごし、日付を超えて、私はようやく眠りに就くことが出来た。


 翌朝、起きて見てみると、お母さんはもう仕事に出ていた。

 気になる昨日の夕飯を確かめに、件のテーブルへと赴くと、お皿は無かった。目を移いしていくと、シンク内に、一応お箸と一緒にあるにはあった。

 捨てられたのではないかと不安になり、慌てて家中のゴミ箱を漁って回るけれど、特には見当たらず、私は一度キッチンへと戻った。

 手紙も何も無い。でも、絶対食べてくれたのだと、私は内心安堵の息を吐く。

 安心したら、いつもの所にお金が置いてあるのが見えた。千円札が二枚。やつれたお母さんからの、不器用で拙いメッセージ。

 私は嬉しさではち切れそうになった。よぉし、今日もご飯を作って語り掛けてみよう。

 不健康で寂しいコンビニ通いは、もう必要ない。二度としたくない。

 あのまな板とは、これからも長い付き合いになりそう。


                                   了

 ご精読ありがとうございました。

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