赤い髪のアリス
―おいで
闇の中から誰かが私を誘う。
不思議な声。聞き覚えのないのに聞き覚えのあるような気がする。
こんな声、全然知らないはずなのに、知っている。
不可思議な感覚。
だれ?
問い掛けに声は答えずただ私を誘うだけ。
―こちらにおいで
私を呼ぶのは、だれ?
胸がざわめく。身体がどこかに引っ張られるような感覚にひやりとしたものを感じた。
―もうすぐ、君に逢える
声が嬉しげにそう囁く。その言葉だけは耳元で囁かれたかのように近くで聞こえて私は軽く目を瞬いた。
ふわりと風が私の髪を撫でた感触がした。
声が笑う。
―アリス。君に、逢える。
声が水の音に変わる。
その音に私の身体が竦む。
いやな思い出が蘇ってくる。
水は嫌いだ。
大切なものを遠くへ連れて行ったから・・・・水は怖くて嫌い。
不意に空気が水になる。突然の出来事に私はなす術がなく水に沈んでいく。
息が出来ない。水が気道を塞ぐ苦しさ、どれだけ足掻いても手足は重く身体はどんどん下へ下へと落ちていく。
視界が揺らぐ。上の方で光が揺らいでいた。
がぼっと最後の空気が私の口から気泡となって登っていく。
ユラユラと揺らぐ視界。
苦しい。
苦しい。
苦しい。
(・・・・・・ス・・・・・・・・)
意識を失う寸前、視界の端に金色の髪が揺らぐのが見えた気がした。
「~~~~~~~っ!」
がはっと私は起き上がった。
「はぁはぁはぁ!」
心臓がバクバクいっている。息が全力疾走したあとのようにあがっていてしばらく私は何もできなかった。
「なんで・・・・・あの夢が・・・」
今更だ。何年も前の出来事なのにいまだ鮮明に夢に見る。
忘れていない。
あの苦しさ。怖さ。絶望を。
忘れられない。
水が連れて行ってしまった大切なものを。
きっと私はまだ、許されてない。
彼女に許されない。
「・・・・・馬鹿だな・・・・・・私」
死者は何も語らないから死者なのだ。
死者は何者を許さないし責めない。償いを求めない。それらを求めるのはいつだって生者だ。
寝間着が汗でぐっしょりと濡れて張り付いてくる。・・・気持ち悪い。
着替えないといけないと思いながらも私はしばらく身動きができなかった。
「アリス?どうしたの?」
私を起こしにきた姉が私を一目見るなり血相を変えて駆け寄ってくる。
「アリス!」
姉の手が私の頬に添えられ無理矢理顔を向かされる。青ざめた姉の顔。姉の手も身体も震えており私より姉の方が倒れてしまいそうだ。
「ああ・・・なんて顔色なの!大丈夫?気分が悪いの?」
矢継ぎ早な問い掛けに私ははっきりと大丈夫だと伝える。
ここで曖昧にしたら姉のことだ。私をベットから出しはしないだろう。
「大丈夫よ。怖い夢を見たの。それでベットから出るのがちょっと怖かったの。心配させてごめんなさい」
可愛らしく子供のような理由をでっち上げる。夢見が悪かったのはホントだからまるっきり嘘だというわけではないので私の良心はあまり痛まなかった。
「ほんと・・・?アリス?」
「本当よ?だから私はほら、元気でしょ?」
恐る恐る触れてくる姉の手を頬に導く。姉の手は温かい。恐らく姉も私の頬の温かさを感じているはずだ。
姉がホッとしたように微笑んだ。
「本当に、大丈夫なのね・・・・」
身支度を整えた私は安心した姉とともに朝ごはんを食べる。私が学校であったことを話すのを姉が嬉しそうに頷いている。
いつもの朝。変わらない光景。
それなのにその日はどこか違っていた。
変わらないはずの日々のはずなのに、どこか違う風に感じられた。
―おいで
「・・・・・・・・っ」
「アリス?」
突然後ろを振り返った私に姉さんが不思議そうな声を出した。
駄目だ。姉さんを不安にさせちゃいけない。
私は無理矢理笑みを作って姉さんに語りかける。
「ううん。なんでもないわ」
「そう・・・。そうだアリス新しいリボンを買ったのよ。貴方の金の髪によくあう青い色なのよ。さぁ、こちらにおいでなさい。つけてあげるわ」
うらやかな日差しが差し込む庭で姉さんが嬉しそうに私の髪を梳いていく。私は姉さんにされるがまま大人しくしていた。
姉さんが嬉しそうに私の髪を梳いていく。丁寧に大切なものを扱うかのように梳かれていくのを私は感じた。
白い荒れたことなどない手が器用にリボンを結んでいく。
「はい。出来たわ。うん。よく似合っているわよ。アリス」
鏡、鏡と姉さんが小さな手鏡を手渡してくれる。小さなその手鏡を裏返したまま私はすぐには覗き込めなかった。
躊躇いが手を留める。
「どうしたの?アリス?」
「ううん。ちょっと見るのが怖いかな・・・って」
「あら、心配しなくてもちゃんと可愛いわよ」
姉さんは私の言葉を違う風に捉えたらしくおかしそうに笑っている。
それに私も笑い返す。無邪気な子供らしい素直な笑み。それを必死になって装う。
手の中の鏡を恐る恐るひっくり返す。そこに映し出されるものが何か知っていてもなお緊張せずにはいられない。
小さな鏡。だけど鏡は嘘を映し出さない。
どんなに嘘偽りで塗り固めていても鏡は素直に存在の本質を現す。
鏡に映し出されるのは私の姿。
「ほら、可愛いでしょ?」
にこにこと姉さんの笑顔がうつり込む。緩やかなウェーブかかった金の髪に澄み渡った青空のような青い瞳。慈愛に満ちた笑顔がよく似合う人だ。
「あなたの金色の髪にとてもよくあうわ」
ハシャグ姉さんの声がどこか遠くに聞こえる。
鏡に映ったのはどこか途方に暮れた真っ直ぐな赤い髪と目を持った少女。その顔が戸惑ったように私を見ていた。
鏡は嘘を付かない。嘘を付くならそれは人間の方だ。
姉さんが用意してくれた青いリボンは私の赤い髪にはちっとも似合っていなかった。
私は金の髪のアリスではない。
本物のアリスはとても可愛らしい子だった。
日の光を紡いだような金の髪、深い湖面を思わせる青い瞳にはいつも闊達な光が浮んでいた。年のわりに大人びていて悪戯好きでだけど誰も本気で嫌えない。
明るくて誰からも好かれていた。彼女の周りにはいつも自然に人が集まっていた。
私とは全然違う。
私は無愛想で人見知りが強い。少なくとも人当たりがいい人格ではない。
アリスとは正反対の人間だ。
だけどアリスと私は友達だった。
少なくともアリスはそう言ってくれていたし私も彼女を友達だと思っていた。
アリスはお屋敷の御嬢様で私はそのお屋敷で雇われた使用人だったとしても。
身分の差はあったけどアリスはあまりそういうことを気にする子ではなかったし彼女のお姉さんもそのことで私たちを責めたりはしなかった。
私がアリスと同じ年だったからよい友達になるとでも思われたのかもしれない。
とにかく私とアリスの交流は特に咎められることなく続いていた。
「ねぇねぇ!あっちに綺麗な椿が咲いたのよ。一緒に見ましょう」
「ピクニックに行きましょうよ!!お弁当を持ってお姉さまと一緒に!」
「家庭教師の先生が難しい宿題を出されたの・・・・」
穏やかでありふれた日常もアリスがいるとどこか華やいで見えた。
仕事の合間にアリスに連れまわされるのは酷く疲れることもあったが楽しいことの方が多かった。
「わたし!貴女のことが大好きよ!一生友達でいましょうね!約束よ!」
溌剌とした笑顔でそう、言ってくれたアリスはもういない。
―おいで
部屋で一人私はノートを広げていた。だが、その紙面は白紙で先ほどから全く進んでいない。
休み明けに提出しなければならない世界史の課題なのだが先ほどから一文字もたりとも進んでいない。開いた資料が風でぱらぱらとめくれているがどうにかする気にはなれなかった。
一向に進まないノートの上にペンを投げ出すと私はボンヤリと窓の外をみた。
開けっ放しの窓からは気持ちの良い春の風が入ってくる。
―こちらにおいで
気持ちの良い風だ。ついうとうと居眠りをしたくなる。眠気が私を緩やかに包んでいく。
ああ、眠いなぁ・・・・・。
私の意思に関係なく瞼が下がっていく。
眠い・・・・・。
我慢ならないぐらい眠かった。
(おかしいな・・・・昨日はよく、眠ったはずなのに・・・・・・)
まるで徹夜したみたいに眠い。
ゆるゆると瞼が閉じていく。視界が狭くなっていくのを他人事のように私は感じていた。
閉じていく視界の中で誰かが窓から入ってくる気配がした。
有り得ない。ここは三階。伝うような木もないのだから誰が入ってくるはずもない。
物音に微かに瞼が上がる。ボンヤリとした頭の片隅でそんなことを考えながらも私は身を起こす。
カタンと先ほどより大きな物音が聞こえた。さらにはっきりと意識が鮮明になっていく。
「・・・・・・・だ、れ」
瞼が完全に開いていく。
誰かいる。
もはやそれは確信だった。
この時点で眠気なんぞ吹っ飛んでいた。
はっきりと瞼が開く。
今まさに私を抱き上げようとしていた不審人物とまともに目が合う。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
互いに無言。いや同じ無言でも互いに意味が違う。
不審人物は私が起きたことへの驚きのための無言。
そして私の場合は・・・・不審人物の格好への驚きのための無言だ。
「・・・・・・・ねこみみ・・・・・・・」
そう、猫耳だ。
まごうことなき猫耳。あの三角のぶつはどこからどうみても猫耳にしか見えない。
「あ、目が覚めた?」
猫耳をつけた不審人物がとても不審者には思えないほど堂々とした態度で微笑みかけてくる。
男だ。まだ若い二十歳前後。整った愛嬌のある顔をしていて大抵の女なら好印象を抱くだろう。・・・・・・頭の上の黒い猫耳さえなければ。
猫耳。しかも男の格好は黒い燕尾服に白手袋。とどめに左目にはモノクル。頭の猫耳を無視すれば立派な執事である。
念のために断っておくがこのお屋敷にはこんな酔狂な格好をする人間は一人もいない。断言できる。というかこんなコスプレ男は知り合いにはいない。
ある意味ど胆を抜かすような出会いに混乱していた頭がすっと冷める。
こんな知り合いなぞいない。ここは私の・・・・アリスの部屋。こいつは不法侵入者。ならば私のするべきことはたった一つ。
「だれかぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
助けを呼ぶことだけだ。
精一杯腹の底から叫ぶ。猫耳男が驚いて耳を塞ぐ(ちゃんと猫耳を押さえている・・・・そこを押さえても意味がないと思うが)。
「ち、ちょっと・・・アリス、うるさい・・・」
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
猫耳男がなにやら言っているが私は無視して叫ぶ。
だが騒がれた猫耳男はたいして動揺しているようには見えない。純粋に私の声がうるさいために顔を顰めているようだった。
「あ~~~。うるさいなぁ・・・」
ぼやくなり猫耳男が私の手を強く掴む。あれよあれよという間に私は引っ張られ何か行動を起こすよりも早く、やたら慣れた手つきで顎をつかまれ上を向かされそして・・・・・・極めて自然にさもその権利があるかのように彼は己の唇を私の唇に重ねてきた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
長い長い沈黙。
私の視界には猫耳男の端整な顔が一杯でというか普通には有り得ない顔の距離。唇には温かい感触。・・・・・あんまりと言えばあんまりな展開に私の思考回路は完全に停止する。それをいい事に猫耳男の暴挙は続く。
「な、なに・・・・・・」
零れた言葉はすぐさま塞がれ飲み込まされた。思わずぎゅっと瞳を閉じてしまう。
感触が離れてはまた戻る。暴れ出したいのに身体はしっかりと抱きこまれていたためそれは叶わない。辛うじて自由になっていた左手首で力いっぱい男を叩くが哀しいかなまったくダメージを与えられていない。
一体なにが起きているの!
頭の中がパンクしそうだった。
ようやく唇が完全に離れた時には私は一人で立つことすらできない状態だった。
男の手が私を支えていなければへなへなと床に座り込んでいたはずだ。
唇に触れる。触れた途端に先ほどの感覚が生生しく蘇り私の顔が真っ赤になる。
「・・・・・・・・・・・な・・・・・・・・・・・」
あまりの衝撃で言葉がでない。わが身に起こった出来事に感情と思考が付いてきてくれない。
ただただ唖然とするしかない私とは対称的に猫耳男は特に動揺を見せずなんの断りもなく私を抱き上げた。一瞬の浮遊感のあとには私は猫耳男の腕の中にいた。
予想以上に近いところにある顔に否応なく顔が赤らむ。
「あんた・・!」
暴れる私を簡単に押さえ込みながら男はいとおしそうに私の顔を覗きこんだ。
「さぁ、アリス。行こうか」
喜々とした声。威風堂々と宣言。
「はっ?なにを言って・・・・・・」
私の言葉は猫耳男が窓枠に何の躊躇いなく足をかけてところで途切れた。
猛烈にいやな予感が私の背筋に走る。
「ちょっと・・・・・何するつもりよ!」
猫耳男は不思議そうに私を見下ろすとにやりとまるで猫のように目を細めた。
「何って・・・なんだと思う?」
面白そうにそういいながらも窓から身をのり出すことをやめない。
「いや・・・ちょっと・・・・本気?」
「正解は・・・・・・」
猫耳男はなんの躊躇もなく窓枠を蹴った。
ここは三階。下は何にもない地面だ。それが指し示すことは・・・・
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
私と猫耳男の身体が空中に投げ出された。
強烈な風を受けて私は半狂乱に叫ぶ。
死ぬ。ぜったいに死ぬ!
「猫耳男と無理心中なんていやだぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
恐怖と絶望のあまり私は強く強く猫耳男にしがみ付く。私の目から零れた涙が上へ上へと登っていく。
「死なないよ?」
どこかのほほんとした猫耳男の声が聞こえてくる。
「あのぐらいの高さなら死ぬどころか怪我すらしないよ」
「あんた馬鹿!!三階から落ちたら死ぬ!運が良くても大怪我よ!!」
戯けたことをほざく猫耳男に本気で腹が立った。やっと定着してきた御嬢様言葉なんて吹っ飛んでしまっている。あほだ!私は確信した。本物のどアホだ!!こいつ!!
「はいはい。落ち着いて。もうすぐ穴が開くから」
「・・・・・・・・・・・・・・穴?」
今、穴って言ったよね?こいつ・・・・・。穴なんて開いているわけ・・・・・開いているし!!
私たちの落下地点にいつの間にやらぽっかりと大穴が開いていた。かなり深いらしく底は真っ暗でまったく見えない。
「なんで・・・・・穴が?」
「そりゃ、開いているから」
さも当たり前のように猫耳男が答えてくれるが生憎と私にはまったく意味が分からない。
「なんで!!」
「穴だからね。開いていて不思議はないよ」
「理由もなく自分の住んでいる屋敷の庭に大穴がいていた普通不思議に思うわよ!!」
しかも今朝まであんな大穴はなかった。絶対になかった。誰がどうやってなんの目的であんな大穴を掘ったのか謎である。
「そこに穴があるのだからその理由を問いただしてもそこに開いているとしか答えられないよ?」
私は意思の伝わらなさにクラリと目眩がした。
駄目だ。根本的に意思の疎通が離れない。
こいつは私とは違う世界に旅立っちゃっているタイプだ。
くらくらする頭を抱え込みたくなった。その間も私たちは落下し続けている。今はもう大穴の中だ。 上を見上げると入り口の光が随分と遠くなっていた。
どんどん落ちていく。微かに見えていた光がいまや完全に消えている。
それほどまでに深い場所まで落ちてきたのだ。
死ぬ。このままだと底に激突して死ぬ!
こんなのは瞬時に死ぬか時間をかけて死ぬかの違いでしかないではないか。
「こっちの方がより性質が悪いわよ!」
恐怖で気が狂いそうだ。
「死ぬ」と繰り返す私に元凶の猫耳男はやはり余裕の態度で「死なないよ」と繰り返す。あ~なんだかこいつに当たるのも馬鹿らしくなってきたよ。
何もかも疲れた私はゆっくりと目を閉じた。
「あ、出口だよ」
猫耳男の声に再び目を開ける。
最初に感じたのは風に混じる花の香り。これって・・・・金木犀?でも今は春のはず・・。
だけど風にのって香るのは確かに金木犀の香りだ。
どうなっているの?
ボンヤリとした頭にこれまでの展開は急激過ぎた。どうしようもない。
さくっと軽く草を踏む音と共に猫耳男が「到着」と嬉しげに私を地面に降ろした。
そう、地面に。
「え、え、え?」
嘘。だって今まで落っこちていたのに。
「一体いつの間に地面が・・・・」
私が立っているのは確かに地面。草が生えていて小さな花も咲いている。
どうやら森の中の道らしく遠くに町らしきものが見えた。
試しにその場で飛び跳ねてみるが確かに地面は私の足元に存在していた。夢や幻ではない。
「え、だって・・・・先まで私たち穴の中を落ちていて・・・・」
「穴が終われば出口。即ち地面なのは当たり前だよ」
相変らず説明になっていない説明をする猫耳男である。ついでに言えば出口の先が地面だろうがあの落下スピードで無傷な方がおかしい。
何から何までわけが分からないことだらけである。
彼はパンパンと服をはらう動作をすると真っ直ぐに私を見据える。モノクルの向こうの瞳が猫のように細まり私を見ていた。
「ようこそ。アリス。歓迎するよ」
拉致誘拐犯が何を言うか・・・!
すかさず距離を取る私に猫耳男はちょっと残念そうな顔をしていた。頭の上の猫耳がへなりと下がる。尻尾も同じように。
まるで本物の猫のようだ。だけど目の前にいるのは人間。あれだってきっと良く出来た玩具なんだ。
だから私は猫耳男を睨み付けた。
そんな私に猫耳男は苦笑いしてから場を仕切りなおした。
「さぁ、アリス。僕と賭けをしないかい?」
芝居掛った言い回しでそういう猫耳男に私は思い切り眉を顰めた。
猫耳男の言い方こそ問い掛けだったが実際は違う。断定だ。この男の中ではもう決まっている。
「賭け?」
一体何を言い出すんだこいつは・・・・。
「穴に入る前もそんなこと言っていたわね・・・一体何が目的?ここはどこ?あんた誰?言っとくけど私はあのお屋敷の御嬢様ってわけじゃないから身代金なんて要求するだけ無駄よ」
訳があって御嬢様・・・アリスを演じてはいるが本当の私は御嬢様でもアリスでもない。
あのお屋敷とは血縁関係も縁もない使用人だ。
猫耳男は私の言葉におかしそうに笑うと「違うよ」とまるで出来の悪い生徒に諭すように言った。
「僕は貴女が本物のアリスでないと知っているし身代金なんて全然興味ない」
「だったら何が目的なのよ!」
「貴女」
さらりととんでもない言葉を猫耳男は吐いた。
予想外の言葉に私の動きが完全に止まる。
「僕の目的は貴女。だから無茶をしてまで貴女をこの世界に連れて来た」
(・・・・・こわい・・・・・・)
猫耳男は笑っていた。普通に見れば優しいとさえ言える笑顔なのに何故だが無性に怖く感じた。まるで危険な動物の前に立たされているかのようだ。
「アリス・・・・僕と賭けをしよう」
「・・・・・・賭け?」
「ええ。賭け。僕と貴女の二人だけの賭け。アリス、貴女は帰りたいよね?」
「当たり前でしょ!」
何を言いだすのだこの男は!帰りたいに決まっている。
きっと睨みつけてやるが相手はなぜだか逆に嬉しそうに私を見ているだけだ。・・・・・気持ちが悪い。
「そう、貴女は帰りたい。だけど僕は貴女を帰したくない。だから賭けをしよう。
ルールは簡単。貴女が帰る方法を見つければ貴女の勝ち。これが貴女の勝利条件」
「・・・・・じゃあ・・・あんたの勝利条件は?」
「貴女が僕を好きになってくれること。これが僕の勝利条件」
ゆっくりと相手の唇が言葉を紡ぐのが見えた。
ゲームスタート。
耳に残る声がそう呟いた。
それが私の(半ば強制的な)ゲーム開始のベルだった。
「なによ・・・それ・・・・!!」
一方的なゲーム開始に私は本気で腹が立った。
「何よそれは!訳が分からない!!賭けなんて知らない!今すぐ私を帰しなさい!!」
訳のわからない出来事の連続だったが最後のこれはその最たるものだ。
訳も分からなさ過ぎる!
「あんたの賭けとやらにのるつもりはないわ!今すぐ私をお屋敷に帰してよ!!」
つかみ掛からんばかりに詰め寄る私にだけど猫耳男はまったく揺るがない。静かなだけどやはり怖いと思わせる瞳で私を見ているだけだ。
無性にそれがしゃくに障る。
「黙っていないで何か言いなさいよ!!」
「なにを怒っているの?」
私が全力で掴みあげているのに男は全く不自由を感じていないかのように喋る。悔しくて悔しくて涙
が滲みかけたの殆ど意地で堪える。この男にだけは泣き顔なんぞ見せたくは無かった。
男の手が私の腕を掴む。互いの息がかかる位まで顔を寄せ、私に囁く。
「本当は逃げ出したかったくせに」
突き放つ感じではなかった。むしろどうでもいい事のように言われたのに突き放されたと、そう感じてしまうのは私の被害妄想だったのか。
思考が一瞬白くなる。手が小刻みに震えていた。
「な・・・・・」
思いもよらない猫耳男の言葉に声がつまった。
「お屋敷からも過去からもアリスという名前からも姉さんからも貴女は逃げ出したかった。現在の自分が嘘偽りでしかないと知っていたから貴女は逃避を望んだ。
心底望んでいたくせにいざそれらが叶うと帰りたいと願う。・・・・どうして?どうしてそんな矛盾が起きる?」
こいつ、何者・・・・・。
鋭い刃で致命傷を与えられた。見えない傷口から血がドクドクと流れ落ちていく。
体中が震えていた。怖い。この男は怖い。
それは理解できないものに対する本能的な恐怖だ。
掴みあげていた手から力が抜けていく。逃げようとした身体を男の手が再び抱き寄せる。男との距離が限り無くゼロに近くなる。
「どうして?帰っても貴女でいられない世界にどうして帰りたいの?」
見上げると黒い瞳が静かに私を見ていた。その瞳に映る私は酷く心細そうに見えた。
男は本気で不思議そうな顔で私にそう問うてくる。なぜ、偽らなければならない世界に貴女は帰るのか。
“私”でいられない世界。
“アリス”でいることを強要される世界。
『わたしは貴女のことが大好きよ』
あの笑顔のいない世界にどうして・・・・。
「アリス?」
どうしようもないぐらい残酷なことを言いやがったくせに私を呼ぶ声はどこまでも優しく甘い。まるで恋人か愛しい人の名前でも呼んでいるようなそんな声が私を呼ぶ。
「・・・・・に・・・・」
右手をしっかりと握り締める。強く強く。
キッと睨み付けた拍子に悔し涙が一粒零れた。
「あんたなんかに答える訳がないでしょうがぁ!」
ドガァ!
私の渾身の右ストレートががら空きだった男のわき腹に命中する。
「がはぁ!・・・・・」
その場に崩れ落ちかける男の胸倉を掴み上げて(火事場のなんとか)さらに二発ほど殴る。
ごき!という嫌な感触と音と共に男がぶっ飛んでいくの荒い息をつきながら見ていた。
だが、私の気はまったく晴れていない。
「いたたた。アリス、酷い・・・乱暴だな・・・」
殴られながらも男はやっぱり余裕に見えた。そしてその余裕が激昂
した私をますます追い詰める。
「このっ!」
パシン!と振り上げた左手が男の頬を張る。
「この!この!この!」
続けて叩いて、終いには男の胸を拳でドンドン叩いていた。
憎らしかった。心底憎らしかった。
「きらい・・・・・・」
言葉に出してはっきりと自覚する。
そうだ、きらいだ。こんな奴。こんな最低な男だいきらい。
「あんたなんて大嫌い」
涙で視界が歪む。だから男がどんな顔をしているのか私には分から
ない。
キツイ眼差しで睨んで心からの言葉を投げ付けてやった。
「絶対にあんたなんて好きにならない」
猫耳男が嬉しげに唇の端を上げる。まるで本物の猫のようなその笑
顔。
「そうこなくては面白くない」
「・・・・余裕ね。とっても気に喰わない」
男の顔を引き寄せ間近で微笑んでやる。多分私の笑顔は荒んだとて
も笑顔とも呼べない笑顔。
こんな男絶対に好きになるはずない。
確信がもてる。
だからこの賭けは絶対に負けない。
ここまで嫌いだと思った相手は他にはいない。
憎いと心の底から思った。
「絶対に負けない」
その場の勢いもあった。目の前の男へのどうしようもない怒りも手
伝った。
口からでた言葉は余りにも強い感情が込められていて自分でも何
を口走っているのか把握しきれていなかった。
だけど口にだしてはっきりと自覚した。
この男は許せない。負けられない。私の心の一番奥底を見透かし暴
いた男を許すことなどできない。
男が緩やかに笑う。その瞳に宿る怖さがやっと分かった。
男の瞳に宿っていたのは狂気だ。狂おしいほどに何かを求めている目だ。それを私は怖いと感じていた。
なぜならそれは私に向けられていたからだ。
「僕は負けないよ。絶対に貴女を帰さない」
「絶対に帰る方法を見つけてやる」
私たちは互いに不敵に笑いながらそんなことを言う。
私は男から手を離す。男は乱れた襟を正すと嬉しげに笑ったがその瞳は獲物を前にした猫の目だ。
「アリスが賭けに乗り気になってくれて嬉しいよ」
邪気のない笑顔に背を向けた私に男が声をかけた。
「アリス」
「・・・・・何」
振り返らずに答える。顔も見たくないという意思表示のつもりだったのだが生憎と相手には伝わっていないらしい。
「ゲームの案内人は白ウサギ。街に行くなら白ウサギを探してみなよ」
白ウサギ?ウサギが案内人って・・・動物園でも探せってか。
「あんたの言うことなんて信じると思う?」
吐き捨てるような言葉に返って来たのは変わらない男の声。
「別に信じる信じないはアリスの自由。僕はゲームの参加者として情報不足の貴女にヒントを与えた
まで。いわゆるハンデ、という奴だよ」
かる~いノリがやはりしゃくに障る男だ。
何がハンデだ。優位ぶっているのが余計に腹ただしい。
「そのヒントをどう扱うのかはアリス。貴女次第だ」
親切ぶって聴こえるが本性を知った今となっては悪魔の囁きにしか聴こえない。
だいたい根本的な信用信頼がこの男に対してない。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
無言で歩き出した私に男が最後の言葉をかける。
「スカイ」
「・・・・え」
思わず足が止まる。それを見越したかのように男が補足する。
「僕の真名。他の誰にも呼ばれたくないけど貴女になら呼ばれても構わない」
顔は見えないけど声は今まで聞いたどんな声よりも優しい。
スカイ・・・空。似合わない。
そんな感想しか正直でてこなかった。
「いえ、むしろ呼んで欲しい。だから、今度会ったときには名前で呼んで欲しい。できれば僕も貴女のことを名前で呼びたいので教えてくれると嬉しいかな」
それではというのを最後に声が消える。声だけじゃなく今まで感じていた気配まで綺麗に消え去ってしまった。
慌てて振り向くとそこには誰もいなかった。
「うそ・・・・」
まるで幻だとでも言いたくなるように忽然と猫耳男は消え去っていた。
私は思わず自分の頬をツネリその痛みに顔を顰める。
「いたい」
ということは夢ではない。
なんということかあいつは私が目を離した間に忽然と消えてしまったのだ。謎の言葉を残して。
「なんなの・・・一体」
それにあいつ・・・
『できれば僕も貴女のことを名前で呼びたいので教えてくれると嬉しいかな』
ふざけたセリフ。だけど・・・・・
「誰が教えるか」
あの日。水が私の大切な人を連れ去ったあの日以来誰も呼ばない私の本名。本当の名前。
“アリス”じゃない「私」。
私はあいつがいた辺りをジッとみる。そして上を見上げた。
そこにはあいつが自分の名前だと言った空が青く広がっているだけだった。
テクテクと森の中の道をしばらく歩いていくと案外迷うことなく街らしき場所に出た。
商店街なのだろうかアッチコッチに店が出ており少なくない人が出入りしていた。
そんな中をテクテクと私は歩いているわけだがどうにも居た堪れない。
なぜならどうも周りから見られているような気がしてならないからだ。
「・・・・・・・・・・」
周りの人間の服装と私の服はそう違わないから服が珍しいとかじゃないわよね?
よそ者だから警戒している?
狭い田舎ならともかくここは結構広い街みたいだし、いくらなんでも全員の顔を知っているなんてことないでしょう。
「・・・なんで?」
理由がわからない。だけど確実に私は目立っていた。
救いなのは好奇とか物珍しそうな視線で悪意の類いはなさそうなところかな?
「???」
首を捻りつつも歩く。実害のないことより考えなければいけないことが今はある。
「白ウサギ、か」
諸悪の根源が言い残した「ヒント」モドキが気になった。
白ウサギを探すべきかそれとも自力で帰る方法を見つけるか・・・・。
「というか白ウサギって何よ」
案内「人」と言っていたぐらいだから人間よね?あだ名とか通りなとかそんなのかな?
「でも、白ウサギがあだ名ってどんな奴よ」
貧困な私の想像力ではとても人物を想像できない。頭にウサギ耳でも生えているのかつーの。
「はぁ~~~~」
溜息がでた。なんだかよく分からないことに巻き込まれちゃったな・・・・。それにこんな場所に連れてこられて・・・お屋敷じゃきっと大騒ぎだ。・・・・優しい姉の半狂乱になった姿を想像して私は暗澹たる気持ちになった。「アリス」がいなくなってから不安定になった姉の精神を私がアリスになることで辛うじて平穏を保っていたのだ。
こんなに長い時間姿を消していたらあの人の脆い心は確実に壊れる。
帰らなくちゃいけない。
私は元の場所に・・・あの場所に帰らなくては・・・・・。
『本当は逃げ出したかったくせに』
毒のように囁かれた言葉に思わずむかっ腹がたつ。あの・・・・・・・・男・・・・・。
土足で人の触れられたくない部分を容赦なく抉りやがって。
確実に心の中で百回は殺している。
唐突に猫耳男にされた所業の数々が思い返され頬が引きつった。
あの野郎・・・・もっと殴っとけばよかった。
とても気が晴れていない。むしろ中途半端に報復しているため鬱々とした状態である。
しかも・・・・しかも、である。
唇に触れる。生々しい感触が蘇ってきて私の頬は私の意思とは無関係に赤らむ。
「ファーストキスがあんな・・・・あんな・・・・猫耳つけた執事コスプレをした男だなんて!!」
嫌過ぎる。間違いなく人生最悪の部類に入る悪夢だ。
しかも一回だけでなく何回もされた。というかあのキスには一体なんの意味があったんだ?・・・・嫌がらせ?それともしたかったから?どちらにしても嫌がる女を無理矢理襲うような輩だ。最低の部類の人間に違いない。猫耳だけど!
(・・・・やっぱり今度会ったら思う存分殴ってやる!!)
そう心に誓うと私はとり合えずヒントに思考を戻した。
「ヒントだって本当にヒントかどうかもわからないし・・・」
あいつのことだ。罠だってことも十分に考えられる。短い間しか接していないがあいつは性格が悪い。すこぶる悪い。腹黒だ。絶対に!
にこやかな顔で私を騙そうとしていたとしても私は驚かない。
それに何よりも・・・・・。
「これからの寝床と食事、どうしよう」
かなり切実な問題だ。商店街を歩いていて気付いたのだがどうも使用されている通貨が私の知っているものとはまるで違うようなのだ。
拉致されたのが部屋だったから手持ちはないしあったとしても使えない。
無一文で売れるものも持っていない。
「はぁ・・・」
最悪だ。出てくるものといえば溜息ばかりである。役に立たない。生産性皆無だ。
黙っているとどんどん嫌な思考にはまり込みそうだ。後ろ向きで悪い方へ考えがちになる自分の性格は十二分に把握してはいるが自分ではどうしようもない。
ドツボにはまって這い出せなく前に思考を変えた。
噴水の縁に座り私は昔のことを思い出す。
お屋敷で働く前。まだ独りぼっちで生きていた頃の私。
「お屋敷に拾われる前に戻ったみたいだ」
あの頃はお金も親もなくて一人だった。
ボロボロの格好でその日の寝床と食事のことで精一杯だった。生きるためには何だってやらなければいけなかった日々。
満たされることなんてなかった。
「これから・・・・どうしよう・・・」
仕事を探すにしてもとり合えず今日の宿ぐらいは決めないと。
「う~~~ん」
いっその事公園でも見つけて野宿かな・・・。
「はぁ・・・・白ウサギか・・・どう捜せっていうのよ・・・・」
愚痴に近い囁きに丁度私の前を通り過ぎようとしていた男が聞きとめたように立ち止まり不思議そうに私を見た後に小さく呟く。
「・・・・・白・・・ウサギ・・・?」
うん?と顔を挙げて私はしまったと思った。
そいつの頭に垂れたネズミの耳を発見してしまったからだ。反射的にここに連れてきた誘拐犯の猫耳を思い出し距離をとり、相手を観察する。年頃はあの猫耳男と同じぐらいか。
ブーツにコートにと服装的には何の違和感もないが尻尾と耳がネズミ。違和感が大きすぎる。
なにこいつ・・・あの猫耳男の仲間?
滅茶苦茶警戒した目で見ていた私だが相手もどこか焦点の定まらない目で私を見詰める。
しばし互いに無言で睨みあって・・・・・かくんと男の首が垂れる。
「・・・・・・・すぅ・・・・・・」
「って!なにいきなり居眠りしているのよ!!しかも立ったままで!!」
ガクガクと揺さぶると男はすぐさま目を開ける。
「いかん・・・・。また、寝ていた・・・」
たいして「いかん」とも思ってなさそうに男がそう呟いた。
また!!そんな「また」がつくぐらいこいつは外で立ったまま寝ているの!!
驚愕の真実に呆然とする私をよそに男はボンヤリと私を見る。やる気の感じさせない男である。
「お前は・・・・」
茶色の瞳がダル気に私を見る。
「な、なによ・・・・・」
思わずビクついてしまう。どうにもこうにも獣耳の男は警戒するべきだと刷り込まれてしまっていた。・・・・・・もちろんあの馬鹿男のせいだ。
「白ウサギの・・・知り合いか?」
「!知っているの!!」
思わず男に掴みかかり問い詰める。どうやらあの猫耳、嘘は言っていなかったらしい。
「知っているのなら居場所を教えて!!私、変態猫耳男に無理矢理この場所に連れてこられて困っているのよ!」
矢継ぎ早に言う私を男がやっぱりダルそうに見つめながら何か探るように黙り込みやがて何かに思い当たったらしく答えてくれた。
「変態・・・・猫耳・・・・・ああ、チェシャ猫の・・・ことか・・・・」
結構な言い草だったがそれで通じるあたりあの男の日頃の言動が窺える。
絶対にろくなことしてないとは思っていたが一連の会話で更に確信が深まった。
「あいつのこと・・・知っているの?それにチェシャ猫ってなに?あいつ自分のことスカイって名乗っていたけど」
「・・・なに?」
男の顔色が変わる。本気で驚いたのか気だるげな空気がなくなった。
そうしていると普通に男前に見えた。頭のネズミ耳がなければの話だが。
「チェシャ猫が真名を教えたのか・・?」
「はぁ?「まことな」?なにそれ?」
訳が分からず聞き返すと「何言っているんだ。こいつ」みたいな目で見られた・・・・・なによ。それはこっちのセリフよ!!
「お前なにを・・・・・いや、待て、お前・・・」
何が気になったのか男はじろじろと私を見ている。いやらしさは感じないものの何気に居心地の悪い視線だ。身の置き場がない私をほっといて男は一人何かに納得したように頷いた。
「そうか・・・お前は。そういえば赤い髪と目なんて見たことない・・・」
ブツブツと何事か呟く。というか赤い髪と目なんて珍しくもなんともないと思うんだけど。困惑する私を他所に男は何か考えこんでいたが不意に私を見る。
「お前。チェシャ猫に会ってから今までに起きたこと全部話せ」
命令口調にかちんとくる。
「はぁ?何言ってんのよ。あんた」
一気にガラが悪くなる私。・・・幼い頃に形成されたものって中々薄れないものだ。だが、相手は私の上を軽くいく猛者であった。
男は私を見下ろすと一言一言区切りながら
「いいから、黙って、言うとおりにしろ」
絶対零度の眼差しを体感する日が来ようとは思ってもいませんでしたよ。はい。
内心ものすご~~~~~~~く悔しかったが生存本能とかそういうものが警鐘を鳴らしまくっていたので私は渋々事の次第を説明した。
私が説明し終わるまで黙って聞いていた男は聞き終わるなり「はぁ~~」と心底面倒そうな溜息をついた。
「・・・・・・厄介な・・・あの馬鹿猫が」
心底本当に心底嫌そうにそう呟く男に私は首を傾げるしかなかった。
事態がちっとも読めません。
「あの馬鹿は馬鹿らしく実に馬鹿な行動に走ったということか」
馬鹿=あの猫耳男だということはわかったが・・・・・もしやこの人あの馬鹿猫が犯罪に走ったのに頭を痛めているのかな?
「えっと・・・・あんたあの馬鹿の友達かなんか?」
言ってから後悔した。ものすごい目で睨みつけられたからだ。
「冗談でもそんな気色の悪いことを言うな。 あいつと知り合っているのが俺の人生最大の汚点だ」
先程まで気だるげな話し方だったのに否定だけは早口でものすごく嫌そうだった。
「そ、そうなんだ・・・・」
どうやら仲はよくないらしい。
信用してもいいのかな?でもでも敵の敵が私の味方とは限らないし。
悶々と考えこむ私を他所に男は先程の「友達」発言が尾を引いているらしく顰め面だ。
苦い顔のまま私の方を見る。
「ついて来い」
「へ?」
変な声が出た。男は無言で一瞥すると元の気ダル気な喋り方に戻った。
「白ウサギに会いたいのだろ?・・・お前の状況は・・・どごぞの短慮で軽薄で考えなし馬鹿猫の所為でお前が思っている以上に複雑だ・・・あいつの方がうまく説明できる・・・それに・・・この事態に一枚噛んでいる・・・かも、しれない」
気になるかつ不親切な説明だけして男はスタスタと歩き出す。慌てて後をついていく私をチラリと横目でみると少し歩調を緩めてくれた。
「私、まだあんたのことを信用したわけじゃないんだけど・・・・名前も知らない男についていく気なんてないわよ」
今現在ついて行っているので説得力皆無だが私は気にしないことにした。
人間自分に都合の悪いことには目を瞑るものである。
男はやっぱり面倒そうな顔で私を見ると溜息混じりに「ネムリネズミだ」と名乗った。
「・・・・・・・・・・変な名前」
思わず本音が零れた。御嬢様の猫がはがれると私は途端に口が悪くなって率直になってしまう。怒るかなとも思ったが相手は怒らなかった。何故だか呆れたように溜息をついて私を見る。
「・・・正直だな・・・・一応言っておくが・・・本名ではなく通り名だ」
「通り名・・・・ネムリネズミが?」
白ウサギといいどうにもこうにも変である。そう思っていることが顔に出ていたのかネムリネズミが説明してくれた。
「ここでは誰も本名を隠して生きている。俺だけが特殊という訳ではない。通り名は誰でも持っている。ないと不便だから」
どうやらここお国ガラでは本名はあっても隠すものらしい。代わりに通り名を使って呼び合っていると・・・・・そっちの方が不便じゃないのか?
「・・・・ところで俺はまだ・・・お前の名を知らない・・のだが?」
言われて少し口ごもる。一瞬本名を名乗るかどうか迷い結局私の口からは「アリス」という名がでた。
「アリスか・・・・本名か?」
これにもまた少し迷って結局は正直に答える。
「いいえ。ちょっと事情があって今はアリスって呼ばれているの・・・・本名は別にあるわ」
突っ込まれるかなと思ったがネムリネズミは特に何も言わなかった。その代わりに別の忠告をしてくる。
「ならここではアリスで通せ。迂闊に本名を明かすと厄介事に巻き込まれる」
「例えば?」
本名を明かしただけでどんな厄介事に巻き込まれるというのだ。
「ここでは・・・・本名を明かすということはその相手に心を明け渡すという意味がある。分かりやすい例えを挙げれば・・・求婚などのときに」
「き、球根?」
園芸と本名にどんな関連性が・・・・・。
「違う。求婚。結婚を申し込む時に使う方だ」
冷静に切り返すネムリネズミ。
ちょっと待ってよ?私ここで既にとある人の真名を知っちゃっているんですけど・・・・・。
あれってまさか・・・そういう意味だったとか?
「えっと・・・・あの・・・それじゃぁ・・・あのチェシャ猫?だっけ?そいつが私に真名を明かしたのって・・・・」
「・・・・普通に考えて求婚だろう」
否定して欲しかったのにあっさりきっぱりとネムリネズミは肯定した。
「・・・・・・・・・・・・・私、あいつのこと嫌いなんだけど」
「向こうは・・・・・・好きなんだろ・・・・」
やっぱり冷静に答えられて私の限界があっさりと越えた。
「ちょっと何よ!!勝手に拉致誘拐したあげく問答無用で即求婚ってどういうつもりなのよ!!」
ネムリネズミの服の襟を掴んで前後にガクガク揺さぶる。
「・・・・・・知らん。俺に・・・聞くな。・・・・首を絞めるな・・・苦しい」
そういうわりにはダルそうなネムリネズミには構わず私は更に言い募る。
「あの・・・・・・野郎!!」
「往来で婦女子が叫ぶ・・・言葉では・・・ないな・・・・」
どうでも良さそうにネムリネズミが突っ込む。普段の私ならこんな言葉もちろん叫んだりはしないが今は本気で頭に血が上っていた。
「なにあいつ自分中心に世界が動いているとでも思っているの!!人を巻き込むな!!さっさと私を元の場所に返せ!!」
「・・・お前が怒っているのは・・・わかったから・・・少し黙れ・・・さすがの俺も・・・通行人の視線が・・・少々、痛い」
なおも喚く私の口を塞ぐとネムリネズミは私の腕を引っ張り足早に歩き出した。
もちろん私は暴れたが万力のように彼の腕は外れなかった。
「まったく・・・・つくつく猫は・・・厄介事を引き、寄せる・・・・」
気だるそうにそう言うネムリネズミの言葉がやけに印象的であった。
白ウサギの住処は時計屋敷と呼ばれる屋敷だという。
普通に「ふ~ん」と相打ちを打っていた私はいざ実物を目の前にした時、心底驚いてしまった。
「うぁ・・・・・・」
白ウサギの住みかだという屋敷は想像以上に大きく立派であった。
見上げるほど大きなお屋敷って初めてみた。
それに屋敷のあっちこっちに時計をモチーフにした細工が施してあり時計屋敷という名前は伊達ではないようだ。
ぼけ~と見上げる私を他所にネムリネズミはさっさと門を開けて中へと入っていく。無用心なことに門番はいない。
「って勝手に入っていいの?」
「・・・別に俺は気にしない」
いや、私は気にするんだけど・・・・。
ネムリネズミは自分の家のようにずんずん不法侵入していく。
外装も変だったが屋敷の中も相当変であった。
アッチコッチに時計がある。動いているもの動いてないものただのモチーフだったり本当の時計だったり一見しただけではどちらかわからないものもかなりある。
そして絶えず聞こえてくる時計の音。
いくつもの時計の音が不協和音のように響く。だけどずっと聞いていると不思議なことに一つの調和を持って聞こえてくる。
不可思議な空間だと思う。
そんな不可思議空間をネズミ耳の男と一緒に歩いている今現在が一番不思議なんだけどね・・・。
先を歩いていたネムリネズミは廊下の奥にあった大きな扉の前で立ち止まる。
本当に大きな扉だ。作りも立派で恐らくは主の部屋なのだろうがやっぱりというべきかこの扉も時計のモチーフからは逃れられていない。
ネムリネズミはノックも何もなく黙って時計の彫られたノブをまわず。
微かな音と共に開かれた先は別世界だった。
別世界のように素晴らしい、ではなく全く逆のベクトルで別世界。
「・・・・・・・・・・・・なによ・・・この汚い部屋は!!」
思わず怒鳴ってしまう。
足の踏み場もないを絵に描いたような荒れっぷりだ。部屋に主はここで仕事をしているのかあっちこっちに色々な工具や用途不明な部品がごろごろ転がっているし何かの設計図やら書き込みされた紙が床に無雑作に散らばっている。
おまけに部屋の壁には大小さまざまな時計が飾られていて針の音がうるさいぐらいだ。しかも壁紙から調度品まで部屋にある全てに時計がモチーフにされているから時計尽くしである。
なんなの・・・一体なんなのよこの部屋は!!
居心地が悪すぎる。
こんな部屋に住んでいるなんて白ウサギってどういう人物なのよ!
本当に人物像がつかめない。
呆然とする私を他所に勝手を知っているらしいネムリネズミはズカズカと部屋に入っていく。・・・部品やら書類やら床に散らばっているものを容赦なく踏みつけているけどいいのかなぁ?部品に至ってはバキッと不吉な音を立てているものも少なくないけど。
ネムリネズミほど図太くない私は一々床の物を退かしながら彼の後を辿る。よくこんな場所で暮らしていけるわよね。信じられない。
比較的片付いていたソファーに座る彼の隣になんとか腰を落ち着ける。
「ねぇ、白ウサギはどこ?」
ズカズカと入り込んでいるが部屋に人がいる気配はない。どうやら留守だったらしい。
キョロキョロと辺りを見回し隣のネムリネズミを見ると・・・・。
「すぅ・・・・・・・・」
健やかな寝息を立てて寝ていた。
「ちょ、ネムリネズミ!!」
いまの今まで会話していたくせにどうして寝ているのよ!!
慌てて彼の肩を揺さぶるがネムリネズミは起きやしない。
「こら!!起きろ!!寝るな!!っていうかどうして短時間で熟睡体制に入れるのよ!!」
というか他人の家に主が留守中に勝手に上がり込んだ挙げ句に居眠りって・・・・・。
どうしてこう、出会う人間(?)皆一筋縄じゃいかない奴ばかりなのよ?
呪われているんじゃないだろうかと本気で心配なってきた私だったがどうしようもない。
「・・・まったく・・・今日は厄日なの?」
ネムリネズミを起こすことは諦め私はソファーの背もたれに深く縋る。
本当に今日は色々あり過ぎだ。
チェシャ猫が部屋に不法侵入してきて、庭に開いた大穴からへんてこな場所に連れて来れて挙げ句他人様の家に無断で上がり込んで・・・・・。
「はぁ・・・」
溜息しか出てこない。
「なんか・・・疲れたかも・・・・」
ふぁ~と小さく欠伸をする。自覚すると急速に眠たくなってきた。しかも隣にはスヤスヤと気持ち良さそうに眠るネムリネズミの姿があった。
「眠い・・・・」
ソファーの手すりを枕にして私は急速に眠りの世界へと落ちていった。
また、夢だ。
『アリス・・・・・アリス!!』
亡骸にすがり付いて泣いていた後ろ姿が頭の中に蘇ってくる。
地面に横たわった少女。その顔は白いを通り越して青白くまったく生気を感じさせなかった。ずぶ濡れの金の髪が地面に広がり水が滴っていた。一目見て少女が生きていないことがわかる。周りにいる誰もが痛ましげに少女を見下ろしていた。
ぽつんと私の髪から水滴が零れる。冷たい。
私も少女と同じようにずぶ濡れだった。濡れた衣類がぐっしょりと肌にヘバリついて気持ちが悪い。
私は事態が全く把握できなかった。いや、認めたくなかったのだ。私はこの時全力で現実を否定していた。
「・・・・・アリス・・・・・・・」
静かに横たわる少女の名を口にするが近寄れない。近寄る資格など私にはない。
彼女を助けられずに一人だけ生き残った私には。
だから私はただ見ていることしかできなかった。
ずぶ濡れのまま。震えた体と凍りついた心でただ見ていたのだ。
―かわいそうに
どこからともなく声が聴こえた。哀れまれているのに腹が立った。
可哀想なんてそんなの嘘。私は「可哀想」なんかじゃない。そんな風に言われる資格なんて、ない。
―貴女は可哀想だ
声がさらに続ける。優しいような毒のようなその言葉に縋りつきたくなる自分が酷く嫌だった。
やめて私は、同情も哀れみも欲しくはないの。
―心に空虚を抱え込み悲しいのに泣けない。
泣く資格なんて私にはない。
―ずっと許しを請うている
永遠に許されることなんてない。
―そんな貴女は酷く卑小で俗物。どろどろとした感情を抱え込んで自分ではどうしょうもなくなっている。
そう。その通りよ。だからもう放っておいて!!
叫んでも声は止まない。耳を塞いでもまるで毒のように私の心に染みこんで来る。
―だけど、僕はそんな貴女に惹かれた。自分が大嫌いで価値なんて見出せない、迷って苛立って落ち込んで感情の行き場がないそんな貴女の姿が酷く僕を動かした。
―虚ろだった心は貴女で満たされた。僕を変えたのは貴女。だから、僕は―
闇が一層濃くなる。もう何も見えない。聞こえない。一気に闇へと堕ちていく。
目を覚ます。一瞬自分がどこにいるのか分からなかったがすぐに眠る前の記憶を思い出し頭を振った。
「やっぱり夢じゃないし・・・・」
夢ならよかったのに。とほほと肩を落とす私の中に夢の内容は欠片たりとも蘇ってこない。
前髪をかき上げ、小さく溜息が出た。
「はぁ・・・・どれくらい寝ていたんだろう」
外の景色を見る限りではそう、時間は経っていないようだった。……そしてなにより・・・・・。
「隣で健やかに眠り続けているこの男はどうすればいいのかな・・・・」
すぅーと本当に気持ち良さそうに眠り続けるネムリネズミ。まさしく通り名に相応しい眠りっぷりである。
「・・・本当によく、眠っているわね」
呆れるぐらいの熟睡ぶりだ。
ちょんと鼻先を指で突いてみる。ネムリネズミはちょっと眉を潜めただけで眠り続行。
起きているときはやる気の感じられないダレた感じの人なのに眠っている顔はどこか無邪気だ。元々の造りが整っているのに普段のやる気のなさが良さを削ぎまくっているのね、きっと。
つらつらと男の寝顔をみながらそんなことを考えている私はちょっとアホではなかろうか?
そんな考えがふと頭を過ぎった。
如何如何。どうやら常識ハズレなことが続けざまにあったために神経が麻痺している。
よくよく考えても見れば嫁入り前の女がよく知らない男と密室で二人きりって拙い気がする。姉が知ったら卒倒ものだ。
(まぁ、それは良家の子女の常識なんだけどね)
ふぅ・・と思わず溜息が零れた。
「・・・・綺麗な、顔」
傍らで眠る男の寝顔は息を飲むほど綺麗に見えた。同じ人間だとは思えない美しさはどこか人間味に欠けている。
(そういえば・・・チェシャ猫もやたら顔はよかったわよね・・・・・なにここの人間は皆美形という法則でもあるの?これで白ウサギまで美形だったら本気で怒るわよ)
そう顔はよかったのだ。今までの人生のなかで文句なしで一番に輝くぐらいの美形だったのに・・・・・・・中身のど変態は外見のよさで補えない。
嫌な考えを振り払い、手を伸ばしてネムリネズミの前髪に触れてみる。サラサラした感触とともに髪が私の指先から零れ落ちていく。私の髪も一応ストレートで手入れもちゃんとしているがこいつほどサラサラキュウティクルな髪ではない。パッと見た感じ枝毛見当たらないし痛んでいる様子も見当たらない。・・・・どう考えても手入れなんてしそうにもない男の髪なのにである。
・・・・・・・なんとなく腹がたってくる。男の癖に居眠りネズミの癖に女の私より髪がサラサラで顔が整っているってどういうことよ。
「女の敵みたいな男ね」
この場合の意味は勿論、男のくせにそこらの女より綺麗な顔してやがるという意味での「女の敵」である。
「ムカック~~~~」
グイと髪を軽く引っ張ってやるとネムリネズミ「うっ」と眉を顰めたがそれでも目を覚まさない。いっそ天晴れといいたくなるぐらいの眠りぶりだ。
「お~~~い。起きろ~~~~~。朝ですよ~~~~~~?」
実際はとおに昼を過ぎているだろうにそんなことを言ってみる。だが、相手はまったく起きる気配はない。
ふ~~~む、これは何か余程のことがないと起きそうにないわね・・・。
スヤスヤと気持ち良さそうに寝息を立てるネムリネズミ。・・・・そうだ!
「いいこと思いついた!」
自分の思いつきにパンと思わず手を叩いく。
さて、とポケットの中にある「乙女の必需品」を確認し私はにんまりと笑った。
「やっぱり・・・こんな状況でのお約束っていったら“これ”だよね♪」
私の手には携帯用の櫛とゴムとピン。
そう私はネムリネズミの髪をみつ編みにしたりピンで留めたりして可愛くしようと考えたのだ。
「ふふふ」
自分でも怪しいと思える笑い声で私はネムリネズミの茶色掛った髪に櫛を通し鼻歌混じりに髪を編んでいく。
ネムリネズミは男にしたら髪が長いのでみつ編みをするのには十分であった。
まずは顔のすぐ横でみつ編みを作るとそれをゴムで留める。続いて反対側にも同じようにする。前髪は赤いピンで留めて後ろ髪を緩くリボンで結んでみる。
そうすると私より年上の男性なのにビックリするぐらい可愛く見えた。
「うぁ・・・どうしよう。すごく楽しいかも・・・!」
ネムリネズミは男性にしては線が細いし眠っているせいかもしれないけど容姿も中性的だからリボンやらが違和感なく似合っていた。
本人が聞いたら眉を顰め、嫌がっただろう。もしくは某ネコが聞いたら「こんなネズミ可愛くともなんともありません!」と言って「むしろ僕を可愛くしてください!」と馬鹿なことを確実に口走っただろうが幸いにも彼はここにはいないし、ネムリネズミも眠っている。ついでに言えば私を止める者も存在しない。
自分でも「ネムリネズミが起きたら怒られるかも」と思いつつ髪の毛を編む手は止められなかった。
ああ、姉さんがアリスの髪をやたらと構いたがった気持ちがものすごく良く分かる。
極上の素材が側にいたら構いたくなる。ものすごく構いたくなる!
ものすごくドキドキしていたがこれが恋だとか愛だとかではなく可愛いものに対する気持ちなのだった。
「ふふふ!次はどんな髪型にしようかな~~~!」
そう言って私が再びネムリネズミの髪をいじり始めた時、なんの前触れもなく入り口の扉が開いて見知らぬ男が入ってきた。
第一印象―大きい。
身長は百八十をゆうにこえていたが木偶の坊という感じは受けない。ネムリネズミとは逆に男性らしい魅了に溢れた男だった。動きやすそうな服装に頭には何故かターバン。
第二印象―誰?
突然のことに反応できないでいる私に男が気付く。
「・・・・うん?」
薄い茶色の瞳が私を写す。その瞳が案外優しい色をしているので私は少々意外に思った。
男はしばら私を凝視すると顎に手を当てなにやら考え込む。そしておもむろに口を開いた。
「・・・・えっと・・・・あんた誰だ?それにネムリネズミになにしてんだ?」
男の指差した先にはピンを留められ髪を編まれた状態で眠り続けるネムリネズミの姿。
「あ、え、あははははははっ(汗)」
あからさまに不審者を見るような目で見られて思わず出した私の誤魔化し笑いが虚しく辺りに響く。
・・・まぁ、喜々として眠っている人間(?)―そう言っていいのかわからないが―の髪をいじっている人間にそう聞きたくなるのも分かる。いま、気付いたけど私結構怪しい人?
「えっと・・・・・」
自分がものすごく怪しいと自覚してしまうと何をどう言えばいいのか全く思い浮かばない。
「・・・・・・髪いじって遊んでました」
私の返事に男が黙り込む。
居心地の悪い空気の中でネムリネズミの健やかな寝息だけが耳に届いていた。
・・・・・っていうかいい加減、起きてよ!
男はじっと私を見ている。敵意は感じないが好意めいたものを感じない。なにか観察されているような気がした。
えっとせめて私がどうしてここにいるかぐらいは説明した方がいいよね?
「私は・・・・その、白ウサギって人に会いたくて・・・」
シドロモドロに説明をし始める傍らで今だに眠りこけているネムリネズミを起こすべく彼の肩を強く揺さぶる。が、眠りたいらしいネムリネズミは私の手を払いのけて再び眠りの園へと逆戻りした。・・・・・この、役立たず!!
感じた苛立ちのままネムリネズミを睨みつけていた私に男の笑い声が届いた。
驚いて振り返ると何がそんなおかしいのか男が腹を抱えて肩を震わせながら笑っていた。
「え、え?」
思わぬ反応に目を白黒させる私に男は笑いが残る顔で「すまんすまん」と頭をポンポン叩いてくる。
「まさかネムリネズミをそんな射殺しそうな顔で睨み付けれる女がいるとは思ってなかったかさ。大抵の女なら見惚れるのが常だったから・・・新鮮な反応についつい笑っちまった。あはは」
あははってあんた。
爽やかに笑っているけど発言内容何気に失礼じゃないか?
そう思ったが悪気はなさそうなので口にはださなかった。
「はぁ・・・」とか言いながら改めて男を見てみる。
第一印象通り身長は高い。かなり顔を上に向けないと私とは視線が合わない。だけど人懐っこい笑顔のせいか身長が高い人間にありがちな威圧感や圧迫感は感じなかった。
言動は少々荒っぽさを感じさせるが基本的にいい人っぽかった。
そんな風に観察している私には気付かず(というか気にせず)男は側で眠り続けるネムリネズミに近寄るとそのふさふさのネズミ耳を思いっきり引っ張ると大きく息を吸い込み次の瞬間にはものすごい大声で怒鳴っていた。
「お~~~~い!!いい加減起きやがれ~~~~~~~~~~~~~~~~~!」
「~~~~~~~~~~~~~っ!!」
私の耳に衝撃が走りぬけた。
あまりの大音量に窓ガラスがピリピリ震え、外の木に止まっていた鳥たちが驚いて一斉に飛び立っていく。私はといえば男の行動が読めず耳栓をし損ねてしまいこの大音量をまともに喰らって床にソファーに伸びていた。
「み、みみが・・・・みみが・・・・・・ぁ・・・・・・・・・・・」
耳がキンキンではなくぐわんぐわんする。耳鳴りとかそういうレベルではない。本気で耳が壊れるかと思った。
(兵器だ・・・人間兵器がここにいる・・・)
あまりのショックに身動きさえとれない私だが信じられない言葉を聞いて思わず飛び起きた。
「ちっ!やっぱり起きやがらないか」
「嘘!!“あれ”で起きないの!!」
男の言葉通りすやすやと眠り続けるネムリネズミの姿に私は本気で戦慄を感じた。
「な、なんで・・・あの兵器のような大声で寝ていられるのよ!!」
「・・・・・兵器?」
私の兵器発言に男が怪訝そうに眉を潜めているがそこは華麗にスルーした。いまはそんな瑣末なことを気にしている場合ではない。
「なに?どうして?こいつの耳は腐ってんの?」
衝撃のあまり口調と態度に地が出る。だが男は大して気にした風もない。
「真顔でえらいひでぇこと言うな、あんた」
そう言う男だったが彼からネズミネズミを擁護するような発言は出てこない。もしかして薄々疑っているとか?
二人揃ってネムリネズミを見る。スヤスヤと実に気持ち良さそうに眠っていますよ。こんちくしょーめ!
心の内でそう毒つきながらネムリネズミを指差し男に声を掛ける。
「ねぇ、どうしたら“これ”は目を覚ますの?」
もはや名前ですら呼ぶ気がしない。こんな奴「これ」で十分である。
にこやかに笑ってそう言う私に男はぼそりと「ひでぇ・・・」と呟く。そんな男に私はにっこり笑いかけてやる。
「なにか、言った?」
「いえ。何一つ口に出していません。はい」
神妙に頷く男。よろしい。
男はやれやれと頭を掻くと困ったように首を傾げている。
「ネムリネズミとは結構長い付き合いなんだかな・・・こいつをすんなり起こす方法となると。怒鳴ろうが蹴ろうが殴ろうが起きやしねぇかんなぁ・・・」
こら、そこ遠い目で現実逃避しないでよ!!
「じゃあ・・・どうすんの?私、白ウサギって人に会わせてくれるっていうから“これ”と一緒にいるんだけど」
まったくもって迷惑である。
腹がたってせめてもの腹いせにネムリネズミの頬を引っ張る。「うっ」と痛そうに呻いたが起きる気配はない。
そんな私を男が少しビックリした様子で見ていた。
「なんだ・・・あんた俺に何か用事があったのか?あれ?でも、俺たち初対面だよな?」
「え・・・・。もしかして・・・・・あなたが・・・・・・・」
ネムリネズミの頬を引っ張る手を止めた私に男―白ウサギは「おう」とその通り名にそぐわない豪快な笑みを浮かべその名を口にした。
「俺が白ウサギ。時計屋敷の主であんたの探し人ってことになるな」
よろしくと彼は私の手を握った。
人生において思わぬ出来事に遭遇することはままある。
かっぱらいをしていて絶対にいるはずのない所に警吏がいて捕まりそうになったり。
死んでしまった令嬢の身代わりとして暮らしたり。
だけど・・・・・いくらなんでもこれはないだろう!!
変な猫耳男に拉致誘拐されて見知らぬ土地に連れてこられて変なゲームをふっかけられた挙げ句がこれだなんてあんまりだ。理不尽だ。信じられない!!
ぽふぽふと枕を殴りながら私は動揺する自分をどうにか宥めていた。
いま、私がいるのは白ウサギの住居、時計屋敷にある部屋の一つだ。
白ウサギは狭くて悪いと謝っていたが私の感覚では十分すぎるほど広い部屋である。その部屋の上等な枕を私はただひたすらに殴っていた。
なぜ、私がこんなにも動揺しそして時計屋敷の一室にいるのかとういうと・・。時間は少し遡る。
「・・・・・あの馬鹿猫が・・・・・」
私の説明を聞くなり白ウサギは顔を顰めてどこかの誰かと同じようなセリフを実に忌々しそうに吐いた。
「えっと念のために聞くけど貴方もあいつの知り合い?」
ネムリネズミに「友達」ときいてえらく凄まれた経験から私は言い回しを変えてみる。
「ああ。・・・あいつがガキの頃から知っているぞ。向こうは俺に無関心だが・・・まぁ、知り合いといえば知り合いだ」
「付き合いが長いのに無関心なの?」
普通は付き合いがあったら無関心ではいられないと思うが?
白ウサギは軽く肩を竦めて、「あいつは普通じゃねぇからな」と呟く。確かに普通ではない。妙に納得してしまう言葉である。
「あいつは基本的に誰も関心を持たないからな・・・・・。例外があっても負の方向の関心だし」
それってどうよと突っ込みかけて違和感に口を閉じた。
うん?まてよ?
どうも白ウサギが話すチェシャ猫と私の認識しているチェシャ猫とはどうにもズレがあるような気がする。
「ねぇ・・・・私はあいつに・・・・不本意ながら好かれていたみたいなんだけど?」
なにせ初対面からこっちの都合とか気持ちとか常識をぶっとばしてキスなんぞしてきた男だ。しかもその後の言動もどうにも無関心だとか負の方向性は感じられずむしろいらないぐらいの押し付けがましい親愛の情に溢れていたような気がする。
白ウサギの言うような他人に無関心か負の感情しか抱かないような奴とは印象がまるで違う。
う~~んと首を捻る私に白ウサギが困ったように顎を撫でる。
「多分。お前さんは特別なんだろう。あの何事にも無関心・冷徹・冷酷の男が異世界からこの世界に引っ張り込むぐらいだ。並大抵の執着じゃねぇぞ」
そう言う彼の口調はからかうと言うよりかは哀れむに近かったかもしれない。要約すると「ロクデモない奴に好かれちまったなぁ」だろう。全然うれしくないんですけど!!
だけどそれに突っ込むより気になることがあった。
「・・・・・ねぇ、白ウサギ?」
「なんだ?」
「いま、「異世界」って言わなかった?」
「言ったがそれがどうした?」
「どういう意味」
「そのままの意味だが?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
あっけらかんと重大発表をしてくれた白ウサギの首を私は無言で絞めた。
「のぁ!!いきなり何すんだぁ!!うぉ!両手を交差させるな!!っていうかなんか手馴れてねぇか!!」
白ウサギが騒ぐが無視して絞める。騒げているうちは死なない。大丈夫だ。・・・・・多分。
「嘘よね?冗談でしょ?」
「な、何がだ!!」
「ここが異世界だとか電波なことあんたが言っていたでしょうが!!」
がぁーと火を吐かんばかりに勢いで噛み付く私。頭の中がかなり混乱中だ。
否定してほしい。たちの悪い冗談だと言って欲しい。だけど白ウサギはちっとも私の期待にはこたえてくれない。
私を気遣ってか強く反抗できない白ウサギは私の手を掴みながら嫌な事実を突きつけてくる。
「電波なんぞ誰が放つか!ここは正真正銘お前さんにとっては異世界!別の世界だ!」
「嘘だ!」
間髪入れず否定する。
「本当だって!」
白ウサギも負けずにそんなことを言ってくる。
「し、証拠は!!」
苦し紛れの私の言葉に白ウサギは私の手を掴むと未だに眠っているネムリネズミのネズミ耳を触らせる。
「ちょっと・・・一体なに・・・え?」
手に触れたネズミの耳は温かい。それだけならともかくぴくぴく動いているし柔らかい。
布とかビニールとかの感触じゃないよ?これ。
どう考えても・・・ほ、本物としか・・・。
「え、え、えええええ?」
「お前さんの世界に獣耳を生やした人間はおらんだろ?」
そんなけったいな特徴の人間がいる訳がない。
あれ?でもそうだとしたら実際にここにいるネムリネズミの耳は・・・・・。え?あれ?
混乱する頭を落ち着けるために数回深呼吸する。うん、大丈夫。
えっと普通は本物の獣の耳を生やした人間なんていない。うんこれは当たり前だ。
だけど今実際に目の前に獣の耳を生やした男が眠っている。
「・・・・・・・・・有り得ない・・・・」
私の住んでいたところの常識ではネムリネズミは存在しないはずだ。なのに、存在している。それは即ち・・・・・。
「ほ、本当に・・・・そんなことが・・・・?」
あるのだろうか。異世界にやってくるなんてことが。
茫然自失。何も言えなくなった私を白ウサギが心配そうに覗き込んでくる。
「おいおい・・・。まさか気付いてなかったのかよ。チェシャ猫もネムリネズミも何も言わなかったのか?」
「・・・・・聞いてない!!」
チェシャ猫は訳のわからんことばかり言っていたしネムリネズミもろくな説明なんてしてくれなかった。
誘拐されて見知らぬ土地に連れてこられたとは思っていたけど見知らぬ世界だとは普通思わないわよ!!
「なによ・・・・なんなのよ!!一体全体どうしてこんなことになってんのよ!!」
もう駄目だ。今まで押さえに押さえていた感情が爆発する。
「帰して!!今すぐ速攻に速やかに私を元の世界に帰しなさい!!」
白ウサギの襟を掴んで前後に力の限り揺らす。
「うぉい!ちょ、おちつ・・・」
「ける訳がない!!」
うぁ~~~んと泣きながら馬鹿の一つ覚えのように白ウサギを揺さぶる。
「帰して帰して・・・・・帰せって言ってんだろうがぁ!!」
「なんでそんなドスが効いた声が出せんだよ!!」
「うっさい!とにかくか~え~せ~!!」
頭に血がのぼって言葉使いに下町口調が混じりはじめる。
帰らなきゃいけない。
焦燥感が私の心を占める。
帰らないと・・・・・一刻も早くお屋敷に・・私の世界に帰らないと!!
脳裏に思い浮かぶのは優しくそして弱い女性の姿。
私が大切なものを奪ってしまった女性。
姉さん。
「いいからとっとと帰せ!」
白ウサギの顔を間近まで引き寄せて私はそう言った。
私の行動に意表を突かれた白ウサギは驚いたように目を丸くして私を見る。その目がなんだか驚き以外の感情が込められていたようにも思えたがその時の私はそんなことに気付く余裕なんてなかった。
ただただ自分の居場所に帰らなければならない気持ちがその時の私を動かしていた。
「アリス」
静かなだけど逆らうことの許さない白ウサギの声に私の手から力が抜ける。力なく垂れた手を大きくて無骨な手がそっと握った。
のろのろと顔をあげると複雑そうな顔をした白ウサギの顔とかち合った。
どうやら彼は言葉を選んでいるようで少しのあいだ躊躇っていたがやがて決意したように口を開いて、それを私に伝えた。
「アリス・・・・残念だがな・・・帰ることは無理だ」
何を言われたのか理解できなかった。
いや、理解することを拒否したというべきか。
「・・・・・え?」
呻くようにそれだけ口から飛び出た。
いま、なんて言われた?
・・・帰れない?
「・・・・・・うそ・・・」
もう一度「うそ」と繰り返す。まるでそう言えばそれが真実になるかのように何度も何度も「うそ」と言う。
だけど、目の前の現実は変わったりなんてしない。
いつだってそうだ。
残酷な、「うそ」だと信じたいことほど現実だ。私は知っている。身に染みてよく知っていた。
いつまでも続けばいいと願ったことほど私の目の前から消えていく。
知っていた。知っていたのに・・・・どうして・・・・・。
じんわりと視界が歪む。いけないと思った時には涙が地面に落ちていた。
「あ、アリス?」
涙にうろたえた白ウサギの声に泣き止まないといけないと思っているのに・・・面白いほど涙は止まらない。嗚咽に肩が震えていた。
泣き止まないと。泣いて何かが変わるわけじゃない。泣いている暇があるなら行動に移すべきだ。頭ではそう分かっているのに。
涙は止まらない。身体も嗚咽も自分の思い通りにならい。
「うっ・・・・」
しかも・・・出会って間もない男の目の前で泣いているのだ。最悪。最悪すぎる。
泣き顔を見られたくなくて下を向いた。大粒の涙が床の上に無雑作に置かれた書類を濡らしていく。ポタポタと私の意思とは関係なく零れていく涙は拭っても拭っても溢れて零れる。
意地になって拭う私の手を白ウサギが掴む。
「そんなに強く擦るな」
顔をあげる。白ウサギがしょうがないと言わんばかりの表情で私を見ていた。
いまだに涙を流し続ける私の目元を外見からは想像もつかないぐらい優しい手つきでそっと涙を拭う。まるで父親にでも慰められているような気がした。
父親なんていたことないけど居たとしたらこんな風に慰めてくれるものなのかもしれない。
涙が少し引っ込む。それでも涙は出ていたけど気持ちの上では少し落ち着きを取り戻していた。
「帰れ、ないって・・・ほん、と?」
嗚咽も堪えられないから子供のような質問の仕方になる私に白ウサギが答えてくれる。
「・・・本当だ。・・・正確に言えば帰る方法が分からないだがな」
「わから、ない?」
「お前みたいに別の世界からやってきたっていう人間自体が珍しいんだ。お前の前といえばかれこれ三百年前に一人いたぐらいだ」
三百年・・・・途方も無い年数を示され呆然とする。
「そ、その人はどうなったの!」
「・・・記録ではそいつはお前みたいに誰かに連れてこられたとかじゃなくて純粋たる事故でこちらの世界に紛れ込んだみたいだったんだが・・・どうなったのかは記録に残ってない」
ヘタリと膝の力が抜けてソファーに座り込む。
手が震える。
帰れない。その言葉が何度も何度も頭の中でリフレインされていた。
ぎゅっと目を瞑って元の世界を思った。
帰らなきゃいけないのに・・・。
「・・・・・・帰れないと・・・・・決まった、訳じゃ・・・ない、じゃない・・・か」
いつから起きていたのかネムリネズミが眠そうに瞳を開けて私を見ていた。
「ネムリネズミ・・・・?」
「う・・・」と軽く手を挙げると彼はダルそうに身体を起こす。
寝起きなせいかいつもの倍以上ダルそうに見えた。
「どいうことだ。ネムリネズミ」
私と同様に困惑気味の白ウサギにネムリネズミはのん気に私たちが見落としていた事実を告げる。
「二つの世界が行き来できないのならどうしてチェシャ猫はアリスの世界に行けた?」
「あ・・・」
確かにそうだ。あいつは私の世界に現れた。
「異邦人もだが「異邦人」が実際にこの世界に来ることが出来るという「事実」がある。この二つが示すのは・・・」
「二つの世界を行き来する方法がある!」
ネムリネズミの言葉を待てずに答えを先に叫んだ私に彼は大して感慨深そうにもせず頷く。
「そういう・・・こと、だ・・・・どう、する?」
「え・・・・」
「方法は・・・ある、だろう・・・だけど・・・見つかるか、どうか・・・わからない・・・帰れるかどうかわからない・・・・・むしろ、帰れない・・・確率の方が・・・高い・・・」
浮き上がりかけた心が再び沈みこむ。
そうだ。帰れると決まったわけじゃない。
「それでも・・・・帰りたいの、か?」
その言葉に心臓の鼓動が早くなる。
「わ、私は・・・・帰らなきゃ・・・」
そうだ、帰らなきゃいけない。
元の世界へ。
帰らないと・・・・・。
「そう、か・・・」
私の返事に何を感じたのかそれだけ言うとネムリネズミは腕を組んで壁に寄りかかっていた白ウサギの方に顔を向けた。
「白ウサギ・・・・・」
「なんだ?」
ネムリネズミが私を指差す。
「こいつをここに置いて、くれ」
ぎょっとしてネムリネズミを見る。だがいつも通り眠そうな顔があるのみ。まさか、寝ぼけている?
「てめぇ・・・・相変らず勝手な奴だな・・・」
白ウサギが呆れたように言う。っていうか突っ込みどころが違う!
「まぁ、部屋は余っているから別に構わねぇけど」
構えよ!少しは!!
「そうか。ではそういうことで」
ちょっと待て!!私を抜きにして話しを勝手に進めるな!!
驚きのあまり涙が完全に引っ込んだ。
「ちょっ・・・・」
声を荒げかけた私をネムリネズミが止める。
「これで衣食住はすべて保証されるぞ?なにが不満だ」
「うぐっ!」
「帰らなければならないにしてもお前はこの世界の通貨も知識もないのだから願ったり叶ったりだろ?」
「むぐぐぐっ」
確かに・・・いずれは絶対に帰るとしても方法を見つけるまでの間この世界にいなきゃいけないのは確実だ。それを考えたらこの申し出は非常に有りがたい。
悔しいが相手の言葉の正しさに黙り込んでしまった私の態度に頷く。
「納得したか。なら、決まりだな」
そういい終わらない内に今までのキリリとした口調が一気に眠そうなものへと変わる。
盛大に欠伸をすると彼は再びソファーに横になった。すぐに健やかな寝息が響いてくる。
そして時は冒頭へと戻ってくる。
「まったく・・・・散々な一日だった・・・・」
何の罪もない枕に八つ当たりするのにも飽きた私は枕の皺を伸ばすとそれを本来の用途で使う。
ぽふっと頭を乗っけて天井を見詰めた。
見知らぬ天井・・・・どころかこの世界そのものが私にとって見知らぬものなのだ。
生まれた時からずっと住んでいた世界ではない。それを考えると不思議な気分になる。
「本当に・・・信じられないわ・・・・」
夢だと今からでもいいから思いたい。
だがもう遅い。私はこの世界が現実だと認識してしまっている。それは覆らない。
「はぁ・・・・」
溜息しかでてこない。
こうしていても始まらない。
眠気で瞼がだんだんと落ちてくる。
「かえらな・・・きゃ・・・・・」
呟く声はすでに言葉にならなかった。
色々あって疲れていたせいかその日、私は夢も見ないぐらい深く眠った。
眠りに落ちる寸前に誰かが私の頭を優しく撫でた気がしたけど・・・きっと夢に違いない。
愛しい少女は彼の手の届かない夢の国へ行ってしまっている。
どうやって侵入したのかチェシャ猫は小さく寝息を立てながら眠るアリスの側に座るとその赤い髪を優しく撫でる。撫でられているのがわかるのかアリスが微かに笑う。
その表情にチェシャ猫もつられて微笑んだ。
「・・・・帰らないといけない・・・そんなことを言っている内は帰ることはできないよ?」
甘い甘い声。恋人に睦言を囁くようにチェシャ猫はそんなことをアリスの耳に囁く。
「もっとも帰してなんてあげないけどね」
くすくすと楽しげに囁くチェシャ猫の目はまったく笑っていない。冷たい感情の凍てつきが見て取れる。本当に帰す気はないのだろう。
そう、帰さない。
愛しい少女。彼の心に住むたった一人の存在。ようやく出会えたのだから・・・還さない。絶対に逃がしはしない。
「ねぇ・・・アリス?」
意識の無い少女に顔を近づける。白い頬、赤い唇そして今は閉じられてしまった瞳。
チェシャ猫の手がアリスの頬に添えられた。
「君を守るよ。どんな苦しみも悲しみも貴女に近づけさせない。真綿に包む様に大切に大切にする。僕の全てをかけて貴女を愛している。だから・・・・」
チェシャ猫の声が微かに擦れる。誰も聞くとのない思いを小さく告げる。
「だから、貴女も僕を愛して」