Hikikomori of the Dead
僕はその数日、強烈な鬱と頭痛に襲われて、死にかけの虫みたいに身悶えていた。
パソコンと向かい合う事すら億劫だった。眠る為にキッチンから強そうな酒(親の晩酌用のボトル。ブランデーとアブサン、それに白ワイン)をコップ何杯分かくすね、酩酊によって苦痛を忘れることに全力を注いだ。
僕を内側から蝕む禍々しい化け物が、アルコールで麻痺したかのように苦痛が軽減され僕は一時の休息を得た。でも僕は知っていた。それが一時しのぎでしかなく、癌患者がモルヒネで痛みを和らげるのと同じ行為でしかないことを。鎮痛剤で癌が治っていくわけではないのだ。
――眠気がやってきた。アルコールに招待された睡眠では、寝つきが浅くなる事をわかってはいたが僕はそれでも眠ることにした。考えるのをやめる以外にいかなる選択肢も僕にはなかった。
夜が朝になるくらいの時間眠った後、急に目が覚めた。目が覚めても僕は体を起こそうとはしなかった。見慣れた天上材のシミを意味もなく見つめる。さっき夢で見た色んな出来事が頭に浮かんでは消える。過去の失敗がフラッシュバックして何度も頭を振る。忘れよう。忘れなければならない。
大きくため息をついた。
いいかげん睡眠を諦めて、久し振りにネットでもやってみようかと、僕は立ち上がり、PCを設置してある合成樹脂制のデスクの前に座った。色褪せたウレタンチェアが悲しげに軋む。デスクチェストからメガネを取り出し、PCの電源を入れ、ブラウザを開くとホームページとしてGoogleが表示された。
僕はお気に入りから2ちゃんねるのヒキ板を選択して、似た境遇の人間の集まる、空気の淀んだスペースへ入って行った。このカビ臭さが何故か妙に居心地がいい。
スレッド一覧にざっと目を通した。一週間前とほとんど変わらない。ここは時間の流れが遅いようにさえ感じる。
「ん……?」僕は上の方に表示されているスレッドタイトルに興味を引かれた。
3:この世オワタ\(^o^)/(542)
何を今さらと思いつつも、厭世感に浸るのもいいかとそのスレッドを開いた。
1 :(-_-)さん:20xx/xx/xx(金) 18:35:15 ID:???0
アメリカで奇病大流行! 水際対策とか無理だろwww
この世の終わりきたか?
大人しく部屋にこもってるヒッキー大勝利!!!
予想通りとはいえ僕はがっかりした、この手の感染症の話はその度「パンデミック(世界流行)」としてマスコミに大々的に取り上げられるが、そのニュースがマスコミの飯のタネとして以外の役割を果たしていたかというと疑問が残る。まあマスクが売れる程度だろう。なんにせよ僕には関係ない。
ただ、読み進めていくうちにこの手のスレには場違いな単語が頻繁に使われていることに気付いた。
ゾンビ……?
まどろっこしいので一番下まで画面をスクロールした。
540 :(-_-)さん:20xx/xx/xx(土) 09:21:23 ID:???0
俗にZombie disease(ゾンビ病)と呼ばれる一連の病気は、数日前、メキシコとの国境の町として知られるアメリカ合衆国テキサス州エル・パソを発端として瞬く間に南アメリカ全土へ広まっていった。
日本でも様々な要因から対応が遅れ、厚生労働省は7日(昨日だ)の夕方、都内に国内初となる感染者が出たと発表した。感染源は潜伏期間内で検査に引っかからなかった輸入動物という説が強い。
病状としては、数時間から数日の潜伏期間を経てから40度を超える発熱が起こり、八割が数時間で心停止。その後呼吸が止まったまま動き始めるというもので、見境なく生きた食物を求めて辺りの人間や動物を襲う……(中略)……空気感染はしない模様、患者から噛まれることによって血液感染を起こす。……(中略)……発症前、発症後共に治療法は見つかっておらず、ワクチン等の開発が急がれている。
541 :(-_-)さん:20xx/xx/xx(土) 09:21:59 ID:???0
>>497
いやこんなん来たらヒッキーは百%死ぬ
542 :(-_-)さん:20xx/xx/xx(土) 09:22:10 ID:???0
やった!
最後の審判じゃね!!?
神様ありがとう!!!
僕はそれから数時間ネットサーフィンを続けた。最初は絶対嘘だと思った。だってこんなのあんまりにもネタくさすぎる。どこかのゾンビ愛好家がそれっぽく書いて馬鹿を釣ろうとしているのだと。けれど他の場所でもパニックは広がっているようで、ニュースサイトのソースもあった。中には家族がこの病気に掛ったというレスもあった。
この騒ぎは2ちゃんねるの多くのニート・ひきこもり層には大ウケしたようで、この件に関するスレがいくつも立てられ、みんなヤケを起こしたようにwwwと草を生やしまくっていた。かくいう僕もその内の一人で、これで世界が滅べばいいと思っていた。祝杯のつもりでまた酒を煽った。するとだんだん眠くなってきて、僕は再びベッドに入ることにした。
――気づけばまた眠っていた。もう部屋の中は暗い。
ところで気のせいか、外が騒がしい。僕は寝起きで頭がはっきりせず、工事でもやっているのだろうかと分厚いカーテンを少しだけめくり、窓から外を眺める。辺りは日が暮れかかって薄暗くなっていた。
この辺は郊外の住宅地で、普段は人なんて入れ違いレベルで見かけるだけなのに今日は見える範囲一帯の道路や他人の庭に人がいた。全部で三十人程度だろうか。そのうち数人は他の大勢から逃げるように走り回っているように思えた。
追う方の動きは速くなく、むしろ足を引きずる様だが数が多い。異様な光景だった。
「ギャアアアア!」とガラス越しにでも叫び声が聞こえた。今見ている方から目を離して声の方に振りむくと、うちのブロック塀の前あたりで、若い女性が年格好様々な数人の男女に掴まれ、引っ張られ、肩の辺りを噛みつかれていた。
一人がそうすると周りも餌を奪い合うように腕や足、頭などに次々と噛みついていく。女性の噛まれた部分から血がドクドクと流れ出る。
捕食者たちはブチブチッと女性の筋繊維を引きちぎり、口から新鮮な血液を滴らせながらそれを咀嚼する。口を大きく開けて乱暴に喰うものだから口から赤や白の食べくさしが吐き散らかされる。
襲われた女性の手足がピクピク痙攣し、やがて止まった。
僕はカーテンをサッっと閉じる。気分が悪くなってきた。
想像していたよりも僕はこの状況に恐怖を感じていた。普段は死にたいとまで思っていたのに、急にこのような惨劇を見せつけられると本能的に死の恐怖が湧いてきて、体が震え出した。
僕はPCにスイッチを入れようとする。だが、電源が入らない。カチッカチッ、何度押してもPCは反応を示さなかった。くそ、故障か?
ギィィ 下階からの階段が軋む音が聞こえた。音はゆっくりと少しずつだが大きくなっていく。
僕は体が硬直した。なぜだか音を立てないようにしようと決意した。足音は部屋の前を素通りして両親の心室の方へ向かって行った。
母さんか……? いや、いくらなんでもこんな時に声を掛けないなんて……。だけどそうじゃないとしたら今の誰なんだ?
動悸が激しくなるのを感じた。独りぼっちには慣れていたが、一層強い孤独感で胸が締め付けられる。
僕は本当に独りなのでは……? 恐怖や不安や寂しさなど、感情が一気に爆発して僕は涙を零していた。
――ひとしきり泣いたあと僕はすっかり冷静になった。というより疲れてしまった。僕は床に座り込み静かに布団を引っ張って、中にくるまった。
このままこの家の中にいるのが安全なのかどうか僕には判別できなかったが、外に出ようとは思わなかった。このまま様子を伺っていよう。
外も静かになってきた。壁掛け時計は午後六時半を示している。
僕はゆっくりとベッドに背をもたれかけた。いつまでも強張ったままでいられなかったからだ。
そしてその時、緊張がゆるんだ瞬間の何気ない行動が自らを窮地に追い込んでしまう事を知った。くるまっていた布団の膨らみが、ベッド横のナイトーテブルに置かれてあった小型の目覚まし時計を床に落としてしまったのだ。ガタンと、一〇センチ程度の時計がフローリングに跳ね返る音が響く。静寂の中にあっては大きすぎる音だった。
全身の体毛が逆立つのを感じた。
おまけに時計は気でも狂ったようにリリリリリリリとけたたましく叫び始めた。ここ何年も使う事なんてなかった時計。彼も孤独に耐えられずついに癇癪を起してしまったのだろうか。
バタンッ! 隣の部屋で何かが倒れた音がした。それに続いてこちらに近づいてくる足音。この部屋にはもういられないのだと僕は悟った。
部屋のドアに体当たりして僕は二階の廊下に出る。ほとんど真っ暗だ。僕は躓かないようにできるだけ急いで一階へ下りようと頑張る。
「ウァアアアア」
後方から声帯を掻き毟った様な低い獣の声が聞こえる。僕は一度も振り向かず玄関まで一直線に走る。玄関ドアを開いた。
外には――ほんの数メートル先にはさっき喰われた女の死体が転がっていた。顔の皮が丸ごと剥がれて赤いりんごが首の先についているように見えた。そしてその手前には黒い人影が肩を落としてふらふらとさまよっているのがわかった。
その影は僕に気付くと、フシュゥゥと喉笛を鳴らして僕に両手を伸ばしてきた。
勢いよくドアノブを引っ張る。蝶番がきしみ、ドアは異界をシャットアウトした。
僕は呆然としていた。口をポカンと開けて阿呆みたいに。本当の恐慌では認識までパニくってしまうのだろう。僕は肩を何者かに握られるまでただひたすらに硬直していた。
肩のひんやりとした感じ、それに気付いて僕が首をひねって背後を見るとそこには青白い顔があった。白髪交じりの黒髪は半分くらい抜け落ち頭皮が見えている。眼球はあちこちを向き方向が定まらず、目頭には黄色いヤニが大量に分泌されている。鼻の形は崩れ、剥き出しの歯茎は紫に変色し歯が何本も抜けて、その場所からはだらだらと腐敗した血液が噴出していた。
それが母親の顔と分るまで時間をずいぶんと要した気がする。
僕はこんな大きな声を出したのはいつぶりだろうというくらいに叫んでいた。叫びながら思いっきりそれを突き飛ばして、脇の傘入れに入ってあった金属バットを引っこ抜いて、それの頭を何度も何度も殴打した。
ハァ、ハァと息を切らす頃には、それの頭部は潰れ、もう動かなくなっていた。
僕は吐いた。玄関の誰かの靴の上に、タイルの上に嘔吐物をぶちまける。胃液しか残っていなかったから、後半はえずくだけで何もでなかった。玄関ドアがさっきのやつに乱暴にノックされていてうるさい。
僕はヨタヨタとバットを杖にしながらリビングまで歩いて行った。
カウチソファーにドスンと身を投げ、床を見続ける。バットの先端にこびりついた黒い血がぬらぬらと光っている。このバットは僕がまだ野球少年として元気にやっていたころのものだということに気がついた。
あのころの僕を忘れられなくていつまでもあそこに置いたままにしていたのだろうか、僕はもとの母さんの顔を思い浮かべて、それからまた泣いた。
三時間くらいして、ようやく僕はよろめきながらも電源の切れた冷蔵庫を開け、中の食材を物色しむさぼり食った。僕はもはや何も感じていなかった。ただ本能のままの行動だった。
そのまま三日ほど家の中で過ごし、食糧が尽きると玄関から外へ出た。
前見た時よりも腐敗の進んだそいつらがそこら中にいたがバットで好きなだけ殴り飛ばした。長いひきこもり生活を経た後で体は酷く痩せ細っていたが、それにしてもそいつらは弱すぎた。
僕は保存のきく食料品を集めたり、安全な場所を見つけたりと平気で外をうろつきまわった。
僕が気づいていたことは今まで外に出る時感じていた恐怖などもうどこにもなかったこと。なぜならあの恐ろしい、人間のような生き物なんて見かけなくなっていたからだ。