読めない名前
ある小学校に勤める教員、坂ノ下は期待半分、不安半分でテストの採点をしていた。
別に、思っていたように授業が進まなかった訳でも、教え方が下手だったかと心配している訳でもなければ、点数を気にしている訳でもない。
ただ坂ノ下は、ある一点に念入りに注意を向けていた。
「……これは余ったやつか。それで次が…………はぁ……」
坂ノ下が目を向ければそこには、もはや日本語かどうかすら怪しいほど汚い字で書かれた名前があった。適当に鉛筆を動かしたとしてもこうはならないくらいの壊滅具合で、名前欄に書かれていなければ、意味ある文字とすら認識はできなかっただろう。
しかし、これが初めてではないのだ。毎回返却する度に注意はしているのだが、その都度「気をつけまーす」と返事するため、次こそは丁寧に書いてくれると信用した結果がこれである。流石に、一度保護者を交えて話すべきか。
……全く、字も綺麗で満点も取っているまさお君を見習ってほしいものである。
「――というわけで、お母様の方から一度いさむ君にお話頂ければ、と」
放課後に時間を作ってもらい、坂ノ下がこれまでの経緯を説明すると、母親は申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「ごめんなさいねえうちのいさむが。ほら、あんたも先生に謝りなさい。というか、なんでここだけこんな汚いの?名前以外は普通に書けてるじゃない」
「だって、少しでも早く問題とかなきゃって!ぼくあんまり頭よくないし……」
「別に名前くらい十秒もかからないでしょうが。……決めた。いさむ、次のテストまでお小遣いなしね。名前が綺麗に書けたら元に戻してあげる」
「え」
「えじゃないわよ。綺麗に書けば済む話でしょ?」
「……じゃあおこづかいなしでいいからさ、次のテストで百点取ったらゲーム買ってよ!」
「はいはい取れたらね。ごめんなさいね先生、次からはちゃんとやらせますので」
「いえいえ、こちらこそ本日はありがとうございました。いさむ君も、百点取れるといいね」
「うん!」
それから一ヶ月程が経過し、テスト当日。
「じゃあこれからテストを配るので、後ろの人に回していってください。余ったら、回収するときに一緒に持ってきてくださいね」
さっと大雑把にテストを配り、行き渡ったのを見てテストを開始した。
そうして三十分くらいが経過した頃、次第に手が止まり始めてきたが、一番後ろの席のまさお君はむしろ高速で鉛筆を動かしていた。流石はまさお君である。その横のいさむ君は手が止まってしまっているようだが、大丈夫だろうか。
「…………はいそこまで。じゃあ鉛筆を置いて、いつも通り一番後ろの人が順番に回収してください。テストは裏返しにして、下に重ねていくように――」
それから数日後。
採点を終わらせた坂ノ下は、列ごとに児童を呼び出しテストを返却していた。
そして、いさむの番がくると坂ノ下は――
「…………おめでとうございます。百点です」
「やった!百点だ!これでゲーム――」
「ですが、名前が読めません。一点引いてもよかったのですが……次からは気をつけてくださいね」
「うん!気を付けまーす!」
「…………はぁ……」
坂ノ下は、一ミリも読めない名前に苦言を呈したのだった。
放課後になり、日が落ちて物陰となった校庭で二人の児童が話をしていた。
「上手くいったな」
「ああ」
一人が手にしているのは、途中まで解答欄が埋まったテストであった。しかし、そのテストには点数が書かれておらず、赤ペンで採点した跡は一つもない。
「最初はすぐにバレるもんかと思っていたが、案外気づかないのな」
「まあ、そのための布石でもあるが……よくやったまさお」
隣で答案を見ていた少年、まさおは、いい機会だと疑問をぶつけてみることにした。
「おれが余った用紙を使って二枚答案を作るのは分かった。でもなんで名前を読めなくするんだ?おれが上手くきれいに書けばよくないか?」
「それじゃあだめだ。いずれぼろが出る」
「ぼろ?」
「数回それで通ったとして、名前を書いてるのはお前なんだからそのうち筆せきでバレる。それよりもぐちゃぐちゃに書いた方がかく実だし、安全だ」
そう答える少年に、まさおはあまり腑に落ちていなかった。
「……それでも、急に百点なんか取ったらバレそうなもんだが」
「いいや、バレない。なぜなら、順番があるからな」
「順番?」
「ああ。坂ノ下は一番後ろの人間に、うら返して下に重ねるように回しゅうさせる。なら、それに合わせてお前が二枚目の答案を一番下におけば、順番的にはおれの答案になる。おれがダミーを回しゅうして、余ったのを入れたら完全犯罪だ。百点を取ったことをうたがわれたとしても、すりかえに気づくことはないだろうな」
「……その熱量をもっと他の事に使えばいいのに」
「お前にもゲームやらしてやるからよ!さっさと帰ろうぜ!」
「はいはい」
手に持っていた答案を、ぐしゃりと握りつぶしたいさむは、全身で喜びを表しながら帰り道を歩くのであった。




