硝子館の偽り姫
「十九歳。地方の短大に通う一年生。趣味は紅茶とクラシック音楽。恋愛経験は、まだありません」
鏡の前でそう言った声は、どこから聞いても若い女性のものだった。
佐伯玲司、二十八歳。職業はイベント向け映像機材の派遣スタッフ。だが、今夜の彼は佐伯玲司ではない。
肩まで波打つ栗色のウィッグ。白いブラウスに、淡い水色のロングスカート。顔には肌の凹凸を隠す下地、輪郭を変えるシェーディング、丸い目元を作るアイメイク。喉元は高い襟とレースで覆われ、耳元には小ぶりの真珠風イヤリングが揺れている。
そして服の下には、体形を別人に見せるための補整具が幾重にも仕込まれていた。胸元と腰回りのパッド、胴を締めるコルセット、肩の線をなだらかに見せる薄いシリコン板。どれも舞台用の品で、玲司は仕事柄、その扱いに慣れていた。
鏡の中にいるのは、清楚な雰囲気をまとった成人女性――本人の設定では十九歳のコスプレイヤー、「水城れな」だった。
「完璧だな」
低い地声に戻して呟き、玲司は笑った。
彼が向かうのは、湾岸地区の旧ホテルを丸ごと貸し切って行われる大型コスプレ交流イベント《グラス・パレス》。参加資格は十八歳以上。会場では撮影会、衣装展示、謎解き企画、夜景クルーズまで行われる。
玲司の目的は賞金でも盗みでもない。
女性参加者に近づき、警戒されずに連絡先を集めること。
男の姿では相手にされない。だが女性同士なら、化粧や衣装の話から簡単に距離を詰められる。玲司はそう思っていた。相手の信頼を利用することに、罪悪感はなかった。
むしろこれは技術の証明だ、と考えていた。
声も、歩き方も、笑い方も、視線の落とし方も研究した。数か月かけて作り上げた「水城れな」は、玲司にとって最高傑作だった。
スマートフォンを取り出し、イベント用アカウントを確認する。
《れなちゃん、今日会えるの楽しみ》
《一緒に写真撮ろうね》
《紅茶ラウンジ、十九時でどう?》
すでに三人と約束があった。
「今夜で証明してやるよ。誰も見抜けないって」
玲司は白い手袋をはめ、ホテルへ向かった。
二
旧ホテル《オルフェウス館》は、海に突き出した人工島の先端に建っていた。
吹き抜けのロビーには、シャンデリアの代わりに無数のガラス球が吊られている。色とりどりの衣装をまとった参加者が行き交い、撮影用の照明が白い大理石の床に反射していた。
受付で本人確認を受ける瞬間だけは、玲司も緊張した。
しかし、身分証の確認は個室で行われる。事前登録名は本名でも、会場内で使う名は自由だった。スタッフは申込情報と顔写真を見比べたものの、舞台用メイクを落とすよう求めることはなかった。
「水城れなさんですね。年齢確認済みです。こちらが入場証です」
「ありがとうございます」
玲司は女性の声で答え、胸元にカードを下げた。
第一関門は通過した。
ロビーを歩くだけで、何人もの参加者が振り返った。清楚な色合いの衣装に、やわらかな笑顔。落ち着いた仕草。玲司が狙った通りの反応だった。
「れなちゃん?」
声をかけてきたのは、事前にやり取りしていた二十四歳の会社員、三井遥だった。深緑の軍服風衣装を着ている。
「遥さん。会えてうれしいです」
「写真よりずっとかわいい。ほんとに十九歳?」
「よく大人っぽく見られます」
玲司は口元に手を添え、控えめに笑った。
会話は滑らかに進んだ。衣装の縫製、使っている化粧品、撮影に向いた角度。玲司はネットで仕入れた知識を次々に出した。遥はすぐに警戒を解き、自分の仕事や住んでいる地域まで話し始めた。
玲司は内心で舌なめずりした。
だが、紅茶ラウンジへ移動しようとした時、甲高く明るい声が二人の間に割って入った。
「そのアイライン、左右で角度違うよ」
派手な金髪のポニーテール。黒と蛍光ピンクを組み合わせた近未来風の衣装。厚底ブーツに、銀色のアクセサリー。二十一歳の人気コスプレイヤー、黒瀬ミカだった。
年齢は成人だが、イベント内では十代後半のギャル系キャラクターを演じている。細身の衣装の上から、舞台的に強調された砂時計型のシルエットを作っていた。
遥が目を輝かせる。
「ミカさん! 動画、いつも見てます」
「ありがと。あたしも撮影いい?」
ミカは遥に笑いかけながら、玲司を横目で見た。
玲司は微笑みを崩さなかった。
「もちろんです」
「へえ。声、きれいだね」
「ありがとうございます」
「でも息の抜き方、ちょっと不自然」
玲司の背中に冷たいものが走った。
ミカは口角を上げた。
「冗談。そんな固くならないでよ、れなちゃん」
その笑顔は親しげだったが、目だけが笑っていなかった。
三
ミカはその後も、妙に玲司の近くに現れた。
撮影ブースで遥と写真を撮っていると、隣の列にいる。衣装展示室へ移ると、鏡越しにこちらを見ている。ラウンジで別の女性参加者と話していると、少し離れた席から会話を聞いている。
玲司は苛立った。
ただの嫉妬かもしれない。新人の「れな」が注目を集めていることを面白く思っていないのだ。
そう考えようとした。
しかし、ミカはコスプレに関する知識が深かった。ウィッグの生え際、肌色のつながり、衣装の下にできる不自然な影。玲司が巧妙に隠した部分を、何気ない会話で突いてくる。
「れなちゃん、その髪、どこのメーカー?」
「海外の通販です」
「へえ。耐熱?」
「たぶん……百八十度くらいまで」
「そのメーカー、百四十度までじゃなかった?」
「別の型だったかもしれません」
「ふうん」
ミカはそれ以上追及しない。
その引き際が、かえって不気味だった。
玲司は予定を早めた。できるだけ多くの参加者と連絡先を交換し、深夜のクルーズ前に会場を離れる。そう決めた。
彼は二人目の標的である二十二歳の大学院生、藤村咲と合流した。咲は白衣風の衣装を着ており、人見知りだと事前に聞いていた。
「れなさん、写真のポーズ、教えてもらえますか」
「もちろん。肩を少し斜めにして、顎を引くときれいに見えますよ」
玲司は咲のスマートフォンを受け取り、何枚か撮影した。画面を見せるために距離を詰める。
「すごい。自分じゃないみたい」
「咲さんは元がきれいだから」
「そんなことないです」
「本当です。私、咲さんみたいな落ち着いた人、好きです」
咲の頬が赤くなる。
玲司は反応を確かめ、さらに踏み込もうとした。
その時、背後からミカの声がした。
「れなちゃん、距離近すぎない?」
「え?」
「咲ちゃん、困ってるように見えるけど」
「困ってません」
咲は慌てて首を振ったが、ミカは玲司を見たままだった。
「そっか。でもさ、初対面の人に住んでる場所とか、恋人いるかとか、細かく聞きすぎるのはやめた方がいいよ」
周囲の視線が集まった。
玲司は笑顔を保ちながら答えた。
「普通の会話です。ミカさんこそ、ずっと私を監視していませんか?」
「監視じゃないよ。気になってるだけ」
「何がですか?」
「いろいろ」
ミカはそれだけ言い、咲の肩を軽く叩いた。
「何かあったらスタッフ呼びな。ここ、交流イベントだけど、嫌なこと我慢する場所じゃないから」
咲が小さく頷く。
玲司は腹の底で怒りを燃やした。
ミカさえいなければ、すべて思い通りになる。
ならば先に、ミカの信用を落とせばいい。
その日の前半には、参加者投票によるミニステージも予定されていた。
テーマは「一分間のキャラクター紹介」。出場者は舞台上でポーズを取り、自分が演じる人物になりきって短い台詞を話す。優勝者には、夜の公式撮影枠が与えられる。
玲司は迷わず申し込んでいた。
舞台袖で順番を待つ間も、彼は「水城れな」の呼吸を崩さなかった。足を揃え、指先を重ね、ほかの出場者へ控えめに微笑む。緊張している新人に見えるよう、時折、小さく深呼吸までした。
実際には、緊張より高揚の方が強かった。
ここで観客を納得させれば、ミカの疑いなど消える。大勢の前で「れな」が認められれば、少数の違和感は嫉妬として処理される。
「次は、エントリーナンバー十二番、水城れなさんです」
名前を呼ばれ、玲司は舞台へ出た。
照明がまぶしい。
客席には百人近い参加者がいる。その中に遥と咲、そして腕を組んだミカの姿も見えた。
玲司は中央で一礼した。
「はじめまして。水城れな、十九歳です」
客席から「かわいい」という声が上がる。
「今日、初めて大きなイベントに来ました。知らない人ばかりで少し不安でしたが、皆さんが優しく声をかけてくださって……ここへ来てよかったと思っています」
もちろん作り話だった。
それでも声の震え、視線の揺れ、最後に見せる安堵の笑みまで、すべて計算していた。
「私の演じる女の子は、弱そうに見えて、実はとても頑固です。大切な人を守る時だけは、絶対に逃げません」
玲司は胸元で両手を重ね、カメラへ顔を向けた。
「だから私も、今日だけは逃げません。最後まで楽しみます」
拍手が起こった。
皮肉な台詞だったが、その時の玲司は気づいていなかった。
舞台を降りると、何人もの参加者が声をかけてきた。
「演技すごかった」
「本当に初参加?」
「写真、一緒にいいですか?」
玲司は一人ずつ丁寧に応じた。相手の名前を聞き、褒め、アカウントを交換する。短時間で十人以上とつながった。
投票結果は二位だった。
一位は黒瀬ミカ。
ミカは派手な踊りと即興の台詞で会場を沸かせた。表彰のため二人が並ぶと、司会者が笑顔でマイクを向けた。
「清楚系のれなさんと、ギャル系のミカさん。正反対のお二人ですね。お互いの印象はどうですか?」
玲司は先に答えた。
「ミカさんは、とても堂々としていて憧れます。私にはないものをたくさん持っている方です」
模範的な返答だった。
客席から温かい拍手が起こる。
ミカはマイクを受け取り、玲司を見た。
「れなちゃんは、準備がすごく丁寧」
「ありがとうございます」
「表情も声も姿勢も、全部、練習してきたんだろうなって分かる」
「そんな……」
「でも、完成しすぎてて、ちょっと怖いかな」
客席が笑う。冗談として受け取られたらしい。
玲司も笑った。
「よく言われます。緊張すると、失敗しないように頑張りすぎてしまって」
「失敗しない人なんていないよ」
ミカはマイクを下げる直前、客席には届かない声で続けた。
「だから、失敗した時に何を守ろうとするかで分かる」
玲司は横目で睨んだ。
ミカはもう観客へ手を振っていた。
表彰後、遥が駆け寄ってきた。
「二位おめでとう。れなちゃん、本当にすごいね」
「ありがとうございます。遥さんが見ていてくれたから頑張れました」
「私、何もしてないよ」
「見ていてくれるだけで安心するんです」
玲司はそう言いながら、遥の手を両手で包んだ。
遥は一瞬驚いたが、すぐに笑った。
その背後で、ミカがスマートフォンを操作している。
玲司は気づかなかったが、ミカはこの時すでに運営スタッフへ連絡していた。
《水城れなという参加者について、本人確認ではなく行動面の相談があります。まだ断定はできません。女性参加者へ必要以上に個人情報を聞き、複数の別名アカウントを使っている可能性があります》
運営からの返答は慎重だった。
《現時点で規約違反を確認できていません。具体的な行為があれば、被害を受けた本人から相談窓口へ連絡するよう案内してください》
ミカは画面を閉じ、玲司と遥を見た。
玲司の技術は、舞台の上では確かに優れていた。
だからこそ、見た目だけで追及することはできない。
ミカが確かめようとしているのは、変装の正体ではなく、その変装で何をしているかだった。
四
玲司は匿名アカウントから、イベントの共有掲示板に短い投稿をした。
《人気レイヤーのKさん、新人に圧かけてる。怖い》
《撮影場所を横取りされた》
《スタッフと仲がいいから注意しても無駄らしい》
事実ではない。だが、少し疑いを植え付ければいい。
投稿はすぐに拡散された。数人が「私も冷たくされたことがある」と反応し、憶測が膨らんでいく。
玲司は洗面室の個室で画面を見て、満足した。
ところが、外へ出たところでミカが壁にもたれていた。
「何してたの?」
「お化粧直しです」
「十分くらい?」
「女性なら普通です」
「そうだね」
ミカは玲司の手元を見た。
「スマホ、掲示板開いてるけど」
玲司は反射的に画面を伏せた。
「見ないでください」
「ごめん。でもちょうど、あたしの悪口が増え始めたんだよね」
「私には関係ありません」
「そうかな」
ミカが一歩近づく。
玲司はわずかに後退した。厚底ではない靴を選んだのに、それでも相手との身長差は少ない。ミカの視線は、玲司の顔ではなく首元に向いていた。
「その襟、ずっと苦しそう」
「デザインです」
「声を作る時、喉が動くの隠しやすいよね」
玲司の笑顔が固まった。
「何が言いたいんですか」
「れなちゃんって、本当にれなちゃん?」
廊下の奥から人の足音が近づいてきた。
玲司はわざと肩を震わせ、目に涙を浮かべた。
「ひどい……。私のこと、そんなふうに疑ってたんですね」
通りかかった参加者が足を止める。
玲司は声を少し高くし、震えを混ぜた。
「ずっと後をつけられて、怖かったです。私が新人だからですか?」
ミカの眉がわずかに動いた。
周囲の空気が変わる。
「違うよ」とミカは言った。「でも、確認したいことがある」
「もうやめてください」
玲司はその場を離れた。背中に同情の視線を感じる。
勝った。
そう思った。
だが、曲がり角の鏡に映ったミカは、焦っていなかった。
むしろ何かを決めた顔をしていた。
五
二十一時。館内で謎解きイベントが始まった。
参加者は数人ずつのグループに分かれ、旧ホテルの客室や宴会場を巡る。玲司にとっては好都合だった。照明が落ち、人の移動が激しくなる。ミカの目を逃れるには絶好の時間だ。
ところが、受付で渡されたチーム表を見て、玲司は息を呑んだ。
水城れな。
黒瀬ミカ。
三井遥。
藤村咲。
四人一組だった。
「偶然だね」
ミカが笑う。
「運営に頼んだんですか」
「まさか。くじ引きだよ」
玲司は信じなかった。
謎解きの舞台は、閉鎖された東館だった。薄暗い廊下に古い絨毯が敷かれ、壁には仮面をつけた人物の肖像画が並んでいる。各部屋の鍵を見つけ、最上階の展望室を目指す趣向だ。
最初の部屋で、遥と咲が暗号表を調べている間、ミカが小声で言った。
「あなた、今日が初参加じゃないよね」
「初めてです」
「去年、別の名前で来てたでしょ」
玲司は振り返らない。
「人違いです」
「去年、女性参加者にしつこく連絡して、運営から注意された人がいた。顔は見てない。でも話し方の癖が似てる」
「どんな癖ですか」
「相手を褒める時、必ず二回言い直す。『きれい』って言ったあと、『本当にきれい』って重ねる」
玲司は舌打ちしそうになった。
確かに無意識の癖だった。
「それだけで疑うんですか」
「それだけじゃない」
ミカはポケットから小さな透明袋を出した。中には、肌色の薄い破片が入っている。
「さっき廊下に落ちてた。舞台用の補整材。あなたが通った直後にね」
玲司は首元に触れた。肩線を整えるシリコン板の端が、わずかに欠けている。
「コスプレイヤーなら誰でも使います」
「そう。だから決定打じゃない」
「だったら放っておいてください」
「嫌だね。あなたが普通に参加してるだけなら謝る。でも、誰かをだまして近づいてるなら止める」
玲司はようやくミカを見た。
「正義の味方のつもりですか」
「違う。こういう場所を壊されたくないだけ」
遥が振り返った。
「二人とも、何の話?」
「なんでもないよ」とミカが答えた。
玲司も微笑んだ。
「次の鍵、見つかりましたか?」
表面上は穏やかなまま、二人の対立は決定的になった。
六
東館の四階で、玲司は罠を仕掛けた。
謎解き用の小道具に紛れていた非常ベル型のスイッチを押し、照明を一時的に落とす。完全な停電ではない。保安灯だけが残り、参加者がざわつく程度の混乱だった。
「動かないで!」とスタッフの声が響く。
玲司は遥と咲から離れ、従業員用通路へ滑り込んだ。
この建物の裏導線は、機材スタッフとして以前入った時に覚えている。三階の倉庫へ降り、用意していた予備バッグを回収する。
個室に鍵をかけ、玲司は変装を解体し始めた。
逃げるためではない。
別人に変わるためだ。
栗色のロングウィッグを外し、ネットを締め直す。代わりに短い銀髪のボブをかぶる。清楚な眉をクレンジングで消し、角度のある濃い眉に描き変える。目元の色を水色から紫に変え、口紅も落ち着いた桃色から暗い赤へ。
服の下から胸元のパッドを一部抜き、腰回りの補整具も薄いものに交換する。コルセットの締め方を変え、輪郭を少し直線的にする。清楚なロングスカートは脱ぎ、バッグに入れていた黒いジャケットと細身のパンツに着替えた。
声も変える。
「……こんばんは。遅れてすみません」
少し低めの女性声。息を多く混ぜず、落ち着いた調子。
鏡に映るのは、二十代前半のクール系コスプレイヤーだった。
玲司は新しい入場証を取り出した。会場で拾った落とし物を加工した偽物だ。名は「神谷ユイ」。
「これで終わりだ、黒瀬ミカ」
玲司は「水城れな」の衣装一式をバッグに詰め、倉庫の天井裏へ押し込んだ。
通路へ戻ると、照明は復旧していた。スタッフが参加者を誘導している。
「大丈夫ですか?」
玲司は困った表情を作って、近くの女性スタッフに声をかけた。
「西館から来たんですが、道に迷ってしまって」
「東館は今、謎解き参加者以外立入禁止です。こちらへどうぞ」
案内されながら、玲司は遠くにミカの姿を見つけた。
ミカは栗色の髪の「れな」を探している。
銀髪の玲司と一瞬目が合ったが、視線はすぐに外れた。
成功だ。
玲司は笑いをこらえた。
倉庫を出る前、玲司はさらに細工をした。
「水城れな」の栗色のウィッグから数本の毛束を切り、裏口へ続く階段に落とす。清楚な衣装のリボンも非常扉の取っ手へ結びつけた。追う者に、れなが屋外へ逃げたと思わせるためだ。
さらに、れなのアカウントへ予約投稿を設定した。
《急に体調が悪くなったので帰ります。心配させてごめんなさい》
投稿時刻は二十一時二十分。
玲司が「神谷ユイ」として西館へ戻る頃には、れなは会場を去ったことになる。
鏡の前で最終確認をする。
清楚なれなは、声を喉の上部へ集め、語尾を丸くしていた。ユイは逆に、息を前へ流し、短く言い切る。歩幅も広げ、手を胸元で重ねる癖をやめる。視線は伏せず、相手の目をまっすぐ見る。
同じ顔の土台から、別人を作る。
玲司はこの作業が好きだった。
鏡の前で、自分という輪郭が消えていく瞬間だけは、仕事も経歴も過去の失敗も関係ない。技術さえあれば、望む人物になれる。
ただし彼は、自分自身を変えようとはしなかった。
他人に見せる表面だけを変え、相手の反応が変わることを勝利だと思っていた。
倉庫の扉を開けると、廊下には誰もいなかった。
玲司はユイの声で呟いた。
「水城れなは、もういない」
その言葉は変装の宣言であると同時に、証拠を捨てたつもりの人間の慢心でもあった。
七
西館へ戻った玲司は、「神谷ユイ」として活動を再開した。
変装を変えたことで大胆になった。水城れなのアカウントから約束していた三人目の女性、二十五歳の美容師・秋月理央に連絡し、「れなは体調が悪くなった。代わりに友人のユイが会う」と伝えた。
理央は疑わなかった。
「れなちゃん、大丈夫?」
「少し貧血みたいです。休憩室で寝ています」
「そっか。心配だね」
「私が代わりに案内します。夜景デッキ、行きませんか」
玲司は理央と二人でガラス張りの回廊を歩いた。外には黒い海と都市の光が広がっている。
理央は気さくで、初対面にもかかわらずよく話した。玲司は相槌を打ちながら、会話を個人的な方向へ誘導する。
「一人暮らしって寂しくないですか」
「慣れたよ」
「恋人とか、よく泊まりに来るんですか」
「いないいない」
「じゃあ、私が――」
その時、理央のスマートフォンが鳴った。
画面にはミカからの一斉連絡が表示されていた。
《水城れなさんを探しています。本人確認が必要な事情があります。見かけても一人で対応せず、スタッフへ連絡してください》
玲司の心臓が跳ねる。
「何これ」と理央が言った。
「さあ。ミカさん、れなを嫌っているみたいで」
「でも、本人確認が必要って」
「大げさなんです。新人を追い出したいだけ」
玲司は理央のスマートフォンをのぞき込みながら、平静を装った。
だが、次の投稿が届く。
《別衣装・別メイクに変更している可能性があります。声や名札だけで判断しないでください》
玲司は歯を食いしばった。
なぜ分かった。
理央が玲司を見る。
「ユイさん、れなちゃんとどこで知り合ったの?」
「撮影会です」
「どこの?」
「大阪のスタジオ」
「スタジオ名は?」
玲司は即答できなかった。
理央の表情から笑みが消える。
「ごめん。私、スタッフのところ行くね」
「待ってください」
玲司が腕を掴むと、理央は強く振り払った。
「触らないで」
周囲の参加者が振り向く。
玲司は声を抑えた。
「誤解です」
「だったらスタッフの前で説明して」
理央は早足で歩き出した。
玲司は追いかけようとしたが、回廊の向こうからミカが現れた。
「見つけた」
銀髪の玲司を見て、迷いなくそう言った。
八
「人違いです」
玲司は低めの女性声で答えた。
「神谷ユイです。水城れなさんではありません」
「そういうことにしたんだね」
ミカは距離を詰めない。代わりに、回廊の両端へ視線を送った。スタッフが二人、静かに近づいてくる。
「何の証拠があるんですか」
「れなの名札に仕込んだ紫外線スタンプ」
玲司の顔から血の気が引いた。
「さっき謎解きの受付で、参加者全員の手袋に押してた。暗号の一部って説明したでしょ」
玲司は右手を背中へ隠した。
「ユイさんの手袋にも、同じ位置に同じスタンプがあるはず」
「同じチームだった人なら全員ついています」
「れなとユイが別人なら、二人とも今ここにいるはずだよね」
「れなは休憩室です」
「確認した。いない」
理央がスタッフの後ろへ下がる。
ミカは続けた。
「それと、あなたが倉庫に入るところ、防犯カメラに残ってる。出てきたのはユイ。でも入ったのはれな」
玲司は逃げ道を探した。
左はスタッフ。右はミカと理央。背後はガラス壁。前方の非常口までは二十メートル。
「衣装替えをしただけです」
「だったら、れなとユイが同一人物だと認める?」
玲司は黙った。
「問題は衣装替えじゃない」とミカは言う。「偽の名札を使ったこと。複数の人に別人として近づいたこと。相手が嫌がってるのに個人情報を聞き続けたこと」
「犯罪者みたいに言わないでください」
「犯罪かどうかは運営と警察が判断する。あたしは、あなたを止める」
玲司は笑った。
女性声ではなく、地声に近い低い声だった。
「止める? お前一人で?」
理央が息を呑む。
ミカの表情は変わらない。
「やっぱり声、作ってたんだ」
「だから何だよ。男が女装してイベントに来ちゃいけない規則でもあるのか」
「女装が問題なんじゃない。だまして近づいたことが問題」
「同じだろ。結局、お前も見た目で決めつけてる」
「違う」
ミカの声が鋭くなる。
「女装してる人も、男装してる人も、ここには大勢いる。みんな自分の表現として参加してる。あなたは相手の警戒を下げる道具として使った。それを一緒にするな」
玲司は返答せず、非常口へ走ろうとした。
その直前、理央のスマートフォンを奪おうと手を伸ばす。
理央が身を引いたため、指先が端末のケースをかすめただけだったが、その動きで周囲の空気が完全に変わった。
「今、何しようとしたの?」
「連絡を止めようとしただけです」
「それを奪うって言うんだよ」
理央は後退し、近くにいた二人組の参加者のそばへ移った。
玲司は一人になった。
さっきまで「ユイさん」と呼んでいた人たちが、もう名前を呼ばない。目の前にいる人物が誰か分からないからだ。
ミカはそれを見てから言った。
「もう終わりにしよう。自分からスタッフのところへ行って」
「嫌だと言ったら?」
「出口を封鎖してもらう」
「俺を閉じ込めるのか」
「規約違反の確認が終わるまで待ってもらうだけ」
「女装しただけで?」
「また話をすり替える」
ミカは苛立ちを隠さなかった。
「何度でも言う。服もウィッグも声も関係ない。偽の名札と、嫌がる相手への接触と、無断撮影の疑い。問題はそこ」
理央が静かに付け加えた。
「それに、れなちゃんが本当に体調を崩したと思って心配した。ユイさんが友達だって言うから信じた。その気持ちも利用したよね」
玲司は笑みを消した。
「心配したのはお前の勝手だ」
理央の顔が強張る。
ミカの目つきが変わった。
「今の、スタッフの前でも言える?」
「何度でも言ってやる」
「じゃあ行こう」
「命令するな」
玲司は周囲を見回した。
回廊のガラスには、自分の姿がいくつも映っている。銀髪、黒いジャケット、細く作った輪郭。どの像も神谷ユイのはずなのに、その中心にいる自分だけが、急に借り物の姿に思えた。
ミカが一歩近づく。
玲司は反射的に非常口へ走った。
九
厚底ではない靴でも、補整具を重ねた状態では全力で走りにくい。
玲司は回廊を駆け抜け、非常扉を押し開けた。警報音が鳴る。階段を二段飛ばしで降り、二階の展示ホールへ飛び込む。
会場は仮面舞踏会の時間だった。
参加者の多くが仮面をつけ、音楽に合わせて移動している。照明は青と紫。人混みに紛れれば逃げられる。
玲司は銀髪のウィッグを外しかけたが、固定ピンが多く、簡単には取れない。そこで近くの衣装ラックからフード付きの外套を奪い、頭からかぶった。
出口へ向かう。
だが、進行方向にスタッフが現れる。反対側へ曲がると、ミカが人混みを割って追ってきた。
「止まって!」
「どけ!」
玲司は参加者を押しのけた。悲鳴が上がる。
ステージ脇の暗幕をくぐり、搬入口へ出る。大型ケースや照明スタンドが並ぶ狭い通路だ。
外まであと少し。
玲司は扉のバーに手をかけた。
しかしロックされている。
「非常時以外、外からしか開かないよ」
背後でミカが言った。
玲司は振り返った。
「お前、何なんだよ」
「ただの参加者」
「嘘つけ。最初から俺を疑ってた」
「去年、友達が同じ手口に遭った」
ミカの声が低くなる。
「女性のふりをした人に相談に乗ってもらって、安心して個人情報を話した。あとで男だと分かって、断ったら写真をばらまくって脅された。運営が対応して、大事にはならなかったけど、友達はコスプレをやめた」
「それが俺だって証拠はない」
「ないよ。だから最初は確認したかった。でも今のあなたの行動で十分」
「俺は脅してない」
「まだ、でしょ」
玲司は近くの照明スタンドを蹴った。ミカが反射的に身を引く。
その隙に横をすり抜けようとしたが、外套の裾を踏み、体勢を崩した。
ミカが腕を掴む。
「離せ!」
玲司は振り払おうとした。
二人はケースの間でもみ合った。ミカは殴らず、玲司の手首を押さえようとする。玲司は肩をぶつけ、力任せに逃げようとした。
その拍子に、銀髪ウィッグの端がケースの金具へ引っかかった。
ピンが外れ、ウィッグが大きくずれる。
下に隠していたネットと、短くまとめた地毛が露出した。
追いついたスタッフたちが息を呑む。
「撮るな!」とミカが周囲へ叫んだ。「スマホ下げて!」
数人がカメラを向けかけていたが、スタッフが制止する。
玲司はずれたウィッグを押さえ、逃げようとした。
「触るな!」
スタッフの一人が言う。
「佐伯さん、抵抗しないでください。入場時の本人情報は確認済みです。あなたの本名も把握しています」
玲司の動きが止まった。
本名を呼ばれた。
その瞬間、「神谷ユイ」も「水城れな」も崩れた。
展示ホールの奥には、今回の目玉企画である「鏡の回廊」があった。
等身大の鏡と半透明のパネルを迷路状に並べ、光の反射で通路が無数に分岐して見える撮影セットだ。
玲司はスタッフの手を振り切り、そこへ飛び込んだ。
外套を脱ぎ捨て、鏡の陰へ身を滑らせる。正面にも左右にも銀髪の人物が映る。追う側から見れば、どれが本物か一瞬では分からない。
「佐伯さん!」
スタッフの声が響く。
本名を呼ばれたが、玲司は応じなかった。
鏡の間を進みながら、ウィッグのピンを二本抜く。今度こそ外し、地毛のまま別の出口へ出るつもりだった。
だが、急いだため髪がネットへ絡んだ。
「くそっ」
低い声が漏れる。
鏡の向こうで、ミカが足を止めた。
「今、聞こえた」
玲司は息を殺す。
「声を変えても、焦ると戻るんだね」
ミカは鏡を叩いた。音の反響で位置を探っている。
玲司も別の鏡を叩き、音を散らした。
「子どもの遊びじゃないんだぞ」
「分かってる。だからスタッフ呼んでる」
「一人じゃ何もできないくせに」
「一人でやる必要ないでしょ」
その返答に、玲司は苛立った。
彼はずっと、一人で完璧な変装を作ったことを誇っていた。衣装も声も動作も、自分の技術だけで完成させた。誰かに頼ることを負けだと思っていた。
ミカは逆だった。
疑えば運営へ相談し、危険を感じれば周囲へ知らせ、理央や遥や咲の意思を確認する。自分だけで英雄になろうとしない。
その差を、玲司は弱さと呼びたかった。
だが追い詰められているのは自分だった。
出口を見つけ、玲司は走る。
しかしそこは本物の通路ではなく、鏡に映った反射だった。肩から鏡へぶつかり、大きな音が鳴る。
「いた!」
ミカが駆けてくる。
玲司は別の通路へ曲がり、低い仕切りを飛び越えた。着地した瞬間、コルセットの留め具が脇腹へ食い込む。息が止まり、膝が揺れた。
補整具は静かに立ち、計算した歩幅で動くためのものだ。逃走を想定していない。
玲司は壁に手をつき、呼吸を整えようとした。
鏡には、額に汗を浮かべたユイが映っている。メイクの境目がわずかに浮き、ウィッグは片側へ傾いていた。
完璧だったはずの像が、動くたびに壊れていく。
玲司は鏡を拳で叩いた。
ひびは入らなかった。
代わりに、鈍い痛みだけが返ってきた。
ミカの姿が鏡の奥に現れる。
玲司は再び走り、搬入口へ続く暗幕をくぐった。
十
玲司はなおも認めようとしなかった。
「これはただのコスプレだ。何が悪い」
ウィッグは半分外れたまま。暗い赤の口紅は、さきほどのもみ合いで頬に筋を作っている。
「手を離してくれ。自分で直す」
スタッフは距離を保ち、落ち着いた声で答えた。
「まず、偽造した入場証を提出してください」
「拾っただけだ」
「加工されています」
「知らない」
「では、手荷物確認に協力してください」
「断る」
玲司はジャケットの内側へ手を入れた。スタッフが身構える。
取り出したのはスマートフォンだった。
「データを消すだけだ」
「やめて」
ミカが一歩出る。
玲司は画面を操作しようとした。しかし理央が遠くから言った。
「さっき、私の写真撮ったよね」
「撮ってない」
「回廊でスマホを向けてた」
「景色を撮っただけだ」
「確認させて」
「嫌だね」
玲司はスマートフォンを床へ投げ、踏みつけようとした。
ミカが足を入れて止める。
玲司は再び腕を振り払った。今度はスタッフ二人が左右から押さえた。
「放せ!」
暴れた拍子に、ジャケットの前が開く。
内側で固定していた薄いパッドがずれ、片側だけ不自然に下がった。腰回りの補整具も留め具が外れ、衣装の線が崩れる。
玲司は慌てて前を閉じようとする。
だが、スタッフは手を押さえたままだ。
「安全確認のため、衣装の中に硬い物や刃物がないか確認します。女性スタッフを呼びます」
「必要ない!」
「あなたが男性であることは把握しています。男性スタッフも同席します。必要最小限の確認です」
「見るな!」
玲司は叫んだ。
さっきまで、自分の技術を誰かに見せつけたくて仕方がなかった。だが今は、作り物の輪郭が崩れていくことが恐ろしかった。
女性スタッフが到着し、周囲をパーティションで囲った。撮影者が近づかないよう、別のスタッフが通路を封鎖する。
ミカは外へ出ようとした。
「待て」
玲司が呼び止める。
「お前が始めたんだ。最後まで見ろよ」
ミカは振り返った。
「見世物にするつもりはない」
「怖いのか?」
「違う。あなたの変装を笑う気はないから」
その言葉が、玲司には最も腹立たしかった。
十一
手荷物検査は、淡々と進んだ。
スタッフは先に、玲司へ説明した。安全確保と本人確認のため、外から触れて硬い物がないか確認する。必要があれば、本人に一つずつ外してもらう。拒否を続ける場合は警察の到着を待つ。
玲司は警察を嫌い、渋々応じた。
まず銀髪のウィッグを外した。
固定ピンを一本ずつ抜く。乱れたネットの下から地毛が現れる。ウィッグを机に置くと、「神谷ユイ」の印象が消えた。
次にメイクを一部落とすよう求められた。
「本人確認に必要な範囲だけです」
スタッフからクレンジングシートを渡される。
玲司は鏡を見ず、額と頬を拭った。暗い眉の輪郭が薄れ、シェーディングが落ちる。頬に広がっていた赤い筋も消えたが、その下から青ざめた男の顔が浮かび上がる。
「もっと」
スタッフに言われ、玲司は目元も拭った。
紫のアイシャドウが白いシートへ移る。つけまつげを外すと、目の形が急に小さく見えた。口紅も消し、輪郭を補正していたテープも剥がす。
最後に、衣装の下の補整具を自分で外した。
胸元のパッド。腰回りのパッド。肩線を整えるシリコン板。胴を締めていたコルセット。
どれも舞台衣装では珍しくない道具だった。問題は道具そのものではない。
玲司が、それを偽りの身分と信頼を作るために使ったことだった。
パーティションの外で、遥と咲が待っていた。
スタッフが二人に事情を説明し、必要であれば警察へ相談できると伝えている。
遥は青ざめ、咲は俯いていた。
玲司は二人へ言った。
「別に、危害を加えるつもりはなかった」
咲が顔を上げる。
「でも、私が女性だと思って話したことを、あなたは知ってた」
「俺が男だって最初から言ったら、お前は話さなかっただろ」
「だから、だましたんですよね」
「話くらい、いいだろ」
「よくないです」
咲の声は震えていたが、はっきりしていた。
「私が誰に何を話すかは、私が決めます。あなたが決めることじゃない」
玲司は言い返せなかった。
遥も言った。
「褒めてくれたことも、写真撮ってくれたことも、全部うそだったの?」
「全部じゃない」
「どこまでが本当か、もう分からない」
その一言が、玲司の作り上げたものを完全に壊した。
十二
警察が到着するまでの間、運営責任者が記録を確認した。
偽造入場証。
匿名掲示板への中傷投稿。
倉庫への無断侵入。
女性参加者への執拗な接触。
非常設備の不正操作。
逃走時の備品損壊。
玲司が想定していなかった項目が、次々に積み上がっていく。
「俺は誰も殴ってない」
「暴力だけが問題ではありません」と責任者は答えた。「参加者の安全と信頼を損なう行為をしています」
「ミカだって俺を追い回した」
「黒瀬さんにはスタッフへの報告を早めるべきだった点があります。そこは別に確認します。しかし、あなたの行為が正当化されるわけではありません」
玲司は椅子に座り、顔を背けた。
メイクを落とした顔。補整具を外した体。黒いジャケットだけが、先ほどまでの「ユイ」の名残だった。
ミカが部屋へ入ってきた。
「何しに来た」
「確認」
「勝った気分か」
「別に」
「俺の変装、見抜けなかったくせに」
「最初はね」
「だったら完璧だった」
ミカは少し考えてから言った。
「完璧じゃないよ」
「どこが」
「見た目じゃない。人への近づき方」
玲司は睨んだ。
「あなた、相手を見てなかった。反応だけ見てた。褒めたら笑うか、近づいたら引くか、個人情報を出すか。人じゃなくて、攻略する対象みたいに扱ってた」
「心理分析ごっこか」
「違う。コスプレって、見た目を変える遊びだけど、中身まで消えるわけじゃない。むしろ普段より出ることがある」
「何が言いたい」
「あなたは女装が下手だったんじゃない。人をだますのが下手だった」
玲司は立ち上がりかけたが、警備員に制止された。
「黙れ」
「もう黙るよ」
ミカは扉へ向かった。
「ただ、れなってキャラクターは、もったいなかった」
玲司は顔を上げる。
「何だと」
「普通に『成人男性が演じる十九歳の女性キャラクター』として出てたら、すごい技術だったと思う。声も歩き方も、衣装の作り方も。たぶん、みんな驚いた」
「慰めか」
「事実。だから余計に腹が立つ。使い方を間違えた」
ミカは部屋を出た。
玲司はしばらく、閉じた扉を見ていた。
十三
警察の事情聴取は深夜まで続いた。
匿名投稿の記録、偽造した入場証、倉庫へ侵入した映像。スマートフォンからは、参加者とのメッセージや、本人に無断で撮影した写真が見つかった。
玲司はその場で逮捕されなかったが、後日あらためて呼び出しを受けることになった。イベントからは永久出入り禁止。運営会社は被害届の提出を検討し、損壊した備品の弁償も請求するという。
午前二時過ぎ。
玲司はスタッフ通用口から外へ出された。
顔にはほとんど化粧が残っていない。地毛はネットの跡で潰れ、黒いジャケットの下は、サイズの合わない服がだぶついている。
紙袋の中には、外されたウィッグやパッド、コルセットが無造作に入れられていた。
海風が冷たい。
正面玄関ではイベントがまだ続いていた。ガラス球の照明が輝き、衣装姿の参加者たちが笑いながら写真を撮っている。
玲司は建物を振り返った。
自分があの中で、誰よりも注目されるはずだった。
水城れなとして。
神谷ユイとして。
だが、どちらももう存在しない。
残っているのは佐伯玲司だけだ。
「技術は完璧だった」
玲司は呟いた。
誰も答えない。
スマートフォンは証拠品として預けている。連絡先も、写真も、匿名アカウントも手元にはない。
紙袋の中で、真珠風イヤリングが小さく鳴った。
玲司はそれを取り出した。
安い金属と樹脂でできた飾り。水城れなのために選んだものだった。鏡の前でつけた時は、本物の人格を生み出す鍵に見えた。
今はただの小道具だった。
玲司は海へ投げようとした。
しかし手を止め、紙袋へ戻した。
捨てれば終わる気がした。
終わらせたくない自分がいることに気づき、玲司はさらに惨めになった。
帰宅したのは、始発が動き始める頃だった。
玲司の部屋には、変装用の鏡が三枚並んでいる。正面、左、右。どの角度から見ても破綻がないか確認するための配置だった。
机の上には、以前試したウィッグが十数個。棚には化粧品、接着剤、テープ、補整具。壁には歩き方や発声の注意点を書いた紙が貼られている。
《歩幅は小さくしすぎない》
《笑う前に一拍置く》
《語尾を上げ続けない》
《肩より先に顔を向ける》
すべて玲司が積み上げてきた技術の記録だった。
彼は紙袋を床へ置き、正面の鏡に座った。
警察署の洗面台で落とし切れなかった接着剤が、生え際に白く残っている。耳の後ろにはテープの跡。長時間締めていたコルセットの圧迫感も消えていない。
玲司はクレンジングを手に取った。
頬を拭く。
何も変わらない。
すでにほとんど素顔だからだ。
それでも何度も拭いた。水城れなの名残が残っている気がした。神谷ユイの表情が、皮膚の下に貼り付いているように思えた。
やがてシートが乾き、肌が赤くなる。
「俺は悪くない」
鏡へ向かって言った。
「話しかけただけだ。連絡先を聞いただけだ。嫌なら断ればよかった」
鏡の中の男は納得していない顔をしている。
「だましたって、何をだました。見た目なんて、みんな作ってるだろ」
返事はない。
玲司は立ち上がり、壁のメモを一枚剥がした。
その裏に、練習を始めた頃の写真が貼ってあった。
初めて栗色のウィッグをかぶった日の写真。眉は太く、化粧は浮き、表情も硬い。今の技術とは比べものにならない。
それでも写真の自分は笑っていた。
誰かをだます計画を立てる前だった。
単純に、別の姿を作れることが面白かった頃だ。
玲司は写真を破ろうとした。
指に力が入らない。
代わりに机の引き出しへ押し込み、閉めた。
数日後、イベント運営から正式な通知が届いた。永久参加禁止と、備品修理費・警備追加費用の請求。匿名投稿については、ミカへの謝罪と削除が求められた。
遥、咲、理央からは、今後一切連絡しないよう代理人を通じて伝えられた。
玲司は最初、その文面を「大げさだ」と笑った。
しかし、連絡手段がすべて閉ざされた時、ようやく自分が何を失ったのかを理解し始めた。
彼女たちは、玲司を知ったうえで嫌ったのではない。
玲司が誰であるかを知る機会を奪われたまま近づかれ、後から選択をやり直したのだ。
その結果が拒絶だった。
玲司は、それを「正体が男だったから」と考えれば楽だった。女装への偏見の被害者だと思えるからだ。
だが、ミカの言葉が邪魔をした。
《女装が問題なんじゃない。だまして近づいたことが問題》
何度振り払っても、その区別だけが残った。
一か月後、玲司は匿名投稿を削除し、短い謝罪文を運営へ送った。言い訳を何度も書き足し、そのたびに消した。
《私が偽名と偽造名札を用い、参加者の意思を無視して接触したこと、混乱を招く投稿を行ったことを認めます。関係者へ謝罪します》
十分な謝罪ではなかった。
被害を受けた側が許す必要もない。
それでも、少なくとも「女装しただけ」という逃げ道は文面から消えた。
二か月目、玲司は鏡の前に再び座った。
栗色のウィッグをかぶる。
補整具は使わなかった。化粧も最低限にした。水城れなを再現するためではなく、何が残っているのか確かめるためだった。
「水城れな、十九歳です」
女性声を出す。
以前と同じ音域だったが、聞こえ方はまるで違った。
架空の十九歳として相手へ近づくための声ではなく、二十八歳の玲司が演技として出している声。その事実を隠さない限り、ただの表現でしかない。
玲司はスマートフォンの録画を始めた。
「佐伯玲司、二十八歳。男性です。女装と女性声の練習をしています。今から、十九歳の成人女性キャラクターを演じます」
言い終えるまでに、三回撮り直した。
最初の二回は、どうしても「男性です」の声が小さくなった。
三回目、ようやく同じ音量で言えた。
録画を見返す。
華やかさはない。秘密も驚きもない。変身の魔法を、自分で先に説明してしまっている。
それでも玲司は、初めて鏡ではなく、記録の中にいる自分を正面から見た。
動画は投稿しなかった。
公開する勇気はまだなかった。
ただ、その日の夜に書いたのが、ミカへ送った署名のない手紙だった。
十四
三か月後。
黒瀬ミカは、小規模な撮影会の控室で新しいウィッグを整えていた。
《グラス・パレス》での事件以降、運営は本人確認と名札管理を強化した。参加者向けには、困った時の相談窓口と、撮影・連絡先交換に関するガイドラインが配られるようになった。
ミカ自身も、勝手に相手を追い詰めず、早い段階でスタッフへ共有することを学んだ。
遥はイベント参加を続けている。咲はしばらく休んだが、最近また衣装制作を始めた。理央は、写真を撮る前に必ず確認する習慣を仲間へ広めている。
事件は噂になったが、運営は玲司の変装写真を公開しなかった。本人の行為と、女装そのものを混同させないためだった。
ミカはその判断を支持した。
控室のドアがノックされる。
「黒瀬さん、手紙が届いてます」
「誰から?」
「差出人、書いてないです」
封筒の中には、便箋が一枚だけ入っていた。
《あの時、お前が言ったことを考えた。
女装が問題じゃない。
だますために使ったことが問題。
まだ納得したわけじゃない。
でも、次に人前へ出るなら、本名で出る。
十九歳の女性を演じる二十八歳の男として。
笑われても、最初からそう名乗る。
それで誰も見てくれないなら、俺の技術はその程度だったということだ。》
署名はない。
だが、誰が書いたかは分かった。
ミカは便箋を折り直した。
「返事、書きますか?」とスタッフが尋ねる。
「住所ないし」
「そうですね」
ミカは手紙を衣装ケースの内ポケットへ入れた。
「でも、まあ」
鏡の前で金髪のポニーテールを固定し、派手なアクセサリーをつける。
「次は正面から来いって、言いたいかな」
撮影会の開始を告げるアナウンスが流れた。
ミカは立ち上がり、控室を出る。
廊下の先には、白い照明と、待っている人たちの声があった。
見た目を変えることは、嘘ではない。
別の姿を借りることも、別の声を出すことも、誰かになりきることも、それだけなら裏切りではない。
嘘になるのは、相手が選ぶために必要なことを、意図して奪った時だ。
硝子の館で壊れたのは、ウィッグでもメイクでも補整具でもなかった。
最初からそこになかった、信頼だった。
了




