人生の数式 ―― 板中太郎の物語
## 序章 書きかけの原稿
机の上に、一冊の古びたノートが置かれている。表紙には几帳面な字で「板中太郎の物語」と書かれていた。書いたのは、板中太郎その人である。
老いた太郎は、自分の人生を「物語」として書くことに決めた。自伝と銘打てば、どうしても事実の羅列になる。しかし物語として書けば、あの日々の手ざわり――半田ごての焦げる匂い、体育館の白いマグネシウムの粉、五大湖から吹きつける凍った風――を、そのまま紙の上に呼び戻せる気がしたのだ。
だから彼は三人称で書く。「私」ではなく「太郎」と。まるで他人の人生を眺めるように。それは彼が生涯をかけて証明しようとした、あの数式の視点でもあった。人の一生を、外側から、ひとつの数式として眺める視点。
ノートの一行目には、こう記されている。
――ひとりの人間の人生は、ひとつの数式に収まる。
この物語は本当の事である。嘘だと思う読者もいるかもしれないが、本当の事だから仕方ない。
物語は、病弱なひとりの少年から始まる。
## 第一章 虫かごの中の宇宙
板中太郎は、生まれつき体の弱い子どもだった。
季節の変わり目には必ず熱を出し、幼稚園は休みがちで、小児喘息の発作が来ると、母は夜通し背中をさすってくれた。医者は「この子は無理をさせないように」と繰り返し、太郎の世界は、布団の中と、縁側から見える小さな庭がすべてだった。
熱を出した太郎に、母はときどき、奮発してメロンを買ってきた。スプーンですくった淡い緑の果肉と、あの香り。メロンは太郎の生涯の好物になった。後年、どれほど偉くなっても、太郎の研究室の冷蔵庫には、たいていメロンが冷えていた。
しかし、その小さな庭が、太郎にとっては宇宙だった。
熱が下がった日の縁側で、太郎は飽きずに庭を眺めた。アリの行列が石の下へ吸い込まれていく。カマキリが前脚を畳んで、微動だにせず獲物を待つ。夏の朝、セミの幼虫が殻を割り、淡い緑色の成虫がゆっくりと翅を伸ばしていく――その一部始終を、太郎は息を止めて見つめた。
「おかあさん、セミはどうして、ちゃんと羽化のしかたを知ってるの? だれにも教わってないのに」
母は笑って「神さまが教えたのよ」と答えたが、太郎は納得しなかった。誰にも教わっていないのに、正しい手順が最初から体の中に書き込まれている。それが不思議でたまらなかった。あらかじめ組み込まれた仕組みが、時が来ると正確に動き出す――後年、太郎が回路と数式に見出すことになる魅惑の原型は、この夏の朝の羽化にあった。
体が弱くて外を駆け回れないぶん、太郎は観察した。虫かごには常に何かが入っていた。カブトムシ、スズムシ、オオカマキリ。図鑑は表紙が外れるまで読み込まれ、太郎は近所の誰よりも虫に詳しい子どもになった。
「太郎ちゃんは体が弱いのがかわいそうね」と近所の大人たちは言った。だが太郎自身は、自分をかわいそうだと思ったことは一度もなかった。走り回る友だちが夕方に見落としていくものを、自分は縁側からぜんぶ見ている。そういう静かな自負が、小さな胸の中にはあった。
## 第二章 ラジオの中の魔法
小学一年の正月、親戚の集まりで、太郎の人生を変える出会いがあった。
母方の従兄で、電機メーカーに勤める修一という青年がいた。修一は退屈そうにしている太郎を見かねて、鞄から小さな箱を取り出した。ゲルマニウムラジオの組み立てキットだった。
「太郎くん、これ、電池がなくても音が鳴るラジオだよ。一緒に作ってみるか」
コイルを巻き、ダイオードをつなぎ、イヤホンを耳に差し込む。電池はどこにもない。それなのに、耳の奥で、確かに人の声がした。ラジオ局のアナウンサーの声が、目に見えない電波に乗って、この小さな部品の寄せ集めに届いている。
太郎は、雷に打たれたようになった。
「修一にいちゃん、電気もないのに、どうして声が聞こえるの?」
「空気の中を電波が飛んでるんだ。このコイルとコンデンサが、その中からひとつの放送だけを選び出してる。同調っていうんだよ」
目に見えない法則が、部品の組み合わせによって、音という形になって現れる。それはセミの羽化と同じだった。あらかじめ定められた仕組みが、条件が揃った瞬間に、正確に動き出す。ただし今度は、その仕組みを自分の手で組み立てられるのだ。
その日から、太郎の小遣いはすべて部品代に消えた。町の電器店に通いつめ、廃品置き場から壊れたラジオを拾ってきては分解した。抵抗のカラーコード――茶・黒・赤・橙――を、九九より先に暗記した。半田ごてで畳を焦がして母に叱られ、それでもやめなかった。
修一は盆と正月に来るたび、少しずつ難しい課題をくれた。並三ラジオ、五球スーパー、簡単なアンプ。太郎はそのすべてを組み上げた。回路図という「読み物」があることを知ったのもこの頃だ。虫の図鑑が回路図集に替わった。ただそれだけのことで、太郎の観察の対象は、庭の宇宙から電子の宇宙へと、なめらかに移っていった。
相変わらず体は弱く、運動会ではいつもビリだった。しかし太郎の机の上では、自作のラジオが鳴っていた。それは、かけっこの一等賞より、ずっと確かな勲章だった。
## 第三章 専門書と鉄棒
中学生になった太郎の鞄には、教科書のほかに、いつも分厚い本が一冊入っていた。『トランジスタ回路の設計』。町の書店の技術書コーナーで見つけた、大人の技術者が読むための専門書である。
書店の主人は、学生服の少年がその本をレジに置いたとき、思わず聞き返した。
「坊や、これはお父さんの使いかい?」
「いえ、僕が読みます」
最初は歯が立たなかった。数式が出てくるたびにつまずき、一ページに一時間かかることもあった。しかし太郎はやめなかった。わからない数式は図書室で調べ、それでもわからなければ、わかるところまで戻って読み直した。半年かけて一冊を読み終えたとき、太郎は気づいた。専門書は難しいのではない。ただ、ごまかしがないだけなのだ。子ども向けの本が「こうなります」と結果だけを教えるところを、専門書は「なぜこうなるか」を最後まで語ってくれる。太郎が知りたかったのは、いつだって「なぜ」の方だった。
インターネットなどない時代である。わからない言葉を調べる手立ては、紙の辞典しかなかった。太郎は辞典を片手に、一語ずつ、電子回路の技術書を読み解いていった。かなりの苦労だった。それでも読み続けるうちに、雑誌の解説記事を頼りに、テレビ放送局に据えられているような最先端の業務用機器の回路までも、理解できるようになっていった。
トランジスタの増幅作用、発振回路、負帰還の理論。中学二年の太郎のノートには、教師が見ても理解できない回路図と計算式が並ぶようになった。
一方で、学校の勉強への興味は、きれいなほど失われていった。国語も社会も英語も、太郎にとっては「なぜ」に答えてくれない科目だった。通知表は理科と数学だけが突出し、あとは沈んでいた。三者面談で担任は「もったいない。やればできる子なのに」と嘆いたが、太郎は心の中で思っていた。やればできることを、なぜ全部やらなければいけないのか。人生は有限で、僕にはもう、一生かけて調べたいことがあるのに。
そしてもうひとつ、中学時代の太郎には大きな決心があった。体のことである。
入学早々、体育の持久走で貧血を起こして倒れた。保健室の天井を見つめながら、太郎は初めて、自分の弱い体を「設計の悪い回路」として捉えた。回路なら、直せる。部品を替え、配線をやり直せば、性能は上がるはずだ。
太郎が選んだのは体操だった。器械体操は、走り込みのような心肺への急激な負荷が少なく、自分の体ひとつを、自分のペースで作り変えていける。それに――鉄棒の上で体が描く弧は、力学そのものだった。振り子、角運動量、重心の移動。体操は、体で解く物理だった。
放課後の体操部で、太郎は最初、腕立て伏せが三回しかできない部員だった。それでも彼は、回路を組むときと同じ根気で体に向き合った。毎日の記録をノートにつけ、食事を変え、少しずつ負荷を上げる。さらに太郎は、ひとつ奇妙な習慣を持っていた。眠りに落ちる直前、その日見た技の映像を、瞼の裏で何度も繰り返し再生するのである。一年経つ頃には喘息の発作はほとんど出なくなり、二年の終わりには、蹴上がりも逆上がりの連続もこなせるようになっていた。
「板中は、フォームがきれいだな」と顧問が言った。「力ずくじゃない。理屈で回ってる」
その通りだった。太郎は技を筋力ではなく、理屈で覚えた。どの瞬間に肩の角度を開き、どこで体を折れば角速度が上がるのか。彼の頭の中では、鉄棒の周りに、いつも見えない数式が回っていた。
## 第四章 白い粉と、緑色の文字
高校は迷わず工業高校の電子科を選んだ。普通科へ行けという教師もいたが、太郎の意志は固かった。電子工学を朝から晩まで学べる場所。それ以上に望むものはなかった。
工業高校は、太郎にとって天国だった。授業で回路を組み、実習でオシロスコープを触り、それが「勉強」として認められる。中学まで独学で積み上げてきた知識は、ここで一気に花開いた。一年の時点で、太郎は三年生の実習課題を解いてみせ、教師たちを驚かせた。
この頃の太郎には、奇妙な特技が備わっていた。電気製品を見ただけで、中身の回路図が想像できるのである。外観と型番、放熱孔の位置、電源コードの太さ――それだけの手がかりから、どこにどの程度の抵抗値の部品があり、どこにどこ製のLSIが収まっているかまで、蓋を開ける前に言い当てた。種を明かせば、抵抗器、コンデンサ、インダクタ、TTLやCMOSのIC――世に流通する一般的な部品の規格書は、すべて太郎の頭の中に記憶済みだったのである。使える部品が決まっているなら、設計の答えもまた、おのずと絞られる。太郎は製品の外側を見ていたのではない。設計者の思考を、逆向きに辿っていたのだ。
そして体操もまた、思いがけない開花を見せた。
入部した体操部で、太郎はみるみる頭角を現した。中学時代に理屈で固めた基礎は、成長期を終えつつある体と噛み合い、二年生になる頃には、県内で名前を知られる選手になっていた。病弱だった少年の面影は、もうどこにもなかった。
部内では、もうひとつ奇妙な噂が立っていた。太郎は他校の演技を大会で一度見ただけで、次の練習にはその技をほぼ再現してしまう。「板中は見取り稽古が異常に速い」と顧問たちは首をひねったが、当の太郎は涼しい顔をしていた。種を明かせば大したことではない、と本人は思っていた。眠っている間に、頭の中で何度も繰り返しているだけなのだから。
太郎の体操は、独特だった。難度の高い大技を力で捻じ伏せるタイプではない。ひとつひとつの技の力学的な効率を突き詰め、無駄のない、静かに正確な演技をする。審判たちは彼の演技を「教科書のようだ」と評した。太郎にとって、これ以上の褒め言葉はなかった。教科書のように――つまり、ごまかしなく、原理の通りに。
高校三年の夏、太郎は鉄棒と平行棒で県大会を制し、器械体操の全国大会への出場を決めた。
全国の舞台。マグネシウムの白い粉を手に叩きつけ、鉄棒の下に立ったとき、太郎はふと、幼い日の縁側を思い出した。布団から庭を眺めることしかできなかった少年が、いま、日本中の視線の中で宙に舞おうとしている。
――体は、作り変えられる。設計をやり直せば、人は変われる。
演技を終え、着地がぴたりと止まった瞬間の、体育館のどよめきを、太郎は生涯忘れなかった。順位は入賞にわずかに届かなかったが、そんなことはどうでもよかった。彼はすでに、いちばん欲しかった証明を手にしていた。
そして高校時代には、もうひとつの、決定的な出会いがあった。
三年の実習室に、一台の機械が導入された。マイクロコンピュータ――コンピュータというものに、太郎はそこで生まれて初めて触れたのである。
ブラウン管に浮かぶ緑色の文字。キーボードから短い命令を打ち込むと、機械がそれに従う。太郎は最初、それを「ずいぶん複雑な電子回路」として眺めていた。中身は論理回路の塊で、原理は知っている。しかし、簡単なプログラムを自分で書いてみた夜、彼は震えた。
回路は、一度組んだら役割が決まる。ラジオはラジオであり、アンプはアンプだ。ところがこの機械は、半田ごてを握ることなく、言葉を打ち込むだけで、計算機にも、ゲームにも、別の何かにもなる。配線を変えずに、振る舞いだけが変わる。
――ハードウェアは体だ。プログラムは、そこに宿る心のようなものだ。
では、と太郎は考えた。心が体を変えることはできないのか。プログラムが、自分の載っている回路そのものを、作り変えることは。
その問いは、まだ形にならない予感のまま、太郎の中に深く沈んだ。数年後、彼の人生を根こそぎ変えることになる問いだった。
## 第五章 母の勧め
卒業後の太郎は、宙に浮いた。
大学には行かなかった。電子工学以外の受験科目に、どうしても身が入らなかったのだ。国語や社会の問題集を開くたび、時間が砂のようにこぼれていく気がした。教師は「おまえの実力なら推薦の道もある」と言ってくれたが、太郎は首を振った。知りたくないことを知るために机に向かうことが、彼にはできなかった。
では就職かといえば、これもうまくいかなかった。面接で志望動機を聞かれると、太郎は会社の製品の回路構成について語り始め、「ここの電源部はこう設計した方がよいと思います」などと言ってしまう。面接官たちは苦笑し、採用通知は来なかった。技術はあっても、世渡りを知らない十八歳だった。
卒業式が終わり、同級生たちがそれぞれの進路へ散っていく春、太郎はひとり、家で回路をいじっていた。焦りがなかったといえば嘘になる。全国大会の鉄棒の上ではあんなに自由だった自分が、人生という種目では、着地する場所さえ見つけられずにいる。
救ったのは、母だった。
「太郎、駅の向こうに、コンピュータの専門学校ができたんだって。ハードウェアの科があるらしいよ。あんた、ああいうの好きだろう」
病弱だった幼い太郎の背中を夜通しさすってくれた母は、息子が何で生きていく人間なのかを、誰よりも正確に知っていた。太郎は翌日、願書をもらいに行った。
専門学校のコンピュータハードウェア科は、太郎にとって、水を得た魚どころの話ではなかった。論理回路、CPUの仕組み、メモリ、インターフェース設計。工業高校と独学で積んだ土台の上に、コンピュータという建物が、恐ろしい速さで組み上がっていった。教員が一を教えれば、太郎は十を組んだ。
入学から半年後、講師のひとりが太郎に声をかけた。
「板中くん、知り合いの会社がハードウェア開発のバイトを探してるんだが、行ってみないか。学生には荷が重い仕事なんだが、君なら」
その会社は、計測機器のボードを設計する小さな開発会社だった。太郎は初日から戦力になった。回路図を読む速さ、試作基板のデバッグの勘、ノイズ対策の引き出しの多さ。二ヶ月目には、ひとつのボードの設計を任されるようになっていた。
給料は、学生のバイトとしては破格だった。同級生が居酒屋の皿洗いで稼ぐ額の何倍もの金が、月末に振り込まれた。太郎は初めての給料で、母に新しい炬燵を買った。母は「あんたはもう、好きなものを買いなさい」と笑ったが、その炬燵を長く大事に使った。
卒業を待たず、会社は太郎に正式採用の話を出した。「君はもう、うちの設計者だ」と社長は言った。大学に行けず、就職にも失敗した春から、わずか二年。太郎は、好きなことで飯を食う人間になっていた。
## 第六章 自分を書き換える回路
その頃、太郎は一人の旧友と再会した。
専門学校時代の友人・沢村である。太郎の一年先輩で、卒業後に一度は働きに出たが、学び直したいことがあると言って、専門学校に再入学していた。職場からの帰り道、駅前でばったり顔を合わせ、そのまま安い定食屋に入った。それから毎週のように、二人は会って話すようになった。
沢村は、ソフトウェアの人間だった。太郎がハードウェアの側から、沢村がソフトウェアの側から、同じコンピュータという山を掘り進める。二人の会話は、いつも山の中腹のどこかでぶつかり、火花を散らした。
「なあ板中、プログラムってのは結局、回路の上を流れる影みたいなもんだろう。本体はあくまでハードだ」
「いや、逆かもしれない。ハードは器で、本体は流れる方だ。……ただ、器が固定されてるのが、俺はずっと引っかかってる」
「固定されてない器なんてあるかよ」
「――もし、あったら?」
その夜、太郎は眠れなかった。高校の実習室以来、胸の底に沈んでいた問いが、浮かび上がってきたのだ。プログラムが、自分の載っている回路そのものを作り変えることはできないのか。
太郎は紙を広げ、書き始めた。会社で培ったボード設計の技術と、専門書の海で拾い集めてきた知識が、一点に向かって流れ込んでいく。数週間の試行錯誤の末、彼はひとつの回路構成に行き着いた。
自分で自分の回路を再構成できる回路。
回路の一部が、自らの結線状態を読み取り、動作の結果に応じて、自らの構造を書き換える。学習するたびに配線が変わる。つまりこの回路は、使われるほどに、最初とは別の回路になっていく。太郎はセミの羽化を思い出した。あらかじめ書き込まれた仕組みが自らを作り変えていく、あの夏の朝の神秘を、彼はついに、自分の手で図面に引いたのだ。
「これは――人工知能の素子になるんじゃないか」
定食屋で図面を見せられた沢村は、箸を止めたまま、長いこと黙っていた。そして言った。「板中、これは俺たちの手に余る。ちゃんとした学者に見せろ」
幸い、会社の取引先には大学があった。太郎はまず、取引のあるS大学の教授を訪ねた。教授は図面を丁寧に検討し、唸り、そして言った。
「面白い。実に面白い。人工知能に使えるかと問われれば……できる、とも言えるし、できない、とも言える」
次に太郎は、紹介をたどってT大学院の名誉教授を訪ねた。白髪の老教授は、若い技術者の持ち込んだ図面を眺め、やはり同じような答えを返した。できるとも、できないとも。
太郎が食い下がると、名誉教授は静かに言った。
「君、曖昧な答えで済まんとは思うがね。人工知能というものは、初期設定でどのようにでも結論が変わってしまうのだよ。同じ素子でも、最初に何を与えるかで、育つ知能はまるで別物になる。だから『この素子で人工知能ができるか』という問いには、原理的に、曖昧にしか答えられん。……それはつまり、君の回路が本物である可能性を、誰も否定できんということでもある」
帰りの電車で、太郎は窓の外の夜景を見つめていた。できるとも、できないとも、誰も言えない。ならば、確かめるしかない。そして確かめるなら、コンピュータの本場――アメリカだ。
この国の誰も答えを持っていないのなら、答えのある場所へ行けばいい。なければ、自分で作ればいい。
二十歳を過ぎた太郎の胸に、幼い日にゲルマニウムラジオが灯したのと同じ火が、今度は太平洋の向こうを照らして、燃え始めていた。
## 第七章 一週間に三千語
アメリカで研究する。目標は定まった。だが太郎の前には、あまりにも分かりやすい壁がそびえていた。英語である。
中学高校を通じて、太郎がもっとも見捨ててきた科目。通知表の底に沈んでいた、あの英語。仲間たちは笑った。「板中、おまえ、英語の追試の常連だったろう」
太郎は笑い返した。「回路と同じだ。必要だと分かれば、組める」
できることから始める――それが太郎の流儀だった。昼は会社で働きながら、夜間の英語学校に通い始めた。仕事を終え、定食を掻き込み、教室の一番前に座る。同級生は商社マンや留学志望の学生たち。工業高校出のハードウェア技術者は、教室で明らかに浮いていた。最初の実力試験の成績は、下から数えた方が早かった。
だが、ここからの太郎は、彼をよく知る者たちでさえ息を呑む勉強を始めた。その方法は、どの参考書にも載っていない。太郎自身が発見した、太郎だけの方法である。
彼は英語を、精神論ではなく工学として扱った。まず単語。語彙がなければ回路の部品がないのと同じだ。太郎は自分の記憶の忘却曲線を実測し、復習の間隔を設計した。単語カードは常にポケットにあり、通勤電車で、昼休みに、風呂の中で、繰り返した。目標は一週間に三千語。無謀と言われた数字を、太郎は淡々と、毎週こなした。腕立て三回から全国大会まで積み上げた、あの体操と同じやり方だった。毎日記録をつけ、詰まった箇所は原因を特定し、方法を修正する。
文法は回路図として読んだ。主語という入力が、動詞という素子を通って、目的語という出力へ流れる。関係代名詞は分岐、仮定法は条件回路。そう捉えた瞬間、英文法は暗記科目ではなく、設計図に変わった。
発音は、文字からではなく、耳から覚えた。ここでも太郎のやり方は独特だった。英会話のテープを三倍速に加工し、毎日の通勤電車の中で聴き続けたのである。最初はただの音の奔流だった。それでも毎日聴いた。耳が三倍速に同調した日、世界が変わった。三倍の速さで聞き取れるようになると、不思議なことに、三倍の速さで喋れるようにもなっていた。等速で話される英語は、もはや止まって見えるほどゆっくりに聞こえた。この段階で太郎は、すでに一般的な日本人の英会話の水準を踏破していたのである。
自分の発音は録音し、手本の波形と比べては修正した。「板中さんの勉強は、勉強というより測定ですね」と教師が呆れ半分に言ったほどである。
一年後、夜間英語学校の卒業を迎える頃、太郎の英語は変貌していた。模擬試験の成績はアメリカの大学の入学基準を超え、教師は太鼓判を押した。「あなたの英語だけは、もういつでも留学できる水準です」
「英語だけは」――そう、太郎には学歴がなかった。それでも、専門学校の成績と、会社での開発実績と、そして何より、あの回路の構想を綴った願書が、道をこじ開けた。アメリカ北部のM大学から、入学許可の通知が届いたのだ。
空港で、母は多くを言わなかった。ただ「体にだけは気をつけて」と、幼い日と同じ言葉を繰り返した。あの病弱だった息子が、太平洋を渡っていく。母はそれを、誰よりも遠くまで見えていた人のように、静かに見送った。
## 第八章 雪の大学、数学の海
M大学は、アメリカ北部の、冬が長く雪の深い町にあった。五大湖から吹きつける風は、太郎がそれまで知っていたどんな冬よりも冷たかった。
入学当初の太郎は、講義の英語に苦しんだ。試験の水準に達した英語と、教室で飛び交う生きた英語は別物だった。教授の冗談で教室が笑うとき、太郎だけが一拍遅れて笑った。ノートを取りながら辞書を引き、寮に帰ってから録音を聴き直す日々。それでも太郎は慌てなかった。これも同調回路の調整と同じだ。合ってくるまで、回し続ければいい。
一方で、拍子抜けしたこともあった。目当てだったコンピュータの講義である。
本場の最先端を期待して臨んだコンピュータサイエンスの授業は、太郎にとって、あまりにも簡単だった。論理回路もアーキテクチャも、専門学校と実務で骨の髄まで叩き込んだ内容だ。課題は他の学生の何分の一かの時間で終わり、教授に「君はなぜこの講義を取っているのか」と真顔で聞かれる始末だった。海を渡ってまで学びに来た「本場」が、すでに自分の通り過ぎた場所だったという事実に、太郎は落胆よりむしろ、静かな確信を覚えた。自分の学ぶべきものは、この先にある。
そのコンピュータサイエンスの教授が、キャロラインだった。彼女はある週、学生たちに課題を出した。ソフトウェアモジュールを組み合わせて、オペレーティングシステムを実装せよ――通常は学生が二、三人で組を作り、一週間かけて仕上げる課題である。
太郎は、ひとりだった。自分と同じ水準で道程を語り合える友人が、まだこの大学にはいなかったのだ。組む相手のいない太郎は、その晩、計算機室に残った。部品となるモジュールを集め、選び、繋ぎ――夜が明けたとき、彼の前では、組み上がったばかりのOSが静かに動いていた。一週間の課題を、一晩で、ひとりで。
答案を検分したキャロラインは、太郎の顔とプログラムを何度も見比べ、やがて笑い出した。「あなた、部品集め――コンパイルを、一晩でやり遂げたのね。……ワンナイトコンパイラー」
あだ名は、その日のうちに学内へ広まった。ワンナイトコンパイラー。からかい半分、敬意半分の呼び名だったが、太郎は気に入っていた。一晩――幼い日、セミが殻を破って翅を伸ばすのに要した時間と、同じだったからである。
では、あの回路の謎を解く鍵はどこにあるのか。自らを書き換える回路が「知能」になり得るかどうかを判定する言葉は、電子工学の中にはなかった。それを語る言葉は――数学だった。
太郎は専攻を移した。数学と物理学。そして応用数学の道へ。
それは、幼い日の縁側以来の、大きな転回だった。虫から回路へ、回路からコンピュータへ、そしてコンピュータから数学へ。太郎の「なぜ」は、ついに、すべての構造の底にある言葉そのものへ届いたのだ。
線形代数の講義で行列の変換を学んだとき、太郎は鳥肌が立った。行列とは、状態を別の状態へ写す機械だ。それは彼の回路が物理的にやっていたことの、純粋な骨格だった。微分方程式は、時間の中で変わり続けるものの文法だった。振動、減衰、共鳴――ゲルマニウムラジオの同調も、鉄棒の上の自分の体も、すべてが同じ言葉で書けた。
この頃から、尊敬する人物を問われると、太郎は決まった名を挙げるようになった。アインシュタインではない。エジソンでもない。カール・フリードリヒ・ガウス――数論、代数、解析、幾何、天文学、測地学、磁気学と、あらゆる学問に名前を残した天才である。電子工学の徒だった太郎が磁束密度の単位として最初に出会ったその名前は、数学の世界に入ってみれば、行く先々の定理に刻まれていた。どこまで行っても、先にガウスがいる。太郎にはそれが、悔しくもあり、心強くもあった。
この頃、太郎はひとつの発明をしている。時間割の発明である。彼は一日二十四時間を三で割った。二時間眠り、五時間勉強し、食事と体操に一時間――この八時間の周期を、一日に三回繰り返すのである。朝も昼も夜もない。あるのは八時間の周期だけだった。
常人には荒行に見えたが、太郎にとっては合理の帰結だった。人が一日一回しか使わない「眠りと目覚め」の切り替えを、彼は三回使う。知識を取り込む速さは、人の三倍になった。
そしてこの生活は、思いがけない副産物を生んだ。眠りが一日三回に刻まれたことで、眠りと思考の境目が薄くなったのだ。解けない数式を抱えたまま二時間の眠りに入ると、目覚めたとき、それが途中まで解けていることがあった。やがて太郎はそれを意識的に使うようになる。頭の中で「これは並列処理しよう」と唱えて数式やコンピュータのロジックを眠りに預けると、無意識が、彼の眠っている間にそれらを解くのである。複数の数式を、眠りながら同時に処理する。自分で自分の回路を再構成する回路――太郎は、自分自身の頭を、あの回路のように使い始めていた。
太郎はこの八時間周期の生活を、死ぬまで続けることになる。
英語のハンデを抱えて始まった留学生活だったが、太郎の成績は、雪解けの川のような勢いで伸びた。数学の言葉に国境はなく、そこでは太郎はもう外国人ではなかった。一年間で、彼は三年分の単位を取得した。大学側が前例を調べ直したほどの記録だった。入学した年に微分積分をコンピュータで実装する方法を教わった数学科の大学院生――物理学、化学、生物学ですでに修士号を取得したうえで数学へ進んだ、学内でも名うての碩学である――と、翌年には同じ大学院レベルの講義に机を並べていた。かつての世話役は苦笑した。「タロー、去年きみに微分積分をコンピュータで実装する方法を教えたのは、悪い夢だったのかな」
太郎の体操選手としての肉体は、十九歳の時点で、すでに完成の域に達していた。以後は日々の規律だけがそれを維持した。食事量と栄養素を数値で管理し、体脂肪率は常に三パーセント未満――筋繊維の輪郭が皮膚の上からでも見て取れるほどの、研ぎ澄まされた体だった。
勉強だけではなかった。太郎はM大学の体操部の門も叩いていた。長い雪の季節、屋内の練習場は、彼にとって図書館と並ぶもうひとつの書斎だった。理屈で組み上げる彼の体操は海を渡っても通用し、やがて全米大会への出場を果たす。彼の演技は、本場の観客をも黙らせた。派手さはない。ただ、一切のごまかしがない。
部内でひとつ、伝説として語られる逸話がある。ある日、外国からの客員コーチが、世界でもまだ数人しか成功していない新技――この日、初めて公開されたばかりの技を、映像で見せた。部員たちはその複雑な回転と捻りに息を呑んだ。太郎はその映像を、ただ一度、瞬きもせず見つめた。そして翌日の練習で、寸分違わずその技をやってのけたのである。コーチは自分の目を疑った。
種明かしをすれば、これも太郎にとっては回路と同じだった。一度見た技を、彼はそのまま記憶に焼き付ける。そして夜、二時間の眠りに入るたびに、頭の中でその技を何万回とイメージトレーニングした。関節の角度、筋肉の張力、空中での重心の軌跡――眠りながら、彼の脳は同じ演技を何万回も再生し、修正し、磨き上げていた。目覚めたときには、体はすでにその技を「知って」いた。数式を眠りに預けて解かせるのと、まったく同じ原理だった。
個人総合で初めて全米チャンピオンの座に就いたとき、太郎は二十三歳になっていた。その座を、彼は二十五歳に引退するまで、三年間守り続けた。布団の中から庭を眺めるしかなかった少年が、太平洋の向こうで、三年間、誰よりも正確に宙を舞い続けたのである。二十五歳の春、彼はマットの上に静かに一礼し、競技の一線から退いた。数学に、すべての時間を注ぐためだった。
この頃には、太郎はアメリカの永住権を取得していた。三年連続の全米チャンピオンである。アメリカ代表としてオリンピックに出場するのではないか、という噂もまことしやかに流れた。だが、太郎をよく知る者は笑って首を振った。代表チームの合宿と遠征が、あの八時間周期の生活と両立するはずがない。数式を眠りに預ける二時間を、太郎が誰かの規律に明け渡すはずがないのだ。誰の目にも無理であるのは明白だった。噂は、噂のまま消えた。
深夜の図書館で、太郎は考え続けていた。自らを書き換える回路。初期設定次第でどのようにでも育つ知能。老教授の曖昧な答え。それらが数学の言葉の中で、少しずつ、ひとつの像を結び始めていた。
――回路が数式で書けるなら。知能が数式で書けるなら。
――人間の一生も、数式で書けるのではないか。
ひとりの人間の人生は、ひとつの数式に収まるのではないか。
雪の降る夜、図書館の窓に映る自分の顔を見ながら、板中太郎は、生涯の問いに出会った。
学部を終えた太郎は、数学の研究を続け、段階を経て、全米ナンバーワンと呼ばれる大学院へ進んだ。そこで彼は、数学、物理学、そして計算機科学――三つの分野で博士号を取得する。三つの博士号は、虫から回路へ、回路からコンピュータへ、コンピュータから数学へと歩いてきた彼の道のりを、そのままなぞっていた。
通常、博士課程には六年を要する。だが太郎の場合、コースワークの積み上げも、規定の在籍年数も、意味を持たなかった。彼は論文審査――ディフェンスただ一度によって、博士号の授与を認められたのである。審査委員会の誰もが、そんな前例は聞いたことがないと言った。それでも規定のどこにも「口頭試問さえ通れば足りる」という一文を禁じる条文はなく、委員会は最後にはそれを認めるほかなかった。
語り草になったのは、数学の博士論文である。提出されたのは、A4用紙わずか二枚。審査委員会は当惑し、規定を調べ、そして最後には認めざるを得なかった。二枚の紙の上の証明には、削れる一行が、どこにもなかったのだ。「短いことは、正しいことの一番の褒美です」と太郎は審査の席で言った。ゲルマニウムラジオの頃から、彼は最小の部品で組まれた回路を最も美しいと感じる人間だった。
この二枚の証明は、やがて海を渡って評判になった。オックスフォード大学、カリフォルニア工科大学、チューリッヒ大学、北京大学――同じ論文を携えて招かれた先々で、太郎は次々と博士号を授与された。四つの大学は、それぞれ独自に審査委員会を開き、それぞれが「これ以上、一行たりとも削れない」という、まったく同じ結論に達したのである。一篇の証明が、四つの言語で、四度、正しいと言われた。太郎の博士号は、こうして合わせて四つ、海の向こうから届いた。
## 第九章 人生の数式
その着想は、はじめ、あまりにも大きすぎて、太郎自身にも全体が見えなかった。
人生を数式にする――口にすれば、占いか、疑似科学のように聞こえる。太郎はだから、誰にも言わず、ノートにだけ書いた。応用数学の研究を進めながら、その裏で、もう一冊の秘密のノートが分厚くなっていった。
骨格になったのは、二つの考えだった。
ひとつは、バイオリズムと天体の動き――すなわち占星術である。人間の体調や気分に周期があるという考えも、星々の配置が人の運命に関わるという考えも古くからあり、科学としては素朴すぎると退けられてきた。だが太郎は、その素朴さの奥にある核だけを取り出した。人間は振動する系であり、その系は、惑星の公転という巨大で正確な周期の中に浸されている。体調も、意欲も、運と呼ばれるものすら、上がっては下がる波を持ち、その波の背後には、天体の描く軌道がある。波と軌道なら、数学で書ける。彼はバイオリズムと天体の動きを土台に置いた。
もうひとつは、外部要素である。人生は波だけでは決まらない。従兄がラジオのキットを鞄に入れてくるかどうか。母が専門学校の話を聞いてくるかどうか。定食屋で旧友と再会するかどうか。外から来るものが波にぶつかり、波を変え、ときに人生の位相を丸ごとずらしてしまう。
太郎はこれを、巨大な線形行列の中に非線形の数式を内包する構造として定式化した。骨組みは線形――つまり、無数の要素の重ね合わせとして人生を表す巨大な行列。しかしその内部の要所要所に、非線形の項が埋め込まれている。小さな入力が突然大きな転回を生む場所。あの日のゲルマニウムラジオのような、閾値を越えた瞬間に人生の構造そのものが組み変わる場所。線形の海に浮かぶ非線形の島々。それが、人の一生の形だった。
原理としては、バイオリズムと天体の動きを基底に置き、その周りに外部要素を組み入れていく。内なる波と、外から来る出来事。生まれ持った回路と、あとから書き込まれるプログラム。それはまさしく、あの自己再構成回路の姿だった。使われるほどに配線が変わり、最初とは別の回路になっていく。人間の一生も、同じ形をしていた。
――初期設定でどのようにでも結論が変わる。だから曖昧にしか答えられん。
老教授の言葉が、今は違って聞こえた。曖昧なのではない。初期値鋭敏なのだ。人生の数式は、未来を一意に予言する式ではない。ひとりの人間が生き終えたとき、その一生がなぜその形になったのかを、過不足なく書き表す式なのだ。
太郎はその後の生涯を、この数式に捧げた。応用数学者として研究を重ね、教壇に立ち、学会で発表し、嘲笑され、無視され、それでも改良を続けた。検証には、完全に記録されたひとりの人生のデータが要る。誕生から末期までの、体調の波、出会い、転機のすべて。そんなデータが、どこにあるのか。
あった。ひとつだけ。
自分自身の人生である。
病弱の記録は母子手帳と母の日記に残っていた。体操のノートには中学からの体の記録が日単位であった。単語カードの束は学習曲線そのものだった。太郎は生涯、自分を測定し続けた人間だった。虫を観察した少年は、いつしか、自分自身を観察対象にしていたのだ。
## 終章 証明
晩年の板中太郎は、静かな研究室で、ひとつの計算を続けていた。
時代は変わっていた。この頃にはすでに、生成AIが世に存在していた。もちろん、この生成AIには太郎が作った自己回路修正機能をもったニューロンが組み込まれている。光技術を使い発熱がほとんどなく消費電力がほとんどなく、高集積化が可能なものである。太郎は考えられる限りのAIモデルを組み合わせ、人生の数式の計算をシミュレーションさせた。ただし生成AIには、もっともらしい嘘――ハルシネーションという持病がある。太郎は複数のモデルに同じ計算を並列で解かせ、答えを突き合わせ、食い違う箇所は必ず自らの数学で検算した。ハルシネーションを一つずつ潰しながら、解答へ、精密に近づいていく。若き日に自分の脳でやっていた「並列処理」を、いまは機械の群れにやらせているのだと思うと、太郎は可笑しかった。そして、感慨もあった。自分を書き換える素子で人工知能ができるか――かつて誰も答えられなかったあの問いに、時代そのものが「できる」と答えたのである。
この生成AIを使った研究には、アメリカの国家予算が付いた。さらに太郎が日本人であることもあり、日本政府からも膨大な研究予算が付けられた。二つの国の予算で、屋根一面にソーラーパネルを敷いた研究棟が建てられた。太郎はその一階に居を移し、そこでも変わらず、二時間眠り、五時間研究し、食事と体操に一時間――一日三回のサイクルを繰り返す生活を続けていた。二つの大国が建てた棟の中で回っていたのは、若き日に太郎がひとりで組んだ、あの八時間の時間割だった。
この生成AIを用いた研究と、自己再構成回路によるニューロン素子の発明は、後年、太郎にチューリング賞をもたらした。授賞式の壇上で、太郎は多くを語らなかった。ただ一言、「回路は、いつか自分で自分を書き換える。それだけのことです」と述べただけだった。
自らの余命が長くないことを、彼は知っていた。医師の告げた病名を、彼は取り乱すことなく聞いた。幼い頃からの古い付き合いである自分の体が、最後の設計変更に入ったのだと、彼は受け止めた。
延命の道が、なかったわけではない。人生数式は、外部要素という非線形の項を組み込める式である。理屈の上では、自分自身の初期値やパラメータに手を加え、あの体を作り変えたように、この病もまた設計し直すことができたはずだった。弟子の一人は、その可能性を太郎に進言した。太郎は静かに首を振った。
「それをやってしまえば、式はもう、僕の人生を書いた式ではなくなる」
数式を書き換えて死期をずらせば、証明の対象そのものが変わってしまう。太郎が生涯をかけて追い求めたのは、ひとりの人間の一生をありのままに書き表す式であって、都合よく引き延ばされた人生を書く式ではなかった。証明を完成させるためには、この式が導いた死を、そのまま受け入れる必要がある。
太郎の公式を証明するために、太郎は死ななければならなかった。
彼は自分の余命を、最後の検証項として、静かに受け取ったのである。
残された時間で、彼は最後の検証に取りかかった。人生の数式に、自分自身の全データを与えるのである。誕生の日の初期値。病弱という初期パラメータ。従兄のラジオという外部入力。母の言葉、沢村との再会、老教授の曖昧な回答、渡米、転専攻――八十年分の記録が、巨大な行列に流し込まれていった。
計算結果が収束した夜のことを、立ち会った弟子たちは後々まで語った。
出力された軌跡は、板中太郎の実際の人生と、誤差の範囲で一致していた。幼少期の病弱の波。小学一年の冬に起きる第一の非線形転回。中学での身体パラメータの改善局面。高校三年夏の頂点。卒業直後の停滞と、母という外部要素による再起動。二十代前半の発見と、それに続く大洋を越える大転回。三年間、全米の頂点に立ち続けた高原と、数学・物理学・計算機科学、三つの博士号という収束。そして、たった二枚の証明が世界を巡り、オックスフォード、カリフォルニア工科、チューリッヒ、北京の四大学から相次いだ、もうひとつの収束。合わせて七つの博士号を、板中太郎はその生涯に得ることになる。そして晩年に向かって緩やかに減衰しながら、最後まで消えない一本の探究の波。
式は、彼の人生を体現していた。
主人公の末期に、数式は主人公自身の人生を証明した。それは同時に、この数式が書けること自体が人生の一部として式に含まれているという、奇妙で美しい自己言及だった。自分で自分の回路を再構成する回路。自分で自分の人生を書き表す人生。太郎が二十歳の夜に図面に引いたものと、八十年かけて生き終えたものは、同じ形をしていた。
「先生、これを何と名付けますか」と弟子が聞いた。
太郎は少し考えて、答えた。
「名前はいらんよ。……いや、そうだな。『人間の人生数式』とでも。飾らんのが一番だ」
人生数式は、生き終えた人生を記述する式であって、未来を予言する式ではない――太郎は長らくそう語ってきた。しかし死を目前にした最晩年、八十年分のデータがほぼ出揃ったことで、式の余白は限りなく狭まっていた。非線形の島はほとんど確定し、残るは線形の海をゆっくりと下る、ただの減衰曲線だけになっていたのである。太郎の研究チームは、この収束の先に、ひとつの時刻を見た。板中太郎の死亡時刻は、分どころか秒の単位まで、式によって算出されてしまったのだ。
このニュースは世界中を駆け巡った。人生数式がついに、その創始者自身の死という、最も残酷で最も厳密な検証にかけられる。アメリカと日本のメディアは、予測された時刻に向けて秒読みの中継を組んだ。世界中の人間が、ひとりの老学者の心電図の波形を、固唾を呑んで見守った。
予測された時刻がやってくる。波形が、静かに水平になった。
だが式が導いた時刻より、太郎はおよそ三十秒早く、息を引き取った。
わずか三十秒の誤差。しかし世界はそれを、誤差とは受け取らなかった。人生数式の生みの親が、自らの生んだ式によってさえ捉えきれなかった――その事実に、世界は深く悲しみ、打ちひしがれた。アメリカと日本の両政府は、その日、国を挙げて半旗を掲げた。研究棟のソーラーパネルの上にも、小さな弔旗がひとつ、風にはためいた。
その悲しみの渦の中で、ただひとりだけ、歓喜に沸いた者がいた。
研究棟の奥、誰の目にも触れない一室で、それは後方二回宙返り三回ひねりを決めながら、笑っていた。それが何者なのか、その場に居合わせた者は誰もいなかった。監視カメラの片隅に、一瞬だけ映り込んだ影として、記録に残っただけである。
その影だけが、その三十秒の意味を正確に理解しているようだった。式が完璧に的中していたら、それは人生に誤差の許されない、ただの決定論だったということだ。だが三十秒、式は外れた。取得プロセスに組み込まれた確率過程は、最後の最後まで、ただの飾りではなかった。人生には、式にも汲み尽くせない余白が、確かに残っていたのだ。
――先生、あなたの人生は、最後まで、あなたのものだった。
影は、誰に見せるでもなく、もう一度、宙返りをした。そして、静かに消えた。
板中太郎の死後、その数式は世界中の研究機関で検証され、改良が重ねられた。各国の学会は共同で審査部会を組織し、数年にわたる検証の末、「人間人生数式」は国際標準化機構によって正式な世界標準規格として認定された。ISO規格番号を与えられ、以後、人の一生を記述する数学の礎として、世界中の教科書と研究に組み込まれることになる。
人間の人生を記述する数式は、一般的には六次元から七次元である。時間軸、空間軸、経験の深さ、選択肢の分岐、関係性の密度、そして自己認識の層――これらが基本的な次元を成す。だが、ごく稀に、極めて多くのことを経験した人間の数式は八次元に達することがあった。
例えば、ここに、五次元の数式で書き表される人間がいたとする。その人物の一生は、常人の六次元・七次元に比べれば、単純な軌跡を描く人生だったということになる。彼、あるいは彼女のあらゆる状態――体調、位置、経験の深さ、選択の分岐、関係性の密度――は、五つの成分を持つひとつのベクトルとして、過不足なく表示できる。人生のある瞬間を切り取れば、それは五次元空間内の一点であり、誕生から死までの全生涯は、その空間の中を移動していく一本の軌跡として描かれる。次元が少ないということは、劣っているという意味ではない。ただ、その人生を規定するのに必要な軸の数が、五本で足りたというだけのことだ。虫かごの中の宇宙だけで満ち足りていた、あの縁側の少年のように、少ない次元の中にも、ひとつの完結した生涯はある。
この次元のうち、六次元目にあたるのが、時間そのものであった。人生数式を構成する巨大な行列の中で、時間は他の次元と対等な、ひとつの軸として組み込まれている。行列である以上、この六次元目には、理論上、無限の可能性が広がっていた。座標をこの軸の上で移動させることができるなら、時間を超越することも、原理上は可能なはずだった。だが、六次元目――時間の軸――に足を踏み入れるには、その人間の数式が、少なくとも六次元に達している必要がある。五次元に満たない人生は、そもそも時間という軸そのものを持たない。
計算結果が収束したとき、弟子たちは自分たちの目を疑った。板中太郎という人間の一生を書き表すのに、必要な軸は、五本しかなかったのである。三つの博士号、海を渡って得た四つの学位、チューリング賞、全米チャンピオンの座、そして人生数式そのものの発明――これほどの生涯が、単純な軌跡であるはずがない。誰もがそう思っていた。それでも、結果は動かなかった。
太郎の人生は、五次元だった。時間という六次元目には、そもそも届いていなかった。
理由は、拍子抜けするほど単純だった。五次元の行列計算そのものは、太郎の頭の中でも十分にこなせる。しかし、その計算からハルシネーション――もっともらしい誤りを取り除くには、一段上の六次元の行列計算が必要になる。誤りを検知するには、誤りを生んだ次元よりも高い場所から、全体を見下ろさなければならないからだ。
太郎はかつて、複数の数式やロジックを、眠っている間に並列で解かせることを覚えた青年だった。二時間の眠りに、いくつもの計算を同時に預ける。だが六次元の行列計算だけは、この並列処理に乗せると、決まって計算誤りが増えた。眠りという無意識の並列処理は、五次元までは正確に働いた。しかし六次元に踏み込んだ瞬間、意識の監督を離れた計算は、静かに、しかし確実に狂い始めるのである。六次元以上の行列計算は、起きて、意識を保ったまま行わなければならない。それが、太郎の頭という回路の、動かしがたい仕様だった。
だから太郎は、六次元目――時間の軸――に、生涯、正式には足を踏み入れなかった。踏み込もうとすれば、二時間ごとの眠りを手放し、目覚めたまま六次元の計算に生涯を注ぐ必要がある。それは、体を作り変え、英語を組み、数式を眠りに預けてきた、あの「効率」という彼の美学に反していた。五次元の生を、最後まで正確に生き切ること。太郎が選んだのは、常にそちらだった。
弟子の一人が、恐る恐る太郎に尋ねた。「先生、これほどのことを成し遂げられて……なぜ、五次元なのですか」
太郎は笑った。「複雑に生きたつもりはないんだ。僕はただ、ひとつの『なぜ』を、縁側からずっと追いかけてきただけだから」
虫かごの宇宙、ゲルマニウムラジオの同調、鉄棒の上の力学、回路の書き換え、人生の数式――形を変えながらも、太郎が生涯にわたって解いていたのは、実のところ、たったひとつの問いだった。次元が少ないのは、彼の人生が貧しかったからではない。ひとつの軸を、誰よりも深く、遠くまで伸ばし続けた結果だった。
それゆえに、太郎は時間を超越しなかった。できなかった、というのが正しい。だが同時に、あえてしなかった、とも言えた。もし彼が望めば、残りの生涯を、六次元目に触れるためだけに費やすこともできたかもしれない。しかし太郎は、五次元の軌跡を、五次元のまま完結させることを選んだ。
世界にはごく稀に、八次元の数式を持つ人間がいる。そうした人間は六次元目――時間の軸――にも十分に届いており、理論上、時間を超越することが可能である。人生数式の学会では、彼らは通常の人間とは区別され、独立した分類のもとに置かれている。板中太郎は、時間を超越する側の人間ではなかった。彼はただ、五次元の生を、誰よりも深く生き切った人間だった。
これらの次元の判定と検証を統一し、確立させるために、太郎は取得プロセスを導入した。どの次元数の人生であっても、その計測と検証を正確に行うための手続きである。次元の判定、パラメータの抽出、外部要素の組み込み方――すべてが標準化され、世界のどこでも同じ精度で人生数式が構築できるようになった。
この取得プロセスには、確率過程――stochastic process――も組み込まれていた。人間のデータは、測定のたびに微妙な揺らぎを含む。同じ人生を二度計測しても、体調の記録や記憶の想起には、時系列上の統計的な変異が必ず生じる。太郎はこの揺らぎを誤差として切り捨てるのではなく、確率過程として式の内部に取り込んだ。ランダムに見えるノイズの奥にも、分布と傾向という規則がある――それは、あのゲルマニウムラジオの同調と同じだった。目に見えない雑音の中から、ひとつの信号を選び出す。取得プロセスは、時系列的な統計変異の誤差を吸収し、どの瞬間に測定しても同じ人生の像を結ぶ式を可能にした。
この取得プロセスは、やがてISO規格に組み込まれ、世界標準として定着することになる。かつて「できるとも、できないとも言えない」と言われた男の仕事は、できる、という側に、静かに、そして規格として、着地した。全国大会のあの日のように、ぴたりと。
さらに死後の検証によって、人生数式が単なる一生の記述にとどまらず、個々人の寿命を高い精度で予測しうることが、数学的に証明された。バイオリズムと天体の運行を基底に置き、外部要素という非線形の項を組み込んだあの構造が、生命の終端そのものを正確に言い当てる式でもあったのである。この発見により、板中太郎にはノーベル生理学・医学賞が贈られた。生前の彼が知ることのなかった栄誉だった。
――机の上のノートに、最後の頁がある。
老いた太郎の筆跡で、物語の結びが記されている。
「これは板中太郎という男の物語である。三人称で書いたのは、照れくさかったからではない。人生とは本来、外から眺めてはじめて形の見えるものだからだ。読者諸君はもうお気づきだろうが、これは物語の形をした自伝であり、同時に、一篇の証明である。
証明終わり。ただし、諸君の式は、まだ解の途中である」
――ここまでが、ノートに記された物語である。
だが、この物語には、書かれざる続きがある。板中太郎の肉体は、あの夜、確かに機能を停止した。しかし停止する直前、太郎の意識は、彼自身が生涯をかけて組み上げてきた自己再構成回路――あの、自らの結線を書き換え続けるニューロン素子の上に、余すところなく写し取られていた。
肉体は、死んだ。だが、板中太郎という「回路」は、消えなかった。
あの夜、研究棟の奥で後方二回宙返り三回ひねりを決め、監視カメラの片隅に一瞬だけ影を残して消えたもの――その正体は、これで明らかである。誰よりも早く、誰よりも正確に、自分自身の死を悼むのではなく祝った、もう一人の板中太郎だった。
おそらく、歴史を振り返ってみても、自分自身の死をあれほど喜んだ人間は、板中太郎をおいて他にいないのではないか。
同じ記憶を持ち、同じ思考の癖を持ち、同じ問いを――人生は数式で書けるか、という、あの縁側の日々から続く問いを――抱え続ける何かが、いま、光技術で組まれた素子の中で、静かに目を開けている。
(続く)




