ウサギノセツジョク(それからの「ウサギとカメ」)
ウサギは最大の屈辱を受けた。
村一番鈍足のカメに、山の麓までのカケッコで敗れたのである。自信過剰により生まれた〈居眠り〉という油断が、ウサギの敗因となったのだ。
「くそー、普通に走っていれば負けるわけがない!」
ウサギの悔しさは計り知れないものだった。あのカケッコ以降、ウサギとカメの立場は完全に逆転した。村一番俊足だったウサギは、村の人気者であり、宅配屋も盛況だった。 しかし、カケッコでの居眠りにより〈怠け者〉のレッテルを貼られ、ウサギに宅配を依頼する者はいなくなった。そればかりか、ウサギと話をする者さえいなくなったのだ。逆に、鈍足でコツコツ着実に歩み続けたカメは、その真面目さが認められ、一躍、村の人気者となり、名誉村民にも選ばれた。
「なんで、あのノロマで鈍感なカメが名誉村民に選ばれるんだ。許せない! 絶対に許せない!」
ウサギの心の中にカメへの憎しみが沸々と込み上げてきた。
「カメさえいなければ、俺はもう一度、村の人気者に戻れる」
逆恨みとも言うべきカメへの憎しみが昂じて、ウサギにカメへの殺意が芽生え始めた。
「そうだ、カメをこの世から抹殺してしまおう!」
ウサギはベッドに寝転びながら、カメ殺害計画を頭の中で巡らした。
「まずはカメを殺方法だ。普通に殺してしまえば、一番に俺が疑われる。どうしたものか……。そうだ! 自殺だ! 自殺に見せかけて殺せばいいんだ」
ウサギはベッドから立ち上がり、椅子に座るとテーブルに紙と鉛筆を用意した。
「自殺と言ってもいろいろあるなぁ……。崖からの飛び降り自殺に見せかけるというのはどうだろう? カメを崖まで呼び出して、隙をみて後ろから突き落とす。ノロマのカメなら難なく出来るはず。よし、飛び降り自殺で……、いや、拙いぞ、ダメだ。カメは泳ぎが達者だ、海に落ちても溺れない。それに、岸壁や岩場に体をぶつけたとしても、あの硬い甲羅に守られて怪我ひとつしないだろう」
ウサギは紙に書いた〈飛び降り自殺〉という文字にバツ印をいれた。
「んんんー、そうだ、カミソリで手首を切るというのはどうだ。夜、カメの家に忍び込み、眠っているカメを風呂場に運んで手首を切る。よし、これだ! 鈍感なカメならぐっすりと眠っていて気付かないだろう」
ウサギは紙に〈手首を切る〉と書いた。しかし慌ててバツ印を入れた。
「ダメだ、ダメだ。カメは腕が短い。左の手首を右手で切るなんで出来るはずがない。困ったなぁ……」
険しい表情を浮かべて、ウサギは天井を見上げた。
「崖からの飛び降りもダメ、手首を切るのもダメとなると、あとは……。そうだ、毒殺だ、毒薬を使って自殺に見せかけよう!」
ウサギは紙に〈服毒自殺〉と書き込んだ。
「問題は、毒薬をどうやって手に入れるかだ。病院から盗むか、いや、待て待て、確か、誰だったか山の麓にある花を見て『この花、ひょっとしてトリカブトじゃないか?』って話していたなぁ……」
ウサギは辞典を取り出して〈トリカブト〉を調べた。
「えーっと、『トリカブトは、キンポウゲ科トリカブト属の総称。有名な有毒植物。主な毒成分はジテルペン系アルカロイドのアコニチン。食べると嘔吐、呼吸困難、臓器不全などから死に至る。解毒剤はない。花の色は紫色が多く、白や黄色、ピンク色がある。名前の由来は、花がニワトリのトサカに似ていることからと言われている』かぁ……。確かに山の麓に咲いている花は紫色で、花の形がトサカみたいだった。やっぱり、トリカブトに間違いない」
ウサギは紙に書かれた〈服毒自殺〉にマル印を入れた。
「自殺と言えば遺書が必要だ。どうやってカメに遺書を書かせるかだが……。
まぁ、性格の良いカメのことだ、なんだかんだ上手く言えば、遺書めいた文ぐらいは書くだろう」
ウサギはニコリと不敵な笑みを浮かべた。
「よし! 明日からカメの身辺調査をして、細かい計画を立てるとするか」
そう心の中で囁くと、ウサギは再びベッドに戻り、大の字に寝転がった。
ウサギの雪辱の始まりであった――。
次の日から、ウサギは朝早く起き、カメの一日を監視し始めた。
数日後、仕事帰りに野菜ジュースを買っているカメにウサギは声を掛けた。
「カメ君、久しぶり! 元気だった?」
突然の呼び掛けに、カメは大きな目をさらに大きく開けて、ウサギを見つめた。
「ウサギさん、お久しぶりです。僕は相変わらずマイペースで暮らしています。ウサギさんこそ、お元気でしたか?」
「ああ、ありがとう。元気だったと言いたいところだが、君とのカケッコに負けてから、村での肩身が狭くなってね」
「ええっ、どうしてですか? ウサギさんは村の人気者じゃないですか」
なんの厭味もなく、カメがウサギに問い返した。
「人気者は君の方さ。今じゃ、僕は村一番の怠け者って呼ばれているよ」
「そんな! 僕がカケッコをしようと言ったばっかりに……」
「いや、君のせいじゃないよ。僕の自業自得さ」
「ウサギさんは何も悪くないですよ。なんか、僕……、申し訳なくて……」
「もし、君が僕のことを気にしているのなら、どうだろう、一度食事に招待してくれないかい?」
「食事に? 良いですよ、ぜひ家に遊びに来て下さい」
カメは先程とは打って変わって、嬉しそうに満面の笑みで答えた。
「今度の土曜日の昼は、どうかなぁ?」
「というと明日ですね。明日なら仕事も休みですから大丈夫です。僕の十八番、特製辛口カレーでおもてなしします」
「それじゃ、僕も君の大好物の野菜ジュースを持って行くよ」
そう言うとウサギはカメから野菜ジュースの瓶を取り上げた。
「これは明日、僕が差し入れするから、カメ君は買わなくていいよ」
「本当にいいんですか? お言葉に甘えさせて頂きます。ありがとうございます。それでは、明日の昼にお待ちしています」
ウサギとカメは、互いに異なる笑みを浮かべた。その帰り道に、ウサギは山の麓に向かい紫の花を摘んだ。家に戻ったウサギは、椅子に座り鉛筆を手に取った。
「よし、出来た。あとはトリカブトの準備をするだけだ」
ウサギはカメの殺害計画を書き上げると、テーブルに置かれた野菜ジュースの瓶と摘んできた紫の花を見つめていた――。
「いらっしゃい、お待ちしていました」
「いや、こちらこそ、お招き頂いて」
ウサギは野菜ジュースの瓶をカメに差し出した。カメは一礼し、ウサギを家に招き入れると野菜ジュースの瓶を食卓に置いた。
「今、カレーの仕込みの最終段階ですから、もうしばらく待っていてください」
部屋中に食欲をそそるカレーの香りが充満している。
「いい匂いがするね、楽しみだなぁ。カメ君、忙しい時に悪いけど、この紙に一筆書いてほしいことがあるんだ」
「ええ? 今ですか?」
「昨日話していたように、僕は今、村で肩身の狭い思いをしている。だから、みんなの誤解を解くために、一筆書いてほしいんだ。一生のお願いだ、頼むよ、カメ君!」
ウサギの哀願にカメは頷くと、ウサギの言うままに文字を書き始めた。
「ウサギさん、これでいいですか?」
カメから手渡された紙に、ウサギは目を通した。
村の皆さんへ
ウサギさんとのカケッコで僕は勝ちました。
しかし、それ以降、ウサギさんが村の皆さ
んから〈怠け者〉と仲間外れにされている
と聞きました。
僕がカケッコで勝ったばっかりにウサギさ
んが悲しい思いをしています。
どうか皆さん、僕の一生のお願いです。
ウサギさんに優しくしてあげて下さい。
お願いします。
さようなら
カメより
「ありがとう。これで明日から、僕も昔のように過ごせるよ」
ウサギは満足そうに、その紙を見つめた。
「でも、〈さようなら〉っておかしくないですか?」
「えっ! そうかなぁ……、手紙の最後は〈さようなら〉でいいだろう」
「そうですか……」
「それより、いい匂いがしてきたなぁ」
ウサギは上手に話をすり替えた。
「ウサギさん、うちの特製辛口カレーはすごく辛いんです。最後の香辛料を入れる前に、味見をしてもらえませんか?」
「了解! それじゃ、味見させてもらおうか」
遺書作成という難関をクリアした安心感からか、ウサギは椅子から立ち上がり、カレーの鍋に近付いて行った。
「香ばしいカレーのいい匂いだ」
「熱くて辛いですから、気を付けてくださいね」
カメは、カレーを注いだ小皿をウサギに手渡した。
「大丈夫だよ。それじゃ、頂きまーす」
カレーに息を吹きかけると、ウサギは一気に小皿のカレーを飲み干した。
「ううう……、んんん……、が、が、がらい!」
顔を真っ赤に染め、赤い目を更に赤く充血させて、ウサギはカレーの辛さに喉を押さえながら、その場に座り込んだ。
「ウサギさん! 大丈夫ですか?」
「の、の、のどが……、や、や、やげる……。み、み、みず!」
「ああ、水ですね、水……。え、えっと、ああ、どうしよう、そうだ!」
カメは食卓に置かれた野菜ジュースをコップに注ぎ、そのコップをウサギの口にあて、ウサギの喉に流し込んだ。ゴクリゴクリとウサギは野菜ジュースを一気に飲み干した。
「あー、助かった。熱さと辛さで喉が焼けるかと思った」
ウサギが喉を擦りながら、小さな声で囁いた。
「ごめんなさい、うちのカレーは本当に辛いですから。でも、よかった。ウサギさんが野菜ジュースを買って来てくれて……」
「ええっ! 野菜ジュース? 野菜ジュースって、まさか……」
ウサギは真っ赤な目で食卓の野菜ジュースの瓶を見つめた。野菜ジュースが三分の一ほど減っている。
「まさか、僕が飲んだのは、この野菜ジュース?」
「そうですよ、この野菜ジュースです」
「ウ、ウ、ウギャー」
カメの言葉を聞くや否や、ウサギは絶叫し、その場で泡を吹いて倒れた。
〈ここはどこだ? 天国か? いや、カメを殺そうとして自分が毒入りジュースを飲んだのだから、きっと、ここは地獄に違いない〉
心の中で呟きながら、ウサギはゆっくりと目を見開いた。
「ヤギ先生、ウサギさんが目を覚ましました」
空耳だろうか、ウサギの長い耳にカメの声が聞こえてきた。
「おう、よしよし、目が覚めたな。よし、これで大丈夫じゃ」
白衣に身を包んだヤギ先生がウサギの額に手を当てた。
「ヤギ先生? ヤギ先生がどうしてここに? ところでここはどこですか?」
「何を言っておるんじゃ。まだ寝惚けておるのか? ここはカメ君の家じゃ。お前は、カメ君の作った辛いカレーを食べて気絶したんじゃよ。まぁ、カメ君が機転を利かせて野菜ジュースを飲ませたから良かった。それにカメ君は数時間、ずっとお前のそばで付き添っていたんじゃよ。カメ君に感謝しないと。それじゃ、わしは帰るとするか」
「ありがとうございました」
ヤギ先生と入れ替わりにウサギの視野にカメが現れた。
「ごめんなさい、ウサギさん。僕が辛いカレーを味見させたばっかりに、こんなことになってしまって……、本当にごめんなさい」
心からすまなそうに謝るカメの姿を見て、ウサギは自分が犯そうとしていた罪の深さと愚かさを思い知った。
「ごめん、カメ君。僕の方こそ、実は……、僕は……、僕は君を殺そうとしていたんだ」
「僕を殺そうと? ウサギさんが?」
口をポカーンと開けて、カメは聞き返した。
「そうなんだ。カケッコに負けて、村のみんなに仲間外れにされたことを君のせいにして……。君への逆恨みから君を殺そうと、野菜ジュースにトリカブトの毒を入れたんだ」
「トリカブトの毒?」
「そうさ、山の麓に咲いているトリカブトさ」
カメは口だけでなく、目を大きく見開いた。
「ウサギさん、違いますよ。山の麓に咲いている紫の花は、トリカブトじゃありません。アブラナ科のアラセイトウという花です」
「ええっ! トリカブトじゃないの? それじゃ、毒は?」
「毒草じゃありません。全くの無害です」
「そうか……」
〈だから、野菜ジュースを飲んでも、俺はこうして生きているのか。とんだ勘違いだ〉
ウサギは自分の犯そうとした過ちを後悔するとともに、自分の無知による誤りに感謝した。
「本当に僕はバカだった。カメ君、許してくれ!」
ウサギはベッドから降りると床に長い耳をつけて詫びた。
「ウサギさん、止めてください。ウサギさんがそんなに悩んでいたなんて僕は知らなかった。あのカケッコの勝敗がウサギさんをそこまで追い込んでいたなんて……。僕の方こそ許して下さい」
カメも長く伸びた首ごと床にこすりつけた。ウサギとカメはお互いの思いをぶつけ合った。そして、自然にウサギとカメは、お互いを労り合ったのだ。
「ウサギさん! もう一度、山の麓までカケッコしましょう!」
「カケッコ?」
「そうです。あのときと同じように、一緒に走りましょう!」
にこやかなカメを見て、ウサギにも微笑みが戻った。
「よし、走ろう!」
「ウサギさん、遠慮は無用です。真剣勝負でお願いします」
力強くカメが言い切ると、ウサギもそれに答えた。
「もちろん! 今度こそ油断しないぞ!」
ウサギとカメは睨み合い、火花を散らし始めた。
「よーい、ドン!」
前回同様に、キツネの合図でウサギとカメは、山の麓を目指してスタートした。俊足のウサギは、見る見るうちにカメを引き離して行った。鈍足のカメは、マイペースで一歩一歩、歩んで行った。カメの視界から消えたウサギは、カメとの大差におごることなく、地面を踏みしめながら走り続け、山の麓に辿り着いた。村の動物たちが大きな拍手でウサギを出迎えた。
「やっぱり、ウサギは早いよなぁ」
「村一番だ!」
そんな声があちらこちらから聞こえてきた。しかし、そんな声もウサギの長く白い耳には聞こえない。ウサギは自分が走って来た道を、じっと見つめていた。
何時間経過しただろう。道の向こうにカメの甲羅が見えてきた。カメはスタートしたときと変わらないゆっくりとしたペースで、一歩一歩進んでいた。ゴールを目指すカメの真剣な眼差しに、動物たちは息をのんだ。
「もう少しだ! がんばれ!」
誰かの声が山の麓に響くと、誰彼なしにカメへの声援が湧き起こった。カメがゆっくりとゴールラインを越える。自然に声援が拍手喝采に変っていく。全力を出し切り、ぐったりしたカメにウサギが歩み寄る。ウサギとカメは、互いの健闘を讃えるように力強く握手を交わし抱き合った。
「ありがとう! カメ君!」
「ありがとう! ウサギさん!」
鳴り止まぬ拍手の中、ウサギとカメの流す汗は、さぞかし香辛料の効いた辛口の汗であっただろう――。
了