音だけが、残ったままだった。
重厚な扉に守られた豪邸。夜の屋敷は、昼間の穏やかさとはまるで別の顔を見せる。
消灯後に起きた事故は、公式には「不運な出来事」として片付けられ、表向きには何事もなかったかのように日常が戻る。
しかし、執事として働く少女・花音は、兄がかつて同じ屋敷で不可解な死を遂げたことを思い出す。
屋敷に新たに現れた探偵や霊媒師の存在が、夜に消える“事故”の真相へと花音を誘う。
夜の静寂に紛れる声、影、そして不可解な規則。
真実に近づく者は、誰もが狙われる——。
花音は、兄の死の謎と屋敷の秘密に立ち向かう覚悟を決めるが、果たして彼女はこの屋敷の闇を乗り越えられるのか。
豪邸の重厚な扉が、静かに閉じた。
屋敷の中は、思っていたよりも暗かった。
夜はすでに深く、廊下の奥は闇に溶け込んでいる。
私は立ち止まり、少しだけ周囲の気配を確かめた。
音はない。
人の動く気配も感じられなかった。
灯りをつけることも考えたが、結局そのまま歩き出す。
この館は広く、夜になると妙に静かだ。
余計な音を立てないほうがいい、そう思っただけだ。
壁に沿って進むと、指先にひんやりとした感触が伝わる。
床板のきしむ位置も、自然と足が避けていた。
私は、特に意識することもなく、廊下を進んでいた。
しばらくして、遠くで小さな音がした。
何かを落としたような、そんな音だ。
次の瞬間、それが声だと分かる。
短く、切れ切れの悲鳴。
胸が一瞬、強く鳴った。
だが、足は止まらなかった。
「……?」
誰に向けるでもなく、小さく息を吐く。
この屋敷では、夜に何かが起きることが、珍しくない。
そう聞いてはいた。過去にも、何度か。
だからだろうか。
驚きよりも先に、考えるべきことが頭に浮かんだ。
――明日の朝は、また慌ただしくなる。
私は歩調を変えず、廊下の奥へと進んでいった。
闇の中では、ものの輪郭が曖昧になる。
それが、少しだけ楽に感じられた。
⸻
朝の屋敷は、まるで別の顔を見せる。
高い天井から差し込む光が廊下を照らし、
夜の闇に沈んでいた壁や床は、何事もなかったかのように輪郭を取り戻している。
使用人たちの足音が重なり、銀食器の触れ合う音が、館に生活の気配を運び込んでいた。
僕はいつも通りの時間に起き、制服に袖を通した。
特別な変化はない。
昨夜のことも、口に出して話す者はいなかった。
この屋敷では、夜と朝のあいだに線が引かれている。
消灯後に起きたことは、原則として翌朝まで持ち込まれない。
それが、暗黙の了解だった。
そしてそれは、家主の意向でもあった。
この館の主は、滅多に姿を見せない。
だが、決まりごとだけは細部まで行き届いていた。
執事長を通して伝えられる指示は多く、理由が添えられることはほとんどない。
ただ、言われたことを守り、いつもと同じことを繰り返せば給料が支払われる。
ここで働く者は皆、そのやり方に慣れていた。
廊下の窓を拭いていると、遠くで執事長の声がした。
「……全員、食堂に集まりなさい」
その一言で、空気がわずかに張りつめる。
食堂に集まった執事たちは、互いに目を合わせず、静かに立っていた。
執事長は一拍置いてから告げた。
「昨夜、事故があった」
それだけだった。
詳しい説明はない。
名前も、場所も、伏せられたままだ。
それでも、何人かの肩がわずかに揺れた。
この屋敷で「事故」という言葉が意味するものを、皆が理解している。
「……以上だ。今日の業務に戻りなさい」
解散の合図とともに、人の流れが生まれる。
誰もが、いつもより少しだけ無言だった。
そのとき、玄関の方から、聞き慣れない音がした。
スーツケースが床を転がる音。
軽く、乾いた音だった。
誰かが、ぽつりと呟く。
「……まさか」
僕は、そちらに視線を向けた。
新しい人間が来る。
その事実だけで、空気が微かに変わる。
理由を考える者も、考えないふりをする者もいた。
だが誰も、それを口にはしなかった。
そして次の瞬間、
扉の向こうから、一人の少女が姿を現した。
⸻
ここからは、後に「事故」と呼ばれる夜を迎えた、
ある執事の話だ。
俺の名前は朝倉 花蓮。正直に言えば、俺の人生は、どこにでもあるものだったと思う。
地方の小さな町で、特別に裕福でも貧しくもない、両親2人と妹に僕を加えた4人で生活をして、学校を出て、いくつか仕事を転々とした。
営業は向いていなかったし、工場の流れ作業は息が詰まった。
何かになりたい、という強い夢もなかった。
だからこの仕事を見つけたとき、
「悪くないな」と思っただけだった。
住み込み、食事付き。
給料も安定している。
仕事内容は執事――と言っても、掃除や配膳、庭の手入れがほとんどだ。
でも、嫌いじゃなかった。
この屋敷は少し変わっていたが、居心地は悪くなかった。
“赤い花”が多いのは気になったが、芸術家の家なんてそんなものだろう、と納得していた。
家主は芸術家であり、また、小説家でもあると聞いている。
作品は見たことがないが、屋敷のあちこちに、その趣味だけは残っていた。
新人が来るらしい、という話を聞いたのは、その日の昼だった。
控えの間で誰かが言った。
誰も大きな声では返事をしない。
夜になると、決まった時間に灯りが落ちる。
消灯後は部屋から出ない。
理由は説明されないが、そういうものだと受け入れていた。
ただし、完全な闇になるわけではない。
消灯担当の執事が一人、見回りをする。
だから、
消灯後に足音がしても、それだけで異常とは言い切れなかった。
その夜も、特別なことはなかった。
少なくとも、そう思っていた。
夕食を終え、持ち場を片付け、部屋に戻る。
古い木の床が、足音を小さく吸い込む。
部屋は狭いが、清潔だった。
ベッドと机、それだけで十分だ。
時計を見る。
もうすぐ消灯の時間だ。
「……今日も終わりか」
そう呟いて、明かりを落とした。
暗闇は、思ったより静かだった。
外の風の音も、虫の声も聞こえない。
屋敷全体が、息を潜めているようだった。
布団に入って、目を閉じる。
――そのときだった。
どこかで、床が鳴った。
気のせいかと思った。
この屋敷は古い。軋む音くらい、いくらでもする。
もう一度、音。
今度は、近い。
「……誰かいるのか?」
返事はない。
消灯後に廊下を歩く者はいない。
それが、ここで働く人間の常識だった。
だから、妙だと思った。
布団から身を起こした瞬間、
背後で、空気が動いた。
何かが、近づく気配。
振り向こうとした――
そのとき、首元に冷たいものが触れた。
声は出なかった。
息を吸おうとしても、うまくいかない。
視界が、ゆっくりと暗くなる。
最後に思ったのは、
こんな終わり方も、あるのか、ということだった。
特別な人生じゃなかった。
だから、特別な最期でもない。
ただ――
朝になれば、誰かが見つけるだろう。
そう思ったところで、意識は途切れた。
ーー
玄関ホールに入ると、空気が少し変わった。
朝の光の中で、一人の少女が立っていた。
足元にはスーツケースがひとつ。背筋を伸ばし、静かに待っている。
年は若い。
執事というより、来客に近い印象だった。
執事長が、僕の方を見る。
「君が案内役だ。教育係も兼ねて頼む」
短くそう言われ、僕は一歩前に出た。
「……よろしくお願いします。かやまたいちです。」
声をかけると、少女は小さく頭を下げた。
「こちらこそ。よろしくお願いします」
言葉遣いは丁寧で、落ち着いている。
それが、この屋敷では少しだけ浮いて見えた。
周囲では、他の執事たちが仕事を続けている。
視線が向けられることはない。
けれど、動きがわずかに鈍っているのが分かった。
「では、こちらへ」
僕は歩き出し、少女は後ろをついてくる。
廊下を進みながら、館の基本的な説明をする。
食堂、客室、立ち入りを控える場所。
どれも決まりきった内容だ。
「この屋敷は、個人の所有です」
「家主の方針で、立ち入りに制限のある区画があります」
少女は、静かに頷いた。
「家主の方は……」
そう言いかけて、言葉を切る。
「普段は、あまり表に出られません」
言葉を選びながら、そう伝える。
「夜は、決まった時間に消灯があります。消灯後は、基本的に部屋から出ないでください」
少女は、少しだけ考えるような素振りを見せた。
「……分かりました」
返事は静かだった。
「この屋敷については、どのくらい知っていますか」
「古い館で、執事の仕事がある、ということくらいです」
「最近のことは?」
「……特には」
一拍の後、そう答えた。
否定の言葉だったが、強さはなかった。
まるで、話題をそっと閉じるような言い方だった。
階段を上りながら、彼女が言う。
「思っていたより、広いですね」
「慣れるまでは迷います」
「……そうですね」
それ以上、会話は続かなかった。
廊下の突き当たりで、花音は足を止めた。
そこは、他の部屋とは少し違う空気をまとっていた。
扉は分厚く、取っ手には過剰なほど磨き込まれた金属の光が残っている。
立ち入り禁止の札は出ていないが、誰も近づこうとしない場所。
「……ここって」
「どうしました?」
「この部屋……何があるんですか」
一瞬だけ、彼の視線が扉に向いた。
ほんの一瞬。
けれど、花音はそれを見逃さなかった。
「ここは、主人のコレクションルームです」
「コレクション……?」
「ええ。個人的な趣味の部屋ですね」
それ以上の説明がないのを不思議に思って、花音は少し踏み込む。
「どんなものを、集めているんですか」
彼は、すぐには答えなかった。
廊下の先に誰もいないことを確認してから、声を落とす。
「……主に、花です」
「花?」
「赤い花が多いですね」
その言葉に、花音の胸がわずかにざわついた。
「赤い……花?」
「はい。生花ではありません」
「押し花や、乾燥させたもの、標本のように保存されたものです」
淡々とした説明だった。
まるで、珍しくもない事実を述べるように。
「数が……かなりあります」
「かなり?」
「ええ。この屋敷の中で、一番“色が濃い”部屋かもしれません」
花音は、無意識に扉から一歩離れた。
赤い花。
屋敷の庭。
廊下の装飾。
「……好きなんですね、赤い花」
探るように言うと、彼は小さく首を傾けた。
「さあ。好き、というより……」
「意味を重ねている、という方が近いかもしれません」
「意味?」
「赤は、分かりやすいでしょう」
「生きていることも、失われることも」
その言い方が、あまりに静かで、
花音は言葉を失った。
「……中、見たことありますか」
問いかけると、彼ははっきりと首を振った。
「ありません」
即答だった。
「主人以外は、入らないことになっています」
「掃除も、ご本人がなさる」
「そう……なんですね」
花音は、もう一度だけ扉を見る。
閉じたままのその向こうに、
どれだけの赤が並んでいるのか。
「夜は、特に近づかない方がいいですよ」
不意に、彼が言った。
「どうしてですか」
「……気分が悪くなる人がいるので」
それが誰なのかは、言わなかった。
「分かりました」
花音は、そう答えた。
けれど、胸の奥では、
その部屋が“見せないための場所”であることだけが、
はっきりと残っていた。
赤い花の部屋。
それは、飾るためのコレクションなのか。
それとも——
忘れないための記録なのか。
花音は、その答えを聞かなかった。
聞いてはいけない気が、していたから
⸻
その日の午後、屋敷に来客があった。
正確には、来客というより、訪問だった。
門の前に車が止まり、見慣れない制服の男たちが降りてくる。
遠目にも分かる、警察だ。
誰かが小さく息を吸ったのが分かった。
だが、騒ぎ立てる者はいない。
この屋敷では、「外の人間」が来ること自体が、あまりない。
それが警察であれば、なおさらだった。
執事長が応対に出る。
背筋を伸ばし、いつもと変わらない足取りで。
僕らは持ち場を離れず、ただ様子を窺っていた。
仕事の手は動かしているが、耳はそちらに向いている。
警官の一人が、低い声で何かを確認している。
もう一人は、屋敷の中を見回すように視線を巡らせていた。
その視線が、一瞬、こちらに向く。
胸の奥が、わずかに硬くなる。
だが、何かを言われることはなかった。
やり取りは長くなかった。
数分ほどで、警官たちは頷き合い、来たときと同じように門の外へ戻っていく。
深く踏み込むつもりはない。
そんな印象だけが残った。
理由は、分かっている。
この屋敷で起きる「事故」は、これが初めてではない。
そして、そのたびに、警察は同じ態度を取る。
確認はするが、深入りはしない。
執事長が戻ってくると、周囲の空気が少しだけ緩んだ。
誰かが、ほとんど聞こえない声で言う。
「……今回も、そうか」
誰に向けた言葉でもない。
その夜、控えの間で、噂が静かに広がった。
「警察だけじゃないらしい」
「外部の人間が、もう一人来るって」
声は低く、断片的だった。
確かな情報を持っている者はいない。
「探偵だって」
誰かが、そう言った。
一瞬、空気が止まる。
「本当か?」
「さあ……でも、前にも一度、そんなことがあった」
探偵、という言葉は、この屋敷では特別な響きを持つ。
歓迎される存在ではない。
だが、完全に否定もされない。
「事故」を「事故のまま」終わらせない可能性を、はらんでいるからだ。
「今回は、被害が大きいらしい」
「……人が、替わるくらいには」
その言葉に、誰も返事をしなかった。
頭の中に、朝の玄関ホールの光景が浮かぶ。
スーツケースの音。
静かに立っていた、あの少女。
偶然だろうか。
そう思おうとして、やめた。
この屋敷では、偶然と必然の境目が、あまりはっきりしない。
その夜も、決まった時間に消灯が行われた。
灯りが落ちる直前、
廊下の奥で、誰かが言った気がした。
「……今度は、誤魔化せないかもしれないな」
誰の声だったのかは、分からない。
闇が降りる。
屋敷は、また夜の顔を取り戻した。
そしてその闇の向こうで、
「探偵」という存在が、まだ見ぬ影として、静かに近づいてきていた。
警察が帰ったあと、屋敷は不思議なほど早く静けさを取り戻した。
玄関に残っていた靴の跡も、床に落ちた埃も、いつの間にか誰かが拭き取っていた。
廊下には、いつも通りの足音が戻っている。
重い扉が閉まる音を、私は階段の上から聞いていた。
——終わった、のだろうか。
そう思ったけれど、胸の奥は少しも軽くならなかった。
「大丈夫ですか」
声をかけられて振り返ると、執事の一人が立っていた。
表情は穏やかで、声の調子も普段と変わらない。
「……はい」
そう答えた自分の声も、驚くほど普通だった。
誰も取り乱していない。
ついさっきまで“事故”について話していたとは思えないほど、屋敷は整っていた。
私は手すりに指を置いた。
冷たくて、少しざらついている。
(こんなに、すぐ元に戻るものなんだ)
そう思った瞬間、違和感が胸に触れた。
事件があった家、ではなく。
事件が「済んだ」家。
まるで、最初から片づけられる前提だったみたいに。
廊下の向こうで、誰かが小さく笑った。
業務の話だろう。声は低く、抑えられている。
私はその音から、視線をそらした。
分からない。
何が、とは言えない。
ただ、ここでは
悲しむことも、立ち止まることも、
あまり歓迎されていない気がした。
——兄がいなくなった日のことを、思い出しかけて、やめる。
あの日は、誰もそんなふうに片づけなかった。
時間は止まって、部屋は荒れて、
「日常に戻る」なんて考えられなかった。
なのに、この屋敷では。
私は小さく息を吸い、制服の袖を握った。
(私が慣れていないだけなんだろうか)
そう考えてみても、違和感は消えなかった。
階下で、また足音が増える。
夕方の準備が始まる合図だった。
私は階段を下りながら、ふと思う。
ここでは、
「何が起きたか」よりも、
「次に何をするか」の方が大事なのかもしれない。
その考えが、正しいのかどうかは分からない。
ただ——
この屋敷に長くいればいるほど、
それを疑わなくなってしまいそうで。
それが、少しだけ、怖かった。
夕方の準備が始まり、屋敷の中に再び規則的な動きが戻ってきた。
私は配膳室で、カトラリーを磨いていた。
磨いているつもりだったけれど、手はどこか上滑りしていて、布の感触だけがやけに残る。
「力、入りすぎてますよ」
不意に声をかけられ、顔を上げた。
隣に立っていたのは、かやまだった。
いつも通りの執事服、いつも通りの穏やかな表情。
「……すみません」
「気にしなくていいです。今日は、誰でもそうなります」
そう言って、彼は私の手元を一度だけ見てから、視線を外した。
少し間が空く。
遠くで、別の執事たちが小声で話しているのが聞こえた。
言葉の断片だけが、断続的に届く。
「……探偵が……」
「……噂だけど……」
私がそちらに意識を向けたのを察したのか、たいちが小さく息を吐いた。
「探偵の話ですか」
「……はい」
否定も肯定もせず、そう答えると、彼は苦笑のようなものを浮かべた。
「来るらしい、とは聞いています」
「やっぱり……」
「ええ。でも」
たいちは、磨き終えた皿を一枚、静かに重ねた。
音はほとんどしなかった。
「正直、意味はないと思いますよ」
その言い方は、強くも弱くもなかった。
事実を述べるような、淡々とした声。
「意味、ない……ですか?」
「この屋敷は、そういう場所ですから」
彼はそう言って、私を見る。
目が合った瞬間、何かを探るような視線を感じて、私は思わず視線を逸らした。
「事件が起きること自体が、もう日常になっている。
原因を探すより、業務を回すことの方が優先される」
「……それって」
「誰が悪い、という話じゃありません」
私の言葉を遮るように、たいちは続けた。
「ここでは、真実よりも秩序の方が大切にされる。
探偵が来ても、表に出るのは“許される答え”だけです」
私は、皿を持つ手を止めた。
「じゃあ……本当のことは」
「必要とされないことも、あります」
彼はそう言って、少しだけ声を和らげた。
「あなたが気に病む必要はありません。
花……あなたは、まだ来たばかりですから」
一瞬、呼ばれかけた音が、途中で変わった気がした。
でも、確かめるほどの確信はなくて、私は何も言えなかった。
「今日は、早めに休んでください」
彼はそう言って、その場を離れた。
背中を見送りながら、私は胸の奥に残った言葉を反芻する。
——意味はない。
——許される答え。
それは、慰めだったのか。
それとも、忠告だったのか。
分からないまま、私は再び布を手に取った。
金属の表面に、ぼんやりと自分の顔が映る。
その向こうに、整いすぎた屋敷の天井が重なっていた。
探偵が来ても、意味がない。
その言葉だけが、
妙に、頭から離れなかった
警察と探偵が屋敷を出ていったのは、昼過ぎだった。
重たい扉が閉まる音が、妙に大きく響いたあと、館は再び静けさを取り戻した。
まるで、最初から何もなかったかのように。
執事長は最低限の指示だけを残し、各自を持ち場へ戻らせた。
誰もが言葉を控え、必要な動きだけをこなしている。
——そのはずだった。
玄関ホールに、再び人の気配が流れ込んだのは、午後三時を少し回った頃だ。
「……誰だ?」
小さなざわめきが起こる。
振り向いた先に立っていたのは、警察でも探偵でもなかった。
黒に近い深い紫の着物をまとった、痩せた老人。
背は低く、年齢は分からない。
だが、その場に立った瞬間、空気が一段沈んだ。
「失礼」
老人は、玄関の中央で立ち止まり、軽く頭を下げた。
「私は、呼ばれて来ました」
「……呼ばれて?」
執事長が一歩前に出る。
「こちらでは、そのような依頼は——」
「いえ。あなた方ではありません」
老人は、ゆっくりと顔を上げた。
その目が、屋敷の奥を“見る”ように細められる。
「この館そのものに、です」
空気が、わずかに張りつめた。
「私は霊媒師です。
名前は、どうでもいいでしょう」
誰かが、喉を鳴らす音がした。
「警察も探偵も、もう調べた。
それでも、終わらなかった」
老人は、そう言って一歩踏み出す。
「だから、次は“こちら側”の番だ」
執事長は、即座に拒否しなかった。
それが、この屋敷の異常さを、かえって際立たせていた。
「……勝手な真似は許可できません」
「もちろん。強制するつもりはない」
霊媒師は微笑んだ。
だが、その笑みは、人に向けられたものではなかった。
「ただ、一つだけ伝えに来た」
その瞬間、彼の視線が——
執事たちの列の中を、ゆっくりと滑っていく。
誰もが、息を詰めた。
そして。
その視線が、ぴたりと止まる。
花音の前で。
名を呼ばれたわけではない。
指を差されたわけでもない。
それでも、逃げ場はなかった。
「……この館で、鍵になるのは」
霊媒師は、はっきりと言った。
「“はな”の名を持つ者だ」
一瞬、世界が静止したように感じられた。
「はな……?」
誰かが、困惑した声を漏らす。
「花壇のことか?」
「屋敷の花じゃないのか?」
ざわめきが広がる中、霊媒師は首を振った。
「違う」
そして、花音を見る。
「人だ」
その言葉が、胸に落ちる前に、続けて告げられた。
「あなたは、すでに境目に立っている」
花音は、何も言えなかった。
否定しようにも、言葉が見つからない。
胸の奥で、ずっと感じていた違和感が、形を持って迫ってくる。
「安心しなさい」
霊媒師は、意外にも穏やかに言った。
「あなたが犯人だと言っているわけじゃない」
「ただし」
その一言で、空気が再び引き締まる。
「真実に近づく者は、必ず狙われる」
「……以上だ」
霊媒師は、それだけ言うと、踵を返した。
引き留める者はいなかった。
玄関の扉が閉まる音が、
朝とは違う重さで、館に残る。
誰もが動けない中、
花音だけが、自分の鼓動をはっきりと聞いていた。
“鍵”。
それは、守られるものなのか。
それとも、壊されるものなのか。
その答えを、この屋敷は、まだ教えてくれなかった。
その夜、花音はなかなか眠れなかった。
与えられた部屋は静かで、調度品も整っている。
それなのに、目を閉じると、この屋敷の闇がまぶたの裏に滲んでくる。
昼間、霊媒師が残した言葉が、頭の中で繰り返されていた。
——“はな”にまつわる名。
——事故として隠されたもの。
意味は、まだ分からない。
けれど、胸の奥がひどく冷えていた。
花音は、そっと息を吐く。
思い出さないようにしてきた記憶ほど、
こういう夜に、音もなく浮かび上がってくる。
兄のことだ。
⸻
兄が死んだのは、数年前。
——この館で、だった。
当時、兄はこの屋敷で執事として働いていた。
花音がこの館の存在を知ったのも、兄からの話がきっかけだった。
「変わった家だけど、仕事はきちんとしてるよ」
そう言って、兄は笑っていた。
夜の決まりが厳しいこと。
消灯後は基本的に部屋を出ないこと。
理由は聞かされないけれど、皆守っていること。
兄は、少し困ったように言っていた。
「暗いの、俺あんまり得意じゃないんだけどさ」
それでも、辞めるとは言わなかった。
⸻
事故が起きたのは、消灯後の時間だった。
場所は、使用人区画に続く古い廊下。
窓のない、灯りを落とすと完全に暗くなる通路。
兄は、そこで倒れているのを発見された。
公式には、「転倒事故」。
足を滑らせ、頭を打った可能性が高い、と。
警察も呼ばれたが、館の中で起きた事故として処理された。
第三者の関与は認められない、という結論だった。
花音が屋敷を訪れたのは、そのあとだ。
静まり返った廊下。
消灯中だったため、灯りはほとんど点いていなかった。
「この時間帯は、こうなんです」
執事長は、淡々と説明した。
「決まりですから」
兄が倒れていた場所には、
すでに何も残っていなかった。
⸻
一つだけ、どうしても納得できないことがあった。
その日兄は、消灯担当ではなかった。
それなのに、
なぜ、灯りのない廊下にいたのか。
「確認のために出たのかもしれませんね」
そう言われた。
「規則はありますが、絶対ではありませんから」
でも、兄は規則を破る人間じゃなかった。
特に、夜の決まりごとについては。
それに——
兄は、暗闇を極端に怖がっていた。
懐中電灯代わりの小さなライトを、
いつも制服のポケットに入れていた。
事故のあと、そのライトは見つからなかった。
「落としたんでしょう」
そう言われて、話は終わった。
⸻
事故として処理され、
兄の死は「不運な出来事」として片づけられた。
屋敷は、何事もなかったかのように運営を続けた。
夜になれば灯りが落ち、
朝になれば、すべてが整えられている。
——まるで、最初から
“夜に起きたことは、残らない”と
決められているみたいに。
⸻
花音は、布団の中で身を縮める。
この屋敷に来てから、
兄の死と同じ匂いが、何度も鼻をかすめていた。
語られない事故。
理由を問われない決まり。
そして、夜の闇。
「……また、同じだ」
小さく呟く。
兄は、この闇の中で、
誰かに“事故”として処理された。
そう考えるのは、まだ早いのかもしれない。
証拠はない。
確信もない。
それでも。
花音は、静かに思う。
——ここでは、
真実よりも先に、
“片づけること”が選ばれる。
霊媒師の言葉が、胸の奥で重なった。
——境目に立つ者。
兄も。
そして、今の自分も。
花音は、目を閉じた。
もう一度、
この屋敷の夜を、
ちゃんと見てしまう覚悟を決めながら
ーーー
次の日の午後、花音は客室階の廊下を一人で拭いていた。
仕事自体は単純だ。
同じ動きを繰り返すだけで、余計なことを考えずに済む。
——はずだった。
背後から、足音が近づく。
振り向く前に、それが誰か分かってしまった。
「無理、してませんか」
穏やかな声。
朝と同じ、少し抑えた調子。
花音は、布を持つ手を止めた。
「……大丈夫です」
そう答えたが、自分でも嘘だと分かる声音だった。
彼は、数歩分の距離を保ったまま立っている。
近すぎず、遠すぎず。
まるで、測ったかのような位置だった。
「周りが、少し静かでしょう」
「……はい」
「今は、それでいいんです」
彼はそう言って、廊下の先を見た。
「皆、どう接すればいいか分からないだけですから」
「疑っている、というより……戸惑っている」
「同じことじゃないですか」
花音が言うと、彼は小さく笑った。
「確かに」
一瞬の間。
「でも、あなたが気に病む必要はありません」
その言い方は、昨日と同じだった。
それなのに、どこか違う。
「……どうして、そんなに言い切れるんですか」
問いかけると、彼は少しだけ考える素振りを見せた。
「ここにいると、分かることがあります」
「何が、ですか」
「……疑いは、理由がなくても生まれる」
「だから、理由があるように見える人が、選ばれる」
花音は、布を強く握った。
「それが、私?」
「“あなた”である必要はなかった」
彼は、はっきりそう言った。
「たまたま、条件が重なっただけです」
条件。
兄の死。
霊媒師の言葉。
“はな”という音。
「……私、ここに来るべきじゃなかったのかもしれません」
思わず、そう零れた。
すると、彼の声が、少し低くなる。
「それは違う」
断定だった。
「来た意味は、あります」
「意味……?」
「ええ」
彼は、一歩だけ距離を詰めた。
「少なくとも——私は、そう思います」
花音は、瞬きをした。
(今……)
聞き間違いだろうか。
この人は、いつも自分のことを、
「僕」と言っていたはずだ。
一瞬の沈黙のあと、彼は何事もなかったように続ける。
「……この屋敷は、変わらないようでいて」
「外から何かが入ると、必ず歪みが出る」
「歪み?」
「ええ。良くも、悪くも」
彼は、視線を花音に戻す。
「あなたは、その歪みです」
「だから、怖がられる」
それは、慰めだったのか。
それとも、別の名前を与えられただけなのか。
「でも」
彼は、声を和らげた。
「歪みがなければ、壊れもしない」
「ここは、そうやって保たれてきた場所ですから」
花音は、喉の奥が冷えるのを感じた。
「……それって」
言葉にしようとして、やめた。
彼は、それ以上を説明しなかった。
代わりに、こう言う。
「今日は、もう上がってください」
「これ以上、人の視線に晒れる必要はない」
「でも、仕事が——」
「私が……いえ、僕が、代わりに伝えます」
一瞬の言い直し。
花音は、今度こそはっきりと違和感を覚えた。
(やっぱり……)
けれど、指摘する勇気はなかった。
彼は、変わらぬ穏やかな表情で立っている。
いつも通りの執事。
いつも通りの“味方”。
「……ありがとうございます」
そう言うと、彼は満足そうに頷いた。
「無理はしないでください」
「あなたは、まだ守られる側ですから」
その言葉を残し、彼は廊下の向こうへ歩いていく。
背中を見送りながら、
花音は、胸の奥に残った引っかかりを確かめる。
“守られる側”。
それは、
誰が決めた立場なのか。
そして——
さっき、一瞬だけ聞こえた、
彼の一人称。
聞き間違いだと思うには、
妙に、耳に残りすぎていた。
廊下には、また静けさが戻る。
けれど、花音は知っていた。
疑われているのは、自分だけじゃない。
——少なくとも、
彼自身が、何者であるかについては。
⸻
その日は、朝から屋敷の空気が違っていた。
いつもより早く、玄関ホールに人が集められる。
理由は告げられていないが、執事長の動きが慌ただしい。
それだけで、何かが起きると分かった。
正午を少し回った頃だった。
玄関の重厚な扉が、
内側からではなく――外から、開いた。
軋む音は低く、長い。
誰かが息を呑む気配がした。
最初に足を踏み入れたのは、見知らぬ男だった。
背は高くないが、姿勢が妙に整っている。
年齢は三十代半ばほど。
無地のコートに、使い込まれた革靴。
視線だけが、やけに鋭い。
――探偵だ。
噂に上っていた人物だと、すぐに分かった。
だが、
その男以上に視線を集めたのは、
一歩遅れて現れた人物だった。
影の中から、静かに姿を現す。
細身で、背が高い。
黒に近い濃紺の服を、過不足なく着こなしている。
白い手袋に、手には一本の杖。
顔立ちは思ったより若い。
四十代前半だろうか。
血色は薄く、目元の彫りが深い。
芸術家と聞いて想像する通りの、どこか神経質な印象。
だが、何より印象に残ったのは――目だった。
こちらを見ている。
確かに、見ているはずなのに、
誰一人、見ていないような視線。
「……あれが」
誰かが、喉の奥で呟いた。
俺も、初めて見る。
この屋敷の主を。
執事長が、一歩前に出る。
「お帰りなさいませ」
その声に、男はわずかに頷いた。
そして、淡々と名乗る。
「この館の主だ」
一拍。
「北島 龍也」
その名を聞いた瞬間、
胸の奥で、何かが静かに沈んだ。
名前だけで、空気が変わる。
長く不在だったはずなのに、
屋敷が“本来の形”に戻ったような感覚。
「しばらく、屋敷を空けていた」
「不便をかけたな」
声は低く、感情が抑えられている。
命令口調ではない。
だが、逆らうという選択肢が浮かばない。
隣で、探偵が一歩前に出て会釈する。
「同席を許可していただいた、今回の件を調べる者です」
北島は、そちらを一瞥しただけで、
興味を失ったように視線を戻した。
「説明は、簡潔に」
探偵が応じる。
「この屋敷で起きている“事故”について、外部の立場から、事実のみを確認します」
その言葉に、
執事たちの間に、かすかなざわめきが走る。
事故。
この屋敷の中で、
外の人間がその言葉を使った。
北島の口元が、わずかに歪んだ。
笑みではない。
「好きにしろ」
「ただし——」
杖が、床に軽く触れる。
「私の許可なく、
この館の過去を掘り返すことは許さない」
探偵は、臆する様子もなく頷いた。
「承知しています。ですが、過去はすでに、この屋敷に残っています」
一瞬だけ、
北島の目が細まった。
見逃しそうなほど、ほんの一瞬。
「……そうか」
それだけ言うと、
彼は執事長へ視線を移した。
「全員、持ち場に戻れ」
「必要な者だけ、後で呼ぶ」
命令は短い。
誰も逆らわない。
解散する流れの中で、
俺は一度だけ、振り返った。
玄関ホールの中央に立つ二人。
探偵はすでに、
床や壁、階段の配置を観察している。
一方で、北島は。
ただ立っているだけなのに、
屋敷そのものが、
彼の存在に従っているように見えた。
(……この人が)
(すべてを、知っている)
そう、直感した。
そして同時に、
夜の廊下を歩いていた“彼”の姿が、
脳裏をよぎる。
灯りをつけなかった理由。
言葉の微妙な揺れ。
一人称の、わずかなズレ。
もしこの屋敷が人を選ぶのだとしたら。
選ばれているのは、
主人なのか。
それとも——
この館に、
最も自然に溶け込んでいる、
誰かなのか。
答えは、
まだ、闇の中にあった。
応接間は、久しぶりに使われるようだった。
重たいカーテンが引かれ、外の光は柔らかく遮られている。
長机の周囲に、限られた人数だけが集められた。
主人。
探偵。
執事長。
そして、数名の執事。
僕も、その一人として壁際に立っていた。
探偵は椅子に腰掛けると、しばらく黙って資料に目を落としていた。
紙の擦れる音だけが、やけに大きく聞こえる。
やがて、顔を上げる。
「では、整理から始めます」
低く、落ち着いた声だった。
「まず、この屋敷で“事故”として処理されてきた出来事について」
探偵は、指で紙を軽く叩いた。
「共通点は、三つあります」
一つ。
二つ。
三つ。
数え上げる仕草が、妙に冷静だ。
「一つ目。
すべてが、消灯後の時間帯に起きている」
誰も口を挟まない。
「二つ目。
場所は必ず、灯りの届かない、もしくは制限された区画」
使用人廊下。
古い通路。
夜間立ち入りを控える場所。
自然と、頭の中に浮かぶ。
「三つ目。
発見は、必ず翌朝以降。
つまり、“夜の出来事”は、朝まで持ち越されない」
探偵は、そこで一度言葉を切った。
「——まるで、そう決められているかのように」
主人は、何も言わない。
ただ、杖に両手を添え、探偵を見ている。
探偵は続けた。
「次に、今回の事件です」
紙を一枚、めくる。
「被害者は、執事。
消灯後、自室から出た形跡あり。
灯りのない廊下で、首に致命傷」
事故ではない。
そう断定してもいい状況だ。
「にもかかわらず、最初の処理は“事故”だった」
探偵は、わずかに肩をすくめた。
それ自体は、この屋敷では珍しくない」
皮肉とも、事実の確認とも取れる口調。
「重要なのは、なぜ彼が、その場所にいたのか」
探偵の視線が、執事長へ向く。
「消灯後は、原則として部屋から出ない。
これは、全員が知っている規則ですね」
執事長は、静かに頷いた。
「では、例外は?」
探偵が問いかける。
「消灯後に、正当に廊下を歩く人間は誰ですか」
一瞬の沈黙。
「……消灯担当です」
誰かが答えた。
「ええ」
探偵は頷く。
「ですが、今回の被害者は、その担当ではなかった」
資料から、目を上げる。
「つまり、規則を破ったか、破らざるを得なかった」
その言葉が、部屋に落ちる。
「ここで、過去の“事故”に戻ります」
探偵は、少し声を落とした。
「過去の被害者も、多くが
“その時間、そこにいる理由が曖昧”だった」
理由がない。
あるいは、後から作られた理由。
「確認のため」
「たまたま」
「規則は絶対ではない」
探偵は、首を横に振る。
「ですが、規則が絶対でないなら、なぜ皆、あそこまで守る?」
誰も答えない。
「怖いからです」
探偵は、淡々と言った。
「理由は知らなくても、
破った先に“何かがある”と、体が知っている」
一瞬、
夜の廊下を歩く背中が、脳裏をよぎった。
——彼は、迷っていなかった。
探偵は、主人の方へ視線を移す。
「私は、超自然的なものを証明するつもりはありません」
「霊の存在も、前提にはしない」
主人は、静かに聞いている。
「ただし」
探偵は、指を一本立てた。
「人が“そう振る舞うように仕向けられている構造”は、存在する」
屋敷。
規則。
沈黙。
朝になれば、すべてが整えられる流れ。
「今回の事件は」
「突発的な殺人ではありません」
探偵は、はっきりと言った。
「この屋敷で、長い時間をかけて作られた“やり方”の延長線上にある」
その言葉に、
主人の指が、わずかに動いた。
杖を握り直したのか。
それとも——
「次に調べるべきは」
探偵は、資料を閉じる。
「誰が犯人かではなく」
「誰が、この“夜の仕組み”を最も自然に使えるか」
その瞬間、
背中に、冷たいものが走った。
自然に使える。
考える前に、体が動くような人間。
探偵は、最後にこう言った。
「私は、今回の事件の犯人が誰か、すでに分かっています」
視線が、部屋をゆっくりと一周する。
誰も、動けなかった。
次に疑われるのが誰か。
それは、まだ名指しされていない。
だが、
“夜の中を、ためらいなく歩ける存在”が
この屋敷にいることだけは、
全員が、薄々気づいていた
探偵は、全員を見渡したあと、静かに口を開いた。
「——まず、はっきりさせておきます」
その声は、先ほどまでよりも一段落ち着いていた。
「今回、この屋敷で続いていた“連続した事件”について」
一拍置く。
「その犯人は、この館の家主」
「北島 龍也、あなたです」
視線が、主人に向けられる。
「夜に灯りを消し、行動を制限し、恐怖を日常に溶かす」
「その構造を作り、維持してきたのは、あなた以外にいない」
主人は、黙ったまま探偵を見返している。
「赤い花への異常な執着」
「保存され、増え続ける“赤”」
「事故として処理される死」
探偵は、淡々と続けた。
「これらはすべて、あなたの管理下で起きている」
「この屋敷そのものが、あなたの思想と美意識で出来ている」
「今回までの連続殺人」
「それは、あなたの偏った思想による歪んだ美意識の現れですね」
主人は、ふっと小さく息を吐いた。
「……なるほど」
否定はしない。
だが、どこか余裕が残っている。
探偵は、そこで一度話を切った。
「しかし」
その一言で、空気が変わる。
「すべての死が、あなたの手によるものかと言われれば」
「——答えは、違います」
執事たちの間に、ざわめきが走る。
花音の胸が、強く鳴った。
探偵は、ゆっくりと花音を見る。
「朝倉 花蓮」
名前が、はっきりと呼ばれた。
「数年前、この屋敷で亡くなった執事」
「——あなたの、兄ですね」
花音は、何も言えなかった。
だが、否定もしなかった。
「彼の死は、公式には“事故”」
「ですが、その位置づけは、少し違う」
探偵は、主人から視線を外し、花音へ向けたまま言う。
「彼の死は、この連続殺人の一部ではありません」
一瞬、誰も意味を理解できなかった。
「……どういうことだ」
誰かが、低く呟く。
探偵は、言葉を選びながら続ける。
「北島は、この屋敷で“夜の構造”を作った」
「しかし——」
「朝倉花蓮の死は」
「その構造が“完成する前”に起きている」
完成する前。
「つまり、彼は“最初の犠牲者”ではない」
「正確には——」
探偵は、はっきりと言った。
「この屋敷で、人を殺すという行為を
“最初に実行した人物”は、別にいる」
空気が、凍りついた。
主人の指が、杖の上で、わずかに動く。
探偵は、主人を一瞥する。
「あなたは、あの死を“利用した”」
「事故として処理し、屋敷に沈黙を根付かせた」
「だが——」
「実際に、朝倉花蓮を殺したのは、あなたではない」
花音の喉が、ひくりと鳴った。
「……じゃあ」
声にならない声が、こぼれる。
探偵は、静かに言う。
「あなたの兄を殺した人物は」
「この屋敷の中にいた」
そして、こう付け加えた。
「しかも」
「“夜を歩く役割”を、最も自然に果たせる人間です」
その言葉が、応接間に重く沈む。
探偵は、少しだけ視線を伏せた。
「第一の結論として」
探偵は、はっきりと言った。
「連続殺人の犯人は、北島龍也」
「——これは、揺るぎません」
「しかし、朝倉花蓮を殺した人物は、まだこの屋敷にいる」
その言葉で、
“解決したはずの事件”に、
再び影が落ちた。
誰もが理解した。
これは、終わりではない。
そして——
本当に恐ろしい存在は、
まだ名前を呼ばれていない。
⸻
応接間に、重たい沈黙が落ちたままだった。
連続殺人の犯人が明かされ、
それでもなお、事件は終わっていない。
探偵は、ゆっくりと視線を巡らせる。
主人でも、花音でもない。
執事たち。
壁際に立つ者。
椅子の背に手を添える者。
「——もう一度、夜の話に戻りましょう」
探偵の声が、低く響く。
「朝倉花蓮が亡くなった夜」
「彼は、消灯後に廊下にいました」
誰かが、喉を鳴らした。
「理由は、記録に残っていません」
「“たまたま”“確認のため”」
「——いつもの、曖昧な言葉だけです」
探偵は、視線を落とす。
「ですが」
「この屋敷で、消灯後に“自然に”廊下を歩ける人間は、限られている」
花音の背中に、ぞくりとしたものが走る。
「消灯担当」
「巡回を任される者」
「規則を、規則としてではなく、“手順”として扱える者」
探偵は、指で机を軽く叩いた。
「朝倉花蓮は、消灯担当ではなかった」
「つまり——」
言葉を切る。
「彼が夜を歩いた理由は」
「“誰かにとって都合が良かった”」
空気が、ぴんと張りつめる。
「そして」
探偵は、静かに続ける。
「その“誰か”は」
「夜を恐れていない」
「闇の中で、立ち止まらない」
「足音を、意識しない」
花音は、無意識に拳を握っていた。
思い出す。
夜の廊下。
迷いのない背中。
灯りをつけない理由を、説明しない声。
探偵は、ふっと息を吐いた。
「ここで、霊媒師の話に戻ります」
その言葉に、数名の執事がわずかに身じろぎした。
「彼は、言いましたね」
「“はな”が鍵だ、と」
探偵は、首を傾ける。
「確かに、この屋敷には花が多い」
「赤い花は、象徴的です」
「そして」
視線が、花音に向く。
「“花”という音を持つ名前もある」
花音は、動けなかった。
「だからこそ」
探偵は、ゆっくりと首を振る。
「多くの人が、そこに引きずられた」
探偵は、視線を戻す。
「“はな”と聞いて、真っ先に思い浮かべるもの」
「それは、植物です」
「次に、人の名前」
「ですが」
一拍。
「もう一つ、忘れられがちなものがある」
応接間が、静まり返る。
「言葉の“意味”です」
探偵は、淡々と言った。
「“はな”は、花だけではない」
「音は同じでも、別の字がある」
誰かが、息を呑む。
探偵は、そこで初めて、はっきりと間を取った。
そして、静かに告げる。
「あの霊媒師が言った“はな”」
「それは、赤い花でも、花音さんの名前でもありません」
執事たちの視線が、一斉に探偵へ向く。
「だからこそ、"鍵"なのです。」
「この“はな”は——」
わずかに、声を落とす。
「華やかの“華”です」
その瞬間、
何人かの執事が、はっとしたように息を吸った。
探偵は、資料に目を落とす。
「この屋敷に関わる人間の名前を、すべて調べました」
「過去も、現在も」
「その中で」
探偵は、顔を上げる。
「“華”という字を含む名前は」
「私が確認した限り——一人しかいません」
視線が、ゆっくりと動く。
壁際。
いつも通りの立ち姿。
夜を知っている背中。
探偵は、静かに言った。
「ですよね?」
そして——
「華山 大智さん」
名前が、応接間に落ちた。
すべてが、
ここへ辿り着くための夜だったかのように
――呼ばれた。
その名前が、空気の底に沈んでいくのを、はっきりと感じた。
「華山 大智」
探偵の声は淡々としていて、責める色も、煽る色もない。
だからこそ、逃げ場がなかった。
……ああ。
ついに、ここまで来たか。
胸の奥で、小さく息を整える。
驚いたふりをする必要はない。
この瞬間が来ることは、ずっと前から分かっていた。
いや――
分かっていたのは、「俺」だけかもしれない。
「私、ですか」
口から出た声は、落ち着いていた。
いつも通りの、執事としての声。
自分でも感心するほど、自然だ。
周囲の視線が、一斉に集まる。
花音の気配も、はっきりと背中に刺さっていた。
探偵は、僕の反応を見て、わずかに目を細めた。
「ええ」
「驚かないのですね」
「……名前を呼ばれただけですから」
そう答えながら、
頭の中で、いくつかの声が重なる。
――落ち着け。
――まだ、だ。
――ここで崩れるな。
(“僕”が言う)
――いや、もう十分だろう。
――むしろ、遅すぎたくらいだ。
(“俺”が笑う)
探偵は、一歩だけこちらに近づいた。
「あなたは、この屋敷で長く働いている」
「規則を熟知し、夜の動線も把握している」
「消灯後に灯りをつけない理由も」
「足音を立てない歩き方も」
「すべて、身体に染みついている」
その一つ一つが、
刃物のように正確だった。
「ですが」
探偵は、そこで言葉を切る。
「それだけでは、説明がつかないことがある」
僕は、黙って聞いていた。
否定する理由も、肯定する理由もない。
「朝倉花蓮が殺された夜」
「あなたは、“夜を歩く役割”に就いていなかった」
視線が、真っ直ぐに刺さる。
「それにもかかわらず」
「あなたは、迷わず廊下を歩いていた」
……やはり、そこか。
「それは、規則を破った、という意味ではありません」
「むしろ逆です」
探偵は、低く言った。
「あなたは、その瞬間だけ」
「“規則そのもの”になっていた」
ざわ、と空気が揺れた。
「どういう……意味でしょうか」
今度は、意識して声を抑えた。
“僕”の声だ。
探偵は、答えずに続ける。
「あなたは、場面によって一人称が揺れる」
「“私”“僕”“俺”」
「使い分けている、というより——」
一拍。
「切り替わっている」
その言葉が、胸の奥に落ちた瞬間、
中で何かが、はっきりと笑った。
――やっぱり、気づいてたか。
「……言葉遣いの癖、では?」
そう返しながら、
同時に、別の自分が舌打ちする。
――下手だ。
――誤魔化しきれない。
探偵は、首を振った。
「癖ではありません」
「あなたの場合、それぞれの“語り口”に、役割がある」
「秩序を守る執事の“僕”」
「状況を処理するための“私”」
「そして——」
探偵の視線が、深く潜る。
「衝動を引き受ける“俺”」
応接間が、完全に静まり返った。
「多重人格……と呼ぶかどうかは、専門家の領域です」
「ですが少なくとも」
探偵は、はっきりと言った。
「あなたは、一つの意思だけで、この屋敷に立っていない」
――違う。
――いや、違わない。
否定しようとして、
どの声で否定すればいいのか、分からなかった。
「朝倉花蓮を殺したのは、どの“あなた”ですか」
その問いは、
犯人を追い詰めるためのものではなかった。
確認だ。
……答えは、簡単だった。
「……分かりません」
それは、嘘ではない。
「気づいたときには」
「もう、朝だった」
誰かが、息を呑む音がした。
探偵は、ゆっくりと頷いた。
「でしょうね」
「あなたは、“夜”を担当する人格を」
「自分の中に作った」
「だから、恐怖も、躊躇も、罪悪感も」
「すべて、別の場所に置いてこれた」
探偵は、静かに言う。
「朝になれば、“何も知らないあなた”が残る」
「この屋敷の仕組みと、完全に同じです」
……ああ。
その言葉で、すべてが繋がった。
この屋敷が、俺を作ったのか。
それとも、俺が、この屋敷を完成させたのか。
もう、区別はつかない。
探偵は、最後にこう言った。
「あなたは、怪物ではありません」
「ただ——」
視線が、花音へ向かう。
「最初に夜を越えてしまった人間だ」
その瞬間、
胸の奥で、いくつかの声が、同時に黙った。
……終わりだな。
いや。
終わったのは、“俺”だけかもしれない。
壁際に立ったまま、
僕は、静かに息を吐いた。
この屋敷の夜は、
確かに、ここから始まったのだから。
⸻
信じていた。
それだけは、はっきりしている。
執事として、じゃない。
この屋敷で生き延びるための“味方”として。
誰よりも規則を守り、誰よりも静かで、
夜の話を決して笑わずに聞いてくれた人。
……華山大智。
その名前が、探偵の口から落ちた瞬間、
胸の奥で何かが割れた音がした。
叫び声は出なかった。
涙も、すぐには出なかった。
ただ、
「そうだったのか」
という納得に近い感情が、
嫌になるほど自然に浮かんでしまった。
それが、一番つらかった。
(私は……どこかで、分かってた?)
応接間の空気が重い。
視線が交差している。
でも、もう、それを受け止める余裕はなかった。
頭の中が、静かに、過去へと引き戻されていく。
⸻
昔、まだこの屋敷に来る前のこと。
私は、普通の学生だった。
友達もいた。
放課後に寄り道をして、くだらない話で笑っていた。
その中に、一人だけ、
少し不安定な子がいた。
優しくて、よく気がついて、
でも、ときどき別人みたいになる子。
「今の私、変だった?」
そう聞かれて、
私はいつも笑って誤魔化した。
「気のせいじゃない?」
「そんなことないよ」
本当は、気づいていた。
声の調子が変わること。
言葉遣いが揺れること。
目の奥が、急に遠くなること。
でも――
踏み込めなかった。
重たすぎたから。
どう声をかければいいか、分からなかったから。
ある日、その子は来なくなった。
しばらくして、
「自殺だったらしい」
という噂だけが、回ってきた。
詳しい理由は、誰も知らない。
知ろうともしなかった。
私も、その一人だった。
(あのとき)
ちゃんと聞けばよかった。
ちゃんと怖がってよかった。
ちゃんと、責任を持ってしまえばよかった。
でも私は、
“普通”のままでいることを選んだ。
「大丈夫だよ」
「考えすぎだよ」
そう言って、
その子を、ひとりで夜に置いてきた。
⸻
応接間に、意識が戻る。
目の前には、
うつむいた華山がいる。
彼が犯人だという事実は、
確かに残酷だった。
でも、
それ以上に胸を締めつけたのは――
(私は、また同じことをしようとしてた)
信頼して、
見ないふりをして、
「味方でいる」だけで、満足して。
理解しようとすることから、
目を逸らしていた。
責めきれない。
怒りきれない。
それは、
彼が“特別だった”からじゃない。
昔のあの子と、
重なってしまったからだ。
壊れていく人を前にして、
何もできなかった自分。
そして今も、
「全部が悪だった」と言い切れない自分。
(私は……)
被害者なのか。
それとも、傍観者なのか。
答えは、まだ出ない。
ただ一つ、はっきりしているのは――
夜は、個人を壊す。
でも、
壊れかけた人を見て見ぬふりをする朝も、
同じくらい、残酷だということ。
私は、唇を噛みしめた。
もう、
「知らなかった」
では、いられない。
この屋敷で起きたことも。
華山のことも。
そして――
過去の、自分自身のことも。
逃げずに、見なければならない。
たとえ、
それがどれほど、痛くても。
⸻
館が閉じられることは、思っていたよりも静かに決まった。
北島龍也の逮捕から数週間後、正式に「解体」の通知が下りた。
文化的価値も、保存の必要性も認められない――
そう判断された理由を、誰も深くは聞かなかった。
重機が入る前、私たちは最後の片づけをした。
赤い花は、すべて処分された。
押し花も、乾燥標本も、絵画も。
あの色だけが異様に残る空間は、少しずつ、普通の瓦礫に戻っていった。
夜は、もう暗くならない。
消灯の時間も、巡回も、意味を失った。
それでも、
建物が完全に壊される日まで、
私たちは「執事」としてそこにいた。
⸻
執事たちは、それぞれの道を選んでいった。
長く勤めていた人の中には、
貯めた給料で海外へ行く者もいた。
「前から行きたかったんだ」
そう言って笑った顔は、少しだけ若く見えた。
別の人は、
昔諦めた夢を、もう一度追いかけると言って辞めていった。
料理人を目指す者。
服飾の学校に入り直す者。
まるで、この屋敷にいた時間を“助走”だったかのように。
また、
何も語らず、別の屋敷やホテルへ移った人もいる。
「仕事は仕事だからな」
そう言い残して。
誰も、過去を詳しく振り返ろうとはしなかった。
それが、この館で身についた癖だったのかもしれない。
⸻
解体が始まる前日。
私は、空になった玄関ホールに立っていた。
靴の跡も、声も、もう残っていない。
そのとき、背後から声をかけられた。
「……花音」
執事長だった。
いつも通りの姿勢。
いつも通りの声。
でも、その肩は、少しだけ下がって見えた。
「これからのことだが」
彼は、一枚の名刺を差し出した。
「知り合いの屋敷だ。
規模は小さいが、条件は悪くない」
「執事の仕事を、続けるなら……という話だ」
私は、すぐには受け取れなかった。
「急ぐ必要はない」
執事長は、そう言って続けた。
「ここでのことが、簡単に整理できるとは思っていない」
一拍、間を置く。
「だが……君は、よくやった」
その言葉に、胸が少しだけ熱くなった。
「君が来なければ、
ここは、もっと長く“夜”のままだった」
私は、名刺を受け取った。
指先が、わずかに震えていた。
「……ありがとうございます」
そう答えながら、
本当にそれでいいのか、まだ分からなかった。
⸻
執事の仕事は、嫌いではない。
整えること。
支えること。
誰かの日常を、裏側から守ること。
でも――
あの屋敷で学んだことは、
「守る」だけでは足りない、という事実だった。
見ないふりをしないこと。
おかしいと思ったら、立ち止まること。
それができなければ、
また同じ夜が、どこかで生まれてしまう。
(私は、どうしたいんだろう)
名刺を見つめながら、考える。
新しい場所へ行くこと。
一度、全部から離れること。
それとも――
この経験を抱えたまま、もう一度、同じ仕事を選ぶこと。
答えは、まだ出ない。
でも、ひとつだけ分かっている。
もう、
「何も知らなかった自分」には、戻れない。
遠くで、重機の音が鳴り始めた。
あの館が、
本当に壊されていく音だった。
私は、深く息を吸い、
ゆっくりと、外へ歩き出した。
朝の光は、眩しいほどに普通で。
それが、少しだけ――
救いのように感じられた。
結局、私は執事長の提案を断った。
名刺は、きちんと両手で返した。
迷いがなかったと言えば嘘になる。
けれど、あの屋敷で終わらせなければならない感情が、まだ胸に残っていた。
「……そうか」
執事長は、それ以上引き止めなかった。
「君なら、そう言うと思っていた」
責めるでも、残念がるでもなく、
ただ事実として受け止める声音だった。
屋敷を出る日、
私は最低限の荷物だけを持って、玄関に立った。
振り返ると、そこにはもう、
かつての重苦しさはなかった。
夜を支配していた沈黙も、
息を潜めていた恐怖も、
赤い花の気配も――
すでに、この場所からは剥がれ落ちている。
重たい空気は、確かに存在していた。
でも今は、それが嘘のように薄れていく。
扉を開けると、外の空気が流れ込んだ。
冷たくて、乾いていて、
それなのに、不思議と軽い。
一歩、外へ出る。
もう一歩。
足を進めるたびに、
胸にまとわりついていた何かが、少しずつ離れていくのが分かった。
振り返らなかった。
振り返る必要が、もうなかった。
怪しさも、
恐怖も、
疑いも。
すべてが、あの屋敷の中に留まり、
私は、そこから離れていった。
⸻
それからしばらく、
私は、何もしていなかった。
仕事もなく、
予定もなく、
朝起きて、昼まで布団の中にいる日もあった。
カーテンは閉めたまま。
部屋は散らかり気味で、
時間の感覚も、少し曖昧だった。
「……暇だな」
独り言を言っても、返事はない。
それが、普通だ。
冷蔵庫を開けて、適当に食べる。
スマホを眺めて、何もせずに閉じる。
夕方になって、ようやくテレビをつけた。
バラエティ番組の、やけに明るい音。
意味のない笑い声。
どうでもいいニュース。
画面の中では、
誰かが泣いて、誰かが笑って、
世界は、何事もなかったように進んでいる。
私はソファに沈み込み、
その光を、ただぼんやりと見つめていた。
(戻ってきたんだ)
特別じゃない日常。
危険も、謎もない時間。
あの屋敷で感じていた
張りつめた感覚は、もうない。
少しだけ、寂しいような。
でも、確かに――
安心している自分がいた。
テレビの音が、部屋を満たす。
それが、現実だった。
私は、ようやく
「普通の場所」に、戻ってきたのだと思った。
リモコンのボタンを意味もなくポチポチ押してみる。
さっきまで流れていた軽い音楽が消え、
無機質なスタジオの映像になる。
アナウンサーの声は落ち着いていて、
感情を挟まない。
「——続いてのニュースです」
私は、特に意識もせずに画面を見た。
次の瞬間、
心臓が、一拍遅れて鳴った。
そこに映っていたのは、
あの屋敷で見慣れた執事服ではなく、
薄い色の服を着た、一人の男。
髪は整えられ、
表情は驚くほど静かだった。
華山。
画面の下に、名前が表示される。
漢字で、はっきりと。
息が、止まった。
「関係者への聞き取りをもとに、警察は調書の一部を公開しました」
映像は、彼の顔から、
文字の並ぶ画面へ切り替わる。
読み上げられる声は、淡々としている。
「——被疑者は、当夜について次のように述べています」
一文ずつ、区切るように。
「『夜の館は、音がよく響く』」
普通の言葉だ。
誰が聞いても、ただの説明にしか聞こえない。
「『灯りをつけると、かえって物音が目立つ』」
それも、ありふれた理屈。
「『だから、慣れている者は、暗いまま歩く』」
アナウンサーは、そこで一拍置いた。
「『名前を呼ばれなくても、音で分かることがある』」
——その瞬間。
私の中で、いくつものものが重なった。
兄が言っていた言葉。
夜の廊下で、誰かを“気配”で判別していた理由。
消えたライト。
花。
名前。
音。
兄は、暗闇が怖かった。
だから、音に頼っていた。
そして——
彼は、その“音”を、誰よりも知っていた。
「『花の名は、呼ばれるものではなく』」
読み上げる声が、続く。
「『そこにあると、分かってしまうものだ』」
画面は、再び彼の顔に戻る。
華山は、カメラを見ていない。
どこか、少しだけ下を見ている。
まるで、
誰か一人にだけ、
言葉を残しているように。
私は、リモコンを握ったまま、
動けずにいた。
あの言葉は、
説明でも、弁解でもない。
——合図だ。
兄に。
私に。
そして、あの夜を知る者にだけ届く。
花の名。
音の記憶。
呼ばれなかった名前。
テレビの音が、遠ざかる。
画面の中で、彼はもう何も語らない。
それでも、私には分かった。
あの人は、
最後まで、
自分が“何者だったか”を
音で残したのだと。
静かな部屋に、
テレビの光だけが揺れている。
私は、そっと目を閉じた。
花は、もう咲かない。
名前も、呼ばれない。
けれど、確かに
音だけは——
残ったままだった。
作者:北島龍也
読んで頂きありがとうございました( . .)"
私の人生で1作目の作品となってます!
ミステリー小説としての"デキ"は良くないかもしれませんが、伏線は多めに入れたので、是非もう一度読み返して見てください( ¨̮ )




