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三島由紀夫論  作者: 加祷成蹊
本文
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金閣寺

 美からの無言の照会には耐えられないが、凡庸な生となれ合うことはこれを(がえ)んじない。凡庸な生とのなれ合いとは、美しくない凡庸な女と交接したそのはてに自分の存在の条件と折れ合ってしまうことである。彼らが凡庸な生となれ合おうとしないのは、存在の条件が凡庸でないからである。逆進的に誇り高く、()()()()()()()()()()()()()()()()と考える傲慢が生れつき具わっているが、そのくせ()()()()()()()()()()()。さらに性質(たち)がわるいことには、下降し、欠損した、()()()()()()()をしか愛さないし、基本的に美をはげしく憎んでいるのである。

 凡庸でないということはすぐれているということである、と彼らは考える。しかし美は凡庸でない上にすぐれている。凡庸でないがゆえに美はすぐれているのではない。凡庸でないがゆえにすぐれている、という考えには飛躍があることを彼らは認めており、恥は凡庸でないことのがわに、誇りはすぐれていることのがわについてここにアンビバレンツとしか言いようのない恥と誇りの紛糾する意識が生れる。《柏木は私に私の恥の在処をはっきりと知らせた。同時に私を人生へ促したのである。……私のすべての面伏せな感情、すべての邪まな心》とあるが、後者、邪まな心の出処は恥ではない。一方にある、恥という、この暗黒の感情は自分自身をうち(こぼ)ち傷つけるという方向には解放――むしろ内がわに抑圧されないで、他を傷つけること、とりわけ美を傷つけることにむかって解放される。暗黒の感情のこの手の肯定に彼らの特徴がある。

 また、彼らにとって肉慾に溺れることは彼らが凡庸でないことの反証にはならない。彼らは自身の暗黒の感情を肯定する時のいきおいをそのままにおのれの肉慾に溺れることを肯定している。しかし遂情の相手が凡庸な女であることは我慢がならない。《五体の調った男とこの俺とが、同じ資格で迎えられるということが我慢ならず、それは俺にとっては怖ろしい自己冒瀆に思われた。》何としても自分たちには美しかふさわしくない。

《私には美は遅く来る。》父に聞いていた金閣の美も溝口には遅く来た。人は美と官能とを同時にそこに見出すがために、美を見て肉慾をたぎらせることも吝かでないが、溝口や柏木が提出するのは、美が肉慾を導き出しているわけではないのではないか、という問いだ。

 柏木はみずからの肉慾を肯定していたが、遂げようとする前に肉慾のほうから萎えてしまっておどろいた。《自分が純粋な欲望に化身することはできず、》そこに美が横たわっていたために遂情を一度は妨げられてしまう。

 美に溺れるにはおのれを忘れねばならない。しかし彼らにとって忘れがたきは不具である。おのれが凡庸でないことを彼らは片時も忘れることを拒否する。おのれが凡庸でないことを忘れることが取りも直さず凡庸さの証しであり、存在の条件と折れ合いはじめたことを意味する。美に溺れるのは凡庸さのなせる業であるから。

 目の前の娘に肉慾を滾らせて、と見る間に美が遅れてやってきて、溝口を萎えさせる。《乳房は…不感のしかし不朽の物質になり、永遠につながるものになった。》まことに非凡なものに溺れる時、彼の非凡さのよそおいは覆る。それをおそれて彼は不能になる。

 ところが、嵐山行きの日、亀山公園の小さな野に咲いた杜鵑花(さつき)の花影で、下宿の娘を抱こうとした時、彼が萎えたのは娘が美しかったからではない。娘が美しくなかったからである。

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