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三島由紀夫論  作者: 加祷成蹊
本文
4/13

盗賊

 この小説は哲学的に書かれているように思われる。はじめに、哲学的であるとはどういう風か。答えづらいと思うときはこれを裏から言ってみるといい。宗教的であるとはどういう風か。宗教的であるということは個体的であることの謂いである。哲学的であるということはその逆だ。この小説においては、個体的なことがらはことごとく捨象され、実は形式だけが残っている。哲学は形式にとことん言及する学問であるから。

 幕が上がっているのであれば、その間登場人物たちは、自由落下状態を経験する。会話文があり、動作への言及があり、まわりの情景の幾許かが点綴され、あるいは心情が書かれるかもしれない。しかしすべてが書かれることはない。書かれていない部分で登場人物たちは落下している。間歇的に落下している。すべてに言及することができない以上、登場人物らにかかる危険な墜落を経験させるのは作者として致し方のないことだ。

 ところでこの小説では、自由落下に由来する人物たちの真に迫る言動をそぎ落としてまでも、すべてに言及しようとする姿勢が貫徹されている。個体的なことがらをすべて断念した上で、観念的な手続きだけを執拗に追いつづけている。

 この小説に用いられている詐術は―――詐術といってよいのであれば、構成があり、場面があり、さてやっとそこにぎっしりとした実質が―――肉感をともなう実質が詰め込まれるのだろうと思われるところに、見かけの上では実質の、しかしよく見ればどうとでも釈れる―――試供品のように中身は鉋屑がたんと詰まっている―――形式を嵌め込んで、読者には何も掴ませない、というものである。具体的なものに何処までも到らない。到りそうで到らない。具体的なものを追い抜いているようでいて、実ははるか手前で足踏みをしている。それぞ、哲学的ということではあるまいか。

 形容詞は実質的なのだと思いがちである。肉感に愬えてくるのは形容詞の役目だと。ところがこの小説を通して、形容詞も一種の形式なのだということを学ばされた。それは感官に実直に切り込んでゆくばかりではない。古い比喩や象徴ににげ込み、後退することもありうる。

 好箇の例は、作中どこからでも探し出してくることが可能だろう。〈後退する形容詞〉とでも名づくべきものどもである。第二章の終わりにあたってこういう表現があったから、試しに引いてみる。


そして群書類従へ縦横にかけた細引きが、折りしも窓から射し入る夕日のために、或るなまなましい見慣れぬ色調を部屋に与えているのに気づいた。それはいわば旅立ちを思わせるような新鮮な色調であった。


 ここでは《いわば旅立ちを思わせるような新鮮な色調》という部分に注目してみる。

 旅立ちというもののイメージをここでは明らかに古典にさかのぼって求めている。もちろん、明秀が神戸を旅したときの一連のめざましい心象風景が、多少の裏打ちをしているだろうことはわかる。が、それにしても《色調》という言葉にかかる表現としては《旅立ち》は不適格ではないか。《旅立ち》は色を含んではいないから。それより前の《なまなましい見慣れぬ》もまた《色調》について深く突っ込んでいるとは言い難い。《色調》のより具体的な領域に一歩を踏み入れる形容詞ではあるまい。知ってか知らずか抽象界に属する、象徴的なものへと表現が後退している。

 これをまとめて言うと、《或るなまなましい見慣れぬ色調》とあるのを目にした読者は、つぎに来る表現がその《なまなまし》さの如何なるかを暴くだろうと身がまえ、更なる《なまなまし》さが波涛のように押し寄せてくるのを覚悟する。ところがつぎに来る表現は引潮だったようだ―――内容のあるべきところにまたしても容れ物が入っている、内容が入っているべき箇所にまたしても内容を入れるための容器が入っているという欺瞞的な構造が、この小説が蔵しているからくりの一つではないか。

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