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三島由紀夫論  作者: 加祷成蹊
本文
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花ざかりの森

 習作といわれれば納得の出来なのだが、これが当時十六歳の作者周辺の人々の何に(うった)えたのか、私には見当がつかない。雅語をもちいればよいという簡単な話しなのだろうか。語り部の「わたし」は汽船のこと、夢のなかを走る電車のこと、父のこと、母のこと、病床の祖母にやる薬罎のことなどを書いたあとに、さかのぼる形で累にふれて、遠縁にあたるらしいあやふやな人物の手になる日記や巻帙(かんちつ)、それから祖母の語り聞かせを、よくわからない順序で紹介している。遠縁の昔語りにいたって雅語がいきおいづいてくる。しかしその御伽噺風のあやふやな描写は、雅語をもちいたためにあやふやになったのか、筆を執る前の想像があやふやなのを雅語のあやふやさで蔽ったのか。私には後者に思われる。

 脈絡もなく語り出されるいにしえ人たちは、ちょっと気を抜いていると、誰が誰だったか判然としなくなる。かの女、夫人、婦人、女人、男、さる男、夫人……語り部の「わたし」は彼らのことを遠い、ほのかに遠い祖先のひとりであるといって、言葉のうえでのみ強引に自分とそれらのいにしえ人たちを結びつけようとする。またそのむすびつきを証しするものは「海への憧れ」だという。

「わたしは作者の世にまれな熱情と、わたしの血統のひとつの特徴とのあいだに、あるきわめて近よった類似をば感じるのである」

 この熱情は憧れの熱情であり、一定(いちじょう)海に仮託されてもえたたせられる熱情であることが、彼らと自分の血統の特徴との共通点だといっている。ところがまずもって、語り部の「わたし」は前半部において自分の血統の特徴などというものを述べてはいない。またそこにおさえがたく結びついてくるのが海の心象であることなぞ、一言も書いてはいない。「わたし」が近ごろ越してきたという土地の裏手に、五坪ほど草の生えた高台があって、そこからおしせまっている湾が見わたせるというだけであり、海はただ「わたし」の心象に属しているだけで、少なくとも父、母、祖母の周辺に海のけはいは存在していない。にもかかわらず、「わたしの血統」と海とをこう強引に結びつけようとするのは、なぜなのだろうか。仮りに、公家と武家とを遠い先祖にもつからといって、なぜ海への憧れが必然的に演繹されてくるようなことがあるのか。

 私が問題視しているのは、作者の右翼的なものを悪用する癖である。自分にしか属していないものを血統に帰し、血統だけが、幽邃(ゆうすい)の地の古い深い潭のようにかろうじて湛えているものを「わたしにおいて、――ああそれが滔々とした大川にならないでなにになろう」と、自分ひとりの取分に帰せしめようとする、この悪癖である。これをば母の知らない「真の矜恃の発露」であると「わたし」は言うのだろうか。となると、「わたし」の言う「その人のなかの真実」とは、自分固有の海への憧れという想像のはばたきを祖先ののこした芳躅(ほうたく)――その不確かさゆえに容易に自分のほしいままな想像の容喙をゆるしてしまう――と抱き合わせにして、海への憧れという共通項によってはるか後方から上古にむかって繁貫(しじぬ)いてしまう、この、右翼的なものの詐取のことをさして言っているのだろうか。

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