春子
ふしぎなほど断定的な物言いに、若気の焦りを少しばかりにじませている。私から見て、春子はそれなりに年が離れていそうなのに、彼女の幼少期をかたる口ぶりは、まるで私が、その場に居合わせていたかのようで、叙述に混乱が見られる。
没入が可能な一人称的な語りであるが、私のあらゆる恥ずかしさに引きずり回されるよりも、春子をあくまで端倪すべきものに、私をすべてを見通す者に、仕立てようとする努力のほうが立勝っている。それはいつもの三島らしく、テクストじたいが、制禦不能な情念の波によって凌駕されてしまう事態をふせいでいる。
また、春子の人物像にも、相反するものの同居が確認できる。彼女は人好きのするたちで、誰からも愛されていた。にもかかわらず、学生時代からふしぎと市井の男をきらい、彼女を振りかえる男の好色なまなざしにもおそるべく不寛容である。
私はいろいろと期待しすぎている。拱手のまま人に期待という名の自身の体臭をなすりつけすぎている。ところでこんなありがちな過度な期待を、三島は冷たい皮肉をこめて書いたものか、それともほんとうにそれだけの権限が空想家にはゆるされているという前提に立っていたのか。
当初、私にとっての春子はある美しい脅威である。意識家の私は、そこに入ってしまえば彼女を愛さずにはいられなくなる春子の圏域において、渝らない自分であろうとするがために、彼女を端倪する。しかるに、三十歳の春子が私に何らそうした圏域を発動しえないことを知るや、今度は彼女に、そうした脅威的なものであることの義務を課し、彼女は私の端倪しようとする意志をも挫かねばならない、と強弁する……。それはいかにもありがちな心理だ。すべてを見通すため、一人称的没入から遠くあろうとする私は、この点では、春子はもはや私を脅かさない(!)、と声高に証しすることに没入している。その意味でいかにも若さがある。手ごわいと思っていた相手が案外大したことなかったので、私の声は、余裕のよろこびに上ずってしまっている。
仮に三人称的な語りであっても、いたずらに排斥せず、むしろテクスト全体で以てそこにのめりこんでゆく試みのほうが、おもしろい場合があるのに、三島はいつもそれをしないように思われる。かならず距離をとりたがり、且つ、語り手はあらゆる類型の極致をすでにけみしていて、そこからの引き算でつねに登場人物を算出してくるがゆえに、ある類型の極致と思われるものの先へと突き抜けようとする試みは、いつも避ける。この点では、三島は退嬰的だ。
私はまだ充分若いのに、幼い頃は、とよく口にする。二十歳にも満たない者がこうくどくどと幼少期を比喩に使うのは、あまり賢いやり方ではない。第一、効果的でない。
私の焦りというものは、場面に臨んでの恥ずかしさにあらず、自分の過去を、実に過ぎ去った直後からはるか彼方にあるものたらしめようと、手を櫂にして河の水をむこうへ追いやっている、そういう、船頭としての私の仕草にこそ歴然としている。
しかし、こうしてみると比喩は、自分自身からある程度距離が置かれるようになってはじめて用いることができるのかも知れない。比喩は、ある対象の感覚的な遠さを、卑近なものの近さによってひきつける。しかし、比喩に使われるものであるための条件は、使う者にとってある程度心理的距離のあるものに限られる。それが久しく遠ざけられてあるということは、自分だけの独自の経験であることをやめて、歴史的な共通理解の流れに、あたかも燈籠流しのように放生してしまってあったものを、ふたたび自分のものとして、拾いあげてくるようなものであろうか。なんとなれば、比喩は独自なものであってはならないからだ。卑近なものの近さとは、共通理解とのへだたりのことであり、使う者自身との近さを意味するものではない。
したがって私は、自分の過去の経験を比喩に使いつづけることで、過去そのものを遠ざけようとしている。
私は春子と関係する。初心だと言われることをこの上ない侮辱としながら、扉口に立った浴衣姿から推して母の名を連呼してしまう私は、やがて春子に命令する立場になる。私は、十も年上の女に命令することがいかに苦痛かを訴える。他ならぬ、叔母のこちらを脅かしてくるすべてを、あれほど圧伏したがっていた私が。
純潔を失った私は、春子と路子が湯殿へ連れ立ってゆくのに、純潔さだけがゆるすあの空想の淫らさがはたらかないのを見てとり、今度は失った純潔さを愛惜しはじめる……なんとも共感しがたい。
「夢みる」などという王権じみた言葉はまことに詩的で結構だが、私が夢にまで見た《生粋の野卑》はたしかにそこにあり、したがって《すべては失望であった》との早まった言は撤回されなければならない。私は春子という名の叔母と、春子という名の《生粋の野卑》とを好んで区別したがる。叔母のなかにはじっさいその名に値するだけのものがひそんでいて、私はそれに溺れる。溺れているあいだは夢みることはできない。しかし《三度目の逢瀬はもうだめ》であり、私は《慈善家のように蒼ざめた悲しげな顔をしていた》。私はふたたび目の前の叔母ではないあの春子を空想するだけの余裕を手にする。じっさい、私が「夢みる」のはまことにその習癖がよろこびに満ちあふれた私本然のものだから、というだけであろうか。私は、一方では対象を夢みることで、対象それ自体を夢みたものを下回るものたらしめようとし、対象それ自体の脅威の程度をなるべく早く温習ってしまおうとする狡知をはたらかせている。私はもしかすると夢みることよりも、いち早く征服してしまうことのほうを本能的に優先していはすまいか。私は夢みることで、いち早く対象をのりこえてしまおうと焦っている。すべてを既知にしたがっている。夢みることは温習であり、はじめて顔を合わせるよりさきに、対象をあたかもすでに経てきたところの過去にすることができるからこそ、私は夢みるのである。それは自分がいかに相手に落胆しているのかを、相手の前に明らかにしたい、という欲求だとも言える。
もしこれがほんとうだとしたら、あまり褒められた話ではないが、書くことが、ここでは未知のものを既知に変えようとする焦りによって貫かれていはすまいか。
今にして発見されるべき似つかわしさを、順序を逆にたどり、あたかもすでに発見されているもののごとく表現のなかに落とし込むあの〈後退する形容詞〉がここでも見られる。それはことさらに主語と補語の関係を逆用したものであり、もはや、表現であるとすら言えないものだ。これを読むと、人はおそらくおかしな感覚をおぼえるだろう。たとえば次のような表現がそれだ。
罪を犯した女にだけ似つかわしい実に艶冶なゆらぐような微笑を口もとにうかべた。
未知が、今しも一つの知たりうるかどうかが問われるとき、もっとも大きな弁論の力がふり絞られることになる。そこにはしかるべき弁証が要請される。先の例で言えば、その微笑が、罪を犯した女にこそふさわしいのではなかろうか、という定言が、おそるおそると言った調子で振り出されてくるだろう。微笑と、罪を犯した女とは、ここにおいておのおの自分自身の軌道にしたがいつつランデヴーを試みている。二つがしっかりと結びつくかは、いまだ未知の領域だ。弁証はそこにむけて努力する。しかるに、この焦げつくようなランデヴーをすでに経て来たかのようによそおっているのが、先の表現とは呼べない表現であり、弁証の非常な労力をはぶいてしまっている。それゆえに〈後退する形容詞〉は詐術である。これはやってはならないことだし、未知が今しも一つの知たりうるかが問われている実験場裡(小説という場)において、何の労もとらずに知を偽造し、その成果をかすめとっているからだ。みだりに知を偽造することは小説の品格をおとしめる。
静かな賑わい/快い苦痛/どっしりしたはかなさ
危険な安全さ/危険の均衡(『盗賊』より抜粋)
表現が両義性(あるいは矛盾)を孕んだとき、当の場面は、一種の水ぶくれを生じたような、とらえがたい不快な圧力に見舞われて身もだえる。すなわち、スタティックに正視・指呼できないなにものかが闖入し、その表現を中心として、両義性の所在のつかめぬ水疱が生じ、場面はそれを癒されがたく引きずったままに進むも、水疱があとを引くとも、そのままそれきりになるともない。その違和感・不快感が、場面のその後にとって致命的なものとなりうるのか、そうでないのかがはっきりしない。しかしその違和感たるや、なにか致命的なものを予感させるに足りる。本文の言葉を借りて言えば、これこそは《はっきり完結せずに何かあり気なまま終りに近づくとき》に感じるあの不穏当なものの原因をなしている。
論理発生以前的なできごとである。表現が整然とした形の下に矛盾を内包すると、それが矛盾であると証拠立てるすべが、我々には断たれているのである。修辞-被修辞の関係に立つとき、論理が立ち現われるより以前から概念は矛盾を内包し得、ゆえにこの関係にいちはやく滑り込みさえすれば、概念はいかなる対概念とも手を結ぶことができる。
対概念をつき合わせるという〈矛盾の内包〉と共に、次のような概念の付加的拡張がある。もしこれら概念を付加しているものが取り除かれてしまったら、文面の不安は解消されるが、それはそれであまりにスタティックにもなってしまおう。
軽快な教訓/奇体な情欲/ふしぎな厭わしさ/醜い共感/未知の熱情/甘い衝動/生真面目な苦痛/空しい晴れがましさ/自堕落なよろこび/動物的な悲しみ/快楽の印象/華麗な虚無/無恥な甘さ/たのしい多忙な感情
平和の意志/遍満の戯れ /安逸な沈黙/近代的な翳/内面の力/死の幻想/生の幻想/素直な喜び/老成の遊戯/遊戯的な好奇心/原始的な悲劇の本能/矛盾せる暴力/含羞の作用/非情な抽象化/残酷な重量/ /若さの濫費/運命的な含羞/贋物の平静(『盗賊』より抜粋)
下手な詩をやっつけられるのが怖さに人に示さない少年のように/子供が夢のなかで感じるような/小学校の教科書のように/喧嘩をして泥だらけになって来た子供をそのまま/子供が寝床へ促される時刻が近づくのを予感して狂おしく遊ぶように
ふしぎとこういう表現にかち合うと、場面に沿って特殊性へと滑落してゆく速度に、ブレーキがかけられたように我々は感じる。それもそのはず、比喩表現は独自なものであってはならず、特殊性に逆行する運動であるからだ。かくして共通理解の流れを汲むとき、読者の理解が、こくこくと肯くように進むときと、却ってそれが、あまり理解がしやすさに、読者の近くに身を摺寄せすぎ、先のように感せられるときとがあるようだ。それはあるいは、作者自身の努力にかかっているのかも知れない。比喩は自身の過去を過去たらしめる。それは作者自身にとって一等わかりやすい代置であり、代置のしやすさに甘んじていると、読者の想像力を駆りたてる鞭の手をゆるめたことになる。あるいはそれは、直接性においてみちびかれている。心境を別の心境にたぐえたのでは、比喩ではなくて代置となる。作者からは遠く、共通理解には近いが、たとえるものとたとえられるものとがある程度離れていなければ、比喩は作動しない。