序文
純文学とは何か。純文学とは、日本語が積み重ねてきた表現性の歴史をいかに解釈するかであり、その解釈で以て表現性の歴史にまさに参与することの謂いである。参与を条件づけているのは系譜的な意識である。なぜなら、純文学は国文学であり、跡を嗣ぐという意識による統一であるからである。したがって啻に、芸術的であるというだけでは純文学たりえない。
系譜的な意識はまず表敬する。次に踏襲し、これをのりこえる。おびただしい数の日本語の先駆者たちがはぐくんできた日本語そのものの歴史を尊重することがまず一つだ。今日まで伝えられている日本語は、はじめから所与のものとして、プラスティックな姿でそこにあるのではない。二千載に尚とする生き物であり、つねに問われるべき芸術の土台である。純文学は、極論すれば、この土台への問い、形式の争いである。おのずから文法の遵守も表現性の歴史への表敬に相継いで起こるだろう。そして、表現性の歴史を足下に踏まえつつこれをのりこえんとする、その時に、歴代作家たちの後継者としての自覚を以てすることが、系譜的な意識がもつもう一つの側面だ。
個人主義文学はこれに含まれない。
個人主義文学は人を個人として解放する。しかしながら、純文学がみずからの形式を個人主義的に表現性の歴史から解放してしまうことはまかりならないのである。民族から、国土から、あらゆる共同体から人を解放し、と、そこまでは可いとして、はては純文学自体をパージしてしまう。純文学自体が拠って立つところの系譜的な意識そのものを喪失してしまうのである。これは同時に、個人主義文学の、純文学としての権利喪失の瞬間でもある。
純文学にたずさわることの喜びは一体どこに根差しているのだろうか。
究極的には、作家は古事記に儔なることの緊張感のなかで排列を決定する。言葉を仮りうける際にまずその言葉の典拠に対する敬意をよびさます。嘗ての時代の言葉を今に喚び出す際には、まるで同じ字体、まるで同じ質感で喚び出しうることにおどろくが、これははるかな歴史上の一点と、現時点とが無限に接近することであり、それゆえにつねに、言葉を文字に起こすことは、歴史関与の重大な一挙動なのである。どうして言葉を今ある姿にまで至らしめた歴史をかくなる上は忘れることができよう。蔑ろにすることができよう。
敬意をよびさまし、歴史に関与してしかも、歴史上に嘗てあった表現をのりこえようとする時に、純文学作家の喜びは頂点に達するのである。
令和七年八月六日 記




