序文
世界は停止している。動きつづけているようでいて、動きつづけているがゆえに停止している。あるいはくりかえしている。だから面白いことは執筆のなかにしかありえない。世界を新たにひらく瞬間にまさるよろこびは今のところ存在しない。むしろ執筆のなかにしか面白いことは存在しない。その余の世界は停止している。動かすことができるのは執筆による創作の世界を措いてほかにない。
小説は、価値観の交錯する場である。人はみな、単一の価値観をもって世界にのぞんでおり、作者もまた、単一の肉体と共に、単一の価値観をもって世界にのぞんでいることだろう。ところで、小説は任意の、単一の価値観をもってえがくだけでは足りない。厄介なことに、小説という場を主宰しながら自ら生けるものである作者が、関係性の場にほかならない小説の世界において、どのように自らの価値観を取扱うのかは大きな問題でありつづける。
単一の価値観のなかを即自的に生きることは、咎められるべきではない。人々は自らの価値観以外のすべてを自明の裡にキャンセルしている。
では三島はどうだったか。三島は価値観の交錯する場をえがいているように見える。作者にとって、自らの単一の価値観をも、関係性の場において相対化することは当為である。が、三島は自らの価値観を瞰下ろす位置にまで高めておいて、下界において、照射し合う価値観のせめぎ合いをえがく。だから、交錯するさまをえがいているとは言えようが、絶対的な重さをもって相対化されている価値観のすべてが、嘲笑的な軽さをもって遇されることでキャンセルされている。照射し合う価値観の光りを、独り、三島自身の価値観がはなつ強烈な光りが横さまに貫いて、蛍火のようにいまやたよりない光りの群のあなたに、終戦前の夏だけが、光りをも蝕む杲々たる底光りをもって浮かび上がるのである。
すべてがひとしなみに相対化されるがゆえに、絶対性が担保されうるのである。これを惟えば、三島がえがく世界においては、絶対的な相対性、相対化された絶対性は担保されていない。三島の限界がここに在る。
得るためには犠牲を払わなければならない。執筆による観念的収穫を得るためには、他者の価値観の光りに照射されたときの犠牲を払わなければならない。作者は他者の価値観の光りに灼かれるときがあるので、日焼けしている。
このことから、自らの好悪を推しすすめることがいかに大きな過誤であるかがわかるだろう。単一の価値観を自分に許す行為であるからである。単一の肉体をもって挑む世界に対してはそれでも可いが、価値観同士の交錯を調停する席次においては、身自らを光りのさなかにさらして灼かれ、好ましくない角度から差してくる光りにもよくよく耐えねば作者は務まるまい。作者はそこでひそかに好ましくない自らをあばかれる感覚に耐えているのである。
令和七年七月十一日 記