第2章 最初の死者
夕暮れ時、池田がようやく帰宅すると、父親はまだ戻っていなかった。相変わらず居酒屋で時間を潰しているのだろう。
冷蔵庫から栄養補助食品を1本取り出し、炬燵に潜り込んでテレビをつけた。これが睡眠時間を除けば池田にとって最も大切な時間だ。貧乏な家庭でしか備蓄されないジャンクフードを齧りながら、テレビの前で宿題をこなす。
幼い頃から、テレビは池田にとって父親代わりだった。彼の「あの本」にはこう書かれている。「テレビは酔っ払って帰ってこない。テレビは私を動物園に置き去りにしない。テレビは殴りつけてこない。テレビこそが人生を教えてくれる」
幾度となく空想した。SF小説の主人公のように突然宇宙人に出会ったり、謎の少女と遭遇したり、政府の秘密機関にスカウトされたり、稲妻に打たれて異世界に飛ばされたりして人生が一変する姿を。映画のヒーローのように蔑まれるのではなく、誰かに頼られる存在になりたいと願った。
しかし目を開けるたび、残酷な現実が待ち受けているのだった。
17の歳少年にとって、人生は既にこれほど過酷なものだった。
最も深い恐怖は眼前ではなく未来から来る。絶望の極致は未来が見えないことではなく、若さを保ちながらも惨めな生涯を予見できることだ。
いつの間にか池田の手からペンが離れた。壁の時計を見上げると22時20分、父は依然として帰宅していない。
炬燵から這い出た池田は再び玄関に向かい、靴履をくと暗闇へ駆け出した。
人のない気通りで、少年はかつてない険しい表情を浮かべていた。眼鏡の奥の目付きはむろ暴し凶さすら帯びている。
天一の書店はすでに閉店していた。池田は通りかかった際、もう一度確認しようと思ったが、ドアをノックしても何の反応もないのは明らかだった。
「ここまで来たら後戻りはしない」自分に言い聞かせた。
1時間以上歩き、学校に着いたのは真夜中近く。漆黒の校舎に、守衛小屋の微かな明かりだけが揺れていた。
この時間帯になると、警備員はとっくに眠りについているはずだ。学校の側規定では夜勤警備員が深夜0時から5時までに1度巡回することになっているが、連中は大抵早めに就寝し、翌4時頃に起きて巡回した後、そのまま朝食を買いに出かけるのだ。
校門の高さは低く、横引き式の折りたたみ門だったため、池田は苦もなく乗り越えた。校舎の正面まで来た時、彼は初めて足を止めた。
勢いでここまで来たものの、夜間の校舎入り口には丸型ロックが掛かっていることに気付いた。架空のヒーローなら問題ないだろうが、池田にはどうしようもない。
「何を期待していたんだ……」池田は苦笑した。
引き返し始めながら呟く。「仕方ない……道具もない今更、仮にバールを持って来たとしても学校の器物損壊は重い罪だ」
池田は己を激しく憎んでいた。このような独り言が無意味なことも理解している。現実は、たとえ何かを成そうと決意しても、些細な障害ですぐに挫ける自分がここにいる。
「やっぱり俺はゴミクズなんだ……湿り蚊取りなんて呼ばれるのも当然だ」自虐的な思考が渦巻く。諦めきれず振り返った校舎に、かすかな希望を見出そうとする。
「あれは!」瞳が爛れた。悲惨な人生に、まさかの幸運が舞い降りた。
一階廊下の窓が微かに開いている。隙間はわずかだが、振り返った瞬間に捕捉した光景だ。
窓際に近づくにつれ、その事実が鮮明になる。冷気が脳を刺す深呼吸の後、彼は窓枠に手を掛けた。数十秒後、廊下へと這い込んだ。
池田は胸中の昂揚を抑えられないまま全身が震え、数時間前に天一が言った言葉がまだ耳元で響いていた。「真夜中に松尾の事務室に忍び込み、彼のものを一つ持って来れば、三浦の本を読む許可を与える」
理由は不明であり、相手が松尾氏や三浦氏を知っている理由も理解できない。しかし、人の心声が溢れる奇妙な書物があることを前提とするならば、そんな要求も特別奇異とは言えない。
教員室の前に立ったときまで、池田の心は完全には固まっていなかった。彼は池田だ。殴られても抵抗できず、常識的な振る舞いさえも困難な池田だ。自身がこんなに大胆な行動を取り続けている 사실にさえ驚愕している。
しかし、未知の体験は一種の興奮を呼び起こし、おそらく彼の副腎皮質ホルモンの分泌は過剰になっており、扉を開ける手が激烈に震えていた。
そして、月光の下で、まず池田の目に映ったのは一足の靴だった。
空中に浮かんだ靴、片方の先が内向きに曲がり、バランスを崩しそうに揺れている。
池田の胸が凍りつくのを感じた。反射的に視線を上げ、すぐに松尾氏の顔を見つけた。
眼球が飛び出し、舌半分が露出しており、顔は紫色に青褪めていた。明らかに死んでいる。
「あ……あっ……げぇ……」池田は床に崩れ落ち、後ずさりしながら背中を廊下の壁に押し付けた。最初は叫びたくなり、次に吐き気が襲ったが、最終的には両手で口を押さえつけた。悲鳴も胃酸も全て飲み込んだ。
叫べば警備員が来るが、深夜の校舎侵入を説明できない。吐けば明らかな痕跡が残る。この状況下で、なぜこれほど論理的な思考が浮かぶのか。自分に残忍性があるのか、それとも死に無感覚なのか。
思考を巡らせる暇もなく、眼前の問題が立ちはだかる。「次に取るべき行動は?」
「状況から松尾先生は自殺だろう。だが通報すれば、深夜の不法侵入が露見する。最終的に無実が証明されても、退学は免れない」大腿を拳で叩きつけ、よろめきながら立ち上がる。足腰はまだ震えていたが、痛みが神経を覚醒させ、歩行可能な状態まで回復した。
池田は教員室に入ると、松尾の凄惨な顔を視界から避けるようにした。ぶら下がる死体を迂回し、机のペンスタンドから慌ててペンを掴み取り、後ろも振り返らずに走り出した。
3階から1階まで駆け下り、侵入時に使った窓枠にたどり着いた。跨ごうとした瞬間、窓枠に二種類の足跡があることに気付いた。
侵入時は逆光で影に隠れていたが、今や月明かりが白く照らす中、その発見は背筋を凍らせた。両足跡とも廊下側を向いており、片方が明らかに大きい。小さい方は自分のものだろうが、大きい方は?
思考が異常な速さで回転する。大きな足跡は松尾のものに違いない。夜7-8時、警備員が校舎点検後に施錠するため、松尾はその後に入校したはずだ。だからこそ、戻りの足跡が存在しないのだ。
この理屈が分かると、恐怖は消えた。池田は窓の外側に身を翻し、出入り時の足跡を入念に消去した。窓枠の指紋さえ拭い取り、松尾の足跡には触れない。
痕跡を残さなかったと確信し、袖で手を覆いながら慎重に窓を閉めた。元通りに戻すと、校庭を駆け抜け、帰路を猛烈な勢いで走り去る。
その刹那、校舎の暗黒に包まれた廊下に、池田の後姿を見つめる人影が佇んでいた。