87.ざ・ふぁーすと・なんとか
さて。では今回、何のCMを撮るのかというと。
「これが実物?」
「はい。私が着けて、《ルヴィア》さんと交流するんですよね」
「うーん、両方の感覚を先に確かめておいたほうがよさそうかな」
水波ちゃんが手に取っているのが、今回の新商品。最新型のARグラスだ。
ARグラスには主に2種類がある。色のついていないサングラスのような機器だけの軽量型と、グラス部分とワイヤレスで通信して処理を行う本体に分かれた本格型だ。
前者は軽くて手軽だけど性能や機能は控えめで、あまりARに頓着しない人がよく使っている。後者は一昔前の携帯電話くらいのサイズの本体を持ち歩く必要こそあるけど、桁違いに性能がいい。私たちのようなVR人間を中心に、最近はこちらもシェアを伸ばしている。
今回の商品は本格型。本体の軽量化を諦めて若干大型化した代わりに、性能を飛躍的に向上させたモデルだ。なんでも「最新のVRと描画処理は同等」だそうで、つまり売りはグラフィックである。
最近流行りのVR配信を手軽かつ最大限楽しむためにいち早く開発されたものらしい。無理にでも私にオファーが来るのも納得というものだ。
ところで、テレビCMで伝えにくいものとして時折話題に上がるものがある。
テレビの性能だ。いくら高性能な商品を映したところで、それを伝えるのは家庭にある既存の機器。そちらに描画の限界がある以上、宣伝効果を得るには一捻り必要になるのだ。
今回のようなARグラスも似た系統の情報端末。つまり、その自慢のグラフィック性能は普通にしていれば伝わりにくい。
つまり、何かしら演出が必要だということだ。このあたり、何か考えられているのだろうか。
さて、まずは試用だ。撮影では私は装着しないけど、感覚は把握しておいたほうがいい。
「……あ、けっこう違うね。すごくリアルだし、遅延もほとんどない」
「試供品はもらえるみたいですよ」
……まあ、これを作っているのは父が関わっている会社だ。出演しなくても貰えたかもしれないけど、そこはそれ。
これだけの性能のものをいち早く貰えるのなら、嬉しいという感覚はもちろんある。即物的なご褒美って、けっこうモチベーションに直結するのだ。
「え、こんなに凄いんですか最新機種。びっくり……」
「この間、九津堂からVRマシンの最新機種も貰ったでしょ? あれと同じくらいの性能はあるはずだよ」
「うわー、そりゃ凄いわけですね。私、まだ二世代……コレから見たら三世代前のを使ってるんですよ」
水波ちゃんはごくふつうの一般家庭出身だ。私立の附属校に通っていることもあって、デビュー前はけっこう節約している様子があった。
今でこそブレークで仕事も増えて余裕もできただろうけど、まだそのあたりの環境は整いきっていないのだろう。
感激しきりの水波ちゃんを見て、メーカーのひとらしきスーツのおじ様も嬉しそうだった。必死に作ったものがこうも喜ばれるの、嬉しいよね。
試用はよしとして、次は演出。一応大まかな台本は受け取っているけど、具体的にどう撮るのかという話はまだ聞いていないのだ。
「それなんですけど、実はまだ決まっていないんですよ」
そんな感じのことを問うたら、爆弾が返ってきた。なんてことだ、新人と歌手の撮影なのに台本をなぞれないなんて。
……とはいえ、先方も考えなしではない。ちゃんと意図があってのことだった。
「本品は、性能重視のARグラスです。映像機器なんかと同じで、普通に撮っても良さは伝わりません」
「……はい」
私もすぐに思い至った部分だ。そこはプロ、さすがにそのあたりの話は早い。
「魅力が最大限伝わるようにするには、よりARに慣れ親しんでいる方。つまり朱音さんにも、ご意見をお聞きしようかという話になりまして」
「…………なるほど」
まあ、確かに。理には適っている。ほとんど初仕事の役者に演出まで任せるのは、道理には適っていないけど。
AR。拡張現実と訳されるその概念は、現在は現実世界とVRの中間に位置するものを指す。
コンピュータグラフィックによって物や映像を作り出すところはVRと同じで、違うのはその背景が現実世界であること。つまりVRダイブを行わず、自分の体で感じることだ。
以前は盛んに研究されていたものだけど、ダイブ式VRが発明されて以降はどうしてもそちらの後塵を拝することになっているのが実情だった。何かと手間なダイブを行うことなく、簡易的にVRを扱うための折衷技術だとする向きさえある。
というか、もはやそういう見方は主流になりつつあった。現に今回だって、私を呼んだということはそういうことだ。現実とVRを繋ぐもの。そういう触れ込みで家庭向けに売り込むことはほぼ間違いない。
……もっとも、私もそれでいいと思っている。現実にあらわせないCGの用法をまとめてVRと呼ぶのは今や自然だし、言葉の意味は少しずつ変わるもの。昔のARの定義にこだわる必要はない。
そんなARを、どうやって平面的なテレビ画面とスピーカーで示すか。
「CG演出は使えるんですか?」
「もちろん。大抵の演出は再現できるはずですよ」
考え込む私を、遠巻きに見つめる大人たち。……やりづらい。
制作会社にとっては、今後大事になっていくVRという技術の扱い方が。スポンサーにとっては、顧客であるVR慣れした若者の生の声が。それぞれ聞けるのだから、注目もされようというものなのだろうけど。
だからこそというわけか、大人たちは少し離れて口を挟もうとしない。良心的なんだけど、逆にちょっと怖いのは内緒ね。
そういう構図になったから、考えるのは私と水波ちゃん。それに橙乃だ。最初は一歩下がっていた橙乃だけど、察しのいい大人たちは彼女もVR慣れした若者だと察して囲ったのだ。
「やっぱり鉄板なのは、スイッチを入れた瞬間にVRオブジェクトが発生する演出だよね」
「うん、それは間違いない。となると……」
「背景ですね。VRエフェクトか、現実の空か」
「どっちも使うのが丸いと思うよ。対比にしやすいし」
しかしここにいるのはテレビ慣れしつつあるシンガーソングライターと、幼少期から演出やカメラワークなんかを見て育った放送局の娘である。私があまり喋らなくてもとんとん拍子に話が進むし……私も、その話についていけないわけではなかった。
大人たちの目が徐々に輝いてくるのを感じながらあっさり期待に応えてしまった私たちには、どうやら無茶ぶりに怒る資格はないようだった。
◆◇◆◇◆
カメラが回り始める。真夏のキャンプ場の外れ、耳を澄ませば楽しそうな家族の声が聞こえてくるような、それでいて静かな狭間。
そこに一人佇んだ水波は、目を伏せて手を持ち上げる。髪と同じ艶やかな濡れ羽色の瞳を正面へ据えて、握ったARグラスを掛ける。流れるような動作で側面のスイッチを入れた。
世界の色が変わる。雲混じりの青空は鮮やかすぎるくらいの快晴に。踏み鳴らされた草原は爽やかな新緑に。遠くに見える山や街は、現代的な景色から江戸時代を思わせる長閑な姿に。
近くでバーベキューを楽しむ家族の声も心なしか遠ざかったに感じて、水波は現実世界から取り残された。
そんな水波の目の前で、ポリゴンが寄り集まる様子が見える。
カメラが切り替わって、角度とともに景色が変わる。最近何かと話題の《デュアル・クロニクル・オンライン》を思わせる田園風景から、ARグラスを通して見ただけの現実の色に戻った。
───こちらが、水波の視点だ。このカメラのまま、水波は急速に組み上げられていく少女の姿を見ている。
その場に半透明な体の少女、《ルヴィア》が登場しきるまで、水波は動かない。
どこか超然とした、凄絶という言葉が似合うルヴィアへ、水波が手を伸ばす。それに気づいたルヴィアは瞬きをして、同じように手を出した。
二人は向かい合ったまま手を握る。指を互い違いにして、カメラ越しでもわかるほど明確に目を合わせる。
水波が、それを見てルヴィアが、口を開く。息を吸い込む仕草がふたつ、音はひとつ。……次の瞬間、二重の歌声が響いた。
2年前、動画投稿サイトにアップロードされた曲だ。天音水波という歌手の原点であり、彼女本人以外の人物が歌詞を書いた唯一のナンバー。
その詞を書いたといわれているのが、「AM」。他に同名義での活動が確認されていない、謎に包まれた人物だ。
歌い始めたばかりの水波が作った曲と、誰とも知れぬ存在が書いた歌詞。それは最近の天音が作り上げる傑作たちにはとても及ばないものだが、その初々しさゆえか根強いファンも多かった。
そんなデビュー曲を綴る歌声の片方は、今や誰もが聞き慣れた声色。歌手本人である水波がその場で出している歌だ。その人気に見合う、聴く者を惚れさせる美声。
もう片方は、こちらも誰もが聞いたことがあるであろうものだった。ただし歌ではなく、喋りで。ルヴィアが仮想空間で紡いでいる歌声は、しかし決して霞まない。ボーカリストである水波とはまた違う、心地のいい声が不足なく音を奏でていた。
◆◇◆◇◆
「カット! OK、後は任せてくれ……!」
撮影が終わって、我に返った。
水波ちゃんとの共演という時点で予測はしていたことだけど、やっぱり歌わされてしまった。それが一番自然だろうといわれて、結局断れなかったのだ。
もっとも、私がそこそこ歌えることはもはや周知の事実だ。ベータ最終日に押し切られてやってしまった歌枠もどきが、こんなところに繋がるとは。
とりあえずVRダイブを解除して、現実世界に戻ってくる。さっきまで私の意識は水波ちゃんの目の前にあったけど、体はここ。カメラ後方のテントの中だ。
軽く服と髪を整えてからテントを出ると、入口近くにいた橙乃がグラスを外して振り返った。
「お疲れ様、朱音。最高だったよ」
「……ありがと」
応える声は自然と苦々しくなる。橙乃が掛け値なしに、本気で褒めてくれているとわかっているからこそだ。
ディレクターさん以下制作チームは何やら燃え上がっているらしい。それ以外の人たちは逆に動きが鈍いようで、辺りは妙な空気が漂っている。
そんな空間を横断して、水波ちゃんがこちらへ駆けてきた。
「朱音さん、ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとね。こんな場で歌わせてもらっちゃって」
「そんな、これは…………いえ、そうですね。ひとつ貸しですよ」
水波ちゃんは私の内心を知っている。その上でこうして屈託なく笑ってくれた彼女を見て、気分が晴れた。
私は人前で歌うのが好きではなかった。
断じて自慢ではないことを念押しした上で白状すると、それは私の歌が中途半端に上手いからだ。
私が歌うと、大抵の人は褒めてくれる。プロになれる、さすがは久遠美音の娘だ、と。
私は本気で歌に打ち込んだわけではないのに。歌に賭けるような気概も体力もないのに、ちょっと歌ってみただけで人の意識を集めてしまう。
それが昔から嫌だった。
「やっぱり朱音、昔より上手くなったんじゃない?」
「そうですよ、一昨年よりもずっと上手くなってます」
「そうかな……そうかもね」
だけどベータ最終日、いざ歌ってみると、思っていたよりも抵抗がなかったのだ。
あれだけの人数の前で歌うのは恥ずかしかったけど、不思議と嫌だとは感じなかった。照れくさく思いながらだけど、普通に歌えたことに私自身が一番驚いた。
「あれ、やけに素直だね。何か心境の変化でもあったの?」
「何か理由があって歌えるようになったなら、私もなんとなく嬉しいですけど」
それはなぜなのか。……そんなもの、考えなくてもわかる。決まっているのだ。
「配信のおかげ、かな」
さすがルヴィア、なんでもできる。
ともかく、彼女の心変わりと成長の一端でした。公式配信なんて大掛かりなことをやっておいて、変化が全くないなんてことはないでしょうからね。
次回はゲーム内に戻って、限定イベントに入ります。海だ!
そういえばこれも言いそびれていましたが、3000ブックマークを突破しました。皆様、ほんとうにありがとうございます。
あと後になって気付いたんですけど、100万PVって2回言ってますね私。そのくらい嬉しかったということで、なにとぞ。