434.こうなったのは不慣れによる緊張のせいだと橙乃だけが知っている
────テレビ暁のスタジオ控え室にて。
「あ、木崎さん」
「あ、朱音ちゃん…………」
「どうしたんですか、そんなに疲れ果てて」
スキマ時間でレポートを進めていた私のもとに、木崎さんが現れてよろよろと近寄ってきた。すっかり憔悴しきっていて、もう見ているだけでかわいそうだ。
私も仕事でここに来ているから、彼女が何をされているのかは把握している。もちろん、私がどうすべきかも。
「なんか今日、みんなおかしいの……」
「おかしい、ですか?」
「そう……私が欲しいだとか、捕まえて独り占めだとか、そんなのばっかりで……」
「そうですか……大変でしたね」
私は両手を広げた。木崎さんはもはや深く考える余裕すらない様子でその内側に入ってきた。よほど疲れ果てているらしい。
そう、この人は今日一日、会う人からことごとく剥き出しの好意……とすら呼ぶのもはばかられるような感情を向けられ続けている。いわゆるヤンデレというやつだ、瀬戸さんにはお持ち帰りされそうになり、土田さんにはナチュラルに実の娘扱いをされ、郡司さんにはヒステリックに「なんでわかってくれないの」と叫ばれて、挙句の果てには金坂くんにも依存の素振りを見せられて。
まるで平行世界にでも迷い込んだかのような豹変ぶりにすっかり怖くなって、私のところまで逃げてきたのだ。……誘導されているとも知らずに。
「ほら、大丈夫ですから。落ち着いて」
「うん……」
「ここには他の人は入ってこれませんから。ね?」
他の人たちは一目見るや否や、すぐにわかるような普段と違う態度を見せてきている。それらと比べれば穏当な私の振る舞いは、どうやら恐怖で思考が鈍った木崎さんの警戒心をすり抜けている。そうでなければないで考えていたけど、こっちならプランAでいい。
私は机の下に用意していたあるものへ手を伸ばして、ついでにもう片手でしっかり背中を抱え込む。
「……落ち着いてきました?」
「うん……ありがと、朱音ちゃん……ぇ?」
「…………ふふ」
体に伝わってくる震えがだんだん収まる。それを見計らって、私は手に取ったものを使った。……かちゃり、と金具が、木崎さんの首元で音を立てる。
首輪だ。人間用の、私はちょっとイメージ的に入りづらいような店で取り扱っているようなやつ。パーティグッズだと安っぽいからとわざわざ用意されていた。
「これで私のものですね」
「朱音、ちゃん……?」
「みんなやり方がよくないんですよ。一度懐に入れてから、逃げる隙なんて与えずに捕まえないと」
「な、なん……で」
「なんでって。まだわかってないんですか? ……沙知」
「ひっ!?」
人間は精神的に追い詰められると判断力がだめになると聞くけど、その通りだね。これだけひどい目に遭ってきたのに、最初に普通の対応をしただけで私のことをここまで信用してしまったのだから。というかそもそも、普段の私はこんな場面でハグを促したり受け入れたりしない。
首輪を嵌め終えたらまた、しっかり逃げられないように抱きしめて囁く。普段しない下の名前、それも呼び捨てに、普段の木崎さんならきっと飛び上がって喜ぶのだろう。だけど今は、恐怖に支配されて震えてしまっている。
……少し頭をずらす。これで隠しカメラにちゃんと木崎さんの顔が映るはずだ。
「どうしてそんなに怯えるの? 私のもとにいるのが一番いい、そうでしょ?」
「なん、で……朱音ちゃんまで……」
「躾が足りないのかな。……返事のしかたは、前にも教えたのに」
「いや……なんで、こんなことにっ……!」
とどめに丁寧語を外してみたら、完全に怯えきってしまう。ついでに適当なことを囁いてみるけど、いよいよ漫画みたいな世のはかなみ方をし始めた。
……そろそろ充分なようだ。私も頃合いを見て合図を出す。
「沙知、後ろを見てみて」
「こ、こんどはなにっ…………へ?」
「今、向こうのスタジオで何してるか、知ってました?」
びくびく、かわいそうなほど怖がってしまって、今一番怖いはずの私の肩に顔を埋めてしまった。仕方ないから椅子ごと回してそちらを向かせてやって……おそるおそる顔を上げた木崎さんが、呆気に取られた。
おそらく視界に入ったであろうものは、もはや使い古されたといっていいであろう看板だった。もちろんそこに書かれているのは、「ドッキリ大成功」の七文字。
今日この時間は、テレビ暁ではいわゆるドッキリ番組の生放送が行われている。リアルタイムのドッキリってターゲットに番組表を見られているだけで把握されてしまうと思っていたけど、ここまでうまくいくものなんだね。マネージャーさんが上手くやったのかな。
「『ドッキリカーニバル』です」
「もうやだぁ……」
手を離して首輪を外しながら口調を戻すものの、木崎さんの方が離そうとしない。回転椅子を元の方向に戻してまた顔を埋めてしまった。カメラに背を向けるのは褒められたことではないけど、状況が状況だから誰も咎めたりしない。
テレビ暁の『ドッキリカーニバル』はぬか喜びさせたり怪我のリスクを消しきらずにやったりというタチの悪いドッキリはやらないから、今回はその中では比較的性格の悪いほうの企画だった。会う人全員ヤンデレドッキリ、らしい。もっとも、一人目の時点でかなりホラーテイスト強め、一目で異常がわかる後に引かないものだったけど。
『ってわけでスタジオでーす』
『朱音ちゃん堂に入ってたねえ!』
「私三年連続なんですけど!?」
『いや悪いね、今年はさっちゃんの予定じゃなかったんだけど』
少し特殊な形式だ。今日一日をかけてやってきたドッキリを生放送中にカットだけのほぼ無編集で流してきて、最後の私のターンだけリアルタイムで見せる形でやっている。だからここでだけはスタジオと直接話ができる。……というか、これから私たちはスタジオに向かってゲストとして出演することになっている。今週に最終回を控えたドラマの、最後の番宣だ。
新春ドラマの番宣の方は先に撮ってあるけど、この年末年始はさらに先の分の撮影がいくらか入っている。できるときにアメリアのセイサガもやりたいんだけど、ちょっと今は難しいかもしれない。どうにかならないかな。
……と、そう。実は本当は、今年ばかりは木崎さんはドッキリをかけられる予定ではなかった。というのも。
『本当は朱音ちゃんの予定だったんだけどね、かける前に気付かれちゃって』
「はい。私は企画を潰しました。反省しています」
『反省というか……まあ、たぶんこの子にドッキリやるの無理なんだろうな、って感じ。鋭すぎて』
『そっちも流すから、早くスタジオにおいで』
「木崎さん、いけますか?」
「う、うん……」
そう、本当は私がやられる予定だった……というか、実際にそのために呼び出されまではした。
ただ……その。ちょっとした違和感に全部気付いちゃって。それだけならまだしも、バラエティ慣れしていない私はそれを不具合だと思って指摘してしまったんだ。結果としてものの見事にドッキリそのものが潰れてしまった。幸い、面白いNGだったということで失敗前提でVTRとして使ってもらえることになったけど。
というわけで、それを見つつ番宣をするためにスタジオへ。三度目ということもあってか、割と散々に怖がらせられたのに木崎さんの復活は早かった。ごめんね、これでこのままドッキリクイーンの道を行くことになっちゃったりしたら。
私たちがゲストとしてスタジオ入りすることはどちらにしろ確定していたとのことで、しっかりマネージャー止めでスケジュールは押さえられていた。私へのドッキリが失敗するまで木崎さんにも伝えられないままでいたのは、どうやら最初から予備としては考えられていたようだ。最初から私はそうすることで若干警戒されていたと聞いたときは、さすがの私も木崎さんに同情した。
なんにせよ、以降については問題なく進行した。それから後の私たちはひな壇を賑やかして番宣をするだけだったし、私のような企画破壊犯は他にはいなかったから。
「ちなみに。……どっちがメインプランだったの?」
「メインというか、私の想定は失敗のほうだったよ。予備を用意するように口出ししたのは私」
「信用されてると喜ぶべきか、お守りされたことを恥じるべきか……」
番組終了直後、スタジオの隅の人がいないところに橙乃が姿を見せた。これまでにもあった実績で微妙に発言力を持っている彼女だけど、意味もなく片付けの最中にスタジオをぶらつくようなことはしない。それに何やらカメラも控えていたから、さすがにと思って私から声をかけた。
見逃し配信アプリ用のおまけパートは昨今当たり前にあるものだけど、生番組だから時間的な余裕がなくてスタジオのあちこちで候補を撮っているらしい。これもそのひとつだ。小早川橙乃はタレントではないけど、ミカンとして人目に出始めてからはこういう場面には割とあっさり出てくるようになっている。
「気にしないで、企画班が朱音のこと舐めてただけだから。あんなの朱音なら気付くでしょ、鈍ってるのかな」
「辛辣だね、私のほうが外れ値な自覚はあるよ。それに、すぐ口を出しちゃったし」
「芸歴半年に庇われちゃったらおしまいだよ。このままじゃ進行不能になる、って気付いて取り返しがつくうちに教えてくれるのはむしろタレントとして有能な証だし」
まあ、そういうことならいいのだけど……さすがにわかるのは、もう私はまともなドッキリに狙われることはないだろうということ。配信者が第一とはいえ女優タレントもちゃんとやるつもりの私としては、それはどうだったんだろう、とは思うところだった。
ところがこれには、橙乃は逆の反応。
「それにね。ここまでアドリブ能力と演技力を見せてくれた以上、仕掛け人としてはむしろ価値が増してるから」
「それここで言っちゃって大丈夫?」
「この会話を知ってたとて、飲み込まれる前に逃れられることなんてそうそうないから。朱音じゃあるまいし」
「私のことなんだと思ってるのかちょっと問いただしていいかな?」
まあ聞かずともわかる。「ドッキリをかける側には最適だけどターゲットには向かないピーキーな役者」といったところだろう。そこはかとなくまともな存在だと思われていない節があるけど、そういう扱いにはもう慣れているしある種の敬意があるのもわかっている。
たぶん、こういうのをキャラ付けと呼ぶのだろう。それをあえて受け取らない理由もなかった。私も大概、エンターテイナーが板についてきたのかもしれない。
普段の朱音はそこまで致命的にドッキリ適性がないわけではないけど、仕掛け人にものすごく便利なのは本当。