オペラの開園
西暦二千七十七年。黒いスーツの懐にお守り用のワルサ―と実際に使うサイレンサーのついた最新式のゴム弾が詰まった黒い拳銃『ネクスト0203』を忍ばせた俺ことベルカントは、太平洋に面した東京の夜に、二十四階建ての銀行を見上げる。
夜の闇の中でいくつか光る階のある銀行には、二千年代以前から世界最大の研磨済みダイアモンドの座を譲らなかった545.67カラットのザ・ゴールデン・ジュビリーに勝るとも劣らない獲物が保管されている。
当然、セキュリティは世界最高レベル――より一歩手前だ。
しかし、ベルカントにとって盗みとは、人生における何よりも重要視している『スリル』を味あわせてくれる行いだ。
何本もの目には見えない赤外線センサーと、本来なら人間を傷つけることのできないアンドロイドに殺傷させない程度になら攻撃が許されたアンドロイドが、事前の調べで百体以上配置されている。監視カメラは視覚を許さず、軍事用のドローンまで巡回している。
まさに、難攻不落の城。だが、城の際奥にある千両箱には小判がこれでもかと詰められており、そこへたどり着くまでのトラップ群は、ベルカントのスリル欲求とでも呼ぼうか。それを満たすには十分だった。
見上げた視線を真ん前に戻し、高級タバコであるトレジャラーを一本取りだして、黒いジッポーで火をつける。一口吸うと、黒いトレジャラーから白い煙が立ち上がる。おじいさんに黒いワルサ―を渡されてからというもの、なにかと黒にこだわるようになった。これもその一つだ。
数十年前――二千十年から二十年にかけて、喫煙者は肩身を狭くしていた。
だが、タバコの製造法が変わった。今までの様にモクモクと煙を出さず、ニコチン中毒にもなりにくいタバコに作り変えられたのだ。副流煙も微々たるものに抑えられたタバコを、世界は容認した。
そんなトレジャラーのマイルドな甘さに耽っていたら、右耳の黒いピアス型の無線機から、妹――アリアの声がする。
「暢気なものね。これから盗みに入るっていうのに」
静かで抑揚のない声のアリアは、別の場所――秘密のアジトからバックアップとして待機している。五台も並ぶ巨大なモニターと、それに繋がるキーボードから、ベルカントの盗みをサポートしてくれるのだ。
「それで、どう? 入りこめそうかしら」
「今、エレベーターで清掃員が下ってきている。もうすぐ一階に着くだろうな。たしか、更衣室は一回の奥にあって、関係者用の出入り口はここから三十メートルほど。その部分の監視カメラをハッキングできるか」
「いつでもいけるわ。合図を頂戴」
無線機越しに、カタカタとキーボードを叩く音がする。いったいどのモニターを使って、どうやってハッキングしているのかなど、いくら見ていても分からないが、いつだって正確なハッキングをこなすのがアリアだ。
「出てきた。半径二十メートルは別の映像にすり替えておいてくれ」
またキーボードが叩かれると、監視カメラからの光が一瞬途切れた。今頃、警備員たちは偽物の映像を見せられているのだろう。ベルカントは異常に気付かれる前に初老にさしかかった男性清掃員に近づいて、慎重に力加減を間違えずに手刀で気絶させる。力を入れ過ぎると、これそのもので殺人が可能な程の威力になるからだ。
ベルカントは泥棒であり、人殺しではない。そこの一線を超えれば、元の泥棒に戻れなくなる。おじいさんの教えだ。教えを破らないために、わざわざオーダーメイドで作った口径の小さなネクストにはゴム弾しか入っていないのだ。当たれば死ぬ程痛いだろうが。
とにかく、気絶した清掃員を建物内に引きずりこんで、アリアに更衣室までのルートにある監視カメラとドローンを無力化させる。運び込んだら、下着一枚にまで服を頂いて、猿ぐつわをして、携帯型の針金でグルグル巻きにして身動きを封じる。そして、スーツの上に清掃員の服を着込んだ。
清掃員をロッカーの中に閉じ込めれば、ベルカントはベルトに括り付けてあるポーチから変装道具一式を取り出して、僅か五秒で清掃員と同じ顔になる。身長までは誤魔化せないが、世界の成人男性の平均身長は百八十を超えた。ベルカント自身、百八十一と、平均とたいして変わらない。この清掃員も似たようなもので、ベルカントの変装技術があれば、完全になりかわったも同然だ。
ワルサ―とネクストを忍ばせて、忘れ物をしたと、こんな夜更けに銀行を巡回するアンドロイドと警備員に嘘をついて、一階ずつ登っていく。防犯目的で、逃げ場も侵入経路もない高層ビルのてっぺんに造られた貸金庫まではまだ遠いが、要所要所でアリアのハッキングとクラッキングで銀行内を進めば、待ちかねていたとばかりに、十七階から十八階に上がる階段の前で、シャッターが閉まっている。
その真横の壁に、パスワード入力装置を控えさせて。
「一応聞くが、解けるか」
「無理ね。完全にネットから遮断されているわ。でも、その画像データがあれば特定できる」
了解。ベルカントは周囲を確認してから、アリアに監視カメラを切らせる。そして、ベルカントはパスワード入力装置を凝視した。
「セキュリティ会社オーベル社製のパスワード入力装置ね。そのタイプだと――数字で四ケタよ。三回のミスでアラームが鳴るわ」
ベルカントの両目には、今や世界中の人がつけている、眼球への負荷をなくしたコンタクトレンズの進化形――Iウォッチがついている。昔にも同じ名前で作られていたらしいが、とある企業が名前ごと買い取った。そんなIウォッチは、世界中の人々の『アビリティポイント』と呼ばれる、今の社会に欠かせない点数と名前を表示させる。ネットに繋がっており、ズーム機能などもあるが、ベルカントのIウォッチは別物だ。ハッキングなどの技術どころか、機械工学にも才能のあったアリアが色々といじくったのだ。
それで、数字が四ケタか。ベルカントは巡回するアンドロイドと警備員がこちらに来ないように、アリアへ二つほど頼んだ。一つは、このシャッター付近の監視カメラのハッキング。もう一つは、ここから一番遠いところにいるアンドロイドをクラッキングして、爆破させること。
「くれぐれも人を巻き込むなよ。注意を集めるだけだからな」
「分かっているわよ」
数秒後、ここから反対方面から爆破音がする。異常事態だと、警備員とアンドロイドたちが向って行った。
さて、ここからはベルカントの仕事だ。ベルトのポーチから特殊ビニールを取り出す。一片の長さが十センチほどの正方形だ。それをパスワード入力装置にピタリとくっ付ければ、すぐに取る。すると、特殊ビニールには、指紋の跡がくっきりと浮かんでいた。
アリアがIウォッチにつけたライト機能をONにすると、特殊ビニールを見る。指紋は三か所に別れて押されている。
しかし、これには四ケタの数字が必要だ。つまり、どれかが二回押されたことになる。
七、三、五……指紋の多さから、七が二回押されているということになる。三に付着している指紋が指先のみなのに対し、七と五はしっかりと押されている。つまり、三は最後に押された可能性が高い。
パスワードの途中にタッチする数字にはしっかりと押すだろうが、これを押したら開くのであれば、離れ際に押す可能性が高い。つまり、七が二回押され、三が最後に押されたということになる。
とはいったものの、それらは全て、ベルカントの推理でしかない。どうやっても百パーセントにはならないのだ。
だが、己の技術と今までの経験を信じなければ、泥棒はやっていられない。そんなリスキーな行いが嫌いなら、退屈なサラリーマンにでもなって、窮屈な家庭でも築いていろと、内心で呟く。
とにかく、これらから導きだされる数列は、五七七三、七五七三、七七五三の三つだ。丁度、アリアの調べた三回の範囲内だ。
ベルカントは固唾を飲み込むと、スリルに酔い始める。ミスをすれば、たっぷりの銃弾とアンドロイドが脱出経路を塞ぐ。今までの盗みも洗いざらい調べられて、死ぬまで刑務所から出て来られないかもしれない。
それが、たまらなく興奮する。女もギャンブルにも手を出さないベルカントが唯一、スリルを得るために行うのが盗みなのだ。
天国か地獄か。ベルカントは興奮しながらも、寸分たがわずタッチしていく。五七七三は不正解。七五七三も不正解。あっという間に、追い詰められていた。しかし、これを乗り越えた先にある達成感も、ベルカントが欲する感情の一つ。
ベルカントにとって宝とは、ダイアモンドでも金でもないのだ。
ただ、そこにスリルが待っているから、己の持ちうるすべてを使って、世界中の科学者たちが作り上げたセキュリティへ挑戦する。退路も弁護人もいらない。ただスリルが欲しい。達成感が欲しい。その中でしか生の充足を得られないベルカントは、最後の数列をタップする。
「――ビンゴ」
アラームは鳴ることなく、十八階へのシャッターは開いた。これより上層は、貸金庫となっている。
もう清掃員でいる必要はなくなったので、脱ぎ捨ててお気に入りの黒いスーツ姿に戻る。ネクタイを締め直して、サイレンサー付きのネクストを手に、上層へ駆け上がる。
ここまで来たら、スピード勝負だ。アリアがこの上にある監視カメラのすべてをハッキングで無力化している内に駆け上がり、調べておいた数多く並ぶ鋼鉄製のボックスからダイアモンドを盗んで逃げる。
急がなければ、流石に異常事態だと感づかれてしまう。更衣室のロッカーに閉じ込めた清掃員も起きるかもしれない。それに、ここから先は基本的に立ち入り禁止だ。変装は意味をなさない。
だが、この先にこそ銀行の心臓がある。血管が詰まれば医者に診てもらうように、銀行の心臓に忍び込んだベルカントという異常を調べるために、アンドロイドと警備員がやってくる。
つまり、それらから逃げつつ、誰も殺さず、ダイアモンドを専用のカッターでボックスから取り出して、逃げる。泥棒と逃走はセットなのだ。
「ベルカント、その先にある監視カメラと追ってくるアンドロイドは無力化したけれど、鉛玉をため込んだお客さんが三十人は来ているわよ」
「満員御礼には少し足りないな。もっと派手にするべきだったか」
「なんなら、もっと下層にいるお客さんにもチケットを配るわよ」
「それは勘弁だ。俺たちのオペラは抽選制だからな」
はいはい。アリアのため息が聞こえる頃には背後が騒がしくなってきている。こちらも鍛えた足で階段を上れば、アリアが開けておいた最上階の貸金庫にたどり着く。
「後ろのガラスを背後に見て、右から三番目のボックスか」
調べた通りのボックスに、小型の高速で回転するカッターで鋼鉄を切ると、暗闇の中でも輝くダイアモンドを見つけた。即座に収縮してあったビニールの袋を膨らませてしまうと、最上階のガラスへ向かう。
夜の夜景が広がる二十四階の景色を眺めていると、ドタドタと階段をお客さんが駆け上がってくる。熱心なファンには申し訳ないが、もう閉演だ。
「ダイアの代わりだ。受け取っておいてくれ」
一枚のプラスチックカードを階段に投げれば、ネクストを連射して窓ガラスを割る。夜の東京に鋭利な雨が降ったが、コラテラルダメージというやつだ。
そして、ようやく追いついたファンが『オペラ座の双子』と書かれたプラスチックカードを手にやってくるが、もう遅い。身投げの様に割れたガラスの先へ飛び出せば、二十四階から地上まで真っ逆さまだ。
これもまた一つのスリルだが、少し物足りない。この落ちながら見る夜景も捨てがたいが、泣く泣くベルトのボタンを押すと、ハングライダーが開く。風を受けて宙を舞うベルカントは、口笛を吹いて夜景を楽しみながら、アリアに確認を取る。ランデブーポイントに異常はないか。
問題ないから早く戻って。急かすアリアに肩をすくめつつ、景観を重視して造られたビル街を流れる川へと、周囲の人々へ手を振りながら下りていくと、小型高速艇がある。ハングライダーを閉じて、それにまたがってエンジンをかけると、フルスロットルで川を駆け抜け、太平洋へと出る。そろそろ警察がヘリの一つでも飛ばしてくる頃合なので、ベルカントは備え付けのガスマスクをつけると、高速艇のタッチスクリーンをいじって、チャフと紫色のガスを噴出させる。
ヘリが来るころには、何も残っていないだろう。