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ai. _和泉 愛

作者: minmi

「結婚、してください。」


彼はそう言って、深く深く頭を下げた。


私よりもかなり高い身長で、いつもは彼が私を見下ろす形になる。なのに今は逆だった。彼は私に見下ろされるくらい、その大きな体を畳んで頭を下げていた。


その肩が少しだけ震えていることに気づいたとき、また胸がどきんと鳴った。


「あ……。」


嬉しかった。それは、ずっと私も望んでいたことだった。


目の奥が熱い。のどが渇く。ゆっくりとまばたきをしてみると涙が流れた。だんだん口から嗚咽が漏れ始めて何も言えなくなる。


何か言わなきゃ。何か、言ってあげなきゃ。顔をあげてって。私もあなたとずっといっしょにいたいって。ずっとずっと、好きだからって。


必死に言葉を出そうとしても、それは意味のない吐息に終わってしまう。


「し…き……っ。」


夏の夜の生暖かい空気が肌にまとわりつく。どこか遠くから蝉の鳴き声が聴こえた。


普段なら特に気にもしないようなことなのに、耳が、目が、肌が、頭が、この時のすべてを感じようとしている。この幸せな時間のすべてを心に刻み込もうとしている。


彼がゆっくりと顔を上げて私のほうを見る。目が合った瞬間、彼はあわてて私の涙をぬぐった。


「ごめんな!やっぱ結婚なんか、嫌だったよな……。」


申し訳なさそうにそう言って、彼はイタズラがばれたときの子供のように俯いた。


ちがう。ちがう。ちがう。ちがう。


ちがうよ、(しき)。私は幸せ。これ以上ないってくらい幸せ。


伝えたいのに。伝えたいのに。声帯はなかなか働こうとしない。涙が邪魔して何も言えない。


「しき……っ。」


必死に彼の名前を呼んで、服の裾を引っ張りながら首を横にぶんぶんと振る。気づいて。気づいて。


「……ちがうの?」


首を思い切り縦に振る。髪がぐちゃぐちゃになってもかまわない。それよりも、彼に気づいてほしい。


「結婚して、くれる?」


首を振るのを一旦やめて、大きく咳をする。少し落ち着いてきた嗚咽はなんとか止められそうだった。


これだけは言いたい。ちゃんと私の言葉で、彼に伝えたい。


まっすぐに色を見つめる。高い身長のわりに幼さの残る瞳。それが、私の大好きなひと。


「は……い。」


彼が勇気を出して私に言ってくれた言葉。とても大切な言葉。


きっと今の私の顔は涙で濡れてぐちゃぐちゃだろう。とてもみっともない顔だろう。


でも、それでもいい。


その告白に、私は今できる最高の笑顔で答えるの。


「やった……!」


その瞬間彼も思いっきり笑った。それから私をぎゅっと抱きしめた。痛いくらいにぎゅっと。その温もりが、幸せな時間をさらに幸せなものにしていく。


やった、やったと、彼は私の耳元で飽きることなくつぶやき続けた。その様子が本当に子どものようで思わず微笑んでしまう。






私は生きていく。ずっとずっと彼と一緒に。大好きな、相葉(あいば) (しき)という人と一緒に。










------------------------------------------------------------------------------------------








色との日々はとても幸せだった。


ずっと小さいころから心にぽっかり空いていた大きな穴。彼の隣にいれば、その穴はずっと満たされ続けていた。


大好きなひと。幸せな日々。大切なもの。






「あの、色さーん……?」


――――なのに今こうして口をきいてくれないのは、間違いなく私が悪かったわけで。






私の声は完全に無視。がたっと音を立てて立ち上がり、彼は食べ終えた空の食器を重ねてキッチンにもっていく。食器を持つ左手の薬指には真新しいシルバーの指輪が光っていた。


それは3ヶ月前、彼が私にもプレゼントしてくれたもの。薬指にはめているのはそれが「特別」な意味を持った指輪だという証拠。


(ほんと、やっちゃったなぁ……。)


自分の左手をちらっと見る。小さいころからピアノに触れていたから女にしては少し太い指だと思う。でもそれは決してコンプレックスではなかった。私にとって、この指は努力の証だったんだ。


その無骨な薬指に、懲りずに無くしてしまった指輪はもちろんない。


はぁーっ。


思わず深いため息が出る。誓ってわざとじゃない。大切な指輪をわざと無くすわけない。


だけど3ヶ月で5回もなくしたら、どんなに色が優しくても怒るのは当然だと思う。


眺めていた左手をあいている右手でそっと撫でる。部屋は寒くないのに、何もない左手はひどく冷たく感じられた。


がちゃ、と遠くで重い音がした。玄関の扉が開いて、また閉まる音。どうやら色は仕事に行ってしまったらしい。


はあ、ともう1度ため息をついた。


わざとじゃない。ただ、まだ慣れていない指輪をはめているとどうしても手の感覚が微妙にずれてしまう。


私はイラストレーターをやっている。小説の挿絵とか表紙とか描くやつ。本名兼ペンネームは和泉(いずみ) (あい)


絵を描く職業だからもちろん手を集中して使う。しかも私は根っからの左利き。どうしても作業は指輪をはめる左手でやることになる。


仕事をするときだけはバカみたいに集中してしまう私は、その分どうしても薬指の違和感が気になってしまう。で、そのときだけと思って指輪を外す。それが無意識にやっていることだから、後からその指輪をどこに置いたかわからなくなる。


まあ、指輪を外すのはこの家の中だけだから、無くしても結局は毎回見つかるんだけど、色が帰ってくる前に見つからないときはやっぱり気まずい。その気まずいことを私はもう5回も繰り返している。で、当然色は怒った。というか5回も我慢した色はえらいと思う。


よし、今日は仕事は休もうっ。急な仕事も入ってないし、1日くらいなら明日頑張れば大丈夫!


それに、今日は……


カレンダーをちらっと見る。今日は12月27日。その欄には赤と青2つのペンで書かれた文字。


「……がんばろっ!」


今日はやらなきゃいけないことが、やりたいことがたくさんある。


とにかくまずは、大切なものを探し出そう。










------------------------------------------------------------------------------------------






色と初めて話したのは2年と4ヶ月前。私と色が大学2年の8月だった。


私と色は同じ地元の大学に通っていた。だけど私は人文科学部、色は経済学部で、入学して2年間全く関わりが無かった。サークルもちがかったし、私も色も友達はいても交友関係が広いわけではなかったから。


そもそも関わるきっかけというものが全くなかったんだ。


そのまま生活していれば私たちは一生話すことなんか無かったと思う。


だけど、あの日―――――






――――あの日、私は急いでいた。


私から買い物に誘ったのに、寝坊したせいで5年の仲である親友の絵梨を30分以上待たせてしまっていた。


手にケータイを持って走りながらメールを打つ。おととい機種変更したばかりの新しい機種。明るい黄色で、しかも前からひそかに憧れていたスライドケータイ。ストラップは邪魔だからつけない主義で、新型なのもあってかなり軽い。


待ち合わせは駅前。それほど距離は無いけど、絵梨も待たせているからバスで向かうつもりだった。


1番近いバス停はこの先の角を右にまがったところにある。息がそろそろ辛いけど、休むのはバスの中でもできる。速度を落とさずに角をまがる――――




どんっ、……どさっ




「いっっっ、たぁ……。」


何か大きなものにぶつかり小柄な私はそのまま地面に尻餅をついた。実はそんなに痛くは無いんだけど、大げさに言っちゃったのは条件反射ってやつ。


「ごめん、大丈夫か?」


誰?!と心の中で思いっきり怒りながら差し出された手に頼らずに自力で立ち上がる。


スカートについた土を払ってから顔を上げてみると、そこには私が掴まなかった左手で申し訳なさそうに自分の後頭部を掻いている男が立っていた。


その手に頼らなかったことを少し後悔した。せっかく助けようとしてくれたのに、それを無愛想な態度で返すのはちょっと失礼だったかな。


男の姿を観察してみる。短く切りそろえられた黒髪と少しだけ日焼けした肌。紺色のTシャツに少し色のあせたジーンズは、背の高いこの人によく似合っていた。


あれ?この人、どっかで見たような……?


「あのー、大丈夫っすか?」


うーんと考えていると、ぶつかった男は「なんだこいつ人のことじろじろ見て。」という言葉をそのまま顔で表しながらそう言った。その表情にはもう申し訳なさなんか残ってない。


何、この人。ちょっといい人かなーとか思ったけど、裏表激しいっ。


「大丈夫ですっ。こっちこそごめんなさいっ。」


その表情にかちんときて、わざと無愛想に答えてみる。ついでに手のひらにくいこんでいた砂も落としてみると、転んだときに手に思いっきり体重をかけていたせいでぽつぽつと痕が残った。


んー、ちょっと痛いー。そんなことをのんきに考えていると……






ぶろろろろろろ……


地球温暖化の原因的なものをもくもくと大量に吐き出しながら、何か大きい箱型の物体が忙しそうに目の前を通り過ぎていった。






車も忙しそうだなぁ。


そーだよねー。「時は金なり」だもんねー。


あれ?


………………………。


…………………。


……………。


………。


…。


私、バス乗んなきゃいけなかったんだー!!






「ちょ……っ!すみません、私急いでるので!」


転んだときに落としたケータイを拾い上げ、バスに向かって突っ走る。バスはゆっくりと乗り込むおばあさんを待って、30m先のバス停に止まっていた。


「乗りますっ。私も乗りたいんですっ!」


私がバスの乗り口の前に到着したのとおばあさんがすぐ近くの席に座ったのはほぼ同時。あー、危なかったっ。


荒い息を整えながらバスカードを機械に差し込んで、出てきたカードを受け取る。


それからいつも通り1番後ろの席に座った。小さいころからバスに乗るときは1番後ろの席と決めていた。


メール打たなきゃっ。


ずっと握り締めていたケータイを開く。メール画面にしておいたのに、落とした弾みで待ち受け画面に戻ってしまったらしい。


待ち受け画像は最初に設定されているやつのままにしていた。黄色のケータイに合った、レモンの画像。そのうち変えるつもりだけどこれはこれで気に入っていた。


未送信メールの項を押す。ロックをかけているから暗証番号入力画面に移った。いつも通り絵梨の誕生日の「0506」をすらすらと押す。






「暗礁番号が間違っています」






――――え?


押し間違えたのかな。そう思ってもう1度「0506」と丁寧に押す。


「暗礁番号が間違っています。」


……もう1度。


「暗証番号が間違っています。」


………もう1度。


「暗礁番号が間違っています。」


(暗証番号、変えたっけ……?)


とりあえず、今度は私の誕生日の「1227」と入れてみる。


あ、通った。


今度は問題なく画面は未送信メールに移った。


私、いつのまに暗証番号変えたんだろ。


首をかしげながらもとにかく絵梨に打ちかけていたメールを開――――


「だれ、これ。」


――――こうとしたんだけど。


1番上にあったメールの送り相手は「健吾」。




えーと……。どちら様ですか?




「健吾」さんにメールを打った覚えもないし、そもそも「健吾」なんて人物はアドレス帳にもいなければ知り合いにもいない。


健吾さんのほかにも、嵐やらカズキやら隆一やら、どう考えても見覚えのない男の名前がずらっと並んでいた。


いやな予感がしてあわてて電池パックの蓋を開けてみる。「もしも」これが私のケータイなら、蓋の裏には絵梨とのプリクラが貼っているはずだった。


「貼って……ないし。」


驚きでケータイを持っていた手が滑った。落ちそうになる(誰かの)ケータイを慌てて反対の手でキャッチする。


どーしよう、これ……。さっきぶつかった人のケータイなんだろうけど。同じ機種でストラップもつけてないし、待ち受けも初期設定のままで同じだから全然気づかなかった。


景色が流れていく窓ガラスをちらっと見てみる。いつのまにかバスはもう3駅も通過してしまっていた。次のバス停が駅前。


返したいし返してもらいたい。でも絵梨も待たせてるし、たぶんぶつかった場所に戻ってもあの人だって移動してると思う。


(私のケータイに)電話したいけど、まだ新しいケータイの番号覚えてないんだよね……。


アドレスは覚えてても、私はケータイにロックかけてるからメールを見るには暗証番号を入れなきゃいけない。ってことはメールを送ってもあの人は読めないんだ。暗証番号である絵梨の誕生日なんか、あの人が知るわけないし。


まぁ私のケータイの番号は絵梨が知ってるから、駅前に行ってから電話してみよう。










------------------------------------------------------------------------------------------






「……すっごい運命じゃん、愛!相葉くんもそう思うでしょー?」


興奮気味に話す絵梨。だけど話を振られた私と彼は、気まずく顔を背けた。


「絵梨、そんなわけないでしょ。偶然よ偶然。」


――――なんでこんなに絵梨が興奮しているのか。それは、ものすごい偶然が重なったからだった。






あのあと、絵梨と一緒に自分のケータイに電話をかけてみると、本気で不機嫌そうな男の声がちゃんとワンコールで電話にでてくれた。しかもその第一声が


『あんた、だれ。』


っていうのは、不機嫌にもほどがあると思う。


で、結局お互いのケータイを交換するためにその男と駅前のファミレスで待ち合わせすることになり、あっちも友達と待ち合わせだったらしく成り行きで4人で会うことになった。






ここまではよかったのに。これだけならただケータイを返してもらってそのまま解散になったのに……。






あっちが連れてきた友達を見て絵梨が「あ、この人、話したことないけど見たことある!」とか騒ぎ出して、4人とも同じ大学ってことが判明。その偶然を絵梨は「運命」と認識して、なぜかそのままファミレスで話すことに。


ぶつかった男の名前は相葉 色。驚くほど深い黒髪に、鋭い輪郭とだるそうに細められた鳶色の瞳。最初に手を差し伸べてくれた時のような表情は少しもない。


あのときの表情が、1番よかったのに。


「ねぇねぇ健吾くん、これ運命だよねー!」


「運命だなっ。よかったじゃん色ー。こんなかわいい子と運命なんてさー。」


相葉さんが連れてきた健吾くんって人と絵梨は、初対面なのになぜかいきなり仲良し。さっきから2人の会話はずっと盛り上がってる。


「うるせーよ健吾。秋元さんがタイプだからってはしゃぎすぎ。」


あ、忘れがちだけど、絵梨の名字は「秋元」なんだ。


「……なっ何言ってんだよ、色!」


対して当事者である私と相葉さんのあいだには全く会話がない。第一印象が悪すぎて何も話せないというか、なんか「運命」とか騒がれると恥ずかしいというか……。


心の中で深いため息をつきながらオーダーしたアイスコーヒーをストローでかき混ぜる。さっきから何回混ぜてんだろう、私。


私は人見知りなわけじゃない。昔から初対面の人とも器用に付き合える方だった。


なのに相葉さんとは全然。何か話そうとしても目が合った途端どうしていいかわからなくなる。


正面に座っている相葉さんをもう1度ちらっと見る。すると自分のコップを見ていた相葉さんが不意に顔を上げて、ばちっと目が合った。


顔が急に熱くなる。目を背けたいのになぜか目を離せない。


「……手。」


「え?」


彼のつぶやきに即座に反応してしまって後悔した。意識してたのばればれな気がする。


「手、左利き?」


自分の手を見る。アイスコーヒーを混ぜるストローは左手で持っていた。


「あ、うんっ。右は使えないかな。」


慌てて答えると、相葉さんは目を細めてくすっと笑う。


あ、やっと笑った。


「俺も左。右手はカスだな。」


そう言って左手で自分のコップをすっと持ち上げる。その言葉にこっちも笑ってしまう。


そこで思い出した。


「そーいえば、なんでケータイの暗証番号が『1227』だったの?」


「……って、なんで暗証番号知ってんの?!」


本気で驚いたのか、少し身を乗り出して相葉さんは聞いてくる。その表情の変わり様に話題を振った私まで驚いてしまう。


「え、っと。私のケータイだと思って自分の誕生日入れてみたら、偶然正解だったから。」


今度はもっと驚いた顔を見せて、何に納得したのか2回ほど頷いてからまたくすっと笑った。


「すっげぇ偶然。俺も12月27日生まれ。」


「え、嘘!じゃあ血液型は?!」


「俺?AB型。」


「私も私もっ。」


そこからいろいろと聞いてみると、私は福島生まれ。相葉さんも福島生まれ。こっちに転校してきたのも2人とも中2の夏。


部活はずっと陸上部で、しかも7歳からピアノを習っていたところまで同じだった。


「……運命?」


運命。絵梨の言葉が頭に響いた。こんなにも共通点が多いと思わずそんなことを考えてしまう。


恐る恐るつぶやいてみると、相葉さんはぶはっといきなり笑い出した。


「な、なんで笑うの?!」


目を細めて、肩を震わせて、口元にえくぼを浮かばせて。さっきまではずっとだるそうにしてたのに、今度はまるで子供みたいに思い切り笑っていた。


それは、まだ見たことのない表情だった。


胸がどきどきと鳴る。それをごまかすためにごほんと咳払いをした。


「いや、すんません。だってさっきは運命ってあんなに否定してたのに。」


そう言って目で絵梨の方を見る。絵梨は健吾くんとの会話にかなり集中してるみたいで、2人ともこっちのことは全然気にしてない。もしかしたら、この2人相性いいのかも。


「でもほんと、すげぇな。ここまで共通点があると。」


笑いを堪えようとくつくつと喉を鳴らしながら相葉さんは話す。


いろんな表情を見せる人。さっきまであんなに不機嫌そうだったのに、今度は子どもみたいに笑って、驚いて……。


「それに、相葉さんがピアノやってたのって意外っ。」


思わず頬が緩んでしまう。


「……色。」


え?相葉さんの答えに思わず間抜けな声がこぼれる。


「色って呼べよ。……愛。」


からからから。


相葉さんがドリンクを混ぜる音がやけに耳に響く。


愛。何年も呼ばれてきた名前。何度も呼ばれてきた、私の名前。


それがこんなに心地よい音だったなんて、知らなかった。


「しき。」


その2文字に心が落ち着く。


「色。」


「そ、色。これからよろしくな、愛。」


色も笑う。子供のような笑顔を、私に向ける。思わず触れたくなるような優しい微笑み。ずっと見ていたくなるような、そういうもの。


そのときなんとなく思った。


これは本当に運命なのかもしれない、と。








その4ヶ月後、私と色は付き合うことになった。


告白してくれたのは色だった。顔を真っ赤にしてごもごもとずっと何かを言おうとしているから、何か頭の病気にでもかかったのかと思った。そうして何分もかかってやっと出た一言が


「好きだ」


だけ。ほんとおかしくて笑えちゃうけど、笑えないくらい嬉しくて、幸せだった。


付き合ってから半年後、私たちは大学の近くに2人で選んだ小さい部屋を借りた。お互いバイトをしたり勉強したりで忙しい毎日だったけど、ちゃんといっしょにご飯を食べて、いっしょにテレビを見て、いろんな話をして笑って。


色と出会ってから、私がずっと感じていた心の穴はいつのまにか消えていた。


色がその穴を埋めてくれた。


――――大好き。










------------------------------------------------------------------------------------------








「よしっ、できたー!」


目の前のテーブルの上にはいつもより少し豪華な夕食。初めてワインなんかも買ってみたけど、どうかな。


ちらっと壁を見る。これで何度目だろう、壁にかかっているシンプルなカレンダーを見るのは。何度も何度も見て、何度も何度もこの日にお礼を言う。


生まれてきてくれてありがとう。生んでくれてありがとう。


今日は12月27日。2人の、生まれた日。




うーん、と思い切り伸びをする。朝から準備してたからちょっと疲れたっ。


伸ばした腕の先を見ると、左手の薬指には蛍光灯の硬い光にきらりと優しく反射するシルバーの指輪。午前中家の中を探し回った結果、なぜかベットの枕の下で見つけた。


これでちゃんと謝れる。色が帰ってきたら真っ先に「ごめんね」って謝って、見つけた指輪を見せるの。


それから頑張って作った料理を見せびらかして、料理の感想をちゃんと1つ1つ言わせて――――


やりたいことはたくさんあった。とにかく、色を喜ばせたかった。


だって今日は2人の誕生日でもあり、付き合ってちょうど2年目の日。だから絶対に最高の日にするんだ!


色が帰ってくるまであと10分くらいある。いつも急いで帰ってきてくれるから帰宅時間はほぼ毎日同じで、もう習慣になってしまった。


それまでに使った調理用具を片付けておこうと思い、再びキッチンに向かう。蛇口を捻ると温められる前の冷たい水が手にかかった。その冷たさにぶるっと体が震える。数秒してやっと温水が蛇口から流れ、その温かさになんとなくほっとする。


まな板を洗っていると聴き慣れた曲が耳に入ってきた。どうやらテレビをつけっ放しにしたままだったらしい。毎週この時間にやっている音楽番組がかかっている。


その曲は、私が好きで色にも聴かせたら気に入ってくれた曲だった。少し歌詞が変わっていて、世界が滅びるのを前にして女性が「生まれ変わってもまた出逢えますように」と祈っている歌。切ないようで、でもとても幸せそうな歌詞と歌い方が大好きな曲だった。


アルバム曲だったけど、今日は特別にテレビで歌ってるんだ。


色にも聴いてもらいたかったなーと思いつつ、テレビの音に合わせて私も口ずさむ。




――――生まれ変わっても、また出逢えますように。




出逢えるかな、私たちは。死んだあとも。生まれ変わったあとも。


逢えるよね、きっと。だって私たち、




プルルルル……






運命、なんだから。






プルルルルルルル……




部屋に鳴り響く電話の音。その音は、なんだかいつもより冷たい気がした。


濡れた手をタオルで拭く。運命、という言葉によってまだ顔がにやけていた。


電話の音は止まらない。長く遠く、私を呼び続ける。早く早くと。


子機の前に立ち、その小さな体に手を伸ばす。触れるまでほんの数センチ。そこでなぜか取るのを手がためらった。


取りたくない。でも電話は鳴り続ける。取りたくない。でも私を呼び続ける。


すうっと息を軽く吸ってから、そっと子機に触れる。


「はい。」


「もしもし、相葉色さんのご家族ですか?!」


「そう……ですけど。」


電話の相手は若い男の声で、かなり急いでいるみたいだった。かなりの早口だけど聞き取りやすい声。そういう話し方が慣れていることがわかる。


「私、……救急病院の者ですが。」


――――あんなに早口だったのに、次の言葉だけは、まるで1秒が1時間になったかのように聞こえた。






「相葉色さんが、事故に遭われました。」






――――色。運命って、信じてる?






「病院の住所を言いますので、できるだけ急いで来てください!とにかく急いでくださいね!住所は……」




膝に力が入らなくなってそのまま崩れ落ちる。




「相葉さん、聞こえていますか?!急いでくださいね!」


「は……い。」








私はね、信じてるよ。


信じようって、思えたの――――。










------------------------------------------------------------------------------------------








「愛さん……!」


病室の簡素なドアを開くと、そこには色のお父さんとお母さんがいた。


「あ……。」


2人の頬が濡れているのに気づき、何を言っていいのかわからなくなる。とりあえず頭を下げると2人は立ち上がり、会釈をしながら病室から出て行った。


ドアが完全に閉められたとき、外から悲しげな叫び声が響いた。




――――こうして私はこの病室に、独りになった。




ゆっくりとベットに近づく。そこには、「モノ」になってしまった彼がいた。


ああ、家に用意しておいた料理はもう冷めちゃったのかな。頑張って作ったのになぁ。久々にケーキだって作ってみたのに。色の好きなガトーショコラ。


もう、こんなとこで休んでる場合じゃないんだから。私、今日は本当にがんばったんだよ!


見慣れたその顔に、そっと手を伸ばす。彼と同じ左利き。薬指には、彼と同じ誓いの指輪。


ひた、と頬に手のひらを乗せる。ずっと陸上競技をやっていたからか、走っていない今でもまだ日焼けが肌に残っている。


陸上競技がバカみたいに好きで、その製品の開発に関わることをずっと夢にしていた色。大学を卒業して大手のスポーツメーカーに就職できてすごく喜んでいた色。まだまだひよっこだけど、と言って微笑んでいた色。


病室の中がやけに寒かった。冬だからだろうか。冬だから、こんなに色は冷たいのかな。


涙が零れる。たった1粒だけ。それ以上は流れない。


「しき。」


その1粒は頬を伝い、顎の先でしばらく留まっていた。……まるで時が止まったかのように。






ねぇ色。指輪見つけたよ。ちゃんと見つけて、家で待ってたんだよ。


それで「ごめんね」って。「もう無くさないから」って約束して、2人でお祝いするの。


……その、つもりだったのに。






時は止まる。留まる。停まる。涙は綺麗なままで。






どうして。


どうして色はきいてくれないの。


私の「ごめんね」に、答えてくれないの……?






――――そしてやがて、また時は動き始める。




ぽたっ




その1粒がシーツに点を刻む。1つだけ。1点だけ。


その瞬間、空っぽだった私の頭に何かが流れ込んだ。






「私、死ぬの……?」






それは予感だった。


ただの予感だった。


絶対的な確信を持った、ただの予感だった。






今日は2人の誕生日。


今日は2人が付き合い始めた日。


今日は、彼がいなくなった日――――。










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ごめんねって謝るつもりだったのに。


おめでとうってお祝いするつもりだったのに。




――――届かない彼は、遠く、遠く。








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「…いっ。……い!」


肩が揺すられている。そこに実感はなく、ただ脳から送られてきた「揺すられている」という情報を認識しただけ。


『私は揺すられている』、『私は肩を揺すられている』。脳は絶え間なくその情報を心に送りつけてくる。……鬱陶しいくらいに。


「愛!」


ゆっくりと、閉じていた目蓋を開く。目の前には心配そうに私の顔を覗き込む絵梨がいた。


周りを見渡してみると、真っ黒な服で全身を固めた人、人、ひと。笑う人は1人も居ない。まるで、みんな死神のようだった。


死神が連れ去っていった人を死神のような格好で悼む姿はどこか歪で、ゆがんでいるように見える。


――――そっか。今、お葬式なんだっけ。


会場を一通り見回して、視線はまた絵梨に戻った。


大きく見開かれた瞳は真っ赤で、何度も泣いたんだろうと顔を見ただけで簡単に予想できる。絵梨らしいな、とぽつりと思った。


……そうだよね。私たち、出会ってからいっつも4人でいたもんね。いっしょにいるといつも楽しくて、最高の仲間だったもんね。


だから悲しいんだよね、絵梨。


「愛、大丈夫……?」


恐る恐る絵梨は私に訊ねる。自分こそ明らかに不安そうで何かに怯えているのに、絵梨はそれでも私の心配をしていた。


――――可哀相な絵梨。何度も泣いて、それでも何かへの不安を抑えられなくて、また何かに怯えて。


可哀相で可哀相で、それがやけに滑稽で……笑いたいのに、笑えない。


「大丈夫よ、私は。」


笑いたいのに笑えない。だから微笑ってあげた。醜く歪んだ微笑みを、可哀相な絵梨に見せてあげた。


私は笑う。嗤う。わらう。


――――可哀相なあなたを、可哀相な私を、笑う。




「愛、本当に大丈夫なのか?!」


絵梨が言葉を失っている中、隣にいた健吾はそれでもまっすぐに私を見据えていた。その目は何かに挑もうとしているようで、よけいに私は可笑しくなる。


挑むものなんか何もないのに。――――色はもう、どこにもいないのに。


ねぇ健吾、何に挑むつもり?何と戦うつもり?


私?それとも自分自身?生とか死とか世界とかそんな綺麗なモノ?


ああ可笑しい、可笑しい。笑ってしまう。……笑ってしまいたい。


笑って、しまいたい。


「……大丈夫、だから。」


笑いたいのに。笑い飛ばしてしまいたいのに。


そうすれば楽になれると知っているのに。


涙は溢れる。血のように赤く、穢く、流れ続ける。そこに実感はないし痛みも悲しみもない。……ただそれは流れるだけ。


「愛……。」


絵梨がつぶやき、健吾は俯いた。私の涙から目を背けるように。哀しい現実を遠ざけるように。


――――笑いたいの。


笑いたいんだよ、色。前みたいに幸せだなぁって笑いたいの。


笑わせてよ。笑おうよ。


ねえ、もう1度――――。








叶うことはないまま、時は哀しく流れていく。










----------------------------------------------------------------------------------








「色ーっ!」


まだベットにもぐっている彼の耳元で、わざと子どものように騒いでやる。いくら起こしても寝ぼけてばかりの彼への当て付けだ。


きゃーきゃーと騒いでやると、彼は「うーん」と唸りながら寝返りを打って私に背を向けた。


ほんと、色は目覚めが最高に悪い。いつもいつも私が叩いたり殴ったりしてあげてるのに、なかなか起きてくれないんだ。……ケンカしてる時は勝手に1人で起きれるクセにっ。




色と暮らし始めて、もうすぐ1ヶ月になる。穏やかな暮らしはそれだけで楽しくて、毎日が満ち足りていた。




つんつんと突っついてみる。……それでも起きない。


ぴしぴしと叩いてやる。……やっぱり起きない。


「しーきーっ。」……起きない。


なぜか私の枕を抱きしめて眠っている色の背中をじーっと観察する。


何も身に着けずに眠っている彼は、寒いのか猫のように毛布の中で丸まっていた。ごつごつと角ばった背中にはほどよく筋肉がついてて、ついかっこいいなぁって思ってしまう。


なんとなく悔しくなって私もベットにもぐりこむ。ぴたっとその背中に額をつけると、熱を持ったように顔が熱くなるのを感じた。


――――色はあったかい。


その背中は少しだけ汗のにおいがした。あれからシャワーも浴びずに寝たからだ。……私は朝早くに起きてちゃんと入ったのにっ。


そう心の中でぐちぐちと言いつつ、額だけじゃなく体全体をその背中にくっつくてみる。今度は汗のにおいに混じって、色と私のにおいもした。


素肌と素肌が触れ合う感覚は心地よかった。


――――昨日もこうして、眠った。


そっと目を閉じて、その心地よい温もりを感じる。大好きな背中。大好きなひと。大好きな色。


へんなとこにこだわりを持ってて、それだけは絶対に譲らない。


普段は大人ぶってるくせに2人になると妙に甘えたがりなとこもある。


それから、興味のないことにはバカ正直に興味を示さないけど、興味のあることには子どもみたいに目を輝かせる。


そして笑うんだ。目を細めて、本当に幸せそうなあったかい顔で。そんな風に笑うんだ。


大好き。大好きだよ、色。


その背中に語りかけながら、深い深い過去の夢へ、潜っていく――――










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物心がついたときから、私にはお父さんもお母さんもいなかった。


聞いた話だと、私を祖父母に預けて2人で買い物に行ったときに不運な交通事故にあったらしい。


だけどそれは私が1歳になる前で、残された娘は死んでしまった2人のことなんて少しも覚えていなかった。


だからその死はただの「情報」でしかなく、情報に感情なんて―――悲しみなんて、存在するわけがない。


薄情だとたくさんの人が思うだろう。生んでくれた親の死を悲しまないなんて、と誰もが言うだろう。


でも、私は記憶にない人の死まで悲しめるほど優しい人間じゃないんだ。


情報は情報でしかない。私にとって両親の死はニュースで見る誰かの死と同じで、それ以上でも以下でもない。


それは私にとって、どうしようもない事実なんだ。






両親が死んでから、私は父方の祖父母に育てられた。


「ほら、愛。今日はたくさん魚が釣れたんだ。あとでばーさんに料理してもらうから、たんと食べてな!」


釣りが趣味で、月に1度は釣りに出て行くおじいちゃんは、魚をたくさん釣ってきては私にごちそうしてくれた。


「まさかこの歳で女の子を育てられるなんてねぇ。一人息子だったから、ずっと女の子と暮らしてみたいって思ってたのよ。」


おばあちゃんはそう言って、初詣や夏祭りの行事のときは着物や浴衣を私に着せ、髪を綺麗に結ってくれた。


おじいちゃんもおばあちゃんも優しくて、私を大切に育ててくれた。基本的にやりたいこともやらせてくれたし、どうしても必要なお金はおしみなく出してくれた。


長い休みのときには必ず遊びに行く母方の祖父母の家。こっちのおばあちゃんたちも私のことを引き取ろうとしてくれた。ただ、住んでいるのが県外だったから、話し合った結果いまの状態に落ち着いたらしい。


両方の祖父母はとても仲がよくて、協力して私を支えてくれている。


お父さんもお母さんもいないけど、たくさんの愛に囲まれて私は育ったんだ。






「愛ー!英語の宿題見せろーいっ♪」


学費も安い県内の公立高校に進学した私は、そこで席が前後になった秋元絵梨と友達になった。


今までもちゃんと友達はいたけど、絵梨はその子たちとはちょっとちがかった。


前の友達とは、だれかが何か冗談を言ったら「おもしろくなくても笑わなきゃいけない」って暗黙の了解みたいなのがあった。


友達のことは好きだったけど、正直そういうのは疲れる。高校でもこんな風に誰かと接していかなければならないことに、ひそかに私は肩を落としていた。


だからこそ私と絵梨はすぐに友達になれたのかもしれない。


絵梨は笑いたくなければ笑わないし、言いたくないことは言わない。それを自己中と言う人もいるけど私はそれを悪くは思わなかった。


素直で盛り上げ上手で、相手に気を使わせない。誰よりも無邪気で、時には誰よりも冷静で、誰よりも優しい。そんな彼女がどうして自己中なんだろうと不思議に思う。


それに絵梨は、笑うとすごくかわいいんだ。顔のつくりとかじゃなくて絵梨の笑顔には誰かをまた笑顔にする力がある。


絵梨といる時間は、本当に楽しかった。






私はとても恵まれていた。


運動は人並みにできて、勉強も努力をしたらできるようになった。


ほとんどのことを器用にこなせたし、その器用さで誰とでも仲良くすることができた。


友達もいて、優しいおじいちゃんとおばあちゃんたちに育ててもらって。


時にはかっこいい人に恋をしてみたり、告白してくれた人と付き合ってみたり。


たくさんの人に支えられて、助けられて。毎日楽しくて、充実してて……。


退屈なんてしなかった。不満なんてなかった。


だから、私は幸せなはずだった。


幸せなはず、なのに――――。








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「いや……っ!」


水中から急浮上するように夢から覚める。そこには息苦しさしかなく、過去を見るのはそれだけで辛い。


とっさに隣にいる色を見る。飛び起きたせいで肘で思い切り叩いてしまった。まだ起きてはいないけど、布団の中でもぞもぞと動いてから寝返りを打ってこっちを向いた。たぶんもう少しで起きちゃうだろう。




――――その前に、なんとかしなきゃ。




ごしっと目元を乱暴に拭う。でも、これはそんな簡単には止まらない。


どんなに気分を落ち着かせても、それはかまうことなく溢れ続ける。それはいつものパターンだった。




――――最近は無くなってきてたんだけどな……。




顔を洗いに行くためにベットの縁に寄る。立ち上がる前にちらっと色を見ると、やけにその存在が恋しくなった。


起こさないようにそっと手を伸ばす。


ひた、とその頬に触れると、待ちかねていたようにすぐに手の平が熱を持つ。


優しい温もり。それが心の底から愛しいのに、涙の量が増していく。


もう色は起きてしまう。でも、あとちょっとだけ。あと少し、少し……。


そのまま1分間自分の弱さに甘え続けて、私はゆっくりと目蓋を落とした。


目を開いたら、手を離そう。


そう決めてさらにゆっくりと目蓋を開く。それと同時にそっと頬から手を離す。


数mmほど手が離れたとき。




「――――愛。」




離しかけた手を、その温かい手に掴まれた。


「し…き。」


上半身だけを起こして私を見つめるその目は、いつものように寝ぼけたものではなかった。ただ真っ直ぐで、何よりも真剣だった。


「どうした?」


声は驚くほど優しい。だけど私の手を掴む力は痛いくらいで、少しも弱まっていなかった。


(……あったかい。)


どんなときでも、この手の温かさは変わらない。


たくさんの愛情を受けて長い時を過ごしてきたひと。まっすぐな人。そのまっすぐなところが時に人に疎まれて、傷ついているくせに傷ついてないフリをしてしまう意地っぱりなひと。


だからこそ、この手はいつでも温かい。


「愛、おいで。」


おいでと言いながら掴んでいた私の手を引っ張る。その強引さに抗うことができず、そのまま色の隣に倒れこんだ。


毛布の中から手が伸びてきて私を正面から抱きしめる。色の胸に顔をくっつけると、その肌を私の涙が伝った。


小さい子にするように、私の頭を色の手がぽんぽんと撫でる。何度か往復したあと、今度はわしゃわしゃと後ろの方の髪を乱した。くすぐったいような感覚に笑いたいのに笑えない。


「……どうした。なんか嫌なことでもあったのか?」


腕の中でふるふると首を横に振る。涙はどうしようもなく流れ続けるけど、もう悲しくなんかなかった。だってこんなことはもう慣れているし、それに今は色がいる。


だから大丈夫と伝えたいのに、なぜかその言葉は出てこない。


「怖い夢を、見たの。」


代わりに出てきた意味のない言葉に心の中で苦笑いをする。話してもしょうがない。こんな自分を理解されたことなんかないし、理解されようとも思わなかった。


いまの私を演じ続けることが本当の「私」。そんな私を周りの人はいつも良く思ってくれたし、私もそれで満足していた。


だけど口は勝手に言葉を紡ぐ。壊れかけた機械のように淡々と。


「ずっと前の私もね、毎日を楽しんでたの。変化があって、充実してて、不満なんか何もなくて……。平凡だけど、私はそんな生活が好きだった。」


色は私の頭を撫で続ける。何回も何回も往復する。


その心地よさにまた理由もなく泣きたくなる。


「……だけど、いつだったかな。気づいちゃった。」


とん、と自分の左胸に手を当てる。


「小さい穴が開いてる、心に。本当に小さい穴。


そこには何か大切なものがあるはずなのに、私には無いの。みんなにはあるものが無いの。それが何なのかも……わかんないの。」


それはずっと隠して誤魔化してきた想いだった。理解されようなんて考えたことも無かった、どうしようもない真実だった。


「幸せなの。今までもこれからもずっと。十分すぎるくらい……幸せなはずなのに。


なのにね、私は幸せだって思えない。『幸せなはず』とは思えるのに幸せと思ったことがないの。」


たくさんの友達。優しいおじいちゃんとおばあちゃん。みんな優しくて、私を支えてくれて。そこにはたしかな愛情があった。


多くの人の愛をもらって、私は幸せなはずなのに。




それなのに、どうして――――私は「幸せ」と思えないの。


みんなの存在を、幸せだと思うことができないの。


……ずっと、わからなかった。




落ち着き始めていた涙がまた溢れ始め、嗚咽が零れる。


こんなの初めてだった。いつもなら、涙は止まらなくても心にはなんの感情も湧いてこなかったのに。


なのに、この涙は痛い。涙が流れるたびに胸がずきずきと痛む。


色の手がぴたっと止まる。どうしたんだろうと思って顔を上げようとしたら、その手が私の背中に回り、一層強く抱きしめられた。


私も彼の背中に腕を回し、ぎゅっと抱きしめる。


――――このままくっついてしまえればいいのに。同じモノになって、彼の温かさが私にも移ればいいのに。


「足りてるはずなのに穴が塞がらないの。みんなが私のことを考えてくれてるのに、それに応えることができない……!


どうしてなんだろうね。どうして、私はこんなに冷たくて強欲な人間になっちゃったんだろうね。


色みたいにあったかい人間だったらよかったのに。そうすれば、みんなの支えに『幸せだよ』って笑顔で応えられるのに……。」


痛い。痛い。痛い……


みんなの笑顔を見る度に。誰かからの愛情を感じるたびに。


それに心の底から「幸せだ」と感じることのできない自分が、嫌で仕方が無い。




「……お母さんとお父さんが小さいころに死んだって、ずっと前に話したよね。




私ね、そのことをなんとも思ってないの。1度も両親がいないことを悲しいと思ったことない。」


悲しくなんてなかった。


ただ、ただ――――








悲しくないことが、どうしようもなく悲しかった。









「私を生んでくれたお母さんもお父さんもいないのに。死んでしまったのに。私、悲しいって思えないの。悲しがってあげられないの。」



器用な私はその「情報」をバカみたいに器用に飲み込んでしまう。そして慣れてしまう。



――――記憶がないからと言っても、それは間違いなく私の両親なのに。



私は冷たい人間だった。



両親の死が悲しいんじゃなくて、それを「悲しい」と思えない私が悲しかった。




そんな、冷たい人間だった。





――――痛いの。


色のようなあったかい人間に、私はなれない。






「愛。」


色が呟くように言った一言がいつまでも未練がましく耳に響く。


「冷たくなんか、ない。」


ぎゅっと抱きしめてくれる腕が、嬉しいのに痛かった。


「愛はあったかい。こんなにあったかい。優しくて、いつも笑顔でいて、時々うざくなるくらい気ぃ使って……。」


その声が、肩が、小刻みに震えていた。思い切り抱きしめられていて、表情はよく見えない。


だけど色の気持ちはまっすぐに伝わってくる。彼の言葉が、少しずつ心を満たしていく。


「……お前、ちゃんと悲しんでるよ。悲しいって言ってるよ。


じゃなきゃこんなに泣けねぇだろ。こんなにぐちゃぐちゃになるまで、意地っ張りなお前が泣くわけねぇだろ。」


溢れるなみだ。


それを彼は、悲しみと言った。


「親の存在ってのは何にも変えられないもんだよ。


……寂しかったんだろ、お前は。悲しめるほど思い出がないことが。寂しくて寂しくて仕方ねぇくせに、変な気ぃ使って誰にも言えないままだったんだろ。


だから、寂しいとか思うのやめたんだ。」


深く息を吐く。息と一緒に、いままで溜め込んでいたものが心から流れていくような気がした。


寂しいなんて思ったことなかったのに。


悲しいなんて、感じたことなかったのに。


涙なんか、痛くなかったのに……。


「20年以上待ってやっと言える奴が見つかったんだろ。なら言えよ、その俺に!


俺はお前の意地っ張りなんかもう見抜いてんだ。これ以上意地張ってても無駄だぞ。お前が器用に隠しても、これからは俺が無理矢理踏み込んでやる。


だから言えばいいんだ。ずっと言いたかったこと、ずっと言えなかったこと。


わかるだろ?今なら。」


今なら。


あの夢を何度も見て、何度も泣いて。


幸せと感じられない自分が悲しくて。


それでも、それでもと思って、ここまで生きてきた。


――――そして、色に出逢えた。


そんな今なら。色の隣にいる、今の私なら。




「……かった。」


声が震える。


ああ、こんなにも。


こんなにも私は、大きな感情を隠していたんだ。






「寂しかった……!」






寂しかった。


寂しかった。


私は、寂しかった。


「みんな優しくて、支えてくれて。それにちゃんと応えなきゃってずっと思ってた。


だけど何もできなくて。何もしてあげられなくて……!」


だから寂しがっちゃいけないと思った。


いつまでももういない両親の面影に甘えちゃいけなかった。


「私は幸せにならなくちゃいけなかったのに。幸せだと思わなきゃいけないのに!


それでも、寂しかった。寂しかったの……っ。」


涙と一緒に感情が溢れ出す。それを止めようと思うことさえできなかった。




――――でも、言いたかったのはこんなことじゃない。


私なんかの寂しさじゃない。




「……ごめんなさい。」


私は、謝りたかった。


悲しいと言ってあげられなかったお父さんとお母さんに。


寂しがってあげられなかった、2人に。


「ごめんなさい……!」


ごめんなさい。


覚えてあげられなくて、ごめんなさい。


寂しがってあげられなくてごめんなさい。


「ごめん、ね……。」


でも、私はもう選んでしまった。


こうやって生きていく「私」を選んでしまった。


この長い長い道を引き返すことができるほど、私は器用にはなれない。


だから――――ごめんね。


「愛。」


彼が私の名前を呼ぶ。


お父さんとお母さんが私につけてくれた名前。たった1つ残された愛情。たった1つ残されたいのち。


こんな私だったから色と出会えた。


――――だからもう、戻れない。




涙は止まらない。それは痛くて、苦しくて、でも今までで1番綺麗な涙だった。


だから、最後に。涙に呑まれてしまう前に。


「色に逢えて、よかった。」


『ごめんなさい』の代わりに、そんなことを呟いた。






私は選ぶ道を間違えたのかもしれない。お父さんたちにひどいことをしてるかもしれない。


でも、それでも――――


強い力。


子供っぽい笑顔。


優しい眼差し。


この道を選んだからこの人に出逢えた。


いまの私だから、色のすべてが私の隣にいてくれる。




だから思ったんだ。


いままで感じたことのなかったもの。ずっと憧れて、それでもどうしても手に入らなかったもの。






――――幸せだと、初めて心の底から思った。








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長い1日は終わった。彼の死を悼む人たちは次々と帰っていき、残ったのは静かな時間だった。


「愛。」


肩にとん、と手が置かれる。その声と優しい手の重みは、間違いなく絵梨のものだった。


「……絵梨。」


彼女は私の隣に腰掛ける。家へ帰る途中の公園にあるベンチ。1人で帰っていたつもりだったのに、彼女はちゃんと後ろをついてきてくれていたらしい。


静かで、冷たい夜。空気は静寂と共に夜明けを待ちながら凍りついていくようだった。吐く息は白く、それさえもが彼との日々を思い出させる。


冷たい空気を吸うたびに喉が痛かった。空気のにおいを嗅ぐたびに鼻が痛かった。まばたきをする度に、目の奥が痛んだ。


泣きすぎたなぁ、といまさらだけど反省してみる。


葬儀の席であんなに取り乱すつもりなんかなかったし、意地でも涙なんか見せるかって思ってたのに。


でも今は、そんな強い意志なんか微塵も残っていなかった。1度の涙で心はもう折れてしまった。ここには、悲しみしか残っていない。


「絵梨。」


「……どうしたの?」


そっと、息を吐くように呟いた言葉を絵梨は聞いていてくれたらしい。


言葉が勝手に口から出てくるを止めず、ただ絵梨の顔を見ないように膝の上で組んだ手を見つめた。


「……して。」


「え?」


ああ、だめだ。


また、涙が出てくる――――。




「どうして……。どうして、色は死んじゃったのかな。」




どうして色が。どうして、彼みたいにあったかい人が。


私よりも先に死ななきゃいけなかったの。


――――私の宝物だったのに。


私にとってたった1つの……「幸せ」、だったのに。


「色だけだったのに。色だけが、私に幸せをくれたのに……!


私なんかよりもずっと、色はあったかい人なんだよ。優しい人なんだよ。」


私なんかよりもずっと、ずっと……。


色は、生きているべき人だった。


色がいてくれれば、私はもう何もいらなかった。






「――――じゃあどうして、私は生きてるのかな。」






ぽつりと、考えてもいなかった言葉が出た。


その瞬間、大きなパズルの、1つだけずっとわからなかった最後のピースが偶然ぴたっとはまったような衝撃が、頭の中を駆け巡った。


――――どうして、私が……?


「愛!」


膝に置いてあった両手を絵梨に掴まれる。そのまま引っ張られて絵梨と向き合う姿勢になった。


「愛、バカなこと考えちゃだめだよ?愛はまだ生きてる!まだ生きてるの!だからまだ、たくさんやれることがある。


――――色だけじゃ…色だけじゃ、ない……っ!」


ぽたっ。


包まれた両手の甲に雫が落ちる。それはどこまでも透明で、透き通っていて。本当に綺麗な涙だった。


俯いているせいで絵梨の表情は見えない。だけどきっと絵梨は傷ついている。私がバカなことを口走って、絵梨は本気で心配している。


「色には悪いと思う!思ってるよ。だけど、だけど!


愛には幸せになってほしい。色はもういないけど、色はもう幸せにはなれないかもしれないけど……。


それでも私、愛には幸せになってほしいよ。」


絵梨は必死だった。必死に私に語りかけていた。死んではいけないと。幸せになってほしいと。


絵梨だって色のことは友達として大好きだった。その絵梨が「色を捨てろ」と言ったんだ。それがどれほどの想いか、私には痛いほど伝わってくる。


涙でぐちゃぐちゃになった絵梨の顔が、自分の涙で歪んで見える。それでもその顔は綺麗だった。その涙は、何よりも綺麗だった。


私はきっとこんな風に泣けてはいない。この顔はただ無表情で、そこには何の感情も浮かんでいないだろう。こんなに必死に、綺麗に、私は泣けない。


「愛、死なないで、死なないで……。愛までいなくならないで……!」


公園に絵梨の嗚咽が響く。頭の中に、絵梨の必死の声が響く。


風の音も聞こえないほど、静かな夜だった。


彼がいないと、夜はこんなにも静かだった――――。









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『帰ってきなさい。少しくらいならいいでしょう?』

電話でそう言われ、おとなしく帰省を決めたのは私らしくなかったかもしれない。

でも、久しぶりに―――と言っても最後に話したのは色の葬儀だったから、あまり日はたってないんだけど―――おばあちゃんの声を聞いたら、意地とか覚悟とかそういうのはどこかに行ってしまった。

しばらく手をつけていなかったせいで溜まっていた仕事も担当の人がなんとか都合をつけてくれたし、私を抑えつけるものは「私」以外何もない。それなら、少しくらい甘えたいと願ってしまった。




というわけで。

こうして、2泊3日の帰省は決定した。








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チョコレート色の大きな屋根を見上げる。大きさのわりには傾斜の緩いこの屋根に、晴れた日はよく上って眺めた。昼は穏やかに流れる雲を、夜は懸命に輝く星を。



――――懐かしいな。



庭に入ってから何回同じ言葉を心の中で呟いたんだろう。

綺麗に磨かれたタイルの上を歩く。こつこつこつ。その音さえもが、懐かしい。

色と暮らし始めても、1ヶ月に1度は帰ってきていた。だから懐かしいなんて思ったことなかったのに、今は何年かぶりにこの家を訪れたような気分だった。



だけど、この家は何も変わらない。



綺麗に揃えられた庭の花や芝も、ぴかぴかに磨かれたタイルも、おばあちゃんの綺麗好きが少しも衰えていないことを証明していた。


「……懐かしいな。」

心の中ではなく、今度は現実に呟く。

ぴた、と玄関の重い扉の前で立ち止まると、ふとこれまた綺麗に磨かれた表札が目に入った。


『和泉   誠一郎

       秋絵

       愛    』



そこにあったのは、3人の名前。

おじいちゃんとおばあちゃん、

そして、私。

「残しててくれたんだ、私の名前。」



――――愛、いつでも帰ってきなさい。離れてても、ここはあなたの家よ。



引越しの朝、おばあちゃんが私を真っ直ぐに見つめて言ってくれた言葉を思い出す。

想いでも形でも、ここはまだ私の家だった。


涙が流れそうになるのをぐっとこらえる。

ここで泣いちゃいけないと思った。こんなにも私のことを考えてくれる2人の前で、泣いちゃいけないんだと改めて思った。

すうっと息を深く吸う。この辺は郊外だからか、いつも暮らしている街中よりも空気が綺麗な気がした。

それと同時に覚悟を決めてインターホンを押す。


とんとんとんとん……


扉の向こうから小さな足音が聞こえてきた。それはだんだんこっちに近づいてきて、ついにガチャっと鍵の開く重い音がした。

きいっと扉が開く。

そこからでてきた顔はいつものように優しい微笑みを浮かべていて、こっちまで微笑みたくなる。

だけど、なぜかそれがうまくできなくて。思い切り笑ってあげたいのに、また心が折れそうだった。




「おかえり、愛。」



だから、力のない笑顔を見せた。



「――――ただいま、おばあちゃん。」









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日が暮れかけ、おばあちゃんが夕食の準備を始めたころ、朝から釣りに出かけていたおじいちゃんが大きなクーラーボックスを持って帰ってきた。

「ただいま!愛。」

おじいちゃんがにかっと笑う。それは太陽のような笑顔で、一転の曇りもない。

ずっとずっと、この笑顔は変わらないまま。

おじいちゃんは釣りが趣味だった。昔から1ヶ月に1度は必ず釣りに出かけては、たくさんの魚を釣って帰ってきてくれた。それをおばあちゃんが捌いて、その日の夕食にはさまざまな魚料理が並ぶ。それが、いつもの流れだった。

「おかえり、おじいちゃん。」

私も出来る限りの笑顔で答える。そうすると、おじいちゃんはまた口を大きく開けてがはは、と豪快に笑った。

「ばーさん、今日のヤツも料理してくれよー。」

そのままキッチンで料理しているおばあちゃんの元へ、今日の収穫を届けに行った。

リビングとキッチンはカウンターで分けられているだけなので、どちらからも覗けるようになっている。そこから見る2人は相変わらず仲がよさそうで、微笑みあいながら今日の料理について話していた。


――――私も、あんな風になりたいって思ってた。


ずっとずっと、仲がいい2人は私の憧れだった。そんな2人が大好きだった。だから、そうなりたかった。

なれると思ったの。大好きな人と笑い合える、シアワセな日々の住人に。

……なれると、思った。


あわてて首を横に振って、意識を現実に戻す。

深く考えちゃいけない。きっとまた泣いてしまう。だから、私は必死に現実から目を逸らす。

視線をキッチンからつけっ放しにしているテレビの画面に移した。

テレビの中では数人のタレントが楽しそうに笑っていた。時間は7時ちょっとすぎ。ちょうどバラエティ番組の活躍時だ。



「それでね、その男の人がぁ……」


「アキちゃん、それひどいでしょー!」


あはははは……



どうして笑っているんだろうと不意に思った。どうしてこの人たちはこんなにも笑っているんだろう。馬鹿みたいにくだらないことを話しているだけなのに、どうして笑っていられるんだろう。


――――色はもう、どんなことにも笑えないのに。


意識が飛ぶ。視線はテレビから外れ、心はここじゃないどこかへ。飛ぶ、飛ぶ、飛ぶ……

目の前が真っ白になって頭の中に声が飛び交う。そこは痛くて痛くて痛くて、でもどこか懐かしい場所だった。




いないのに。いないのに。いないのに。


どうして笑えるの。彼はもういないのに。


彼は笑えないのに、どうして。






――――どうして私は生きてるの。






泣きじゃくる絵梨と公園で話した時の疑問が、また心に浮かび上がる。

いや、浮かんできたんじゃない。それは絵梨に止められた後にもずっと心の1番見えやすい部分に残っていた。ただ目を逸らそうとしていただけ。


――――どうして彼が。どうして私が。


その問いかけは尽きない。……誰に聞いているのかもわからないまま。

ただ私は訊ね続ける。どうして、どうして、どうして……




どうして私が、生きているのか。






「……愛!」


聞き慣れたおおきな声に、急速に意識が現実に戻ってくる。テレビから流れる誰かが笑うこえ。目の前には、心配そうに私をまっすぐに見つめるおじいちゃんのかお。

「おじい、ちゃん……?」

おじいちゃんの隣にはおばあちゃんもいた。不安げな2人の顔を見比べて、ようやく何が起こっているのかわかった。

「あ……。ごめんね!驚いたよねっ。」

あわてて目元に手を当てる。体温で少し温められた水滴は間違いなく2人の不安の原因だった。

2人はただ辛そうに私の顔を見て、何も言えずにいるみたいだった。私を励ましたいんだけど、なんて言えばいいのかわからない、みたいな。何年もいっしょに住んでるから、顔を見るだけでそれくらいはわかる。

このままじゃだめだ、と思ってソファーから勢いよく立ち上がる。

「ちょっと、顔洗ってくるねっ。」

大股で廊下に出るドアに向かって歩いた。1歩、2歩、3歩、4歩。ドアノブを回して引いてから、廊下に出る前に1言だけつぶやいた。

「ごめんね。」

後ろ手でドアを閉めた瞬間、洗面所に音を立てないように走った。廊下の突き当たりにあるその入り口はそれほど遠くはない。

ドアノブを引っつかんで手前に引き、中に飛び込むようにして入った。

そのままがちゃっと閉めた瞬間、膝に力が入らなくなって崩れ落ちる。ドアを背もたれにして仰ぐように天井を眺めた。

「あ……、う………っ。」

ぽろぽろと、頬を涙が伝う。嗚咽は喉の奥から溢れ出し、だらしなく口から吐き出されていく。

何やっているんだろう、私は。あの2人には心配をかけたくなかったのに。平気なふりをしていたかったのに。

泣くつもりなんかなかった。泣かないでいられる強さも持っていたはずだった。

「やだ……っ、やだ、よお……。」

口は勝手に言葉を紡ぐ。本当の気持ちを現実にしていく。

死んだ彼を想って。生きている自分を呪って。



「……し、き。」



彼はいない。どこにもいない。

わかっているけれど……

それでも呼んでしまうのは、弱さなのかな。









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「お世話になりました!」

楽しかった3日間にぺこりと頭を下げる。穏やかな時間は、本当にあっと言う間に過ぎてしまった。

しばらく休んで仕事もたまっている。絵を描く仕事は他の人に任せることは出来ないし、そろそろ再開しなくちゃいけなかった。

「俺たちも楽しかった。また来いな!」

「そうよ。おじいさんの言うとおり。また来なさい、愛。」

そんな3日間を提供してくれた2人はずっと笑顔を崩さない。―――私の涙を見た後も、崩さないでいてくれる。

2人はいつも笑っていてくれる。昔からずっと。私が落ち込んで帰ってきても、ただ微笑んでくれる。

私にはそれが心地よかった。ただの言葉より、2人の笑顔の方が私は大好きだったんだ。

「――――うん、また仕事が落ち着いたら来るね。」

だから、私も精一杯の笑顔で答える。力の入らない顔の筋肉を必死に動かして。

それなのに。精一杯笑ったのに、2人の笑顔は曇ってしまった。そのまま顔を見合わせて頷き、決心したように私のことをまっすぐに見つめた。

視線が交わり、その間に穏やかな沈黙が流れる。長く、しかし飛び交う想いのわりには短い時間。その沈黙を破ったのはおじいちゃんだった。

「……愛、ちゃんと帰ってくるんだぞ。」

さっきまであんなに幸せそうに笑っていたのに、今のおじいちゃんの瞳には暗い何かが宿っていた。

そしてまた少しの沈黙が流れ、おじいちゃんが重い口を静かに開く。

「俺たちは愛に幸せになってほしい。幸せでいてほしいんだ。ずっと、そう思ってきた。

だから――――そんな、辛そうに笑わないでくれ。」

私たちのあいだを、冷たい風がびゅうっと通り抜ける。

いや、きっと実際は風なんか吹いていないんだろう。これは私の心の吐息。冷たくて、ただ流れるだけのもの。

そして、やっと自分がどんな風に笑っていたのかに気づいた。そしてそれが2人をとても困らせていたことも。

そのまま言葉を止めてしまったおじいちゃんのかわりに、ずっと黙っていたおばあちゃんが遠慮がちに口を開く。

「愛は……愛は、きっとこれから幸せになれるわ。だから、その……」

だけど、その言葉は最後には溢れる涙に呑み込まれてしまっていた。堪えられなくなり、そのまま嗚咽を抑えるように両手で口元を抑えた。

その小さな両手には、おばあちゃんの生きてきた年月を象徴する深い線がいくつも刻まれている。この線の中に、私はどのくらいいるんだろう。

15年という月日は私の生涯のほとんどを占めているけれど、おばあちゃんにとっては一部分でしかない。何本も刻まれたしわの、私はほんの一部分なんだと思う。

その永いようで短い年月の中。おばあちゃんの涙を見るのは、これが初めてだった。

「ここは俺とばーさんと、愛の家だよ。だから――――いつでも、帰ってきていいからな。」

震えるおばあちゃんの肩に手を添えて、おじいちゃんはまた優しく微笑んだ。それは私の大好きな笑顔だった。

「――――うん。」

大好きなのに、私は笑えない。その優しい微笑みに、同じように微笑むことが出来なかった。

だからせめて。せめて言葉だけでも、大切な人を安心させてあげたかった。

「大丈夫。色のことは、もう――――あきらめた、から。」

何に『あきらめた』のかもわからないままに、そんなことをつぶやくように言った。






――――「幸せ」

私はその言葉の本当の意味を、はたしてどれくらい理解しているんだろう。

どうすれば私は、色のいないこの世界で、幸せになることができるんだろう――――









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帰ってきたのは午後8時。それから食事もとらず、ただぼうっとテレビを眺めていたら、いつのまにか時計は0時を回ろうとしていた。

目も覚めているし、どうしても寝る気分にはなれない。

コーヒーでも淹れようかなと思い、よいしょ、と慣れ親しんだソファーから立ち上がった。



――――ピンポーン



テレビの音以外何もなかった部屋の中に冷たいインターホンの音が鳴り響いた。

時間はさっき確認した通り。こんな時間に、いったい誰が?

数秒立ち止まって考えて、たった1つだけ心あたりが思い浮かんだ。



「し、き……?」



それはありえない希望だった。ただ私が心から望んでいるだけの奇跡だった。

――――だけど、もしかしたら。

本当は今までのは悪い夢で、残業で帰り遅くなってしまった色が申し訳なさそうに帰ってきたのかもしれない。いつものように少し目を伏せながら、どうやって謝ろうかと懸命に考えているんだ。

……いや、さすがにそれはありえないってことはわかってる。

それなら幽霊かもしれない。色は優しいから、私が泣いてるのを見て戻ってきてくれたんだ。

彼は死んでる。だけど、別に幽霊だっていい。色がいてくれるなら。色のそばにいられるなら。

短い廊下を駆け抜ける。彼と何度も歩いた廊下を、もう1度彼と歩きたいから。

灰色の扉のドアノブを飛びつくように掴んで回した。そのまま勢いよく扉を引いたけど、鍵に邪魔されてガチャガチャと音を立てるだけだった。


――――早く、早く。


手が震えてなかなか開けられない。3回失敗した後、やっと鍵を回しきった。

思いっきり扉を押す。胸が高く鳴っていた。心に浮かぶのはただ色の名前だけ。



ガチャッ



「愛!遊びにきたよーっ。」

だけどそこにあったのは、絵梨の明るい笑顔だった。




――――そっか。

色はもう、本当にいなくなったんだ。

さっきまでの期待とは裏腹に、ただ確認するように心の中でつぶやいた。




「……愛?」

何も言わずに立ち尽くしている私を不審に思ったのか、絵梨が遠慮がちに顔を覗き込んできた。その不安そうな表情を見てあわてて中に招き入れる。

「入って。何にもないけど……」

「大丈夫っ。お酒買ってきた!今日は飲もうっ。」

そう言って右手に下げたビニール袋を見せびらかすように掲げる絵梨の姿に、思わず小さく微笑む。

だけど、心の中はどうしようもない虚無感に覆われていた。色がいない現実よりも、『あきらめた』とおばあちゃんたちに言ったのにも関わらず、まだありえない奇跡にすがっている自分に吐き気がする。

必死に心の中を悟られないように平静を装いながら絵梨に話しかける。

「どうしたの、急にお酒なんて。嫌いだったじゃん。」

「いーのっ。別に嫌いじゃなくて、ただ大変なことになるから避けてただけだし。今日は飲みたい気分だしっ。」

絵梨はお酒にめっぽう弱い。それなりには飲めるんだけど、酔った後が大変なんだ。まず言動がおかしくなり、次に意味不明な行動をとり始める。本人は覚えてないけど、その行動は伝説として語り(笑い)継がれているので、いつもお酒は極力避けていた。

絵梨はなぜか楽しそうにリビングに入り、ソファーの上にどさっと腰を下ろすと、ビニール袋の中身をテーブルの上に広げ始めた。座らずに後ろからその中身を覗き込んでみると、そこには日本酒の大瓶1本とコンビニ弁当があった。

「ご飯、食べてないの?」

「愛の分だよ。どうせ実家から帰ってきてから食べてないんでしょ?」

実家に帰ることもその期間も、絵梨には電話で話していた。だから今日の夜、突然訪ねてきてくれたんだろう。

ほら、と言ってその弁当に私に差し出す。どうやらチンして来いということらしい。

素直にその箱を受け取ってキッチンに向かった。まあ、遠慮なく私が食べるつもりだし。

キッチンに向かいつつ、絵梨に届かないことを確認してから小さくため息をついた。

レンジに弁当をいれて時間を設定する。少し型の古いオーブンレンジは色が実家から持ってきた物だった。「そろそろ買い換えようか」と2人で話し合ったいつかの温かな午後を思い出す。きっと私はもう、この色の面影を買い換えるなんてできないんだろう。

「愛ー!コップがないよーっ。」

リビングで絵梨が子どものように騒いでいる。まったく。深夜にテンションがこんなに高いなんて、本当に子どもみたいだ。

「はいはい。」

レンジは残り30秒。弁当と一緒にコップを持っていこうと思い、食器棚を開く。お客様用の透明なコップをひとつとってカウンターに置き、次にいつも使っている赤のストライプ柄のコップに手をかけたとき、隣にあった色違いのコップが手に触れた。

その冷たい感触に思わず手を止める。その青色のコップはつい最近まで彼が使っていたものだった。

毎日のようにあのコップを洗った。私のコップといっしょに。洗った後に食器棚におそろいのコップを並べるとき、少しだけ誇らしかった。

そっと赤のコップから手を離し、代わりに青いコップを強く掴む。しばらく使われていないコップには主人を無くした冷たさが宿っているようだった。



チーン



背後でレンジが私を呼ぶ。青いコップと絵梨のコップを親指から中指までの3本の指を使って片手で掴み、そばにあった布巾を右手に当ててレンジから弁当を出した。

「コップ、透明な方使ってー。」

そう言ってテーブルの上に持ってきた品を置き、そのままもう1度キッチンに向かった。箸を持ってくるのを忘れてた。割り箸があのビニール袋の中に入ってるんだろうけど、できるなら自分の箸で食べたい。

「ねえ、愛。」

絵梨がいきなり大人しい声で話しかけてきた。そのテンションの低下に少し驚いたけど、振り向かずに背中を向けたまま「なにー?」と軽く返事をした。

「コップ……青、だったっけ?」

絵梨は何度もこの家に遊びに来ている。だからその疑問は当然と言えば当然だった。

口に溜まっていた唾をバレないように静かに飲む。それからきわめて明るい声で答えた。

「たまには青もいいかなあって。コップなんて、どれ使っても困ることないし。」

そう、困ることはない。

ただこのコップは色のものだから。これを使えばきっと、少しは色に近づけるから。

口の中の空気をすべて吐き出す。そしてそのまま吸い込むのをためらってしまう。

吸う、吐く、吸う、吐く。生きるためには必要な動作。それをやめてしまいたかった。

吐く度にこの部屋の空気は私のモノになっていく。そして吸う度に、色がいたときの空気は無くなってしまう。色の存在が微かに残る空気は私の肺の中で死に、きっといつかはこの部屋から完全に色が「居なく」なってしまうんだろう。

それなら。それならいっそのこと――――息を止めてしまいたい。

肺をつぶして息が出来なくなってそのまま死んだら。そうしたら、色に会える気がする。




『俺たちは愛に幸せになってほしい。幸せでいてほしいんだ。ずっと、そう思ってきた。』




おじいちゃんの悲しげな微笑と、初めて見るおばあちゃんの綺麗な涙。それは突然、走馬灯のように頭の中を駆け抜け、最後に眩暈を残していった。

手に取っていた箸をぎゅっと握る。細い棒はそれだけで折れてしまいそうだけど、片手で折れるわけがない。私は弱くて、弱くて、弱くて……

だから死んでしまいたくなる。大切な人たちが必死に『生きて』と訴えてくれているのにも関わらず。

私は逃げてしまいたくなる。



弱い自分を振り払うために、大きく色の空気を吸い込んだ。胸いっぱいに広がるのは酸素ではなくただの虚無感。だけど、そうして生きていかなければならないことはもうわかっていた。

箸を左手に持ってリビングに戻る。2人掛けのソファーにどかっと腰掛けると、隣に座っている絵梨がすでにコップにお酒をついで一口目をごくりと飲み込んでいた。

「……ペース、速くない?」

持ってきたお酒は決して度数は低くない銘柄。それは絵梨もわかってるはずなのに、一口目からいきなりとばしている。

「いーの!今日は、酔いたいんだから。」

そしてまた二口目に喉を大きく震わす。

それにあきれ、思わずわざとらしくため息をついてみる。

「『ヤケ酒』って言葉知ってる?今の絵梨、まさにそれっぽいよ。」

「うーるーさーいーっ。愛も飲めっ。飲んで飲んで、理性とか我慢とか飛ばしちゃえばいいの!」

そう言って青いコップに酒を注ぎ、ほらっ!と言って私に差し出した。苦笑いしつつそのコップを受け取って、少しだけ飲む。

「愛〜。もっとがばあっといきましょうよー。せっかくの親友との夜ですよ?」

何がおかしいのか、あはは、と絵梨は大きく笑う。それに合わせてなんとなく私も小さく笑った。

そんな時間は嫌いじゃなかった。だからわかった。絵梨は自分が『酔いたい』のではなくて、私を酔わせようとしてくれているんだと。

だから二口目は、絵梨の思惑通り「がばあっと」飲んだ。









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――――それは夢だった。

夢に出てきてしまうほど、私が望んでいることだった。

少しだけ手を伸ばせば届いてしまう「方法」だった。




何も見えない。

いや、見えているんだろう、きっと。だってこんなにも眩しくて、思わず目を逸らしたくなるんだから。

世界に光があるんじゃない。世界が光っていた。だから目を逸らしても意味はない。そこは光であり、光はそこにある。

眩しくてまぶしくて。思わず目蓋が落ちそうになる。

だけど目を閉じたいとは少しも思わなかった。そうすれば何かが見え、何かが見えなくなることは知っているのに。


強い光を見続けると、人間は失明してしまうという話を聞いたことはある。それがただのガセなのかはわからないけれど。

もし本当だとしても、それも悪くないな、と不意に思った。

失明したとしても、この光は目蓋の裏にくっきりと刻まれているような気がした。光は温かかったから、そうなるならそれも悪くない。

この光はこんなにも温かくて――――こんなにも、懐かしい。



――――ああ、そうだ。



その懐かしさに酔いしれながら1歩足を踏み出す。

ここは終わりだった。そしてたぶん始まりだった。私が幸せになるための、幸せな1歩だった。




――――これが、きっと……









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「愛ー。起きてる?」

「……起きてる。」

むくっと上半身を起こす。本当は数分前まで寝てたけど、絵梨も寝ていたからバレてないだろう。

「なんだあ、酔ってないの?」

絵梨も体を起こす。その目蓋はまだ眠たげに半分ほど閉じられていた。

「酔ったよ、十分に。」

飲んだ量にしてはぜんぜん酔っていないけど、それは絵梨も同じだった。いつもならこの半分くらいの量で立派な酔っ払いに変化するのに、今日はここまで持ちこたえた。

自分から聞いたくせに私の言葉には答えずに、絵梨は何かを考えるように膝の上で組んだ自分の両手を見つめていた。

しばらく沈黙が流れる。絵梨は何かを考えているようだった。そしてそれは、きっと私のためなんだろう。

「……愛。」

ぼそっと、独り言のように絵梨は私を呼んだ。

大切な友達。この人と、何度感情を分け合ったんだろう。

絵梨は何に対しても精一杯努力して、誰に対しても全力で向き合った。

強いんだと思う、絵梨は。大切な人を守りたいという強い意志が、その瞳にはいつでも在った。

そう、それは今このときにも。

「前にも言ったけど、私は愛に幸せになってほしい。愛は幸せになるべきだと思ってる。

それから……わがままかもしれないけど、愛の笑顔をずっとそばで見てたいよ。1番の友達として、ずっとずっと。」

絵梨の横顔を見つめる。無表情に淡々と語る口調には、どこか迷いを感じさせられた。これを言ってしまっていいのか、言ったらどうなるか。そんなことを悩んで迷って、そして言葉を紡いでいるように見えた。

だけど、その表情はなぜか微笑んでいるようにも見えた。まるで大切な宝物をそっと見せる子どものように、そっと絵梨は私に話す。大切に大切に、想いがきちんと私に届くように。

「愛は辛いと思う。私や健吾以上に辛いと思う。

だけど、道を見失わないで。愛が幸せになれる道がきっとあると思うから。

その道を、最後まで探してほしいの――――」

声は、小刻みに震えていた。ああ、絵梨は泣いているんだな、と心の隅っこで小さく思った。

「忘れないで。愛がどんな幸せを選んでも、私はずっと応援してる。……友達、なんだから。」

それだけ言葉にして、絵梨はもう1度ソファーに身を横たえた。どうやらもう1度眠るらしい。

絵梨の隣で、私は自分の肩を両手で抱きしめる。逃げてはいけない、と言い聞かせるように。



――――絵梨は、生きてって言ってくれてる。



『生きてほしい』と。あの夜と同じように、絵梨は必死に訴えていた。



――――みんなが私に、生きてほしいと言ってくれている。



きっと、これを幸せと呼ぶのだろう。生を望まれ、死を遠ざけてくれる。そんな優しさに触れられることを『幸せ』と呼ぶんだろう。



――――『幸せ』……?



私の幸せは、一体なんなんだろう。どこにあるんだろう。どこまで行けばいいんだろう。

たった1度だけ手にしたそれは遥かに。今度はいつ、巡り会えるんだろうか。

ぎゅっと指に力をこめる。腕に食い込んで少し痛かった。だけどさらに力をこめる。






『俺たちは愛に幸せになってほしい。』

『愛は、きっとこれから幸せになれるわ。』

『私は愛に幸せになってほしい。』


生きて、生きて、生きて、生きて、生きて……






色だけ、だったのに――――









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扉を開くと、ビルの屋上に見合った強い風がびゅうっと室内に流れ込んできた。

風といっしょに朝の光が私を照らす。それはとても眩しくて、眩しくて。目を閉じてしまいそうになる。だけどやっぱりその光は、不思議と目を閉じたくない温かさを持っていた。

それは、夢で見た光だった。温かくて、優しくて、懐かしい。そんな光だった。



――――でもこれは、夢じゃない。



早朝の風は冷たい。だけど冷たいなんて感覚は数秒で消え去った。

光がとても温かくて。眩しくて。冷たいなんて少しも感じなかった。




――――運命、だったんだと思う。

そう。きっとこうなる運命だった。

色と出会って。色と恋して。色に幸せをもらって……

好きで。大好きで。本当に大好きで。

だけどそれは選ばされたんじゃなくて、いつの間にか自分で選んだ運命。

きっとこれ以上の選択はなかった。自己満足かもしれないけれど、きっとこれ以上の幸せはなかった。



――――だから、どうか許してください。



『生きてほしい』と言ってくれた。

……その声は何にも変えられないものだった。

『幸せになってほしい』と願ってくれた。

……その想いはたしかにこの心に届いた。そして響いた。

私には色だけじゃなかったんだと。こんなにも、大切な人たちの愛情に包まれていたんだと、やっと本当にわかった気がする。


それを捨てる勇気がなかった。

だからずっと迷っていた。




――――だから、どうか





『生きてほしい』

『幸せになってほしい』



でも、私はそれを両方叶えてあげることが出来ない。






――――どうか、許してください。




私の幸せは色だけだった。色だけが、私に幸せをくれた。

だけど、この世界にはもう色はいない。

たった1つの幸せは、もうここには残っていない。

……幸せになりたいの。もっともっと。

色がくれた幸せを私は知ってしまったから。



あんなにも愛しくて儚い想い出を抱いて、これ以上生きてはいられない。




――――許して、ください。




すべて抱きしめていこうと思うの。

大切な人の言葉も、想いも、えがおも、ぜんぶ。

捨てることは出来ないから、全部抱きしめていこうと思うんだ。

そうすればきっとまた幸せになれると思う。

もう1度、色に出会えると思う。



だから、どうか。どうか――――

「許して、ね。」



光の中へ1歩踏み出す。

廃墟となっている古いこのビルは、屋上に鍵もかけていなければフェンスも低い。だから朝焼けが綺麗に見れることは知っていた。

また1歩踏み出す。

頭に浮かぶのは大好きな人たちの顔。言葉。表情。

大切なたいせつな、たからもの。

そう、私は決して不幸せなんかじゃなかった。



フェンスによじ登り、向こう側にたどり着く。

もう1歩踏み出せばきっとこんなに綺麗な朝焼けに溶けることができる。

そう思ったとき、不意にあの歌が耳に響いた。



――――生まれ変わっても、また出逢えますように。



きっと出会えるよ、私たちは。

色だけじゃない。お父さんにもお母さんにも、おじいちゃんにもおばあちゃんにも、絵梨にも健吾にも、色にも。

きっと、きっとまた会える。

それを信じて、私はいくから。



もう1度だけ後ろを振り向いた。そこには誰も居ないけれど、別れの挨拶くらいは言おうと思う。

大切な人だけじゃなくて、この世界のすべてに。今の私をつくってくれた、この世界に。

私は決して、不幸せではなかったから。

「だから少しだけ――――さよなら、ね。」

自然に微笑みがこぼれる。こんなに自然に笑えたのはいつ以来だろう。




さようなら。

さようなら。

さようなら。





――――きっとまた、会えるから。








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溶け込んだ朝焼けは眩しい。そして温かい。やっぱりここは懐かしい場所だった。

――――ああ、なんだ。懐かしいなあって思ってたら。





「また、会えたね。」

私が微笑む。幸せだった、あの時のように。

彼も微笑む。それが愛しくて愛しくて、思わず抱きしめたくなった。





さあ、幸せになろう。

きっとまた会えるその時まで――――








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