芹を摘む
「胸がチクチクする」
とキヨちゃんが言った。
「どんなふうに?」
と私が聞くが、どんなふうにと言われてもなぁ、と笑った後で、
「チクチクは、チクチクとしか、言いようが」
と、眠そうに小声で言って寝そべった。
私は言葉をまさぐり、自分の中でチクチクをうまく言い換えられる何かを探したが、袋の中に手を突っ込んで何にも触れられないような感覚を味わって、そこで考えるのを止した。
キヨちゃんは時々、わけのわからないことを言う。わけのわからないことを言った後で、その言葉の意味を自分で探し始めるようだ。だから、何かわけのわからないことを言ったような後のキヨちゃんは、思案しているような、思案することを半ばあきらめてしまったかのような、不明瞭な顔をする。
その顔がいじらしく、はかなく、私はそれが好きだった。
透き通るような青空の下で、芝生というか雑草の上に寝そべっていたキヨちゃんは、何らかの水気を感じたらしく、急に、
「雨?」
とつぶやいて起き上がった。何言ってるの、雲ひとつないじゃない、と私がたしなめると、キヨちゃんは、ほんとだ、と言った後で、いじらしい、はかない顔をした。
ダイエットコーラの口を開けて、一口かんたんに喉に流して、キヨちゃんは、
「ダイエット派? スタンダード派?」
と聞く。
「え?」
「ダイエットコーラと普通のコーラ、どっちが好き?」
「ああ、そういうことか。んー、スタンダード」
「だよね。ダイエットよりスタンダードだよね」
「まあ、どっちでもいいと言えばいいんだけど」
キヨちゃんはどうも答えに関心がなさそうで、再び質問をする。
「じゃあ、さ、どんな小説が好き?」
「うーん。小説、読まないから。わかんない。漱石は『こころ』しか読んだことないし、鴎外は『舞姫』だけだし、芥川は『羅生門』だけ」
「つまり、教科書でしか読んでないってことだね」
キヨちゃんは笑う。その通りなので、反論はしない。
「漱石なら『文鳥』がいいよ。鴎外だったら『雁』、芥川なら『蜜柑』、それかピアノのやつ」
聞いたこともない、と私が言うと、漱石のと芥川のとは短編だからすぐだよ、と言って、キヨちゃんはまた寝そべった。
太宰は?と聞こうとして止した。でもキヨちゃんは、
「太宰も、短編がいいよ。『メリイクリスマス』とか、いいよ」
と目をつむりながら言った。
その日があたっている横顔を見ていると、私の胸がチクチクとした。
「芹を摘むって知ってる?」
と、いきなりキヨちゃんがこっちを向いた。
「セリ?」
「うん」
「芹は知ってるけど、言ってる意味がよくわかんない」
「じゃ、いいや」
「何それ?」
「いや、ほんと、いいや」
ずるい、と私は思ったけれど、こういう展開でキヨちゃんがタネを明かしてくれることはほとんどない。私はあきらめて、じゃ、いいや、と同じようなセリフを発して寝転がった。
なんて青い空。そこへ飛行機が飛ぶ。視界の端のほうを横切っていって、青い画用紙に白いクレヨンでぐいっと線を引いていくように、雲ができあがる。
「飛行機雲だよ、って、ねえ」
と私が言うと、キヨちゃんは、わたあめみたい、でもないか、と言ってまた目をつむる。
「昔ね」
とキヨちゃんが言う。うん、と私が聞く。
「昔、芹が好きな皇后様がいたんだって」
「うん」
「庭掃除の男が、その人を好きになってしまった」
「うん」
「で、皇后様のために芹を摘んで、毎日のようにそれを捧げたんだけど、結局は思いが通じなかったんだって」
「ふーん。悲しい話だね」
「まあ、悲しい、のかな。うん。それでね、見通しは暗くてもがんばることとか、逆に、思い通りにならないこととかを、【芹を摘む】って言うんだって。恋慕うことを【芹を摘む】って言うこともあるんだって」
ふーん、と相槌を打ちながら、また胸がチクチクとする。好きな人の好きなものがわかっていたら、誰だって同じことをするだろう。私だってするだろう。芹を摘むくらい、なんてことない。そんながんばりは苦にならない。
キヨちゃんは呑気に続ける。
「何となく 芹と聞くこそ あわれなれ 摘みけん人の 心知られて」
「何それ?」
「西行の歌だよ。芹って聞くと、摘んでいた人の心がわかって、しみじみとするっていうような意味らしいね。西行も、偉い女性に思いを寄せてたらしいしね」
「ふーん」
私の気の抜けたような返事を、ぼんやりした表情で聞いた後、キヨちゃんは、バイトの時間だ、と言って立ち上がり、裾についた雑草を払い落とした。キヨちゃんは何が言いたかったのかわからなかったが、それはいつものことなので、私は別段気にしなかった。ただ、その何を考えているのかちょっとわかりがたい、いじらしく、はかない横顔をもう少し見ていたかったのだが。
アパートに帰ると、郵便受けにスーパーの袋が入っていた。ガサガサと包みを開けると、中には芹が入っていた。
私はそれをガリッとかじり、
「別に偉くないって」
とつぶやいて、口の中の苦さをかみしめる。
生だからか、芹は別段おいしいものではなかったが、私はもう一回それをガリッとかじった。
この味を、まさに、と表現する言葉は思いつかなかった。
ただ、生々しい苦味が身に染みて、私はもう一度胸がチクチクした。