揺れるチャコールグレー
「女性でありながら手に職をつけることを、みっともないとは思わない」
それが、ルーザがグレイに救われた瞬間だった。
ルーザの家は消して裕福ではない。むしろ貧乏だ。
父が一応爵位を持ってはいるが、貴族らしい生活を生まれてこの方したことがない。それに不満だったかと言えば、不満だった。爵位を持ちながらも平民と変わらず仕事をしている家族を見ると、うちは一体なんなんだろうと思った。
そんなルーザがやろうと思った仕事は庭の手入れだった。畑に植えた野菜の世話を考えれば特別難しくないように思えたからだ。花や植物は好きだし、それらが庭に綺麗に植えられていくのも、嫌いじゃない。
そんなルーザは幸運にもいい師に出会い、庭師としての腕も磨ける環境ができあがった。そして、そんないい師に付いて見習いとして王城での仕事を任されることになったのは、人生で一番の幸運に違いない。
もちろん城で働くことは名誉なことだと知っているが、それ以上にルーザの心を高鳴らせたのは、上流貴族との出会いがあると思ったからだ。
しかし、城仕えの侍女は皆貴族。働いているルーザを馬鹿にする者は少なくなかった。
「女なのに土塗れになって働いているなんて、みっともないわ」
「そうまでして王城に入りたかったのかしら」
「でも、どんな紳士が土塗れの女に目をむけるというの」
そんな声は毎日届いた。同僚のピアンタがそんな彼女たちに花を配っては注意を逸らしてくれたが、ピアンタの評価が上がるだけでルーザにプラスはない。ルーザが同じことをやれば「媚を売っている」とまた影口を叩かれるだけなので、無視をするしかない。
黙々と働くルーザをどこからか見ていて、「女性でありながら手に職をつけることを、みっともないとは思わない」と声をかけてくれたのがグレイ王太子殿下だ。
その時はただただ嬉しいと思った。自分の存在を否定されないことがこんなに嬉しいものなのだと、ルーザは初めて知った気がした。
それから、グレイは普通に声をかけてくれるようになる。最初こそ遠慮していたが段々それにも慣れた頃に、侍女たちが「あんな身分の女を、殿下が気にかけるだなんて!」と嘆いていたのが聞こえた。
「もし私が、グレイ殿下の寵愛を受ければ……」
あの失礼極まりない、人を見下して噂話を楽しむ侍女たちを見返すことが出来る。
後から考えれば、これが引き金だったように思う。
ルーザは様々な話をし、グレイと打ち解けてみせた。悔しさで歪む侍女たちの顔を楽しみにしながら。
ルーザは初め、あの侍女たちに対する黒い気持ちが大きかった。しかしグレイの優しさに触れ、もっとグレイと一緒にいたいと思うようになっていた。純粋に、とは言い難いが、グレイに恋をしていた。彼も口には出さないが、ルーザのことは侍女たちよりも気にかけていた。
――きっと今、私は幸せなんだ。
ルーザはあの侍女たちのことを忘れそうな程、グレイを慕っていた。
だというのに、まさかこんな未来が待ち受けていようとは、考えたこともなかった。
「け、結婚……」
「ああ。私は隣国の姫君と結婚する事になった」
そんな、と大声をあげたい。どうして、と問いただしたい。でも分かっている。彼は王太子。自分は庭師見習い。相手は和平条約を結ぶ国の姫。勝てるところなどない。
本当は泣いて縋ってしまいたい。交際していたわけでもない女がそんなことをすることは出来ないし、ましてや目の前に立つは王太子殿下。
彼は優しいのだと思う。政略結婚なんだから、自分の意思はないはず。ルーザのことなんて放って置けばいい。わざわざ報告に来なくても、許される間柄なのに。
「今まで世話になった、ルーザ」
「グレイ、殿下……」
「ありがとう」
感謝の言葉であるそれが決別の言葉だと直感したルーザは、身を引くつもりだった。
数日後、また侍女たちの影口を聞くまでは。
「グレイ殿下、ご結婚なさるのね」
「相手は大国の姫君よ。それも大層美しいと噂の。あの土塗れの女は用済みね」
「いつまで城にいるのかしら」
「あの方は、今後どういう顔で城内を歩くのかしらね」
「楽しみだわ。早く会いたいわ、ルーザ様に」
クスクスと漏れる笑い声に、消えたと思っていた黒い気持ちが膨れ上がる。消えるどころか、制御できないほど大きくなるそれは、ルーザの心をドス黒く埋め尽くした。
どうして私がこんなことを言われなきゃいけない?
グレイ殿下に見向きもされなかったあの女共に。
どうして私の家はあんなに貧乏なの?
裕福だったら庭師になろうなんて思わなかったのに。
なんでグレイ殿下は結婚するの?
私のことが好きだと、あんなに目で訴えておきながら。
どうしてその姫君は、グレイ殿下と結婚するの?
身分も美貌も持っておきながら、どれだけ持っていこうというの。
どうしてグレイ殿下は、あれから会ってくれないの?
ルーザには何も勝てるところがない。
手に豆を作って、土に塗れて、影口を言われて働いて。身だしなみを整えても汚い手は変えられない。家は名前だけの爵位で、滲み出る気品はない。
――いや、勝てるものがひとつだけあった。
それは、グレイを好きだということだけ。
相手は政略結婚。身分も美貌も、愛がない。グレイも、もしかしたら姫君もそこに気持ちはないだろう。
だったら、グレイに捧げられる「愛」が、ルーザが唯一勝てるものなのでは。
そうすれば、またあの侍女たちのあの顔が見られる。
ルーザのグレイに対する「愛」が、歪んで別の何かになっていたことには誰も気付かない。
だからグレイに会えないことに焦れて、ノワールに「グレイは渡しません」等と言ってしまった。それを見逃すほど彼女は甘くない。
*****
ピアンタは寝台に横たわるルーザを見つめた。
眠る彼女には濃い隈があり、頬はやつれている。どれほど宥めても食事をほとんど口にしない彼女。そんな彼女の首に巻かれた見えない縄は、いつ解かれるんだろう。
分かっている。ピアンタの想像も超えるほど、ルーザは追い詰められていたに違いないことは。
彼女を侮辱していたあの侍女たちは、特にお咎めもなく何人かが結婚し、何人かはまだ侍女として王城にいる。そう、彼女たちを咎める「何か」はない。
仮にあの侍女たちがいなくても、ただでさえ女性が働くことを「みっともない」と言う貴族社会だ。彼女に向けられる言葉の矢は、剣は、いくつ刺さることになるんだろう。
――しかし。
ピアンタは濃灰色の瞳をぎゅっと瞑り、ルーザの部屋を後にした。
眠る彼女に、一言だけ残して。
「ルーザ、最後に縄をきつく縛ったのは君自身なんだよ」