突然の死
「くううっ……。んんんーっ……! はぁ……」
普段喫煙スペースとなっているベランダに出て、夕日を浴びつつ独り背伸びをしながら、俺は久々の充実感に満たされていた。ただ、これからのことを考えるとストレスも増えそうだなと項垂れもした。
その理由は、この半年間小さなプロジェクトで成果を積み重ねてきた結果、運良くおよそ十億円を超えるという、社内でも数少ない大型のプロジェクト(当社比)を二ヶ月ほど前に受注できたからだ。
「これで次のボーナスは期待できるかなぁ……?」
そんなことをつぶやきながらタバコを燻らす。
いつもなら数少ない喫煙仲間の誰かしらが居るのだが、今日はたまたまなのか、それとも、そろそろ冬の訪れを感じる季節となり、ベランダで煙草を吸うには肌寒さを感じるせいか、珍しく俺一人だった。
俺は所謂就職氷河期を乗り越えて、そこそこ名の知れたIT企業の子会社(といってもメーカーではなく下請、格好良く言うとディベロッパーだ)に就職し、気が付いたら既に十数年が経っていた。
そして、社歴的には部内でも中堅どころだったことと合わせて、今回の大型のプロジェクトの受注によって、先月の人事により、運が良いのか悪いのか、係長という名の「中間管理職」の仲間入りを果たしてしまったのだ。
正直、開発の現場が長かったこともあって、管理職の職務については一月ほど経った今でも慣れないというか、分からないことが多過ぎて周りに頼ってばかりだ。
「こんなことなら、昇進なんてしなければ良かったかもなぁ……」
とはいえ、昇進とともに受注に成功してしまったプロジェクトの責任者にまで抜擢されてしまったのだから、もはや後戻りはできそうにない。
因みに、先日三十七歳になったばかりだが、健康診断の結果も毎年悪くなる一方で、最近は不惑の年頃に近づいていることを日々この身に感じているところだ。
入社してからこれまで仕事については可もなく不可もなく、できる限り波風が立たないように働いてきたのだが、たまたま大きな仕事の受注に何故か成功してしまった。
その結果、今や「中間」とはいえ管理職になってしまうのだから、人生とは本当に分からないものだ。まぁ、今のままではいつ平社員に戻っても不思議ではないのだけれど……。
私生活はといえば未だに独り身で、結婚なんて言葉とは全く縁がなく、彼女などという存在もいない。独り気ままな独身貴族というわけだ。……貴族というほど裕福でもないが。
それでも、休日は気に入った一眼レフで写真撮影をしたり、珍しいガジェットを集めたり、ゲームやアニメを嗜むといった趣味もあってか、それなりに人生を楽しんでいるつもりだ。
ともかく、受注できてしまったプロジェクトの今後の進め方を考えなければならないのだが、人事からは来年の新卒採用についてメールが届いていたのでそろそろ検討を始めなければならないし、毎月のスタッフとの個人面談も予定を組まなければならない。それに加えて自分の目標管理と、スタッフの目標管理の設定も話を進めないといけない。月末月初に向けて派遣会社や外注先の処理もしないと……。
プロジェクトの業務だけでも忙しいというのに、そこに管理業務が追加されるなんて……。全く、中間管理職に昇進することで僅かな役職手当が貰えるというメリットよりも、業務の範囲が広がって責任が重くなるデメリットのほうが大きいんじゃないか? だいたい、残業手当も付かなくなるんだぞ?
「はぁ」とため息が漏れる。そのままネガティブな思考に陥りそうになった、その時。
「ここにいたのね。お疲れ様! それで、受注した大型案件の状況はどんな感じなのか教えてくれる?」
ガララッとドアを開けてベランダに顔を出したのは、俺の直属の上司である槇原課長だった。なに、その手を組んだお願いポーズ!? と思ったが、そういえば、うちの部署を担当する執行役員に報告を上げる時期が近かったことを思い出す。
「お疲れ様です、課長。今のところはオンスケで進行できてますし、コスト面も現状は想定内です。クライアントからも無茶な要望は出てませんからご心配なく。それよりも、次のボーナス期待してますよ、課長!」
「詳しくは後で聞かせてもらうとして、残念だけど、次のボーナスは下期の業績で決まってくるからねぇ。今期は朝比奈君のおかげで売上は目標達成できそうだから、次の次のボーナスに期待してよねぇ」
「やっぱ、そうですよねぇ……」
上司だけれど、うちの部署のお父さん的なポジションである槇原課長はフランクな性格もあってか周りのスタッフからの信頼も厚く、また気軽に話せる人柄だった。だからか、ついこちらも砕けた感じで話してしまう。
「まぁ、大事なのは売上よりも利益だからね。引き続きよろしく頼むよ」
「ですよねぇ……。もちろん、理解してますよ」
そんなやり取りをしていたら。
「先輩、今夜飲みに行きましょうよ!」
突然の声に驚いて振り向くと、いつの間にか後輩の村上がベランダにやってきた。
こいつは俺の受け持つプロジェクトでリードプログラマーを張れる実力があって、少しチャラいところがあるけれど人柄もよく、周りからも信頼されている。もちろん、俺も信頼している部下の一人だ。
そして、今回受注したプロジェクトでも中心となるスタッフの一人でもある。
村上はすっとスーツの内ポケットから煙草を取り出すと、器用に一本口に咥えて火を付け、白い煙を吐き出して無邪気な笑みを向けてきた。
「いやぁ。先輩が見積交渉を頑張ってた大きなプロジェクト、時間が掛かりましたけど無事受注まで漕ぎ着けたって言うじゃないっスか! だったら、祝杯上げに行きましょうよ、祝杯! もちろん、課長のおごりで!」
「はぁ、お前なぁ……。よし、行くか! 課長のおごりで!」
つい俺も村上につられて笑みが溢れる。こいつの軽いノリで放たれた言葉のおかげか、俺の中にモヤモヤと漂っていたドヨンとしたネガティブな思考がどこか遠くへと吹っ飛んでいった。
そんなところも見込んで、今回のプロジェクトにアサインしたのだが、思いのほか早くその成果を見たような気がする。
「ちょっと、飲みに行くのはいいけど、おごりじゃないからね! 少しは多めに出してもいいけど……」
「じゃ、定時後に玄関前集合ということで、よろしくッス!」
「おう、そうするか!」
そんな予定を立てたことがフラグだったのか……。
定時直前になって、緊急対応が必要な仕事が急に舞い込んできた。そういうことが起こることは少しも不思議ではないのがこの業界ではあるのだが、これは確実に村上が立てたフラグだろう。
「あぁ、こりゃあ確実に待ち合わせに遅れるなぁ……」
クライアントからの問い合わせに対して、回答を仕様書を見ながらチャットツールにまとめる。おっと、その合間にスマホで課長と村上に連絡しておかないと。
『緊急対応が入ったので後で合流しますー(´・ω・`)』
『了解、対応頑張ってください』
『乙です! 課長と先に行ってます(`・ω・´)ゝ 場所はいつもの焼き鳥屋ッス!』
『あいよー!』
暫くしてようやく緊急の対応が終わり、会社を出ることができた。
既に夕日は西の地平線の奥底へと沈み、空には都会のネオンにかき消されながらも僅かに見える幾つかの星が瞬き、半分に欠けた上弦の月が輝いていた。
「こりゃ、ちょっと急がないとなぁ。あんまり遅くなると村上から電話が掛かってきそうだし。あいつ、チャラい癖に時間にはうるさいからなぁ……」
この年齢になると日頃の運動不足も祟ってか、少しの運動でもすぐに息が上がるし、膝にも余計な負担が掛かる。そんなことを気にしつつも、少々急ぎ目に駅前の繁華街方面へと向かう。
スマホには、先ほどから引っ切り無しにチャットアプリの通知が届き、『せんぱ~い!』とか『今どのあたりなんですか~?』などという村上の催促が連続して流れてきている。
その合間に槙原課長からの『そこまで急がなくても大丈夫よ』という連絡が届くが、すぐに村上の『はやくはやく~!』などという他愛のない内容のメッセージが次々と届くせいで、すぐに画面の外へと追いやられてしまう。
それにしても、これ村上はもう酔っ払ってるんじゃないか? というか、出来上がるのが早すぎないか? 一体何頼んで飲んだんだよ!?
「はぁ……。こりゃ、そのうち電話が掛かってきそうだなぁ」
そんなことを口にしながら商業施設のビルを見上げる人だかりを横目に掻き分けて進んで行くと、予想通り、着信を示すバイブレーションがスマホを持つ左の掌に伝わってくる。
「はいはい、もしもし?」
『あー、先輩ぃー? 今どのへんなんスかー?』
「あぁ、もうすぐスクランブル交差点だから、あと五分くらいで着くと思うわ」
『もうこっちは始めちゃってるんですからねー! 先輩、急いでくださいねー!』
「分かった分かった、もうすぐだから」
「「「キャーーーーーーーーーーッ!!!」」」
「そこの君、危ないぞっ! 早くそこから退くんだっ!」
「うん?」
突如周りの人だかりから発せられる悲鳴、そして怒号。思わず、声のする方向を見るが、そこには何もない。
『ちょっと、先輩、今の声なんスかー!?』
だが、声を上げた彼らの視線を追うと、真っ直ぐに俺に向かって落ちてくる人影が見えた。その瞬間……。
ゴギィッ!
突然、強い衝撃を頭部に受けた。
痛いっ!
そう思った瞬間に、痛みはどこかへと消えていった。それと同時に身体中の全ての感覚が急速に鈍っていくような、奇妙な感覚に襲われる。
一体何が起こった!?
先ほどまで見ていたはずの目の前の景色が、次第に傾き始め、そして瞬く間に地面へと吸い寄せられる。まるで、頭から地面にぶつかるような景色がスローモーションの映像が再生されるように。だが、その映像は地面にぶつかる直前でぷつりと途切れた。
何も見えない。
何も聞こえない。
何も感じない。
「……」
声を出すこともできない。
『先輩、なんかあったんスかー?』
遠くに村上の声が聞こえたような気もしたが、気のせいかもしれない。
「…………」
俺は深く眠りにつくかのように意識が遠くなるのを感じた。そうして、すべてを感じることがなくなったその時、突然、白く眩い輝きを放つ、暖かな光の渦に包まれたような気がした。
そして、二度とその身体に意識は戻らなかった。
あぁ、どうやらそういうことらしい。
俺、朝比奈晴人は、今この瞬間をもって人生の幕を閉じることになったのだ。
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