094 アルカ山麓の戦い② 出陣
「お嬢様、ここはどうでしょうか」
アウスは優しく囁きながら、手にしたそれでマリエールの中を優しく擦る。
「あっ、そこはダメだ……っ! そんなところ、引っ掻いたらぁ……っ! んっ……!」
「では、こうしたら気持ちいいですか?」
彼女に挿入したそれを、さらに奥深くへ。
「だめぇっ! 深いのぉ……っ」
「ふふっ、お嬢様、可愛いですわ」
自分の体の奥深くをかき乱される感覚に、マリエールは身悶えした。
やがてアウスは手にしたそれを引き抜き、その先にこんもりと溜まった耳垢を愛おしげに眺める。
「ああ、お嬢様の耳垢。砂金よりもプラチナよりも輝いて見えますわぁ。じゅるり」
「やめろ。それを舐めたり吸ったりしたら、すぐさま暇を申しつけるぞ」
「あら、心外ですわ。さすがのわたくしも、そこまで変態ではありませんわ。……チッ」
「うむ、舌打ちは聞こえておるからな」
耳掃除を終え、アウスの柔らか膝枕から身を起こしたマリエール。
城内に漂う不穏な空気を察し、彼女は首をかしげる。
「はて、先ほどから妙に騒がしいな。廊下をひっきりなしに伝令兵が駆けまわっているようだが」
「不穏な感じが致しますね。ぺろっ。少し様子を見て来ますわ」
「任せたぞ、アウス。あとお主、今何を舐めた」
何故かホクホク顔で偵察へと向かうアウス。
彼女が廊下に出るよりも先に、ドアが乱暴にノックされる。
「魔王様、いらっしゃいますか! 一大事に、一大事に御座います!」
「な、なんだ騒々しい。アウスよ、通せ」
「仰せのままに」
アウスがドアノブを回すと、転がり込むように伝令兵が部屋に飛び込み、マリエールの前に跪いた。
「どうした、何があったのだ」
「王都南方、アルカ山麓にて多数のモンスターが出現!」
「なん、だと……!? ナイトメア・ホースが来たということか!」
伝令兵からもたらされた情報に、マリエールは目の色を変えてその場から立ち上がった。
「王都の全兵力にてこれを迎撃せよと、王からのお達しに御座います。シャイトス殿のお力も是非、お借りしたく……」
「話は聞かせて貰いました」
開け放たれていた扉から現れたのは、鎧に身を包んだ歴戦の老将、シャイトス。
彼の居室はこの部屋の隣。
伝令がドアを開け放ったままであったため、彼の耳にもその声が届いていたようだ。
「この老骨にもようやく出番が回ってきたようですな。魔王様、某に出陣の御下知を」
「うむ。シャイトスよ、そなたに命ず。アーカリア軍と協力し、兵を率いて敵の撃破にあたれ」
「確かに拝命しました。あとは某にお任せあれ」
命令を受けたシャイトスは、急ぎ兵舎へと向かう。
「では、自分もこれにて」
役目を終えた伝令も足早にその場を立ち去り、部屋には再び静けさが戻った。
「……アウス、お主はどう思う」
「どう、とは?」
「来ておるのは、果たしてナイトメア・ホースだけか、ということだ。サイリンが捕らえられた時点で、兄上はこちらに正体が知られたと気付いておるはず。以前の王都襲撃時と違い、その正体を隠す必要はない」
「ルキウスは、自分の手で決着をつけたがっている、そのために自ら戦場に出向いてきている。お嬢様はそう読んでいるのですわね」
アウスの問いに、マリエールは首を縦に振る。
「余はホースに対するセリムのように、過敏に気配を感じ取ることは出来ぬ。兄はおろか、二キロ先にいるというモンスターの大群の気配すら感じない。それでも妙な確信があるのだ。兄上は、そこに来ていると」
「……行きたいのですか?」
「お主は止めるのだろう、アウスよ。当然であろうな。危険な前線に戦闘能力を持たぬ今の余が出向くなど、あってはならぬこと」
「いいえ、止めませぬ」
無理を承知で、それでも頼み込む覚悟だったのだが、アウスは止めないとはっきりした口調で答えた。
その返答は、マリエールにとって全くの予想外。
このような無謀な行いは、当然諌められるものだと思っていたのだが。
「止めぬ、のか……?」
「少々離れた場所から様子を窺うだけならば、大した危険は無いでしょう。もしも流れ弾が飛んできても、わたくしが絶対にお守りしますわ。それでルキウスがいなければ良し。もしも居たのならば——」
「もちろん、会いにいく」
「でしょうね。お嬢様がここまで我を通すなど滅多にありません。ここでわたくしがすべきは、お諌めすることよりもお嬢様を守り抜く覚悟を決めること」
マリエールの手を取り、彼女の前に傅いてその手の甲に唇を落とす。
「お嬢様、貴女様の命はこのアウスがお守りします」
「……すまぬな。このような我がままに付き合わせてしまって」
「いえいえ、この分はきっちりと身体で支払って貰いますから」
とびっきりの笑顔を見せてくれたメイド。
高く付きそうな対価に、マリエールは若干の後悔を抱くのだった。
○○○
一時間後、午前十一時。
わずかな備えを王都に残し、アーカリア王国の軍勢は南へと出陣した。
中央、王城騎士団百名が中核を成し、軍勢の大部分を三十人編成の衛兵隊九十九組が占める。
左翼端にはローザたちを含む冒険者の有志が助っ人として参加、その数は約百人にのぼる。
右翼に備えるはアイワムズから援軍として参じた老将、シャイトスとその手勢百。
全軍の指揮を任されたのはクリスティアナ。
彼女は怖気づいたジャローマルクから直々に騎士団長代理を任され、采配を握る。
アルカ山麓へと進むアーカリア軍、総勢3200。
レベルの概念によって単騎の力が重視されるこの世界において、破格の大軍勢だ。
その右翼側、シャイトスの部隊と隣り合うのは新設されたばかりの姫騎士団。
彼女たちの主人である第三王女リースは白い軍馬に騎乗し、その先頭をゆっくりと進む。
「うっすらと見えてきたな、クロエ。あのモンスターの群れ、どう思うよ」
リースの背後、鹿毛の馬に騎乗したブリジットが、傍らを歩くクロエに声をかけた。
「あー、ゾッとしないね。なんだよ、セリムが殴り殺したあのドラゴンがいるじゃん。しかも二匹。いくらローザさんたちが当時よりレベルアップしてるからって、ホントに勝てるの?」
視界の果てに霞んで見える二体の巨竜の影。
元気よく宙を舞う姿に、クロエはうんざりとした様子で答える。
「あはは、それは禁句だぜ。士気が下がっちまわぁ」
「じゃあ聞かないでよ」
「なんだよ、ノリ悪りぃな。緊張してんのか? もっとリラックスしろー」
「緊張してるって言うか……」
参戦を表明して以来、黄色い髪の副団長殿から熱烈な視線を送られ続けて、さすがのクロエも嫌気がさしていた。
常に自分の背中をまじまじと見つめられながら、「あっ、これ尊い」「やっぱりそういう……」などの小声が時々聞こえてくるのだ、無理もない。
「なんとかしてよ、ブリ団長。あんたの騎士団の副団長こそ、緊張感が欠片もないよ」
「いやな、実際俺も驚いてるんだぜ。お前がそのドリルランス担いで、鉄の胸当てなんか装備して、自分も参戦するだなんて言い出すんだもんよ。しかも姫殿下、それを了承しちまうし」
「まあ、それはね。驚かせちゃってごめん。ただ、いてもたってもいられなくってさ」
騎士団の先頭を進むリース。
鞍上での後ろ姿は威風堂々、王族としての誇りと自信に満ち、内心の心細さなど周囲には微塵も感じさせない。
「彼女の力になりたかった。ただそれだけさ」
「あっ、あっ、あっ! もう無理、ちょっとこれヤバ……!」
後ろから聞こえる妙な声は意識から外す。
「はぁ〜、結局それか。そうだよな、愛する姫様のために、か」
「何だよ、なんか文句ある? あと、愛するとかそういうんじゃないから」
「つまりよ、俺らと同じじゃねえか」
白い歯を見せ、ブリジットはニコリと笑った。
「同じ?」
「そう、俺ら全員姫殿下が大好きなのさ。彼女のためなら命を投げ出してもいい、そんな覚悟を持ってるんだ。実際、ついさっき誓ったばかりだしな。あの方に剣も命も捧げるって」
「……そっか、力になりたい。ブリジットたちもボクと同じなんだ」
首をかしげていたクロエは、納得がいったように頷いてみせる。
しかし、リースのためを思うのなら、今の言葉にはいただけない部分がある。
「でもさ、無暗に命を投げ出さないでよ。そうなった場合、リースはきっと自分を責めちゃうから」
「心配すんな。俺らだって自分から命を投げ出しゃしねぇよ。物の例えだ、そんくらい本気だってことさ」
「……ならいいけどさ」
三十人分の命の重みを背負って戦場へと赴くリースの背中を見つめ、クロエは歩く。
彼女を支えてくれる人は、こんなにも沢山いる。
王都にも、彼女を慕う民は大勢いる。
たとえ彼女の心が折れる時が来たとしても、支えになってくれる人はいくらでもいるはずだ。
「ボクなんかの出る幕、あるのかな。ホントにボク、あの娘の力になってあげられてるのかな……」
リースは確かに、自分を親友だと言ってくれている、特別な存在として扱ってくれている。
それはどの程度の特別なのだろう。
彼女を慕う大勢の人たちの中から、この世界でたった一人だけの特別になれるのだろうか。
そもそも、どうやってその特別に収まるというのか。
収まったとして、その後どうするのか。
貴族と結ばれた平民なら稀にいるが、王族と平民が結ばれたなど聞いたこともない。
リースは絶対に、王族という立場を捨てない、どんな理由があろうと逃げ出さない。
なら自分に残された道は、この恋を諦めることだけなのでは——。
「いけないいけない! 今は戦いに向かう最中なんだから! 集中しないと、死んじゃったらその先も無いからね」
ブンブンと何度も何度も首を横に振り、ネガティブな考えを吹き飛ばす。
両頬をパチンパチンと叩き、気合を入れ直した。
「ど、どうした、クロエ。突然そんな……」
「気合を入れただけ! ブリ団長にも気合注入してあげようか」
「お、おう、遠慮しとくぜ……」
○○○
アルカ山麓に展開されたモンスターの大群は、総勢千体にも及ぶ。
昨夜から召喚と融合術によって並べられた魔物たちのレベルは、下限15、上限はヴェルム・ド・ロードの66。
「これだけの数を同時に操るんだ。個々の質の低下は勘弁して欲しいな。それに融合術も万能じゃないからねー。ベストな組み合わせじゃないと失敗するし、出来上がるモンスターのレベルも必ず跳ね上がるわけじゃないから」
「そのような話はどうでもいい。それよりも、何故このまま王都に攻め込まない。これほどの戦力を展開しながら、この場所で劣等種共の軍勢を待ちうける、その意図は」
「ああ、それねー。王都に攻め入ったらさ、我らが居城へ絶賛侵攻中のセリムが気付いて引き返して来ちゃうでしょ。なんだか便利なもの、持ってるみたいだしさ」
セリムの持つ映像端末は、西区画の風景をほぼリアルタイムで映し出す。
今日も彼女は一時間おきにチェックを入れているはずだ。
王都を戦場にすれば、間違いなく西区画も火の海になり、すぐにセリムに異変を気付かれてしまう。
——ま、理由はそれだけじゃないんだけどね。
「今彼女に気付かれたら、作戦が台無しさ。こんなモンスター軍団なんて、あっという間に蹴散らされちゃうよ」
「……癪ではあるが、仕方なしか」
モンスターの大群の中心に、ルキウスは腕を組んでどっしりと構えている。
原罪の紅きマントを模造して作らせた裏地の赤い黒マントを羽織り、腰のベルトに差しているのは二つの至宝の片割れ、源徳の白き聖杖。
先端の台座にはめ込まれた魔法石が、陽光を反射し青い輝きを放っている。
「でもさ、ホントに良かったの? 唯一の家来を捨て駒にしちゃってさ。あの人、大人しく捕まるタマじゃないでしょ。死ぬまで戦って、殺されなくっても捕らえられたら舌を噛み切るタイプだ。セリムには絶対に勝てないから、あの人が死ぬのはもう決まってる」
「それがどうした、と前にも言ったはずだ。所詮はヤツも駒、目的達成のための捨て石として、役立つだけでも光栄だろう」
「はぁー、さすがでございますこと」
皮肉交じりに首を竦める。
なるほど、この男の廃嫡を決定した先代魔王の見る目は確かだったらしい。
彼が跡目を継げば、歴史に名を残すことだろう。
悪名高い、稀代の暴君として。
「ま、僕にとってはどうでもいいことなんだけどね。僕たちはドライな関係、お互いの目的のためにお互いを利用する、そういう約束だ」
「そうだ、余もお前には興味は無い。ただお前の力だけを利用させてもらう」
「ひひっ、そうこう言ってるうちに、来たよ来たよ。団体さんのお出ましだ」
「ああ、とっくに見えている。劣等種の羽虫どもが徒党を組んで、炎に焼かれに飛び込んで来る哀れな様子がな」
二人を取り囲むモンスターの群れは、殺気立ち、唸り声を上げる。
アルカ山麓の境界を越えたアーカリアの軍勢は、隊列を整えて進軍を停止。
二百メートルほどの距離を挟んで、両軍は対陣する。
アーカリア王国の存亡を賭けた決戦の幕が、今まさに切って落とされようとしていた。