091 私の一番大切な人
ソラの腹部を貫き、背中へと突き出した刀身。
ハンスが剣を無造作に引き抜くと、ソラは糸が切れた人形のようにガクリと膝をつき、前のめりに倒れ、動かなくなる。
うつ伏せになった彼女の体の下から血が広がり、赤い血だまりを作っていく。
「うそ、うそです……、こんなの……っ」
何度も首を横に振り、否定しても、目の前の現実は変わらない。
ソラは血だまりの中に倒れて動かない。
だめ押しの一撃を心臓に突き立てようとしていたハンスは、セリムの発したか細い声に手を止め、彼女に向き直った。
「……ブロッケンは殺られたか。まあいい、あのような賞金稼ぎ風情、最初からあてにはしておらぬ」
——どうして、こんなことに?
私の心が弱かったから?
だからソラさんは心配してついてきて、こんなことに?
それとも、私が罠に気付かなかったから?
まんまと分断されて、ソラさんを一人にさせて。
その上、人を殺すことを怖がったせいで無駄に戦いが長引いて、そのせいでこんなことに?
「劣等種の小娘はじきに死ぬ。次はお前だ。どの程度の力を持っているかは知らぬが、私のルキウス様への忠誠心は決して折れぬ」
——ああ、なんだ。
どれも結局私のせいだ。
私のせいで、ソラさんは死——。
……違う、死んでいない。
あの子はまだ生きている。
今すぐ助けなければ。
けど、どうやって。
「何だ、呆けているのか。ならば好都合!」
——何か言っている奴がいる。
うるさい、邪魔だ。
そこにいたらソラさんを助けられないじゃないか。
ああ、そうだ、そういえば、ソラさんを刺したのはこいつだった。
許さない。
絶対に許さない。
「ルキウス様のために、その首、頂戴するッ!」
「うるさい」
ハンスが剣を振り上げた時、既にセリムは彼の背後にいた。
彼女は逆手に握った短剣を軽く振り、鞘に納める。
「な……、なん、だと……!?」
全く反応出来なかった。
恐るべきスピードに戦慄し、背後を振り向くハンスだったが、セリムはもう彼には目もくれない。
一目散にソラのもとに駆け寄っていく。
「待っ——がぁ……っ!」
その場から一歩動いた瞬間、ハンスの首から血しぶきが噴水のように噴き出す。
すでに勝負は決していた。
一瞬の交錯で、セリムは彼の頸動脈を掻き切り、致命傷を負わせていたのだ。
「バカ……っなぁ……っ、るきっ、う……ぅっ」
剣を取り落とし、どうっ、と倒れるハンス。
ソラと同様に血だまりを作り、彼はもう二度と立ち上がることはなかった。
「ソラさんっ!!」
セリムは血で服が汚れることを一切躊躇わず、うつ伏せに倒れたソラの体を抱き起こし、仰向けにひっくり返す。
「ソラ、さん……?」
彼女は目を閉じたまま、ピクリとも動かない。
体は暖かい、心臓もまだ動いている。
しかし、その鼓動はどんどん弱まっている。
傷口から血が、彼女の命が流れ出していく。
「いや、いやだよ……っ、目を開けてっ……」
視界が滲み、ひとりでに涙があふれ出す。
「ちがう、泣いてる場合じゃない……、早くどうにかしないと、ソラさんが……っ、死んじゃう……」
真っ白になりそうな頭で、必死に考える。
王都に連れ帰って回復魔法をかけてもらえれば……。
ダメだ、ここから王都まで二時間はかかる。
ソラの命の灯は今この瞬間にも消えてしまいそうなのに、それでは絶対に間に合わない。
「何か、何か手は……っ、なにか……っ!」
血色の良かった健康的なソラの顔色が、どんどん青白くなっていく。
傷口から流れ出す血が止まらない。
「やだ、死んじゃやだぁ……っ、私っ、ソラさんに……っ、まだ何も伝えてない……!」
呼吸が荒れ、思考がぐちゃぐちゃになる。
パニックに陥る寸前で何とか踏みとどまり、必死に打開策を考える。
包帯で傷口を塞いでも焼け石に水、急所をわずかに掠め、胴体を貫通しているのだ。
大きすぎる傷口から溢れ出るおびただしい量の出血。
ソラの心臓の鼓動はどんどん弱まっていく。
回復薬を使おうにも、アイテムによる回復効果は、体力にのみ適用され、外傷を治療することは出来ない。
一部の例外を除いては。
「……例外? そ、そう、アレを使えば、もしかしたら……!」
震える腕をポーチに突っ込むと、セリムは小さなガラスの小ビンを取り出す。
中に入っているのは、ごく少量のコハク色の液体。
次元龍の素材を用いて創造術で生み出した、最高の性能を誇る回復薬。
セリムのポーチの中に、たった一回分、これ一瓶しか存在しない最後の切り札。
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月ノ涙
レア度 ☆☆☆☆☆
次元龍の素材と月桂樹の
朝露で作られた、どんな
傷も癒す回復薬。その効
能は、死の淵にいる者を
も呼び戻すという。
創造術
次元龍の髄液×月ノ桂の朝露
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「そう、これを……! これを使えば、ソラさんを救える、ソラさんが死なずに済む!」
次元龍の骨髄に詰まった大量の髄液から、小さなビンたった一本分だけ作ることが出来たこの薬。
本当に大切な人が出来た時、その命の危機に使うと決めていた、とっておきの秘薬。
体力だけでなく傷をも癒すこのアイテムがあれば、必ずソラを救える。
「ソラさん、今助け——。…………ソラ、さん?」
胸に生まれたわずかな希望は、その瞬間、粉々に砕け散った。
腕の中の彼女が、息をしていない。
心臓が、鼓動を刻んでいない。
首が力なく横を向き、健康的だった肌がみるみる青白くなっていく。
「う、そ……」
涙の粒が、ソラの顔に落ちる。
「ソラ、さん……、死んじゃった……?」
助けられなかった、間に合わなかった。
ソラはもう二度と目を覚まさない、自分の名前を呼んでくれない、笑いかけてくれない。
深い深い絶望がセリムを包み込む。
「そんな、こんなのって……」
全てを諦めようとしたその時、ふと、ソラの言葉が脳裏に甦った。
遥か格上のロックヴァイパーに果敢に立ち向かった、あの時の言葉が。
——あたしは大丈夫、世界最強の剣士になるまで絶対に死なないから。
「……違う、ソラさんが死ぬわけない。ソラさんが、自分で口にしたことを曲げる訳がない」
諦めない、まだ諦めるには早い。
心臓が止まっても、蘇生に成功した例はいくつもあると教わった。
今からでもこの薬を飲ませれば、死の淵からソラを呼び戻せるかもしれない。
「絶対に……、絶対に助けるから!」
小ビンのコルクを力づくでこじ開け、ソラの口元に持っていく。
そのまま飲ませようとするが、手の震えが止まらない上に、ビンを持っていない左手しか使えず、上手く口を開けさせられない。
「このままじゃ飲ませられない……、なら……!」
直接飲ませることを諦めたセリムは、ビンを呷って秘薬を自分の口に含むと、自由になった両手でソラの頭を支えて口を開かせ、彼女の唇に自らの唇を押し当てた。
ただひたすらに一心に、ソラの蘇生を願いながら、口の中に含んだ秘薬をソラの口内に流し込む。
——お願いします!
戻ってきてください、ソラさん!
○○○
ソレスティア・ライノウズは、真っ白な世界の真っただ中にいた。
上も下もはっきりしない、どこまでも続く空間。
自分が立っているのか寝転がっているのか、動いているのか止まっているのか、さっぱり分からない。
「……なに、ここ。あたし、どうしちゃったの?」
ここに来る前、自分はどうしていたのか。
確かハンスという男と戦い、精根尽き果てて、致命的な一撃を受けてしまい——。
「んん? もしかして、あたし死んじゃった? じゃあここがあの世なの?」
キョロキョロと辺りを見ても、やっぱり何も無い。
「えらい殺風景だね、あの世って」
思わずそんな呑気な感想が出てしまった。
ブンブンと頭を振って、そんな場合じゃないだろ、と自分にツッコミを入れる。
「……いやいや、あたしはまだ死ぬわけにはいかないし! やり残したことだって沢山あるし、あたしが死んじゃったらセリムが……!」
セリム。
やたらと強くてかわいくて、でもとっても繊細な心を持った、ソラが世界で一番好きな女の子。
彼女を残して逝くなんて、その先が天国でも地獄でも、もちろんこんな殺風景空間でもゴメンだ。
「なんとかして戻らないと、でもどうやって……。あー、考えてもわかんない! 行動あるのみ!」
ひとまず何かやってみる、考えるのはそれからだ。
「とりあえずさ、ここがホントにあの世なら、他にも誰かいるはずだよね。おーい! 誰かいませんかー!」
大声で呼びかけてみて少し待つが、反応は無し。
「……んー、誰もいないのかな。そもそもここってホントにあの世なの?」
——ここはあの世とこの世の狭間。厳密にはあの世ではないわね。
「っうぇ!? だ、だれ!?」
不意打ち気味に声をかけられて、ソラは思わず聞き返す。
——ごめんなさい、驚かせてしまったかしら。困っていたみたいだから、つい声をかけてしまったわ。
「えっと、あなたは?」
どこから聞こえてくるのか、周囲を観察すると、頭上に眩く輝く光が見えた。
声はあそこから聞こえてくるようだ。
「そこにいるの? 今からそっちに——」
——来ては駄目! こっちに来てしまったら、あなたはもう戻れなくなる。
「おわっちょ! そ、そっちは天国なの!?」
——まあ、そんなところね。
聞こえる声は優しい声音の女性のもの。
心が安らぎ、なぜだか懐かしさを感じる。
「あっぶない……。ねえ、親切な人。もう戻れなく、ってことは、まだ戻れるってコト?」
——そう。あなたがこっちに来るのは、まだ早すぎるわ。大切な人が待っているのでしょう、早く戻ってあげて。
「んー、そうしたいのは山々だけど、どうやって戻るのさ」
——耳を澄ましてごらんなさい。あなたを呼ぶ声が聞こえるはず。
言われるがまま、耳を澄ましてみる。
——……さん、……ラさ……。
遥か遠く、自分の名前を必死に呼ぶ声がかすかに聞こえる。
「この声、セリム?」
——その声の聞こえる先が、あなたの帰るべき場所。あんなに必死に呼びかけて、余程大切に想ってくれているのね。彼女の声を道しるべにすれば、あなたの大事な人のところにきっと戻れるわ。
「そっか、何から何までありがと。……ねえ、どうしてそんな親切にしてくれるの?」
いくら天国の住人だからって、見ず知らずの相手にここまでしてくれるのはさすがに不自然だ。
どうしても気になったソラは、最後にその疑問を投げかけた。
——私のことなんでどうだっていいの。……ただ、戻ったらあなたのお財布の裏側、見てくれると嬉しいわ。
「んにゃ、財布? それでわかるの? なんか知んないけどわかった! じゃあね、親切な人。ありがとう!」
お礼と一緒に光に向かって軽く手を振ると、ソラはセリムの声を頼りに走り出した。
涙交じりで必死に自分の名前を呼び続ける、大好きな少女の声を道しるべに、ソラは真っ白な世界をひたすらに駆ける。
——ラさん、ソラさん!
進むごとにその声はどんどん近付き、
「ソラさん!」
「セリムっ!」
間近で聞こえた声に、ソラは必死に手を伸ばした。
○○○
「……ん、んん」
ゆっくりと目を開ける。
まず視界に飛び込んで来たのは、涙でぐちゃぐちゃになったセリムの顔。
彼女は驚きと喜びが入り混じった表情で、こちらを見下ろしている。
ソラは真っ直ぐに手を伸ばし、彼女の濡れた頬に触れていた。
「……セリム、なんて顔してるの。かわいい顔が台無しだよ」
「ソラさん? ホントに、ソラさんなの……?」
「当たり前じゃん……、ソラさんだよー……」
「ソラさん、ソラさん! ソラさんっ!!」
ソラが息をしている、心臓が動いている、喋って、笑いかけてくれている。
感極まったセリムは、彼女の体を強く抱きしめる。
「ちょっと、苦しいって……」
「だって、ソラさん、死んじゃうかもって……! 私、怖くって、でも諦めたくなくって、それで、それで……っ!」
「……そっか、ごめんね。いっぱい泣かせちゃったんだね、悲しませちゃったんだね。全部あたしのせいだ、ホントにごめんね」
泣きじゃくり、紡ぐ言葉も要領を得ないセリム。
彼女の頭を優しく撫でて、ソラは謝罪する。
セリムは逃げろと言ったのに、無茶をして、死にかけて、実際あの世の一歩手前まで行ってしまった。
一番泣かせたくない大切な人を、こんなにも泣かせてしまった。
「違うよ、ソラさんのせいじゃない……! 私の心が弱かったから、そのせいで……」
「セリムは悪くない、悪いのはあたし。これでこの話はお終いだよ」
エメラルドのように綺麗な緑の瞳。
ソラの大好きな瞳。
そこから零れ続ける涙を指で拭い、華奢な体をそっと抱きしめる。
「一生懸命、助けようとしてくれたんだよね。ありがとう、セリム」
「……うん、ソラさん」
またこうして、名前を呼んで貰えた。
抱きしめてもらえた。
腕の中で彼女の温もりと鼓動を感じ、セリムの目から再び涙があふれる。
「ソラさん、生きてる……、ちゃんと、生きて……っ、よかった……、よかったよぉ……っ!」
「もう、また泣いちゃった。泣き虫なんだから」
「だって、だってぇ……! ひぐっ、ぐすっ」
「よしよし、大丈夫だから。あたしはここにいるから、ね」
「うっ、うえぇぇぇぇぇっ、えぐっ、ソラさん、ソラさぁぁんっ!」
大切な人を喪ってしまう恐怖感から解放され、堰を切ったように泣き叫ぶセリム。
ソラはしばらくの間、そんな彼女の背中を優しく撫でながら抱きしめ続けた。