074 ロマンスの気配が、もう止まりません
アーカリアとアイワムズは、長らく友好関係を保ってきた。
だが、それは飽くまで表面的なもの。
人間にとって、五百年前の大戦は大昔、何世代も前の歴史上の出来事だ。
しかし人間の十倍の寿命を持つ魔族には、大戦を経験した者がまだ大勢生きている。
彼らの感情を考慮して、両国間の首脳は必要以上の歩み寄りを避けて来たのだ。
にもかかわらず、魔族側から歩み寄りを示してきた。
マリエールにとっても、それは実に勇気ある決断だった。
「魔王殿……。それほどまでの覚悟をお持ちとは」
アーカリア王も席を立ち、まだ幼い——しかし自分の二倍以上の時を生きている少女の手を取った。
人間と魔族は、こんなにも流れる時の速さが違う。
大戦で親兄弟や恋人を失った者、アーカリア王国を憎んでいる者もいるだろうに、彼女の決意に王は感服した。
「かつての大戦の傷も癒えていないだろうに。この英断、尊敬に値する。我ら協力して、此度の苦難に立ち向かおうぞ」
「うむ、では早速本国より増援の手配をする。到着までには時間がかかろうが、今は人手も足りないであろう。再びの襲撃に備え、防備を固めねばな」
「御厚意、感謝する。しかしそなたの国の方は備えを減らして大丈夫なのか」
「うむ、それなのだが……」
マリエールは傍らに控える側近へと目をやる。
「アウスがな、我が国への攻撃は心配無用だと申すのだ。理由を問うても——」
「申し訳ございません、ですがこれは——先代との約束。口外することは出来ません」
「この一点張りだ」
何事にも絶対服従、いざとなれば自らの命をも投げ打って主人を守る彼女が、こうも頑なに口を閉ざす事柄。
アウスに絶対の信頼を置いているからこそ、マリエールは強く問い詰めることはしない。
ただ一点、隠し事をされている、それだけが少し寂しかった。
「そうか。そちらにも事情があるのだろう、深く詮索はせぬ」
「……かたじけない」
追及も可能ではあったが、あえてそれをしないマリエールの気持ちを、王は汲んでくれた。
その心くばりに彼女は感謝の意を示す。
「ではアウスよ、直ちに本国へ連絡を飛ばしてくれ」
「かしこまりましたわ」
「余はこれにて失礼する。何かあれば言ってくれ、可能な範囲で力になろうぞ」
「魔王殿。そなたの助力、まことに頼もしく思う」
退室する魔王とその側近を見送ると、王は満足気に何度も頷く。
「両国の表面的な友好関係が、この機に本当の信頼で結ばれれば良いな……」
「そうでございますな。さて、私もこれにて失礼させていただきます」
「む、ルーフリーよ。急ぎの用事でもあるのか?」
「……ローザ殿らの褒美に復興資材の手配、人員の整理等、やることは山とございますれば」
言うが早いか、側近は足早に部屋を出る。
ルーフリーの言葉の通り、王自身もやらねばならぬ事が山ほどある。
未来に希望を感じながらも、まずは山積みになった執務を片付けるべく、彼は自室へと戻っていった。
○○○
リースの暮らす屋敷は、本城の外れ、第二城郭の内側に存在している。
王城で暮らす第一、第二王女とは異なり、リースはここで独立した生活を送っている。
使用人、料理人、召使い、その全てが彼女によって選ばれ、彼女自らが召し抱えた者たちだ。
為政者としての勉強のため、という建前で始まったこの暮らしだが、本当の理由は騎士団にお忍びで通いやすくするため。
もっとも、実際に勉強にはなっているようで、人材の評価から資材の管理、給金の支払いに至るまで、家の一切はリースの手で取り仕切られていた。
屋敷はこの街の例に則って、白い壁にオレンジの屋根。
圧巻なのはその大きさ。
貴族街に立ち並ぶ屋敷をも凌ぐ広さを持ち、端から端まで三百メートル、高さは五階建て。
更には屋敷の前に、噴水広場まで備えられている。
ここもお城なのではないかと、クロエは口をあんぐり開けながら見上げていた。
「ここが私の暮らしている屋敷よ。どうかしら、王城と比べると実にみすぼらしいのだれど」
「……いやいや、でか過ぎるって」
屋敷の中はどうなっているのか、一体中に何人暮らしているのか。
一庶民であるクロエは、あまりのスケールの違いに圧倒されていた。
「そうかしら、そんなに広いと思ったことはないけれど」
「十分広いでしょ。こんなに広いと迷っちゃいそうだよ。どこにどんな部屋があるのか全然わからなそう」
「迷ってもらっちゃ困るわ。今日からあなたはここで暮らすんだもの」
「……はい?」
隣に立つお姫様は、今なんとおっしゃられたか。
目の前にそびえ立つ屋敷よりももっと大きな衝撃が、クロエを襲った。
「リース、今なんて言ったのかな。聞き間違いだといけないから、もう一回言ってくれるかい」
「だから、あなたは今日からここで暮らすの」
聞き間違いじゃなかった。
突然何を言い出すのか、このお姫様は。
クロエは思わず、両手で顔を覆う。
私の屋敷に案内してあげるからついていらっしゃいとの誘いを受け、謁見の間への乱入の後、彼女についてここまでやって来たクロエ。
庶民である自分が今ここにいるだけでも場違いなのに、ここでリースと一緒に暮らすなんて。
言葉を失い、立ちつくすクロエをリースは不思議そうに見つめる。
「どうしたの? 感動のあまり二の句も継げないのかしら」
「……いいの? ホントに? ボク、ただの鍛冶師見習いだよ? そもそも何で突然一緒に暮らすだなんて話になるのさ」
「謁見の時、あなた何を聞いていたの」
呆れたような反応を返されてしまった。
クロエは落ち着いて、王とリースの会話を思いだしていく。
この状況に繋がるようなやり取りが、果たして存在しただろうか。
「えっと、確か。リースが騎士団を持つ許可が出て……」
「そうね」
「ブリジットさんたちが騎士団に選ばれて、その騎士団には武具が必要で」
「その通り」
「その武具をボクが作ることになった。勝手に」
「なによ、ちゃんと覚えてたじゃない」
クロエの記憶は正確だったようだ。
が、覚えてるじゃないと言われても、この状況とどう繋がるのかはさっぱり見えてこない。
「あの、結局どうしてボクはリースと暮らすの?」
「まだ分からないの? あなたはアホっ子ではないと思っていたのだけれど」
ボクは正常だよ、お姫様が奇想天外過ぎるの!
そう突っ込みたいクロエだった。
「一つ一つ説明しなければわからないようね。少々面倒だけど教えてあげる、ありがたく拝聴しなさい」
「はい……」
「まず一つ、この城にある鍛冶場は第一城郭外れ、あなたがお師匠さんたちとこもっていたあそこだけなの」
「そうなんだ、こんなに広いのに」
「元々鍛冶場なんて無かったのを、お父様が若い頃に建てさせたらしいわ」
アダマンタイトの剣を鍛えるためにスミスが呼ばれた時の話だ。
リースの様子を見るに、王族ですらあの件に関しての詳細は知らされていないらしい。
「で、当然私は屋敷を立てる際、将来のことも見据えていた。敷地内に練兵場と兵舎、それに鍛冶場も併設したのよ。城の奥なのもあって、厩舎は建てられなかったけど」
「こんな城の奥から馬を出すわけにもいかないからね……」
「騎士団の面々には、兵舎で暮らしてもらう。でもね、鍛冶師が暮らす場所は存在しないの」
「いや、兵舎に置いてもらえばいいんじゃ」
そこまで口にすると、ジト目で睨まれてしまった。
「……何よ、ここまでお膳立てしてやったのに。そんなに私と暮らすのは嫌なの……?」
クロエにもようやく納得がいく。
つまりリースは、なんだかんだと理由を付けて自分と一緒にいたいのだ。
彼女のそんな気持ちにも気付かず、あまりに突拍子もない提案に困惑ばかりが出てしまった。
これじゃあソラを鈍感だと笑えない、そんな風に自嘲しつつも、クロエは機嫌を損ねてしまったお姫様に大慌てで弁解する。
「いや、そんな訳ないじゃないか! ただあまりに突然だったから驚いただけ! ボクもリースと一緒にいられる時間が増えてすっごく嬉しいから!!」
「そ、そう……」
両手を握って思いっきり顔を近付ける。
咄嗟だったので、リースに注意された癖が出てしまった。
リースは案の定顔を赤らめて目を逸らし、少しだけ嬉しそうに口元を緩めた。
こうしてクロエはリースの屋敷に招かれ、この場所で暮らすこととなった。
鍛冶道具一式とおまけにドリルランスを鍛冶場に置き、着替えや生活用具一式を与えられた部屋に移す。
この時、リースと同じ部屋ではないことにクロエは少々落胆した。
冷静に考えれば当たり前なのだが、少しだけ期待してしまっていたようだ。
ここに滞在する間、クロエは賓客待遇。
自動的にご飯が出て、全ての世話をメイドがやってくれるという。
世話役を命じられたメイドが頭を下げて退室すると、クロエは夢見心地で自分の部屋を見回す。
「これ、ホントにボクのための部屋なの……?」
部屋の広さは、平均的な宿の二人部屋のおよそ七倍。
白い壁に三メートルほどの高い木製の天井、壁には何かの絵が架けられている。
家具は来客用の円卓にふかふかのソファ、紅茶用具が仕舞われた戸棚。
そして、お姫様が寝るような天蓋付きの大きなベッド。
なんというか、非常に落ち着かない。
「ボクの部屋って……、自由に使ってもいいって……、どうしたらいいのさ」
問い掛けは虚しく、誰も返事は返さない。
広い部屋に一人きり、クロエが色々と持て余していると、室内にノックの音が響く。
「クロエ、入るわよ」
返事も待たずに、この屋敷の主は部屋へと入って来た。
「どうかしら、あなたのための部屋は。気に入ってくれた?」
「うん、なんて言うか……凄いね」
「そう? 普通だと思うのだけれど」
「これが普通なら、ボクんちの部屋はウサギ小屋だよ……」
王族との感覚の違いに、クロエはただただ困惑。
「まあいいわ、そんな話をしに来たんじゃないもの。私ね、この時間は湯浴みと決まってるの」
「ゆあみ? あぁ、お風呂か。そうなんだ、今から行くんだね」
「あなた、お供なさい」
「……え、えぁっ!?」
リースの湯浴みにお供する。
つまり、想いを寄せるリースの裸が見られる——もとい、見えてしまう。
そんなのはあまりに刺激が強すぎる。
性知識の一切ないセリムはともかく、ソラがどうしてセリムの裸を前に平然としていられるのか、クロエには理解出来なかったし、もちろんこれからも理解できそうにない。
更なる問題はクロエの耳——リースには未だに明かしていない、最大の秘密。
いつかは明かさなければいけない事だが、まだ心の準備は出来ていなかった。
「お、お風呂、ボクが一緒に入るの!?」
「そう言ってるでしょ。……まさか断るつもりじゃないわよね」
「滅相もない! 喜んでお供するよ!!」
出来ていなかったが、この非常に魅力的な——もとい、想いを寄せる少女のお願いを断る選択肢は元々存在しなかった。
二つ返事で承諾すると、リースは満足げに微笑む。
「よろしい。さ、ついて来なさい」
「う、うん……」
期待と若干の不安を抱えつつ、クロエはリースの後ろを付いて部屋を後にした。
そして今、彼女は頭にターバン状にタオルを巻いて耳を隠し、この国の第三王女の白い背中に柔らかなスポンジを往復させている。
浴室の広さは町の公衆浴場ほどもあり、浴槽にはピンクの花びらが散りばめられ、なんだかいい香りがする。
中央に据えられたグリフォンの石像の口から絶え間なく浴槽へと湯が注ぎ込み、まるで別世界のようだ。
だが、そんな光景を楽しむ余裕はクロエにはない。
目の前の清らかな乙女の肌に、彼女の視線は釘付けとなっていた。
入浴の際、タオルを体に巻くなど言語道断との事で、リースもクロエも一糸まとわぬ姿をしており、更にリースは体を隠そうともしない。
結果、クロエは目のやり場に非常に困っていた。
「中々上手じゃない、丁度良い力加減よ」
「それはどうも……」
リースは十四歳、その発育は発展途上ながらも、女の子らしい丸みを帯びた将来有望な体つき。
煩悩を必死に抑制し、無心に背中を流していると、突然リースがこちらに体を向けた。
色々な部分をバッチリ見てしまい、クロエは慌てて目を逸らす。
「ねえクロエ、さっきから気になっているのだけれど」
「な、なに!?」
「……人と話す時は目を見なさい。失礼に当たるわよ」
「ひゃいっ」
出来るだけ視線を上に保ち、首から下を見ないように心掛ける。
が、リースの顔をじっと見つめると、それはそれで気恥ずかしい。
「で、何かな、気になってることって」
「その頭、ずっとタオルを巻いているけど、何か不都合でもあるの?」
とうとう突っ込まれてしまった。
どのみち頭を洗う時には取らなければいけなかったのだが。
「こ、これはその、誰にも言えない秘密で……」
「秘密? この私にも明かせない秘密なの? あなた以外に誰も知らないのかしら」
「それは……、スミス親方と、あと……セリムとソラが知ってるけど……」
他にも知っている人がいると知った途端——特に最後に出した名前に露骨に機嫌を損ね、リースはクロエを問い詰める。
「へぇ……そう。あのアホっ子には打ち明けて、私には秘密にするのね。私はあなたにとって、あのアホっ子以下の存在だと。あなたの気持ちはよーくわかりました」
「ちがっ……! リースが一番大事だって! 本当だよ、信じて!」
「信じて欲しいのなら、行動で示しなさいな」
「うぅ……」
もはやこれまで、観念したクロエは、ゆっくりと頭のタオルを外した。
そうして露わになる、ぴょこんと立った犬のような耳。
赤い毛に覆われたふさふさの耳が、恥ずかしげにぱたぱたと動く。
「びっくりしたよね……。これ、本物の耳なんだ。生まれつきらしくて、親方がボクを拾った時から——、……リース?」
秘密を明かされたリースは、クロエの耳をじっと見つめたまま一言も言葉を発しない。
気持ち悪いと思われたのか、距離を置かれてしまうのだろうか、クロエの胸に不安が湧きだしてくる。
「あの……、リース、何か言ってよ……」
「かわいい……」
「はい?」
「かわいい! 何その耳、とってもかわいい!!」
リースは立ちあがり、クロエの頭を抱きかかえて耳をもふもふする。
どうやらお姫様は、もふもふしたものに目がなかったようだ。
「すごい、もふもふしてる! ねえクロエ、これ触ってもいいのよね。触るからね!」
もう触ってる、そんな突っ込みを頭に浮かべることすら、今のクロエには出来なかった。
裸のリースが正面からクロエの頭を抱きかかえ、耳をもふもふしている状況。
当然クロエの視界いっぱいには、想いを寄せる少女の胸がドアップで映り込んでいた。
「ふさふさ、もふもふ……! こんなかわいい耳を隠していたなんて……。あぁ、かわいい!」
クロエの頭を思いっきり抱き寄せるリース。
柔らかい感触が顔に押し付けられる。
鍛冶師の少女はただただ心を無にし、この嵐が過ぎ去るのを待つのだった。




