068 もう二度と、私の側からいなくならないで
坂を登っていく王の一団を見送ると、セリムは街へと駆け出す。
残存するモンスターの気配はごくわずかだが、一匹残らず倒して、初めて事態は終息を迎える。
路地をまっすぐ走り、突き当りの建物に飛び乗り、屋根の上を飛び渡って、最も近い魔物の気配へ向けて一直線に向かう。
気配の主は大猿型のモンスター。
眼下にその姿を見ると、屋根を飛び下りて静かにその背後へ。
敵が気付く間もなく背後から殴り倒し、見事一撃の下に仕留めた。
「……素手で殴り倒すの、あんまり好きじゃないんですよね」
ドラゴンを殴り殺し、魔物を操っていた黒幕も殴り倒しておいてのこの発言。
今さら感はあるが、本来彼女の近接戦闘における得物は短剣だ。
戦いの場には常に持っていく物だが、まさか戦う羽目になるとは夢にも思わず、今日は宿屋に置いてきてしまっていた。
時空のポーチに入れて来る手もあったが、普段から身につけている物だったゆえにしまう習慣が無かったのだ。
これからは常にポーチに入れておこう、そう誓いつつ、手頃な武器が落ちていないか周囲を見回す。
当然都合よく転がっているはずもなく、やむを得ず次の気配へと駆け出す。
とはいえ、やはり素手で敵を殴り殺す感触は気持ちのいいものではない。
短剣で斬る感触も可能な限り勘弁願いたい。
「仕方ないです。出費にはなりますが、爆殺して回りますか」
モンスターとすれ違いざま、タイマーボムを取り出して口に直接ブチ込む。
セリムの走り去った後、次々とモンスターが爆散していく。
やはり爆殺が一番。
直接攻撃だとどうにも罪悪感が付き纏う。
「……これも心の弱さの表れなのでしょうか」
どうしても心に引っかかる、ナイトメア・ホースのあの言葉。
こんなにも気にしてしまうのは、セリムにもその自覚がある証拠。
物思いにふけりながらも南区画中で爆殺を繰り返し、気付けば南大通りに戻って来ていた。
「この場所……、闘技場前、ですか」
南区画のシンボル闘技場、その前の広場。
この場所でセリムはソラとあまりにもあっさりと別れた。
あの時はこんなことになるなんて思わなかった。
大会が終わればすぐまた会えて、彼女の優勝を祝って、頑張ったご褒美に頭を撫でてあげて。
そんな未来を予想していたのに。
ローザたちが戻って以降、セリムはソラの気配を意識して探らずにいる。
探した結果、もしもソラがいなかったら、考えるだけで怖くて仕方なかった。
アルカ山麓に残っているケースも考えられるが、ソラの性格を考慮すると大人しく残るとはとても思えない。
彼女の気配が見つからなかった時、果たして平静を保っていられるだろうか。
「やっぱり私、全然だめです。ソラさんがいなくなったら、そう思うだけで……」
その時、すぐ近くに魔物の気配を感じる。
数は四匹、場所は闘技場をぐるりと回った反対側だ。
今は目の前のことに集中しなければ。
目尻に溜まる涙をぬぐい、その場を走りだす。
四分の一周回ったところで、魔物の数が二匹減った。
剣戟の音も聞こえる。
どうやら誰かが戦っているようだ。
セリムは今、石畳を壊さない程度の全力で走っている。
その短時間で魔物を二匹仕留めたとなると、かなりの実力者だ。
「誰でしょう。ローザさんたちの誰かでしょうか……」
疑問に思いながらも残りわずかな距離を走り抜けると、敵の姿が見えた。
ブラッドグリズリー、危険度レベル16。
中級冒険者程度では手も足も出ない凶暴な熊型モンスター。
屈強なる赤毛の大熊は、剛腕を振るって敵対者に殴りかかる。
空気を裂く重い一撃をかわし、その少女は手にした大剣を振り抜いた。
「気鋭斬ッ!」
群青の剣閃が胴体を斬り裂き、その巨体はゆっくりと崩れ落ちる。
大熊を一撃の下に制した少女。
その少女の姿を目にした瞬間、セリムは頭の中が真っ白になった。
彼女の青い瞳が、呆然と立ち尽くすセリムの姿に気付く。
「あっ、セリム!」
少女はセリムの大好きな笑顔を浮かべ、太陽の光に煌めく金髪に、赤いリボンで結んだポニーテールを揺らして駆け寄ってくる。
その背後から迫る鳥型のモンスター。
我に帰ったセリムがタイマーボムを投げつける前に、彼女は振り向き、一刀の下に斬り伏せた。
「ふぃー、うっかり油断しちった」
今度こそモンスターの気配が消えたと確認すると、剣に纏った闘気を消して鞘に納める。
足早にこちらへとやって来た彼女は、顔は紅潮し疲労困憊の汗まみれ、防具にも小さなヒビが入っている。
しかし五体満足、いつも通りの人懐っこい笑顔で早速武勇伝を披露し始めた。
「聞いてよセリム、ソラ様の数々の大活躍! あのね、一つ目のでっかいヤツが現れたんだけどさ、お姫様のサポートを受けて最後はあたしがバッチリ決めたんだ。しかもね、あたしが考えた作戦でだよ! もうアホとか言わせないんだから!」
自慢げに胸を逸らし、えっへんと自分の口で言う。
そんな何一つ変わらない彼女の姿に、セリムの視界が滲んでいく。
「……ソラ、さん?」
「んぇ? そうだけど。当たり前じゃん、どうしちゃったの、セリム」
「ソラさん……、ソラさん……! ソラさぁぁんっ!」
溢れる気持ちは、もう抑えきれない。
セリムはソラに勢い良く抱きついた。
「うわっとと」
足下がおぼ付かないソラは、セリムの軽い体重も支えきれずに、背中から倒れ込む。
セリムはソラの体に体重を預け、首筋に顔を埋めて泣きじゃくった。
「ソラさん……、生きててくれた。良かった、本当に……、良かったよぉ……」
「心配してくれてたんだ。大丈夫、ソラ様はそう簡単に死なないから。セリムを置いて勝手に居なくなったりしないから」
「はい……、ぐすっ……」
背中を撫でると、ようやくセリムは泣きやむ。
顔を見合わせて微笑みあう二人だったが、ソラは唐突に顔を赤くする。
「ん? ソラさん、どうかしたんですか?」
「んー、この体勢なんだけど……」
今の二人の状況は、地面に仰向けに寝そべったソラの上にセリムが乗った状態。
好きな相手とこんな体勢で間近で見つめ合うのは、何も知らないセリムはともかくソラにはハードルが高かった。
「あ、ごめんなさい。重かったですよね」
「全然重くないよ? セリムすっごい軽いし」
大急ぎで体を離すセリムだったが、ソラは寝転がったまま起き上がろうとしない。
しばらく観察しても、起き上がる素振りすら無い。
「……あの、起きられないんですか?」
「ちょっとね、体力の限界で。もう立てそうにない……」
遥かに格下の相手とはいえ二時間以上戦い続け、更に格上のギガントオーガとの命懸けの死闘を4連戦。
その上ローザたちに付いて数キロを全力疾走し、王都に戻ってからもモンスターと戦い続けた。
回復魔法は傷を癒せても体力の回復は出来ない。
ソラの体力は、華奢なセリムの体すら支えられないほどに消耗してしまっていた。
「体力、ですか。任せてください。丸薬と青汁どっちがいいですか? 青汁の方が効果は上ですが」
「丸薬でお願いします」
「……青汁の方が効果は上——」
「是非丸薬で」
即答の上、断固として固辞。
あんな悪臭を発する液体を飲み込む気力すら、今の彼女には残っていない。
そんなに丸薬が気に入っているのだろうか、と考えつつ、セリムはポーチから筒を取り出す。
中に詰まった癒しの丸薬を一粒つまみ、ソラに手渡そうとした。
「はい、これを飲めば体力はバッチリ回復しますよ」
「……腕も動かせない。ガントレット重い。セリムが食べさせて」
「——は、はぁ!?」
赤面し、大いに焦るセリム。
確かにソラは、もう腕も動かせないほどに消耗しているのだろう。
しかし、それはつまり食べさせるということ、『あーん』をするも同然。
いくら必要なこととは言え、非常に恥ずかしい。
「はやくー、ソラ様のお口に入れてよー」
「う、うぅぅぅぅぅっ……。そ、そう、これは医療行為です。絶対にやらねばならない、やましいことなど一つも無い医療行為なんです。決して他意は無く——」
「何でもいいからはやくして……」
「そ、それでは失礼します……」
心臓の鼓動をバクバクさせながら、人差し指と親指でつまんだ丸薬を一粒、ソラの口元に運ぶ。
柔らかな唇に指先が触れた瞬間、
「ちゅるっ」
「わひゃっ! ちょっ、ソラさん!?」
指が丸薬ごと吸い込まれてしまった。
ソラの暖かな口内の感触を、敏感な指先が感じ取る。
「ごくん、れろれろ……」
「やぁっ、やめてくださ……っ、離して……!」
とうに丸薬はセリムの指を離れている。
喉が鳴ったところをみると、嚥下もしたのだろう。
にも関わらずソラの舌はセリムの指をぺろぺろと舐め回し、
「ちゅぅちゅぅ、ちゅぱちゅぱ……」
「なんでこんな……っ、ひゃうぅっ!」
乳を吸う赤子のように吸いつく。
今まで味わったことのないゾクゾクとした感覚が、セリムの背筋を駆け抜ける。
太ももを擦り合わせながら、未知の感覚に耐えていると、ようやく指が解放された。
「ぷあっ。にしし、セリムの指おいしかった」
「ふぁ……」
丸薬の効果で元気復活、勢い良く飛び起きるソラ。
一方のセリムはペタンと座り込んだまま、ソラの唾液でふやけた指をぼんやりと見つめている。
「これ、ソラさんの……」
熱に浮かされた頭で、この指を舐めてみたい、などというとんでもない発想が脳裏を過ぎってしまう。
指を舐め回されて変なスイッチが入ってしまったのか、もはやセリムはその事しか考えられない。
右手の人差し指をそっと口元に持っていき、ふやけた指先を口に含む。
指に舌を這わせたその瞬間、セリムの脳髄に電撃が走った。
越えてはいけない一線を越えてしまった背徳感と、得体の知れない快感がごちゃまぜになった感覚に、頭の中が蕩けそうになる。
「ねえセリム、いつまで座ってるのさー」
「えひゃああああぁぁぁぁああああぁぁあぁぁぁっ!!!??」
周囲の様子を探っていたソラがこちらに目を向けた瞬間、セリムは神速の動きで口から指を引き抜き立ち上がった。
「な、な、何か見ましたか!? 今、何か見ましたか!?」
「何にも見てないよ。もうモンスターはどこにもいないみたい。気配も感じないし、全部倒されちゃったのかもね」
「そ、そうですか、良かった……」
どうやら今の行動は見られていないようだ。
冷静になってみると、唾液まみれの指を咥えるなど、メイド顔負けのとんでもない変態行為ではないか。
どうしてあんなことをしてしまったのか、いや、そもそもの原因はソラにある。
ソラが指を吸い込んだりしなければ、指にソラの唾液が付くこともなく、変な気を起こすこともなかったのだ。
全てをソラのせいにして、セリムは猛抗議を開始する。
「って良くありませんよ! 今のはなんですか、どうして指をす、吸ったり、舐めたり……したんですか!!」
「どうしてって……おいしそうだったから?」
「おいしそうって……! 私の指は食べ物じゃありませんよ、もう!」
今回の件は全てソラのせい。
自分は全然変態じゃないし、むしろ指を吸ったソラの方が変態じゃないか。
そう結論付けて心の平静を保ったセリムは、頬を膨らませながらソラの隣へ。
すぐ側にソラがいる、それだけで心の底から安心する。
すっかり依存してしまっていると自覚しつつも、もう離れられない。
「ソラさん。もう二度と、私の隣からいなくなっちゃダメですよ」
「それって、もう大会に出ちゃダメってコト?」
「違います、そういう意味じゃなくって……。気持ち的な問題です」
自分の手の届かないところでソラが命の危機に瀕する絶望感。
あんな気持ちはもう二度と味わいたくない。
「それにしても、向こうでは頑張ってたみたいですね。それに、前はあんなに苦戦していた熊さんを簡単にやっつけちゃうなんて、本当に強くなりました」
「にひひ、褒められちった。ね、あれやってよ。頑張ったご褒美に」
「もちろんです。いっぱいしてあげますね」
ソラの頭を優しくなでなで。
ソラは気持ちよさそうに目を細め、セリムの胸に顔を埋める。
彼女が無事に帰ってきた喜びを噛み締めながら、セリムはソラの頭を抱き寄せて撫で擦る。
「んん……、セリムの手、気持ちいい……」
「よしよし、頑張りましたね。良い子良い子」
「にゃあぁぁぁぁ……」
セリムの手に撫でられながら、セリムの胸に頬擦りする。
柔らかい膨らみと甘い香り、頭を撫でられる感触に、ソラの心はこれ以上ない程に安らぎを覚える。
「セリムぅ、もっとなでなでして……」
「ふふっ、甘えん坊さんですね。いいですよ、沢山頑張ったんですもんね」
ペタリと座り込むセリム。
ソラはセリムの背中に腕を回し、お腹に顔を押し付ける。
「なんか眠くなって来ちゃった……」
「ダメですよ、こんな所で寝ちゃダメです」
「だって、セリムの体、どこも柔らかくていい匂いがするんだもん」
思いっきり息を吸い込むソラ。
セリムはくすぐったさに身じろぎする。
「んっ、そんなに匂いを嗅がないでください……。走り回って飛び回って、きっと汗臭いです……」
「そんなことないよ、すっごく良い匂いだもん……。セリムの匂い、すっごく好き……」
「でも、恥ずかしいですよぉ……」
「好きなんだもん、もっと嗅がせて。すんすん……」
「ん……っ、仕方ないですね、特別ですよ……?」
許可を得たソラは、セリムの胸に顔を移動して二つの膨らみに頬擦りする。
愛するソラの頭を撫でながら、お腹の奥の方から湧きあがる愛しさとは別の未知の感情。
睦み合う二人は、その様子を黙って見守る女剣士の存在に気付かなかった。
非常に気まずそうに声掛けのタイミングを計るローザ。
彼女の存在に気付いたセリムが絶叫するのは、それから十秒ほど後のことであった。