048 思い出の味は、あの頃のままでした
アーカリア西区画の市街地は、この大陸で最も人口密度が濃い場所だ。
中でも大通りは、少しでも余所見をして歩けば、すぐに誰かに衝突してしまう。
右を向いても左を向いても人、人、人。
そんな状況下で、セリムはソラと恋人同士であるかのように腕を絡め、寄り添いながら歩いている。
耳まで真っ赤にし、何故か周囲に睨みを利かせながら。
周りに対する牽制で始めたが、これは単に恥ずかしいだけなのでは。
所有権を主張するなら、手を繋ぐだけで十分なはずでは。
早くも自分の行いを後悔するセリム。
一方のソラも、突然腕に寄り掛かられて柔らかな膨らみを押しつけられては、平常心を保てなかった。
セリムの匂いと温もりに、胸の奥がキュンキュンと正体不明の反応を示し、顔の紅潮が治まらない。
「ね、ねえセリム。せめて手を繋ごうよ。さすがにこれは、恥ずかしいよ……」
「……そうですね、思い切り過ぎたかもしれません」
無自覚ながらも助け舟を出してくれたソラに心の中でお礼を繰り返しながら、彼女の右腕を解放すると、しっかりと手を繋ぐ。
セリムが離れたことにより、ソラはようやく平常心を取り戻せた。
「にしし、セリムの手のひら、あったかいね」
「そ、そうでしょうか……。体温は高い方ではありませんけど」
あっという間に元の調子を取り戻したソラに対し、セリムは未だもじもじしたまま。
第一に、大勢の前で手を繋ぐこと自体が、セリムにとってハードルの高い行為だった。
第二に、ちゃんとしたファッションを着こなすソラが予想以上に眩し過ぎる。
それでも、所詮中身はいつものソラさんだと自分に言い聞かせて、彼女の手を握る。
「さて、次はどこに行きましょうか」
「あれ? 今日ってあたしの服を買いに行くって話だったよね。だったらもう用事は済んだんじゃ……」
「なっ……! はいそうですねっ、確かに!!」
「じょ、冗談だよ。そんな泣きそうな顔しなくても」
やっぱりセリムもデートのつもりだったんじゃん、とは心の中での呟きに留めておく。
「次かー。あそこにしない? あの日二人で行ったケーキ屋さん」
「ケーキですか、いいと思います。お店の場所、全然覚えてませんが」
「あたしはバッチリ覚えてるよ、連れてってあげる。ほら、こっちこっち」
セリムの手を引いて、ソラは歩き出す。
自分を引っ張っていってくれる姿に、あの日のソアラの影が重なった。
ソラはやはりソアラなのだと、改めて実感する。
森の中で果たしたのは、運命の出会いなどではなく、運命の再会だった。
そうとは知らずに恋をしてしまったのだ。
自分の小指から伸びる赤い糸は、きっとソラの小指と繋がっている。
そんな乙女チックな想いに包まれながら、セリムは王都の街を歩いていく。
ソラに手を引かれて、セリムは思い出の店までエスコートされた。
「着いたよ、セリム。この店だよね」
彼女が連れて来た店は、間違いなくセリムの思い出の中にあったあのケーキ屋。
オレンジ色の屋根に白い壁は他の店と共通しているが、特徴は店内から繋がっている木製のテラス席。
あの場所で彼女と共に食べたケーキの味を、セリムは昨日のことのように思い出せる。
「懐かしいです。こうしてまた、あなたと一緒に来られるなんて。ふふっ、夢みたいです」
「あたしも。ほら、早速入ろうよ」
あの時と同じくソラに手を引かれて店内へ。
薄汚い格好で引け目を感じていた以前とは違い、今は自分のファッションに自信を持っている。
堂々と入店すると、出迎えるのは甘いクリームと爽やかなフルーツの香り。
店員に案内され、二人はテラス席の二人掛けの樫の木のテーブルに向かい合って腰を落ち着けた。
席に備え付けられたメニューを早速開いて、ソラは注文に頭を悩ませる。
「何にしよっか迷うよね。セリムも一緒に見ようよ」
「結構です。私はもう決めているので」
「決めてるって、メニューも見てないのに?」
「はい。もうずっと前から決めていました。もう一度ここに来たら、思い出の味を食べるんだって」
両手を胸の前に重ねて、セリムは微笑む。
今でも忘れられない、生まれて初めて味わった甘いお菓子の味。
味のしない獣の肉と煮込んだ野草しか知らなかった彼女にとって、その味はソアラの輝く笑顔と共に、胸にしまい込んだ大事な宝物。
「シンプルなイチゴのショートケーキ。あの味は、私にとって思い出の味。あなたとの思い出が詰まった味なんです」
「そ、そっか。……なんだろ、この気持ち。むずがゆいっていうか」
そんなにも想ってくれている。
セリムは自覚していないが、あまりにもストレートに伝えられた好意。
加えて、花のように可憐な笑顔を向けられれば、もうソラは直視出来なかった。
熱くなる顔をメニューで隠し、ケーキ選びに集中しようとする。
しようとするが、やはりどうしても顔のニヤケは抑えられない。
「え、えーっと……。あ、あたしはチョコレートケーキにしよーかなー」
「シンプルですね。もっと凝ったケーキもあるんじゃないですか?」
「そうだけど……うぅ、セリムのせいなんだから」
「意味がわかりません」
セリムのことで頭が一杯になってしまい、馴染みのないケーキの名前で目が滑ってしまう。
ふわりと笑うその顔が自分だけに向けられている、そう実感してしまうと、もう平常心ではいられなかった。
セリムがイチゴのショートケーキ、ソラは結局チョコレートケーキを注文。
店員がオーダーを持ち帰ると、元気が取り柄な少女は力尽きたようにテーブルに突っ伏した。
「何疲れてるんですか」
「あたしにだってよくわかんないよぉ……」
日に日に大きくなっていくセリムへの気持ちと、どう向き合えばいいのか。
自分の気持ちに正直に、真っ直ぐ突っ走るのがモットーのソラ様だが、自分がどうしたいのか、それが見えなければ突っ走りようがない。
顔を上げてセリムの顔をじっと見ても、わかるのは可愛いことくらい。
「……セリムってさ、よく笑うよね」
「なんですか、突然に。ソラさんが笑顔が好きだって言ってくれてから、心掛けてはいますが」
「その前からだよ、再会してからずっと。だからかな、話を聞くまでセリムがあの娘だって気付かなかったのって」
髪の色も瞳の色も同じ、声だってあまり変わらない、にも関わらず気付けなかった理由。
みすぼらしい格好とオシャレな服装、ボサボサの髪とサラサラの綺麗な髪。
それらの差異よりも何よりも違う印象を与えるのが、その笑顔。
「昔のセリムって、全然笑わなかったんだもん。とっても寂しそうで、退屈そうで。だから放っとけなかったのかな」
人ごみの中で一人ぼっちだった小さな女の子。
一粒の雪の結晶のように消えてなくなってしまいそうな儚さに、声をかけずにはいられなかった。
「一緒に遊んだ時、数えるほどしか笑わなかったし。楽しそうにしてるってのは十分に伝わって来てたけどね」
「はい、とっても楽しかったです」
そう言ってまた、彼女はソラの大好きな笑顔を見せてくれる。
「でも確かに、昔の私は笑いませんでした。笑い方を知らなかったんです。だからソアラさんの笑顔は本当に可愛くて、眩しくて。鏡の前で沢山、笑顔の練習をしました。あの娘みたいに上手に笑えるようにって」
師匠がいなくなって自由を手にしてから、セリムは言葉遣いを矯正し、オシャレを追及し、自然な笑顔を練習した。
全ては憧れの女の子に追いつくために。
あの子と並んでも負い目を感じないような、とびっきり可愛い女の子になるために。
「だから、今の私があるのは全部あなたのおかげなんです。本当にありがとう、あの時私に声をかけてくれて」
感謝の気持ちを乗せて、今日一番のとびっきりの笑顔を送る。
目の前で笑っている可憐で愛らしい少女が、自分を目標にしてくれていた。
ソラの胸に湧き上がるのは、セリムへのどうしようもない、狂おしいほどの愛しさ。
今すぐ彼女を抱きしめたい。
いや、何を躊躇う必要がある。
そうだ、今すぐ抱きしめよう。
即断即決、椅子を蹴って立ち上がろうとした時、
「お待たせしました、イチゴのショートケーキと、チョコレートケーキになりまーす」
ケーキが到着。
ソラは出鼻を挫かれ、椅子に座りなおした。
「わあ、美味しそうです」
「ごゆっくりどうぞー」
テーブルに置かれた、イチゴが丸々一個乗った白い生クリームのショートケーキ。
思い出の中と同じ、花柄の可愛らしいお皿に乗っている。
小さなフォークで切り崩し、早速一口。
「あふぅ、これです、この甘さですぅ」
ふわふわのスポンジと濃厚な生クリームが絡み合う食感。
初めて口にした時の感動が蘇り、思わず涙ぐんでしまう。
「あの頃と変わらない、優しい甘さ、後に引かないくど過ぎない後味。これが食べたかったんですよ」
「セリム、嬉しそう。じゃああたしも」
セリムを愛でたい衝動は結局解消できないまま、ソラもチョコレートケーキを頂く。
なんとかセリムを可愛がりたい。
そう考えながら、口の中に広がるのはビターな甘さ。
糖分には脳の働きを活性化する効果があるという。
その事とは恐らくなんの関係も無いが、ソラはある天才的な閃きに至った。
「そうだ! ねえセリム、お願いがあるんだけど」
「はむはむ……、なんですか? 今なら私、どんなお願いも聞けちゃいそうですぅ……」
後光が差すかのような幸せいっぱいの笑顔を浮かべるセリムに対し、ソラは提案する。
「食べさせ合いっこしようよ!」
「そんなことですか、もちろんいいで——は!? 今なんと……?」
彼女の笑顔は一瞬で驚愕に染まり、思わずフォークを取り落としそうになる。
「だから、食べさせ合いっこ。あーんってするやつ」
「な、な、なにをいきなりアホですか!」
「ねえいいでしょ。デートなんだし、やろうよー」
「だからデートじゃ……!」
パニックになりそうな頭で、キョロキョロと辺りを見回す。
まず、ここは大通りに面したテラス席。
『この国で一番人が集まる大通り』に面したテラス席なのだ。
当然すぐ側にある柵の外には、ひっきりなしに行き交う人の群れ。
時々こちらの方に視線を送り、ケーキ屋だと知って入店してくる人もいる。
更には店内。
十時過ぎいうこともあってか、遅めの朝食を取っている客や、昼食までの繋ぎにケーキを食べる客で、それなりに賑わっている。
当然この席には、視線をさえぎる遮蔽物など存在しない。
つまり、ソラの誘いを受ければ、待っているのは羞恥の坩堝のみ。
「……嫌です。絶対にお断りします!」
「なんでさー」
「無理です!! 恥ずかし過ぎます!!!」
首をブンブン振り、セリムは断固拒否。
再三のお願いも空しく、食べさせ合いは果たせなかった。
ケーキ店を後にした二人。
相変わらず、セリムを愛でたい衝動はソラの中に燻ったまま。
「全く、突然なにを言い出すかと思えば……」
「だってしたかったんだもん。ってか今だってしたいんだもん」
「今だってって、もうケーキは無いですよ」
「そういう意味じゃなくて……」
やはり口では上手く説明出来ない。
要するに、この胸に滾る愛しさを思いっきりセリムにぶつけたいのだ。
「うー……。そうだ、次はあそこ行こう!」
「あそこってどこですか?」
「二人で行った場所の一つだよ。あそこならセリムも恥ずかしくないかも」
「恥ずかしくって、なんですかそれ。なんか不穏なんですけど……」
またも手を引かれ、セリムはどこかに連れて行かれる。
この強引さが懐かしく、引っ張って行ってくれる背中が頼もしく見える。
ソラへの恋心は、彼女がソアラだと知ってから、さらに強くなった。
「これ以上好きになったら、どうなっちゃうんでしょうか」
いつか愛しさが恥ずかしさを上回って、想いを伝えられるのだろうか。
——その時、ソラはこの気持ちを受け止めてくれるのだろうか。
そう考えると、羞恥とは別の気持ちが湧きあがり、臆病な自分が顔を出す。
——ダメですね、やっぱり私からは言えそうにありません。
ソラが自分に恋をして、告白してくれるまで待つ。
そんな悠長なことでいいのだろうか。
自問自答するも、やはり断られるのは怖い。
もしも彼女に振られてしまえば、生きていくことすら出来そうになかった。
「……ソラさん」
「ん? どうかしたの」
「どうしてさっき、突然食べさせ合いたいなんて言い出したんですか?」
「どうしてって……、セリムが好きだから?」
さらりと言われて、また顔が熱くなる。
不安な気持ちが消し飛び、幸福感が胸を満たした。
「もう、そういうところですよ……。それだから私はあなたが……」
好きなんです。
出かかった言葉を飲み込んで、セリムはソラの隣へ並ぶ。
あの頃のように手を引かれるのではなく、傍らに寄り添って同じ歩幅で歩くために。