016 この変態さん、まったく自重してくれません
「ソラさん、下がってて下さい、早く!」
「わ、わかった。気を付けてね、セリム」
只ならぬ剣幕に、ソラはマリエールを連れて距離を取る。
未だ姿の見えない相手に対し、セリムは腰の後ろに差した短剣を抜き、逆手で構えた。
「見つけた、見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた」
「……来る!」
膨れ上がる殺気に、迎え撃つべく深く腰を落とす。
「見つけましたわァァァァァッ!!!」
砂塵の中から飛び出して来たのは、メイド服姿の女性。
狂気に満ちた表情は、とても説得など聞き入れない雰囲気だ。
彼女の姿を見たマリエールは、驚きと困惑に満ちた声を上げる。
「アウスっ!? なんであやつが襲って来るのだ! セリム、そいつがアウスだ、殺してはならぬぞ!」
「えっ、この人が例の変態さんですか……?」
「でも、かなり様子がおかしいよ、マリちゃん」
彼女の獲物は刃渡り60センチほどの直刀。
真っ直ぐに突っ込んできたアウスは、右手に握ったそれをセリムめがけて振り下ろした。
鋭い斬撃を短剣で軽々受け止めると、目の前でフーフーと息を荒くするメイドに語りかける。
「アウスさん、落ち着いて下さい。私達は敵じゃありません」
「待っててくださいましねぇ、お嬢様。今この狼藉者共を全員ブチ殺してお救いして差し上げますからぁ」
瞳孔の開いた虚ろな目で、ソラの影に隠れた主人に対して優しげに、しかし矢継ぎ早に言葉を投げかけるアウス。
彼女にセリムの言葉はまるで届いていない。
「ダメだ、アウスは正気を失っておる。セリム、殺さぬ程度に大人しくさせよ!」
「難しい注文ですね、この人結構強いですよ」
「そもそもなんで正気を失ってるのさ。敵に何かされたとかかな」
「いや、おそらく余を心配し過ぎるあまりに壊れてしまったのだろう」
「たった一日離れてただけなのに、あんなんになるの? 半端じゃないね、あの人」
聞く耳持たないアウスを説得するのは不可能と判断したセリム。
鍔迫り合いによる拮抗を崩すべく、前のめりに力を込める。
その途端、アウスの剣の刀身がバラバラになった。
力の行き場を失ったセリムはわずかにバランスを崩す。
「武器が壊れた? 違いますね、これは……」
彼女の剣は壊れてなどいない。
節ごとに分裂した刀身が、ワイヤーで繋がった鞭状に変化したのだ。
「蛇腹剣、ですか」
「さあ、バラバラに斬り刻んで差し上げますわっ!」
鞭のようにしなった刀身がセリムを襲う。
崩れた体勢の中、セリムはバック転を何度か繰り返して相手の間合いを脱出。
アウスの攻撃は全て空振り。
仕切り直しの形となり、二人は離れて対峙する。
「大人しく細切れになってくださらない?」
「生憎と、誤解で殺される筋合いはありませんので」
セリムの左手の中に握られているのは、道に落ちていた小石。
バック転の中、地面に手を突いた時に掠め取った物だ。
鞘に短剣を納めると、その石を右手に持ち替える。
石に気力を伝達し、しっかりと狙いを定め、振りかぶる渾身の一投。
「早々に終わらせていただきます。絶対投擲!」
投げ放たれた小石は、アウスに向けて猛スピードで直進する。
「このような石つぶて、私に届くとでもッ!」
蛇腹剣を何度も振り、網状に刃を巡らす。
高速で蠢く刃に少しでも触れた途端、ただの小石など容易く砕け散るだろう。
——触れたのならば。
「これはっ……!」
刃で作られた網の隙間を、小石はまるで生きているかのように自在に軌道を変えて掻い潜る。
速度は衰えず、グネグネと曲がりくねりながら迫る先は、武器を握ったアウスの右手。
「しまっ……」
——バシィ!
小石が衝突した右手の甲に衝撃が走り、一瞬手の感覚が無くなる。
蛇腹剣を取り落としたアウスは、致命的な隙を晒した。
もっとも、彼女にとってはほんの一瞬の隙でも十分だったのだが。
「ごめんなさい、少し眠ってもらいます」
鳩尾に軽く——セリムにとっては軽く、拳を入れる。
体に走る衝撃にアウスの視界が暗転し、彼女の意識は途絶えた。
倒れ込むアウスの体をセリムは受け止める。
「はい、終わりました。マリエールさん、とんでもないメイドですね、この人」
「うむぅ、余も想定外ではあった。まさかここまで酷いとは」
「今までこの状態になったことってなかったの?」
「王宮でもこれまでの旅でも、余と離れる時間など長くて数分だったからな。あんなアウスは初めて見たぞ」
当のマリエールですら、この状態は予想外だったようだ。
ひとまず適当な布で簡易枕を作り、道の端にアウスを寝かせる。
「さて、この人の意識が戻るまで休憩ですね」
緊張を解いたセリムは地面にハンカチを敷いて腰を下ろす。
その隣に、ソラがどっかと座った。
地べたに直接、お尻の部分が汚れるのもお構いなし。
「セリム、お疲れ様ー。簡単にのしちゃったけど、そんなにあの人強かったの?」
「見てて分からなかったんですか。ソラさんもまだまだですね。冒険者レベルに換算すると、50は軽く越えていると思います」
「おぉ、そんなに。あたしがさっきの戦いを見てわかったのなんて、今日のセリムのパンツは青のしましまってことくらいだよ」
「忘れて下さい、今すぐに! もう、だから戦うのは嫌なんですよ!」
顔を真っ赤にするセリムをよそに、マリエールは従者の顔を覗き込む。
頬を突っついてみるものの、特に反応は無い。
「セリムよ、ちょっと強くやり過ぎたのではないか。目を覚ます気配がないぞ」
「そんなに強くした覚えはありませんが。直に目を覚ますと思いますよ」
「ふむぅ、ならば待つとするか」
そうして、三十分後。
「まだ起きぬぞ、セリム」
「も、もうちょっと待ちましょうか」
一時間後。
「まだ起きぬぞ」
「もうすぐ目を覚ましますよ。……きっと」
二時間後。
「セリムッ! よもや殺したのではあるまいな!」
「そんなはずは……。軽く小突いただけなのに……っ」
「大丈夫だよ、息はしてるから。でも全然起きないね。セリムの軽くって、もしかして相当なんじゃ……」
戦闘から二時間が経過しても、一向にアウスは目を覚まさない。
痺れを切らした魔王様のご叱責に、セリムはひたすらオロオロする。
力加減を誤って重大なダメージを負わせてしまったのか。
「ね、ダメージが大きいなら回復させてあげればいいんじゃない?」
「そ、それです! ソラさん冴えてます、珍しく!」
「でしょでしょ、もっと褒めて……ん? 褒められてるの?」
ソラの名案を、セリムはすぐさま実行に移す。
ポーチから取り出したのは緑色の濃厚な液体が詰まった小ビン。
コロド山で採れたロールムーン草で作った特産青汁だ。
宿にいる間、セリムはこれを創造術で量産していた。
「これを飲ませれば、すぐにでも目を覚まします!」
「どれ、余がやってみよう。目が覚めた時最初に見るのがお主では、また錯乱するやもしれん」
アウスの側にしゃがみ込むと、マリエールはビンのフタを開ける。
中に詰まったドロドロの液体。
ほんの興味本位で、彼女はその臭いを嗅いでみた。
「すんす——くっさい! なんだこれは、本当に薬なのか! 飲ませて平気なものなのか! あの世に飛んでいったりせぬであろうな!」
「効果のほどは保障します。マリエールさんもあの時見てたでしょう。さぁ、グイッとやっちゃってください」
「うぅ、済まぬアウス。死者に鞭打つような真似を……」
手で支えて軽く頭を起こすと、忠実なメイドの口に異臭を放つ液体を流し込む。
喉がゴクリと鳴り、回復効果が彼女の全身に行き渡る。
閉じられていたその黄色い瞳が、ゆっくりと開かれた。
「ん、ここは……。わたくしは一体……」
「おぉ、気が付いたか、我が忠実なる僕よ。余の顔が分かるか」
「お嬢様……。——っ! お、お嬢様、ご無事だったのですね!」
素早く身を起こしたアウスは、主の顔を見て涙ぐむ。
「どれほど心配したことか! わたくし、あれから——。……あら? 今朝の辺りから記憶がございませんわ」
「お、覚えてなんだか。いや、かえって幸運であったか?」
「あ、あのー……」
恐る恐る、声をかけるセリム。
また目の色を変えて襲いかかられてはたまったものではない。
「あら、貴女はどなた様? 見たところ人間であるようですが」
初対面といった反応に、セリムはホッとする。
完全に正気に戻ってくれた上に、先ほどの暴走状態は記憶に無いらしい。
「こやつはセリム・ティッチマーシュ、奥にいる剣士がソレスティア・ライノウズ。山で迷っていた余を手厚く歓待してくれた恩人である」
「初めまして、セリムです……」
「あたしはソレスティア、ソラでいいよー」
ソラは至ってフレンドリーに、セリムは怖々挨拶をする。
襲ってこないと分かっていても、間近で見た狂気の顔がセリムのまぶたに焼き付いて離れない。
「お嬢様の恩人で在らせられますか。わたくしはアウス・モントクリフ。マリエール陛下の身辺を警護する親衛隊長にして、その御身のお世話をさせていただいているメイド長ですわ」
メイド服の長いスカート、その両端を摘み上げ、優雅に挨拶する魔族の女性。
話に聞いていたような異常性は今の所見られない。
「よろしくお願いしますね……」
「はい、お嬢様の恩人ですもの」
にこやかに返される。
立ち居振る舞いの優雅さ、礼儀正しさ、至ってまともな人物に見える。
「ところでアウスよ、賊の足取りはどうなった」
「申し訳ございません、お嬢様。敵は二人がかりで襲って来まして、手傷を負わせるのが精一杯で逃げられてしまいましたわ」
「二人がかり? 余は早々に逃げ出した片割れを追って山に入ったはずなのだが……」
「お嬢様、ご自分で山に入られたのですか。わたくしてっきり、敵に連れ拐われたのかと思い、気が気ではありませんでしたわ」
「ところでアウスさん、昨日からどこにいたの?」
二人の会話にソラが物怖じせずに参加。
セリムは未だに警戒が解けず、遠巻きに見守っている。
「あたしたち、コロドの町の中を結構探し回ってたんだけど」
「昨日は賊に逃げられた後、お嬢様の足跡を追跡して、コロド山に辿り着きましたの」
「足跡見分けられるんだ! すごーい!」
「えぇ、わたくしがお嬢様の足跡を見間違えるものですか。足のサイズから歩幅、歩き方の癖まで、全てを熟知しているこのわたくしが」
なんだか雲行きが怪しくなってきた。
ソラの背中に隠れながら、セリムは恐る恐る会話の流れを見守る。
「そうして足跡を追跡した結果、なぎ倒された大木の側でお嬢様の足跡が途切れているではありませんか! 御身に何か重大な事が起きたに違いありません。わたくし気が狂いそうになりましたわ」
セリムの背中を嫌な汗がだらだらと流れる。
それ、全て私のせいなんです、とは口が裂けても言えない。
「途切れたお嬢様の痕跡を探して、わたくし一晩中山の中を捜し回りました。それでも何一つ見つからず、何故か夜が明けた辺りから記憶が……。そういえばどうしてわたくしはこのような場所に……?」
「そ、それはだな。えーっと……」
「あたしたちもよくわかんないんだ、道端に倒れてたのを見つけて。ねっ、セリム」
「え、ええ。そうです。それでマリエールさんが介抱して……」
「お嬢様に介抱!? なんと恐れ多いッ!!」
「ひっ!」
地雷を踏んでしまったのか、突然声を張り上げるメイド。
その剣幕に、セリムの体がビクっと跳ねる。
「あぁ、なんと罪深いのでしょう。わたくしが、このわたくしがあろうことか、お嬢様に介抱を!? 主にお手を煩わせて、臣下失格ですわっ!」
「む、気負い過ぎであるぞ。アウスよ、もちっと肩の力を抜け。余は気にしておらぬ」
「お嬢様……! なんと慈悲深きお言葉、深く大きい器、このメイドには過ぎたる御配慮……」
「お主が倒れておったのも、余が離れてしまったのが原因であろう? ならば余の責任だ。許可する、好きに致せ」
「許可……ですって! で、では遠慮なくッ!」
アウスは突然にマリエールに飛びかかると、その全身の匂いを余す事なく嗅ぎ始める。
「すんすん、すぅーっ、んはぁっ、お嬢様分、濃厚なお嬢様分が脳に染みわたってぇ……」
ソラの背後に隠れていたセリムの目尻に見る見る涙が溜まっていく。
「嫌です、ソラさん。私やっぱりあの人嫌ですぅ……」
「うん、あたしもちょっとどうしていいのかわかんない」
直立不動のマリエールのお腹に顔を埋めながら、メイドはこの上なく幸せそうな表情を浮かべていた。