141 ボクしかいないんだもん、やるしかないよね
レムリウス市街地の北に広がる、広大な森林地帯。
その奥深くに、命の泉と密かに呼び伝えられる小さな泉がある。
遥かな古の神代の時代、海神様がこの窪地に命の源を注ぎ、そこから多くの命が生まれたという伝承が、その名の由来。
鬱蒼とした木々に囲まれたこの泉は、水底まで透き通った透明度を誇り、泳ぎ回る魚の姿も容易に見通せるほど。
水深は深いところで十メートル。
この泉で今、一人の女性が沐浴を行っている。
魔族ではあるが、人間年齢にすれば十七、八といったところ。
赤みがかった茶色の髪が腰までストレートに伸びている。
身に纏っているのは薄手の白いローブ。
濡れた絹が透けて見え、水を吸って濡れた髪と共に艶めかしく肌に張り付く。
彼女の名はヘルメル・コスタール。
レムライアを統治する三元老の一人にして、海神様を祀る神子。
神子とは、コスタールの血筋を汲むうら若き乙女が、海神様の祝福を受けて初めて名乗る資格を得るもの。
今この国に、神子を名乗る資格を持つ者は彼女一人だけだ。
「……ジャレッタ様。何か異変はありませんか?」
「異常はない。たとえ何が来ようが、俺に敵うはずはないがな」
槍を抱え、泉に背を向けて座る男に、ヘルメルは心細げに声をかけた。
神殿が襲撃されて以降、彼女は不安な日々を送っている。
彼女の周囲を固めているのは、冒険者レベル40を誇るこの国で最強の冒険者ジャレッタと、腕利きのレムライア兵十名。
加えて賊は、海神の神子が遺跡の扉を開く最後の鍵だとは知らないはず。
知らないはず、ではあるが、胸騒ぎは治まらない。
「頼もしいお言葉……。ですが、くれぐれも油断はなさらぬよう、お願い致します」
「ふん、誰に口を聞いている……」
傲慢不遜な態度ながら、彼は実際、この国で最強の使い手だ。
レムライアの四島全てに存在する危険地帯を踏破し、槍術においてこの国に右に出る者はいないランサー。
「……む?」
バキィッ!
ドゴッ!
ガゴッ……!
ジャレッタが何者かの殺気を感じたと同時、鈍い打撃音が何度も聞こえた。
そして、次々と人が草地に倒れる音も。
「ひっ……! ジャレッタ様、これは……!」
「どうやって嗅ぎつけたかは知らんが、どうやら来たようだ。身の程知らずの井の中の蛙がな」
静かな森の中、打撃音が十度響き、そして周囲は静寂に包まれる。
ジャレッタは静かに立ち上がり、茂みの奥から感じ取る殺気に向けて、両手で槍を構えた。
やがて大柄な男が草木をかき分け、その姿を現す。
その体型は一見して肥満体、だが突き出ているのは腹だけで、両腕も胸も分厚い筋肉に覆われている。
黒い髪を頭の頂点で雑に結び、薄ら笑いを浮かべるその顔からはおおよそ知性が感じられない。
得物は両手で持った長柄のハンマー。
無骨で巨大な鉄塊とも形容すべきヘッドからは、真新しい血が滴り落ちている。
「あっはあ、見つけただ。見つけただよ、これであのおんなぁ持ち帰れば、俺ぇ、褒められっかなぁ」
「……貴様。神殿を襲撃した賊の一味か」
「あぁん? なんだぁ、雑魚がまだいたのかぁ」
「雑魚、だと? この俺に向かって雑魚とは、思い上がりも甚だしいな。どちらが雑魚か、はっきりと理解させてくれるッ!」
ジャレッタは敵の懐に飛び込み、早々に勝負を決めるべく必殺の一撃を見舞う。
「ハチの巣になるが良いっ、紅蓮華鬼葬ッ!!」
両腕に気力を込め、槍の穂先を超高速で突き出すランサーの上級固有技能、蓮華。
雨あられと襲いかかるこの突きを浴びた敵は、全身の傷から血を紅い華のように咲かせて崩れ落ちる。
ジャレッタは極限まで洗練した自らの蓮華を、こう呼んでいた。
「どうだッ! 致命傷だろう!」
「あぁん?」
敵はその全身を貫かれ、貫通した傷口が風穴となって向こう側の景色までも見通せる。
明らかに、誰がどう見ても致命傷。
しかし、この男は攻撃を避けようとすり素振りすら見せず、倒れるどころか顔色一つ変わらない。
「なんだぁ、痛てえだなぁ。俺まだおめえに、なんもしてねえべぇ」
「……や、やせ我慢も大概にするんだな」
何かがおかしい。
この男は明らかに普通ではない。
気付いたのがもう数秒早ければ、運命は変わっていただろう。
勝ち誇っていつまでも敵の間合いに居らず、すぐに飛び離れていれば。
彼はこの狭い島国で最強の称号を手に入れ、それ以来自分よりも強い相手に出会ったことがない。
駆け出しの頃は細心の注意を払い、どんな相手にも油断しなかった。
だが、魔族として生きる長い時の中で、彼はその初心を忘れてしまっていた。
敵の大男はおもむろに槍の穂先を掴み、その膂力で以て力任せにへし折ってみせる。
全身に穴を開けられているにも関わらず、そんな負傷を全く感じさせない力で。
「ばっ、かな……っ」
「あぁあぁ、こんなヤツにこの力ぁ、使うことになるなんてなぁ」
大男は左腕に装着した金色のブレスレットを高く掲げた。
左手の甲に浮かんだ紋章から紫色の不浄な光が迸る。
腕輪に収まった黒い宝珠。
そこから出た黒いもやが紋章へと吸い込まれ、男の全身に開いた傷が塞がり、肌色の体が赤黒く変色していく。
二メートルを越える大柄な体がさらに膨れ上がり、身長は三メートルほどにまで巨大化。
筋骨隆々な身体はさらに逞しさを増し、その顔は薄気味悪い笑みを貼り付けたかのよう。
そして、何よりも大きな変化が起きたのが右腕。
肘から先が異様に肥大化し、肘の骨が皮膚を突き破らんばかりに後ろ向きに尖っている。
手の指は消え、指先から肘にかけて太さは均一、まるで杭打ち機のような形状に変貌を遂げた。
「なんだっ……、これはぁ……っ! お、お前、魔族、なのか……!?」
「魔族うう? どうだろなぁ、あの方は人類を越えた存在になっだいうとったがな」
「あの方……?」
「あぁ、もうめんどくせぇ。おめえ殺してその女ぁ、さっさと連れ帰るど」
質問に答えるのも面倒になったのか、左手に握っていた鉄槌を投げ捨てると、自由になったその手でジャレッタの頭を鷲掴みにした。
混乱と恐怖の中、彼は思い知る。
自分こそが、井の中の蛙であったと。
「もごっ、もごーっ!!」
「じゃ、さよならだぁ」
頭を掴まれて持ち上げられ、宙吊りの状態で足をバタつかせるレムライア最強の男。
大男は彼の腹部に、杭打ち機のような右腕をグッと押し当てた。
ズドォン!
静かな森に響き渡る轟音。
その発生源は大男の右腕。
肘から突き出した骨が、手首であった部分の槌を高速で前方へと打ち出したのだ。
超高速の大質量攻撃を胴体に浴びたジャレッタは、断末魔の声すら上げることなく両手足を力無く垂らし、動かなくなった。
彼の亡骸を無造作に放り捨てると、大男は退屈そうに頬を掻く。
「終わっただな。おっといっけね、こいつの名前聞くのも俺の名前教えるのも忘れてただぁ。俺はギガンテラ。どうぞよろしく」
物言わぬ屍に対して丁寧にお辞儀をする、ギガンテラと名乗った大男。
その圧倒的な強さと魔物のような容姿、得体の知れない奇行、自分を狙っているという事実。
ヘルメルは小刻みに震え、恐怖のあまり悲鳴すら上げられない。
「さぁて」
「ひっ……!」
ギガンテラがこちらを向いた。
彼女は逃げることはおろか一歩動くことすら出来ず、ただただ恐怖に震え上がる。
「さっさと連れて帰るだな。そうすりゃあの方にいっぱい褒められるだよ」
「い、いや……、来ないで……!」
精鋭のレムライア兵十名に、レムライア最強の冒険者までをも瞬殺して見せた襲撃者。
ヘルメルに出来るのは、もはや神に祈ることだけ。
大男は清浄な泉に不浄な足を踏み入れ、一歩一歩、ヘルメルへと近づいていく。
「神様……! 海神様、どうか、どうかご加護を……、お助け下さい……!」
「なぁにぶつぶつ言ってんだぁ? いいからさっさと、一緒にいぐぞぉ」
とうとう襲撃者は目前まで迫る。
ギガンテラの赤黒い魔手が、ゆっくりとヘルメルへ向けて伸ばされた。
その時、茂みから猛スピードで飛び出した影が瞬く間に彼女をさらう。
「……んあ?」
伸ばした手は空振りに終わり、ギガンテラはゆっくりと後ろを振り向いた。
そこに居たのは、神子を抱え上げたつなぎ姿の赤毛の少女。
「あ、あなたは……?」
「兵士さんが命がけで伝えてくれたんだ。事情は良く分かんないけどさ、キミ、狙われてるんだよね」
「あんだぁ、お前はぁ?」
「……あの姿、ソラから聞いたブロッケンの姿に似てる。まさかこの事件、ホース絡み?」
泉の中心でこちらを向いたまま怪訝そうな表情を浮かべる、異形の大男。
クロエはすぐに状況を整理し、ヘルメルに確認を取る。
「……キミ、もしかして三元老の一人、だったりするのかな?」
「は、はい。私はヘルメル・コスタール。三元老の一人で、海神の神子ですが……」
「やっぱりね。じゃあキミを、アイツに渡すわけには絶対にいかないワケだ」
先ほど会談の中で聞いた、神殿の襲撃事件と遺跡の鍵となる海神の神子。
大体の事情と、現状のまずさを把握したクロエは、次に取るべき行動を模索する。
「……やっぱ、逃げるが勝ちだよね」
非力なブロッケンですら、今のソラが全身全霊を使い果たしてようやく倒せるほどにパワーアップを遂げたのだ。
あの大男の素の力がどの程度かは分からないが、勝てると踏んで挑めば返り討ちが関の山だろう。
激しい戦いを乗り越えたと言っても、自分は六人の中で一番戦闘力が低いのだから。
クロエは状況判断を下し、ヘルメルをお姫様だっこで抱え上げる。
「振り落とされないよう、しっかり掴まっててね。あと、舌噛んじゃうから、喋っちゃダメだよ」
「分かり、ました……」
神子はクロエの胴に腕を回し、強く抱きついた。
次の瞬間クロエは踵を返し、人を一人抱えた状態での限界速度で駆け出す。
凄まじい加速圧にヘルメルは固く目を瞑り、ただただ必死にしがみ付く。
「さて、アイツは……」
森の中を駆け抜けながら背後を振り向くが、男の姿はどこにも見当たらない。
「よし、このまま上手く撒いて、街まで戻れれば」
「誰を撒くってんだぁ?」
「——っ!」
視線を前に戻した瞬間、並走しながらこちらを覗きこむギガンテラの巨大な赤ら顔。
クロエの全身が戦慄と共に総毛立つ。
ハンマー腕での薙ぎ払いを、身を沈めて回避。
すぐさま九十度方向転換し、全速力で駆ける。
「追いかけっこかぁ? 俺ぁ遊んでるひまぁ無いんだがなぁ。早く帰らねぇと褒められなくなっちまうだぁ」
「アイツ、あんな図体してるくせに……! ヘルメルさん抱えてるとはいえ、ボクより速い……!」
一直線に逃げていたのではすぐに追いつかれる。
木々の合間をくぐり、茂みに突っ込んで身を眩ませ、高く跳んで枝に着地し、見えないように方角を変えて飛び下りる。
敵を撒くためのありとあらゆる方法を試すが、一向に距離は開かない。
「ま、まずいって……! もうどこ走ってるのかも分かんないし……!」
当然ながら、クロエにレムライアの森についての土地勘などは無い。
いまどこを走っているのか、本当に街に向かっているのか、それすらも分からないまま森の中を駆け抜ける。
「いい加減鬼ごっこも飽きてきたどぉ。そろそろ観念しろぉ」
「観念してたまるかっての……!」
悪態をつきつつ走り続けると、前方に開けた場所が見えた。
「あそこなら……!」
開けた場所ならば、現在地も分かるかもしれない。
もしかしたら森の出口で、街が広がっているかもしれない。
後者の期待はあまり出来ないが、とにかくクロエはそこを目がけて全速力で突っ込んだ。
茂みを抜けると、視界一面に広がる大パノラマ。
見渡す限りに広がる山の緑、足下には数百メートルはあろうかという切り立った崖。
「しまっ……!」
落下する前に急ブレーキをかける。
落ちてしまえばヘルメルは勿論、自分だって無事では済まないだろう。
問題はそれだけではない。
一面に山が広がっているということは、おそらくこの崖は島の北側を向いている。
南側なら街が見通せるだろう、東や西に面していても辛うじて街は見えるはずだ。
向かっていたのは全くの逆方向、そして今、逃げ道は失われた。
「ようやっと観念しただかぁ」
ここは崖に突き出した半円状の広場。
北、東、西の三方向を崖に囲まれ、街の方角である南側には異形の大男が立ちはだかる。
「だから観念なんてしないって、何度も言わせるなっての。ごめん、ヘルメルさん。でも絶対に守るから」
ヘルメルを地面に下ろし、クロエは背中のアタッチメントから愛用の武器を取り外す。
ボタンひとつで折り畳まれたドリルランスは変形し、クロエはその穂先を敵に向けて構えた。
「まさかおめぇ、俺と闘り合う気かぁ? 止めとけぇ、勝ち目なんてねえどぉ」
「やってみなきゃあ分かんないだろ」
「まあいいけどよぉ、めんどくせぇだなぁ」
「あっ、あの……っ!」
戦いに赴くクロエに対し、ヘルメルは呼びかける。
「なんだい、ヘルメルさん」
「あなたのお名前、なんとお呼びしたら……。まだ聞いていなかったですよね」
「おぉ、そうだぁ。さっきの弱っちいやつら、みぃんな名前聞く前に死んじまったからなぁ。今度は忘れずに聞いとかねぇと」
「……ボクはクロエ・スタンフィードだよ」
不安げな眼差しを向けるヘルメルを安心させるため、クロエは彼女の目を見て微笑み、その名を名乗る。
「クロエ……様……」
「なんだぁ、聞こえねえどぉ」
野次を飛ばす不快な低い声に、クロエは敵を睨みつける。
「俺の自己紹介からしねぇとダメかぁ。俺はギガンテラ。アザテリウムの司教、やってんだぁ。どうぞよろしく」
「アザテリウム……? なんだそれ」
聞き慣れない単語が飛び出した。
訝しげに聞き返すクロエだが、
「俺は名乗ったぞぉ。お前も早く名乗れぇ」
どうやら自己紹介そのものが目的、質問は受け付けないらしい。
仕方なしにもう一度、今度はこのギガンテラに向けて、クロエは名乗りを上げた。
「ボクはクロエ・スタンフィード! 世界最高の鍛冶師を目指す、ただの一般庶民だ!」