136 海の向こうへ、船出の時です
遥かに広がる大海原は未だ夜闇に包まれ、西の果てに星空が瞬く。
振り向けば、東の空がようやく明るくなってきたというところ。
午前五時、セリムは眠りこけたソラをお姫様だっこで抱えながら、埠頭へとやって来ていた。
マリエールも同じく夢の中、アウスに抱きかかえられ、クロエは眠たそうに目を擦りながらリースの後について来ている。
停泊する六十メートル超の巨大な帆船の前では、最終的な輸送物資の積み込みが行なわれていた。
その日限りの雇われだろう人員に積み荷をあれこれと指示するクルーたち。
その中から、セリムたちの到着に気付いた一人の女性が、こちらへと小走りで駆け寄って来た。
「おはようございますッス! 魔王様御一行ッスね。あっしは船長のジュリーって者ッス」
朗らかに自己紹介をしたのは、オレンジ髪の短髪の女性。
セリムは人見知りを発動し、一歩後ろに下がる。
「……ってあれ? 魔王様、寝てらっしゃるんスか。仕方ないッスかね、こんな時間ッスし」
メイドの腕の中ですやすやと眠る魔王様を、微笑ましく眺めるジュリー。
アウスとリースが彼女の前に進み出て、これから長い間世話になるだろう彼女と挨拶を交わす。
「わたくし、魔王様の側近を務めるメイドのアウスです。今回は魔王様のレムライア訪問にご協力頂き、まずは感謝を述べさせてもらいますわ」
「いやいや、魔王様をお運びするなんて、とっても名誉なことッスよ。して、そちらの方はもしや……」
「私はアーカリア王国第三王女、リースよ」
「やはりそうでしたか! 両国の王族を乗せるなんて、船乗り冥利に尽きるってもんッス。ささ、皆さまがた、どうぞ乗って下さいッス」
ジュリーの先導で、一行は板を渡って船の上へ。
甲板に降り立つと波でゆらゆらと揺れ、どうにも落ち着かない。
心細さが次第に増し、ソラの元気な声が聞きたくなってしまったセリムは控えめに彼女の体を揺する。
「……ソラさん、そろそろ起きてくださいよ」
「んにゃぁ……」
「ソラさん!」
「むにゅぅ……、にゃ? セリム……?」
ようやく目を開けたソラ。
周囲の状況が飲み込めないまま甲板に下ろされ、波に揺れる足場に転びそうになる。
「わっとと……。こ、ここどこ……?」
「もう船の上ですよ」
セリムに体を支えられながら、キョロキョロと周囲を見回す。
船の上ではせわしなく水夫が行き来しており、荷物の積み込みはあとわずかで終わるようだ。
甲板から船底の蔵へ、そこからまた甲板へ、と重い荷物を持って何度も往復する彼らの額には、一様に汗が浮かんでいる。
マリエールを抱きかかえたアウスとリースは、船尾にある船長室へジュリーと共に入っていった。
そしてクロエは既に眠気も吹き飛んだ様子で、興味深そうに三つのマストを見上げている。
「……揺れるね、足下」
「ソラさん、私師匠に聞いたことがあるんです。船酔いという、それはそれは恐ろしいものが存在するって」
それは、かつて師匠から聞かされた恐ろしい話。
船に乗った人間の中には、絶えず揺れる足下に平行感覚が狂わされ、豪華なお風呂場によくあるグリフォン像のように口から胃の中身を垂れ流すようになってしまう者がいると。
「あの時は話半分で聞いていたんですけど、これはどうにも信憑性が高そうで……。私、今から不安になってきました……」
青ざめるセリムに対し、ソラは非常に楽天的な態度でケラケラと笑う。
「あはは、あのロクでもない師匠のことだし、どうせ大げさなこと言ってからかってるだけだって。それにもし本当だったとしても、あたしは絶対そうならない自信あるし!」
「そ、そうでしょうか……。うぅ、不安です……」
やがて荷物の積み込みが終わり、荷物を運んでいた人員が慌ただしく下船していく。
最後の一人が出たところで乗船用の板が外され、沈められていた錨が巻き上げ式の機巧で上げられる。
縛られて丸まっていた帆が頭上で展開し、出港のファンファーレが盛大に吹き鳴らされた。
「い、いよいよ出港みたいですね……」
「お、おぉ!? なんか動き出したかも!」
接岸していた船が、少しずつ埠頭を離れて行く。
ソラが船の縁から身を乗り出し、次第に遠ざかる波止場を眺めていると、その顔に陽光が差す。
眩しさに目を細めながら東の空を見ると、大陸の地平から太陽が昇り、世界が一気に明るさを帯びた。
「セリムセリム、こっち来て! 日の出だよ、日の出! すっごい綺麗!」
「本当ですね……。それに、岸がどんどん遠くなっていきます。次にあそこに戻れるのは、いつのことなのでしょうか……」
ソラの隣に立ち、強い海風に前髪を押さえながら、遠ざかるアーカリアス大陸を並んで眺めるセリム。
憂いを帯びた彼女の横顔に、ソラは問い掛ける。
「不安?」
「ちょっとだけ……。でも、同じくらいワクワクしてます」
「ボクも同じかな。さらば母なる大地よ、いざ大海原へってね」
「ふふっ、なんですか、それ」
いつの間にか隣に来ていたクロエも、詩人のようなことを言いながらいたずらっぽく笑った。
「三人とも、そんなところにいたのね。客室に案内してくれるみたいだから、こっちに来なさい」
船長室から顔を出したリースが三人を呼びつける。
彼女たちは顔を見合わせ、もう一度名残惜しげに岸辺を見やった。
○○○
三つのマストに九つの帆を広げたこの船は、時速十キロ程度の速度で海上を走る。
風の魔力石がマストに組み込んでいるため、安定して最高速度を出せる仕組みだ。
レムライアへはおおよそ一カ月かかる見込み。
巨大なガレオン船は、外洋の荒波に負けないよう非常に丈夫な作りとなっている。
加えて、モンスターの巣食う危険海域に迷い込んだ時のために大砲を装備。
さらに普段は腕利きの冒険者たちを用心棒として乗せているのだが、今回は冒険者は不在。
——正確には、ソラという冒険者が一人乗っているのだが。
いずれにせよ、セリムを筆頭に今回の同乗者は常識外れの実力者揃い。
用心棒の冒険者など不要であった。
「んーっ、良い天気ですね」
出港してから六時間以上が経過した。
外洋にも関わらず波は比較的穏やか。
時おり大波が打ちよせ、船が大きく揺れる程度だ。
甲板に出たセリムは、爽やかな天気に気持ちよさそうに伸びをする。
「船酔いなんて杞憂でしたね。やっぱり師匠が大げさに言っただけなんでしょうか」
体調も非常に良好。
ここに来るまでに、船内を探検するクロエと連れ回されるリースの二人とすれ違ったが、彼女たちも非常に元気そうだった。
「師匠なんて信用した私がアホでしたね。……ところで、ソラさんどこ行ったんでしょう」
一時間ほど前、彼女はトイレに行くと言って船室を出たきり戻ってこなかった。
もしや海に落ちたのではないかと青ざめて気配を探ったら普通に船内にいたので、今まで放っておいたのだが、さすがに何かあったのでは。
「ちょっと探しに行ってきますか」
心配になったセリムは、ソラの気配を頼りに船内へと戻って船首方向へ。
狭い通路を通って、辿り着いたのはトイレの前。
「……え? まだ入ってたんですか?」
一時間前に用を足しに行ったはずなのに、なぜ未だにトイレの中なのか。
と、その時。
扉の向こうから盛大なリバース音が聞こえてきた。
「あっ……、もしかして、ソラさん……」
あたしは絶対にそうならない自信あるし!
呑気に構える彼女の笑顔と慢心の塊のような言葉が、セリムの脳裏に甦った。
「師匠、本当のこと言ってたんですね……」
疑いの眼差しを向けたことを謝りはしないし、あの腐れ人間に申し訳なく思うことも絶対にないが。
しばらく待っていると、青ざめたソラがようやく、足下をふらつかせながら出てきた。
「セ……、セリムぅ……。あたし、もうダメみたい……。これが船酔い、めっちゃヤバい……。うっぷ!」
「そ、ソラさん、どうしましょう……。と、とりあえず、トイレなんかに籠ってたら余計に悪化しちゃいそうです。一旦船室に戻りましょう」
セリムは半死半生のソラを介抱しながら、なんとか客室まで連れて来る。
「ど、どうしたら……。とりあえず体力を消耗してるみたいですし、癒しの丸薬を……」
ベッドにソラを寝かせると、オロオロしながらとりあえず回復薬を投与。
水の入った竹筒も渡し、飲み込ませる。
「んぐっ、んぐっ、ぷはぁ……。ちょっと楽になったかも……」
「後は寝てたら治るんじゃないでしょうか……、自信はありませんが」
「ありがとね、セリム……。ちょっと疲れたし朝早かったし、あたし寝るね……」
目を瞑り、静かに寝息を立てはじめたソラ。
穏やかな寝顔に、セリムはひとまず安堵する。
「ふぅ、これで落ち着くといいんですけど。さて、もう一度甲板に出ますか」
一人でいると、どうしても独り言が多くなってしまうセリム。
船室を出て再び甲板に出ると、そこにはオレンジ髪の女性が佇んでいた。
彼女はセリムに気付くと、フレンドリーな笑顔で声をかけてくる。
「おっ、セリム様ッスね。あっしのこと、覚えてるッスか?」
「えっ、えっと……。船長さんの、ジュリーさん、ですよね……」
人見知りを発動させながらも、なんとか挙動不審にならずに受け答え出来た。
いつもは隣にソラがいるために、彼女が元気よく応対してくれるのだが、生憎と彼女は今船酔いの真っ最中。
「覚えててくれたッスね! 聞いた話によるととっても強いらしいじゃないッスか、頼もしい限りッス」
「い、いえ、それ程でも……」
まるでソラやクロエのように元気そうな印象を受ける彼女。
当然ながら魔族である以上二百歳は越えているのだろうが、かなり若く見える。
レムライアとの交易を一手に引き受ける大型船の船長ともなれば、もっとお髭のおじさんや横に太い貫禄のあるおばさんを想像していたのだが。
「あ、あの、ずいぶんお若いですよね。この船の船長さんになって、どのくらいなんですか?」
「そうッスねぇ。十五年くらいッスね」
「十五年……」
十五年前といえば、ロットが失脚してベティがオレンの町の長になった頃と一致する。
「十五年前、ベティさんの口添えであっしは貿易船の船長に抜擢されたんスよ。その前は小さな船でアーカリアと行ったり来たりしてたんスけど」
「じゃあ、ロット……さんの時代のことはご存じないんですね」
「そっスね。あの人あんまりいい噂聞かないッスし。この船の船員、あっしと同じく全員ベティさんに抜擢されたんス、実は」
「え……、全員……?」
セリムの背筋にぞっとするものが走った。
船員が全員、新しく抜擢された。
それはつまり、以前船に乗っていた船員は全員下ろされたということ。
熟練の船乗りもいただろう、にも関わらず、乗組員全員を若い魔族に一新したということ。
「あ、あの……、それ以前にこの船に乗っていた人たちは……?」
「分かんないッス」
「わ、分かんないって……?」
「行方不明ッス、全員」
「な……っ!」
帰って来たのは、衝撃的な答え。
「行方不明ってつまり、一人残らず行方がわからないってこと、ですよね……」
「その通りッスよ。全員、なんの痕跡も残さずに綺麗さっぱりといなくなってしまったッス」
セリムの脳裏に、地下牢で出会ったロットの顔が過ぎった。
つまりあの男は、人身売買の証拠を隠滅するために自分の船の乗組員を全員消した。
そうとしか考えられない。
「あ、明らかにおかしいじゃないですか! もしかしてロットが……! このこと、マリエールさんやアウスさんは知っているんですか!?」
「いえ、ベティさんに口止めされてたッスから。でも、ロットが怪しいってのは確かにそうッスね」
「……あの、アウスさんに報告しても?」
「勿論構わないッスよ。ただ、ベティさんの耳に入ったらまずいので、あっしが話したってのはどうか内密に……」
「それは勿論です。貴重なお話、ありがとうございました」
ペコリと頭を下げるセリム。
英雄に頭を下げさせてしまい、ジュリーは慌てて両手をブンブン振る。
「ちょっ、頭なんて下げないで欲しいッス! セリム様は魔王様やリース様と同格に扱うようお達しが出てるんスから、こんなの誰かに見られたら、あっしが怒られちゃうッスよ!」
「あ、ごめんなさい……」
そんなお達しが出ているとは初耳だったが、すぐに頭を上げる。
マリエールの気配りなのだろうが、ちょっと過剰な待遇過ぎやしないだろうか、ただの田舎娘なのに。
まだまだ自己評価の低いセリムは、救国の英雄という立場を自覚しないままにそう思った。
「ところで、ソラ様は一緒じゃないんスか? いっつも一緒でべたべたくっ付いてるって聞いたんスけど」
「だ、誰から聞いたんですか、そんなこと! べたべたなんてしてません!」
「違うんスか? アウスさんから聞いたんスけど」
「もう、あの人はぁ……」
邪な笑みを浮かべながら、あることないこと吹き込むメイドの姿が容易に想像出来た。
「ソラさんなら、船酔いでダウンしてますよ。ずっとゲーゲーして、今は船室で寝てます」
「あー……、きっと寝不足だったッスねー。寝不足だと船酔いしやすいッスから」
確かに昨夜、セリムは十時前に床に着いたのだが、ソラは出発前でテンションが上がっていたのか深夜まで起きていたようだ。
アホの子の自業自得とはいえ、青ざめてすっかり元気を無くしてしまったソラの姿には心が痛む。
「あの……、治るんですよね? ずっとこのままだったりはしないですよね?」
「大丈夫ッスよ、そんなに心配しなくても。波も穏やかだし、今寝ているんなら、起きたらきっと治ってるッス」
「よ、良かったぁ……」
不安で胸がはち切れそうな表情から一転、心の底から安堵するセリム。
そんな彼女の様子に、ジュリーは二人の関係を察したような生暖かい笑みを浮かべた。