107 ありがとう、私の側にいてくれて
アルカ山麓の戦い、アーカリア軍の戦死者は百三十七名、アイワムズ軍の犠牲者六名。
ローザたちの奮闘の甲斐あって冒険者の中に死者は出ず、戦死者の総数は百四十三名となった。
対するルキウス側は、千体以上のモンスター全てが討ち果たされ、総大将であるルキウスも討ち死に。
大勝利と言って差し支えない戦果報告を受ける、国王は大きく一度だけ、頷いたという。
王国史上に残る、シヴィラ戦役以来となる未曽有の大規模戦闘は、こうして幕を閉じた。
戦没者を悼む式典は即日執り行われ、勇敢に戦い散っていった兵たちの名を王自らが読み上げる。
式典が終わり、セリムたちが宿泊している客間に戻ったのは、もう日もどっぷりと落ちた頃であった。
○○○
「うにゃぁー、やっと戻って来たぁ……。もう色々ありすぎてクタクタぁ……」
部屋に入って早速、ソラは背負った剣を壁に立て掛け、防具を外す。
更には穴の開いたインナーも脱ぎ捨てて、下着姿のままベッドの上にうつ伏せにダイブ。
そのまま枕に顔を埋め、力尽きた。
「お疲れ様です。けど、はしたないですよ。そんな格好でいるなんて」
「だって、もう一歩も動きたくない……。指も動かしたくない……」
「血だっていっぱい付いてるんですから。もう乾いているでしょうし、ベッドには付かないでしょうけど」
「セリムが拭いてぇ〜」
「アホですか、お風呂に入ればいいだけでしょう。私はこれから入りますけど、ソラさんも一緒にどうです?」
セリムからの申し出は非常に魅力的ではあるが、今のソラにはセリムの裸を前にして理性と戦うほどの気力すら残されていなかった。
「んー、後で入る……。ちょっと今は、色々と無理」
「そうですか。ちょっと寂しいですけど、一人で入ってきますね。と、その前に……」
履いていたスパッツを脱ぎ、洗濯かごの中へ。
「うん、やっぱりこの感じですね」
ようやくいつものミニスカートスタイルになったセリムは、意気揚々と部屋を後にした。
広い部屋の中、一人残されたソラ。
疲れが癒えるまで、このままダラダラと過ごすつもりだったのだが。
「……ごくり」
セリムが残していったとんでもないお宝に、目が釘付けになる。
「ち、違うし。ソラ様変態じゃないし。そんな、アウスさんじゃあるまいしそんなこと……」
それはダメだ。
それだけは、越えてはならない一線だ。
頭では理解していても、体が勝手に動いてしまう。
ベッドから起き上がり、洗濯かごの中を覗き込むと、その中には無造作に投げ込まれたセリムのスパッツが。
「ダメだって、それだけはしちゃいけないって。もしもセリムに見られたりしたら、絶対嫌われるって……」
パンツを頭から被ったアウスを見て半泣きになるセリムのことだ、もし見られてしまえば泣かれるどころでは済まされない。
今まで築き上げてきた信頼、絆、そういったものが根幹から崩れ去ってしまう可能性だってある。
だが、しかし、それでも。
「でも、それって逆に、見られたりしなければ……」
ソラの中で、悪魔が囁く。
これはまたとないチャンス。
あのセリムがミニスカートの下にスパッツを履く機会なんて、金輪際訪れないかもしれない。
この機会を逃せば、もう二度と巡ってこないかもしれない、千載一遇のチャンスなのだ。
「そ、そう。あくまでこれは、貴重な機会だから。勿体ない精神のたまもので、あたしは断じて変態じゃないから……」
もはや支離滅裂な言い訳と共に、ソラはついにスパッツをその手に取った。
セリムの汗が染み込んで、ほんのりと湿った感触。
丸一日以上履き続けていたそれは、まだほんの少しだけ温もりが残っている。
「……も、戻ってきたり、しないよね」
手にしたスパッツを顔に近付けながら、普段あまり使わない脳みそをフル回転させる。
いつもセリムの入浴時間は、たっぷり三十分以上。
一時間近く入っていることも多い。
出ていったばかりの彼女がすぐに戻ってくる可能性は非常に低い。
大丈夫、絶対に見られない。
必死に頭を働かせ、確信を得たソラは——。
「……すんすん」
ついに、越えてはならない一線を越えてしまうのであった。
○○○
入浴を終えたセリムは、ポーチの中から取り出した寝巻に着替える。
大量の血がべっとりと付着した旅装は、ポーチの中にしまい込んだ。
少々名残惜しいが、これでは洗濯しても汚れは落ちない。
処分しなければいけないだろう。
部屋に戻る道すがら、偶然出会った世話役のメイドから報告を受ける。
どうやら、王国軍の勝利を祝う盛大なパーティがニ日後に開催される運びとなったらしい。
当然功労者であるセリムたちも、このパーティに招待されるとのこと。
またまた目立つことになってしまうのか、もう二度と普通の女の子には戻れないのだろうか。
こんな力を与えた師匠を心の中で呪いつつ、セリムは部屋の扉を開ける。
「ソラさん、ただ今戻りました」
「おかえり、セリム。一日ぶりのお風呂はどうだった?」
「ええ、とってもさっぱりしました。なんだか生き返ったみたいです」
ソラは既に、肩出しの長袖とホットパンツの私服姿に着替えていた。
心なしか、肌がツヤツヤしている。
「ソラさん、着替えたんですね。体にこびり付いた血はどうしたんですか?」
「全部取れたよ。いっぱい汗かいた——じゃない! 濡れタオルで拭いたから!」
「ん? そうですか、ならいいんですけど。ソラさんも早くお風呂に入って来てくださいね」
ソラの様子が何かおかしい気もするが、彼女のことだ、きっと大した理由ではないのだろう。
軽く流して、ベッドに腰掛ける。
「それよりも、もう聞きましたか? ニ日後、祝勝パーティが開かれるって話」
「うん、あたしも聞いたよ。メイドさんが伝えに来てくれた。ちょっとびっくりしたけどね。終わったあとでホント良かった……」
「終わったって、何がですか?」
「何がってナニが……。わー! 何でもない何でもない! 忘れて!!」
「何を慌ててるんです……」
どうにも挙動不審は否めないが、セリムはソラに絶対の信頼を寄せている。
深くは追求せず、大きな枕の側へ。
「とにかく、もうクタクタです。今日は私も色々あり過ぎて……。考えを纏める前に一旦寝ます……」
「そっか、おやすみ」
「お休みなさい。ソラさんも、ちゃんとお風呂に入ってくださいね……」
枕に頭を埋めて横になったセリムは、やがて小さな寝息を立てはじめた。
「……寝ちゃったか。起こさないようにそーっと」
セリムを起こさないよう、ゆっくりとベッドから立ち上がる。
「濡れタオルで体と手は拭いたけど、まだ臭いが残っているかもしれないし。ちゃんとお風呂に入らないとね」
最低な理由で入浴を決意したソラ。
自分の荷物の中をまさぐって、寝巻と替えの下着を探す。
ぐちゃぐちゃに詰め込まれた荷物の中からパンツを取り出し、寝巻の上を取り出し、ブラジャーを取り出そうとした時、彼女はふと思い出す。
生死の狭間で聞いた声。
どこか懐かしさを感じる、優しい声。
確かあの声は、最後に財布の裏側を見て欲しいと言い残した。
「財布の、裏側か……」
あの体験は夢だったのか、それとも現実に起きたことだったのか、財布を確かめればはっきりするはず。
何もなければただの夢、もしも何かが隠されていたら、あの声の正体も分かるはず。
荷物の中から取り出した、大きな袋状の革財布。
中に入った金貨を出来るだけ静かにブチ撒け、中身を空っぽにする。
思い返せば、常に金貨を入れっぱなしにしていたこの財布。
こうして何も入っていない状態にするのは、これが初めてのことだ。
「よし、空っぽに……ん?」
もう何も入っていないはずの財布。
しかし、中ほどの位置に何か硬い感触の物が入っている。
「これって、金貨……じゃないよね」
外から見ただけでは何も分からない。
袋を裏返して裏側を確認してみると、内側に小さなポケットが縫い付けられていた。
革製の財布とは素材が違う、布のポケットは、明らかに誰かが後から付け足したものだ。
「こんなのがあったんだ、全然気付かなかった。中身は、と……」
ポケットの中に指を入れると、何か硬いものが二つ、そして紙の感触がした。
中身を取り出そうと、もう一本の指を突っ込んだその時。
「う、ううぅぅぅっ……! あぅぅぅっ……」
静かに寝息を立てていたセリムが、突然呻き声を上げ始める。
「セ、セリム!?」
財布は一旦放置、急いでベッドの方へ。
「セリム、大丈夫!? セリム!」
足をバタバタさせ、顔を左右に振ってうなされるセリム。
額から大量の汗をかき、顔色は青い。
その尋常ではない様子に、ソラは彼女の両肩を掴んで揺さぶり、必死に名前を呼ぶ。
「セリム、セリム!」
「嫌! 嫌ぁ……っ! ……あ——、ソラ、さん……?」
何度も呼びかけると、ようやく彼女は意識を覚醒させた。
目に涙を浮かべ、青ざめ怯えきった顔で周囲を何度も見回す。
「はあ、はぁ、ホースは……、ハンスは……」
「いないよ、大丈夫。この部屋にはあたししかいないから、だからセリムは大丈夫だよ」
「あ、私……、私……」
小さな子供に言い聞かせるように、優しく語りかけるソラ。
パニック状態から回復したセリムの目から、堰を切ったように涙があふれ出す。
「ち、血まみれのハンスとホースが、私を取り囲んで……! お前が殺したって、お前が殺したんだって……!」
「怖かったね、もう大丈夫。あたしがいるから、ね」
小さく震えるセリムの体を強く抱きしめ、背中を撫でさする。
セリムはソラの肩に顔を埋めて、なおも泣き続けた。
「でも私、私……! 本当に殺したんです! 人を……殺したんです!!」
「辛かったね。ずっと気を張ってたもんね。気持ちが緩んだ途端に溢れてきちゃったんだね」
「ソラさん! ソラさぁん……! ひぐっ、うぐっ」
「終わるまで泣かないって約束、頑張って守ってくれたよね。偉かったね。いいよ、もう終わったんだから。いっぱい泣いて、辛い気持ちは全部吐き出していいから」
「うっ、うああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ……」
ソラの胸にすがり付き、セリムは声を上げて泣きじゃくる。
彼女が落ち着くまで、小さな体の震えが止まるまで、ソラは優しく声をかけながら抱きしめ続けた。
そのまま数分が過ぎ、セリムはようやく落ち着きを取り戻す。
「ひっく、えぐっ……、ソラさん、ごめんなさい……。あんなに取り乱したりして……」
「あたしは平気だよ。セリムがあんなになってるのに、放っておく方が嫌」
「ホント、面倒くさいですよね、私。ソラさんも、マリエールさんも、アウスさんも、クロエさんも、きっとリースさんだって、みんな強い心を持ってるのに……。私はこんな風で……」
「そんなことない。あたしだってそんなに強くないし、他の皆も、誰だって弱い部分はあるよ。だから自分をそんなに責めないで」
「はい……、ですけど……」
ソラの服の裾をギュッと掴むと、か細い声で尋ねる。
「ソラさん、お風呂まだなんですよね。ごめんなさい、本当に情けないですけど、今一人になるのは……怖いです」
「……そっか。じゃあ一緒に、もう一回入ろう。セリム、いっぱい汗かいちゃってるし、体を温めれば落ち着くかもしれないし、ね?」
「ソラさん……。ありがとう……、大好き、です」
「うん、あたしも大好き。じゃ、行こう?」
○○○
その日の夜、セリムとソラはベッドの中で、握った手を片時も離さなかった。
ソラに肩を抱かれて、手を握られ、全身で彼女の温もりを感じながら眠りに着いたセリム。
彼女はソラの温もりと匂いに包まれて、悪夢にうなされることなく朝を迎える。
「——ん」
窓から差し込む陽光に包まれて、セリムは目を開けた。
なんの夢を見たのかは覚えていないが、頭はやけにスッキリしている。
ソラの腕枕で、ソラに抱きしめられながら眠ったからだろうか。
愛しいソラの寝顔をじっと見つめていると、彼女も蒼い瞳をゆっくりと開き、
「ん、おはよう……、セリム」
「おはようございます、ソラさん」
大好きな笑顔で、目覚めの言葉をかけてくれた。
朝食を終えたソラは、暇な時間を持て余していた。
城下に繰り出そうにも、アルカ山麓の戦いでの二人の活躍は、既に街中に知れ渡っているだろう。
貴族街の門を出たが最後、遊ぶどころか身動き一つ取れなくなりそうだ。
手持無沙汰なソラは、アイテムの合成作業を始めてしまい構ってくれないセリムを横目で見ると、昨夜確かめられなかった革財布の中身を確認。
裏返して隠しポケットに手を突っ込むと、出てきたのは折り畳まれた紙、そして小さな二つの輪。
小さな紙を広げ、書かれた文字に目を通した瞬間、ソラは理解する。
同時に、少しだけ涙が出てしまった。
「そっか……、じゃあつまり、あの声は……。ありがとう、お母さん」
財布の裏に仕込まれていたのは、母からの手紙。
そして、同封されていた物は。
「使える、これは使えるよ。よし、勝負は明日の祝勝パーティ。そこでバシッと決める!」
時を越えた母からの援護射撃に感謝しつつ、ソラはとうとう告白の日取りを決めた。
「勝負って? それに、何を決めるんですか?」
「わひゃっとなんでもなぁい!」
セリムに見られないよう、母からの贈り物をささっと荷物の中にしまう。
「変なソラさんです。昨日の夜も私が部屋に戻ったあと、なんだか変でしたし……」
「あれは忘れて!」
あの事を掘り返されてはまずい。
必死に誤魔化そうとしたその時、部屋にノックの音が響く。
続いて聞こえたのは、世話役のメイドの声。
「セリム様、ソレスティア様、入ってもよろしいでしょうか」
「は、はい! ソレスティア様います! 入ってもいいです!」
「……ホント、変ですね」
疑惑の目を向けながらも、セリムは入室したメイドに対応する。
「失礼いたします」
「どうしたんですか? 何かあったのでしょうか」
「陛下より直々のお呼び出しです。お二人に、極秘裏に伝えたいことがあると」
「極秘の呼び出し、ですか?」
「それって、もしかして……!」
顔を見合わせるセリムとソラ。
この旅の目的、ソラの出した依頼が達成されるその時が、間近に迫っていた。