102 アルカ山麓の戦い⑩ 変貌 そして私たちも帰ってきました
ホースはその手に握りしめた魔法石に、魔力を限界まで込める。
その瞬間、魔法石は粉々に砕け散った。
目の前で起きた出来事が信じられず、マリエールは驚愕する。
「ば、バカな! あれが破壊されるなど……! あの石は、オリハルコンはこの世界で最強の魔法石のはず! 許容限界を越えるなど、絶対にあり得ぬ!」
源徳の白き聖杖、その性能を伝説級たらしめるのが、台座に収められた魔法石、オリハルコン。
青い光を湛えたこの魔法石は、全ての魔力を無尽蔵に受け入れ、吸収し、自在に解き放つ。
そのオリハルコンが容量の限界を越えるなど、絶対にあり得ないことだ。
「その通り、オリハルコンはこの程度じゃ壊れない。ならどうして砕けたか。答えは簡単、これはオリハルコンじゃないからさ。僕がすり替えておいたんだよ、ルキウス君に気付かれないよう、こっそりとね」
抽出された純粋な魔力の塊のみが、ホースの手のひらの上で踊る。
暗黒そのものと形容するべき、どす黒い魔力の結晶を眺め、ホースはほくそ笑んだ。
「す、すり替えただと!? なんのために! オリハルコンは何処へやったのだ!」
「質問は一つずつにしてくれないかなぁ。まず、本物のオリハルコンはもう僕の手元には無いよ」
「無い、だと!? ならば一体どこに……!」
「それは教えられないなぁ。で、もう一つ。なんでそんなことをしたかって言うと……、こうするためさ!!」
手にした魔力塊を、おもむろにルキウスの胸に押し当てる。
虚ろな目で虚空を眺めていたルキウスは一転、体内に侵入する膨大な量のエネルギーに顔を歪ませて絶叫を上げた。
「ぎぃいいいぃぃいぃぃぃいぃぃああああぁぁっぁぁぁぁぁッ!!!!!」
胸を抑え、目を見開き、耳を塞ぎたくなるような叫びと共に悶え苦しむ。
「兄上っ!」
「なりませぬ、お嬢様」
あまりにも凄惨な兄の姿に、一旦は彼を見捨てたマリエールも思わず駆け寄ろうとしてしまう。
アウスはそんな主君を押しとどめた。
ルキウスは膨大な魔力を胸に宿し、明らかに様子がおかしい。
その上、傍らにはホースもいるのだ。
何が起ころうとしているのか、冷静に状況を見極める必要がある。
「ナイトメア・ホース。これがあなたの目的、ということですわね」
「その通り。褒めてあげたいところだけど、ま、さすがに見たら分かるか」
「褒めて頂かなくても結構ですわ。その代わりに教えていただけないかしら。——今から何が起こるのか」
ホースは足元で胸を両手で抑え、顔に血管を浮かばせて悶えるルキウスを見やると、にこやかに返事を返す。
「いいよ、どうせすぐに分かることだしね。話してあげるよ、今から何が起きるのか。……っとその前に、ようやく御到着みたいだよ」
○○○
ソラをお姫様だっこしながら、王都西部の街道を突っ走るセリム。
ルキウスの城を後にしてもうじき二時間、地平線の果てにようやく王城が顔を出す。
「見えました、王都です! 煙も上がってませんし、まだ無事みたいですね」
「そ、そうだね……。良かったね……」
約二時間もの間、加速圧と振動を受け続けたソラは、戦う前から半死半生の状態であった。
「うっぷ……。こ、このままアルカ山麓に行くんだよね……」
「もちろんです。王都が無事ということは、みんな頑張ってくれてるってことですから」
「だ、だよね……。おっし、ソラ様も頑張っちゃうぞ……うぶっ!」
三半規管に甚大なダメージを受けながらも、気合だけは十分。
果たして回復薬や回復魔法で彼女の体調は回復するのだろうか、それはさておき。
セリムは進路を王都の南へと取り、更なる加速を加える。
「っにょおおぉぉぉおぉ!」
「変な声出さないでください」
ひとっ飛びで丘を越えると、視界の彼方に王国軍の包囲網が確認できた。
同時に、深い嫌悪感を催すあの気配が、セリムの全身を包み込む。
「……いますね、ホースさん。幻覚ではなく、今度ははっきりと感じます。ホースさんの近くには、マリエールさんとアウスさんもいるみたいです」
「やっぱり他の気配が分からなかったのって、幻覚魔法のせいだったんだね」
「ですね。思い返せば王都襲撃の時には他の人の気配も感じ取れていましたし。……うぅ、あの時点で妙だと気付けたじゃないですかぁ」
「ちょっ、落ち込まないで! ほら、もう着くから」
またまたへこみ始めてしまったセリムを励ましつつ、前方を指さすソラ。
彼女たちは猛スピードでアルカ山麓の境界を越え、ホースの気配を目がけて包囲陣の中に飛び込んだ。
「……っとその前に、ようやく御到着みたいだよ」
ホースが言葉を切り、視線を上に向けた瞬間。
包囲陣を飛び越えた細身の少女が、天空から舞い降りた。
アウスの傍らに軽やかに着地した彼女は、抱きかかえていた少女を解放する。
「や、やっと着いた……」
「お疲れ様でした、ソラさん。ゆっくり休んで——いる場合ではなさそうですね」
「セリム様、今回は普通のタイミングでしたわね」
「……はい?」
メイドの発言の意図が読めず、小首をかしげる。
「まあいいです。これはどういう状況か、可能な限り手短にお願いします」
アイワムズの部隊の真ん中で、ルキウスと思わしき男が悶え苦しんでいる。
彼の体内から感じるのは、桁外れに膨大で禍々しい魔力。
アウスは言われた通り手短に、この状況を説明する。
「ホースがルキウスに魔力をぶち込んだらこうなった、以上ですわ」
「なるほど、よくわかりません」
「でしょう? わたくしにもさっぱりですもの」
アウスにも状況はよく飲み込めていない、それだけをセリムは理解した。
「話は終わった? じゃ、役者も揃ったところでネタばらしといこうか」
相も変わらず人を食ったような態度のホース。
今すぐ殴り飛ばしたいほど気に入らないが、どうやら一から十まで説明してくれるらしい。
セリムは吐きそうなソラの背中を擦りつつ、黙って耳を傾ける。
「早速だけど、僕の目的は大地の邪神、その力の一端を蘇らせることさ」
「邪神って、ノルディン教の神話に出て来る、あの三体の邪神のことですか……?」
「そう。そのために僕はルキウスに近づいた。彼が力を受け止める器として最適だったからね。で、彼に協力しながらこの時のために布石を敷いたのさ」
「布石……。まさか、場違いなモンスターの異常出現? あれが、この状況への布石だったと!?」
「ピンポンピンポン、大正解! ぱちぱちぱち」
満面の笑みで拍手を送ると、ホースの語りは続く。
「始まりは巨岩の荒野、あそこには大地の邪神の本体が眠っているからね。そこからこのアルカ山麓を目指して、僕は順番に場違いなモンスターを配置した。知ってるかい? このアーカリア大陸には、地下深くに網目のように張り巡らされた気脈とでも言うべきものがあるんだよ。危険地帯とは、そこを流れる邪神の力が地表に漏れ出ている場所、そしてモンスターとは、その力を浴びた動物が変異して生まれる存在なのさ」
そのような話は、この場にいる誰もが始めて耳にする。
怪訝な顔を浮かべる一同を見回して、ま、そうだよね、と小さくため息。
「これはノルディン教でも最高機密に当たるからね。で、その噴き出し口。普通は安定しているものなんだけど、場所に見合わない変なモンスターを配置しちゃうと、力の流れが乱れちゃうんだよね」
「それを意図的に行ったと? そんなことをして、一体なんのメリットがあるんですか」
「場を乱せば力の流れも乱れるんだ。一直線に乱してやれば、そのラインに沿って発信源から凄まじい勢いで溢れだす。例えるなら巨岩の荒野は水源、各地の力場は閉じられた水門。その水門を僕が開いた結果、川の流れが激しくなったってとこ。今まさに巨岩の荒野からこのアルカ山麓へ向けて、邪神の力が大量に流れ込んできているのさ! そしてその収束点が——」
そう言ってホースは、悶え苦しむ足下の男を指さした。
「ルキウス君、というわけだ」
「あ、兄上に邪神の力を結集させた、だと!?」
「そっ。彼の杖——あ、キミの杖か、すり替えておいた魔法石には、持ち主の絶望を蓄積する力があってね、蓄積した絶望は膨大な魔力へと変換される。僕の仮説が正しければ、邪神の力の溜まり場となった場所で、膨大な魔力の持ち主が絶望に心を支配された時……」
苦悶に喘いでいたルキウスの動きが、ピタリと止まる。
「兄上……?」
「あっ、おぉっ、ご、お、おおぉぉぉぉ……っ」
その身体が内部から膨らみ始め、彼の体は魔族のものから異形の何かへと姿を変えていく。
「ビンゴ! 大当たりだ!」
「ホースさん、これは一体……」
「力の集束点で、膨大な魔力の持ち主が絶望に心を支配された時、その者の身体は——邪神の眷族へと姿を変える」
ルキウスの肌の色が土気色へと変わり、更には全身に土色の毛が生え、彼の体は次第に膨張、巨大化を始めた。
「ごおぉぼぼぼぉぉぉぉっ……!」
「あ、兄上が……、魔物に変わっていく……?」
服が破れ、なおも巨大化は止まらない。
彼の整った顔は異形と化し、口は耳まで裂け、絶えず唾液を垂らし続ける。
目は大きく見開かれ、顔中が猿のように毛に包まれる。
身長が五メートルを越えたところで巨大化は止まり、彼は、ルキウスだったものは雄たけびを上げた。
「ギイイイイっァァァァァアッ!!」
「そ、そんな……、人が魔物に変わるなんて……」
「あ、兄上……、こんな、ことが……」
「お嬢様、お下がりください。出来る限り離れて」
驚愕に満ちた眼差しで、目の前の出来事を受け入れるしかないセリム。
マリエールは茫然と立ち尽くし、アウスは彼女を自身の背後に庇う。
そしてホース。
彼女の顔からは楽しげな笑みが消え失せ、不満そうに口元を尖らせる。
「あーあ、これって失敗じゃん。知性が無くなるほど魔物化が進んじゃったらダメでしょ。力が強すぎたのかな、実用化にはもっと力を抑えなきゃダメか。でも——」
ルキウスはその右手に、地属性の魔力を用いて巨大な剣を作り出した。
土くれで出来たその刀身は、軽く六メートル以上。
獲物を肩に担ぎ、ルキウスは周囲を囲む魔族兵達へと歩み寄っていく。
「いけない……!」
攻撃体勢に入ったルキウスを止めるため、セリムは飛び出す。
しかし、彼女の前にホースが回り込んだ。
「おっと、僕がいる限り、あっちへは行かせないよ」
「どいてください!」
周囲には多くの兵がいる。
彼らを気遣って加減しつつ繰り出したセリムの拳を、ホースは軽く受け止める。
その間にルキウスは規格外の大剣を軽々と振るい、魔族軍の兵士数名を一瞬で血煙に変えた。
「おぉ! な、なんと言うことだ! 総員、退避!」
部下に犠牲が出てしまった。
これ以上無駄死にさせないため、シャイトスは退避命令を下す。
彼の部隊は後方へと下がり、アーカリア軍の兵士たちがこの異常事態にようやく気付き、ざわつき始める。
「戦闘力はかなりのものみたいだね。危険度レベルで換算すれば、大体75くらいかな。推測だけど」
「そんな……! 皆さん、逃げて下さい!」
セリムの叫びも、狼狽える兵士たちには届かない。
次にルキウスは、アーカリア軍の兵士を狙って大剣を振り上げた。
横薙ぎに振るわれた大振りの剣閃で、たちまち十人以上の兵が命を散らす。
「これ以上、好きにやらせるわけには……!」
ルキウスの暴走を止めるためには、ホースを倒さなければならない。
しかし、兵士が密集した今の状況で本気を出せば、セリムの攻撃で死傷者が出てしまう。
拳を掴むホースの腕を払い除け、軽いジャブを連打しながら考えを巡らせる。
しかし、どうしても打開策が浮かばない。
「一体、どうしたら……」
「セリム!」
思い悩む彼女の耳に届いたのは、愛する少女の声。
「セリム、ここはあたしたちに任せて。セリムは思う存分、そいつと戦って」
「ソラさん!? 何を言って……! 無茶です、今度こそ本当に殺されてしまいます! 無茶はしないでって、あれほど言ったのに!」
「違うよ、無茶じゃない。だって、今度は一人じゃないもん」
今度は一人で無茶をしない。
もしも自分が死んでしまえばセリムをどれだけ悲しませるか、嫌というほど理解出来たから。
ソラは地面に転がっている白い杖を拾い上げ、マリエールに手渡す。
「はい、マリちゃん。依頼の品、調達完了だよ」
「うむ、確かに。だが、余はセリムに依頼したはずなのだが?」
「あたしとセリムは一心同体だからさ、細かいことは気にしない。これでマリちゃんも、一緒に戦えるんだよね。魔王の力、頼りにしてるから!」
「……いや、あの、それは」
ソラに初めて頼られた。
それは嬉しいのだが、一つ大きな問題がある。
魔力を制御する魔法石が失われたこの杖では、精々全力の半分程度の魔法しか放てない。
「だからして、せめてオリハルコンの代わりになる魔法石があれば……。それも魔力伝導率の高い、高純度の魔法石が……。しかしそんなものが、都合よくあるはずが——」
「ありますよ」
かなりの力を込めた正拳でホースを吹き飛ばすと、セリムはポーチから透き通った丸い水晶を取り出す。
右手に握りしめて魔力を込め、照準を杖の台座に合わせて投げ放った。
「絶対投擲っ!」
水晶玉は吸い込まれるように台座に収まり、はめ込まれる。
体勢を整え、再び襲い来るホース。
セリムたちは互いに放つ拳の連打を互いに捌き合う。
「セリム、これは……?」
「それは玻璃珊瑚。よく分からない秘境で見つけた珊瑚のような形の水晶を研磨して、水晶玉にしたものです。魔力伝導率は極めて高く、私の龍星の腕輪の素材にも使われていますから、オリハルコンの代用品としては十分かと」
平常時ならばここで、セリムは自分の発言に引っかかりを覚えるはずだった。
オリハルコンはアダマンタイトと同じく、実在すら怪しまれている未知の鉱石。
その名前が当然のようにマリエールの口から飛び出して来たのだから。
しかし今はそんな場合ではない。
軽く流してホースとの打ち合いに集中する。
「……うむ、これで余も戦える。兄上、それ以上の暴虐、魔王たる余が断じて許しはせぬ!」
アーカリア兵の虐殺を続ける兄に対し、マリエールは杖を向け、その小さな体に秘めた膨大な魔力を解放した。