第9話 呪いは怨みと共に
それから雷馬の一報がかかってきた八月二十六日まで、灯は自宅で束の間の休息を得ていた。
お母さんには私の姿は見えていないけれど、近くにいるだけで、何だかとても心が安らぐ。慣れ親しんだ我が家にいるというのも、その大きな一因を担っているのだろう。
鬱蒼とした森の中にいて、右も左もわからずに右往左往していた時間。あの底知れぬ不安定さとは打って変わり、この二日間は灯にとって、平穏無事だった生者の頃の営みを思い起こさせたのだ。
電話の着信音が室内の寂とした均衡を破ったのは、その日の正午頃だった。
スピーカー越しでは判然としなかったが、母の反応を見るに、間違いなく雷馬のものだろう。そう察して、今か今かと待ち構えていると、それからものの十分ほどで、彼は玄関のインターホンを鳴らしていた。
母に促され、リビングに乗り込んだ雷馬は、一昨日と同じ椅子に座すと、すぐさま報告を始めた。
「電話でも既にお伝えしました通り、先程知り合いの刑事から連絡があって、灯さんを殺害した犯人が逮捕されたという情報が入りました。ええと――」
懐中から黒い手帳を取り出した。
よもや例の偽警察手帳をこんなところで無頓着に使っているのでは。と、灯は冷や冷やしたが、それは本当にただの手帳だった。
彼は指先を湿らせてぺらぺらとページを繰ると、
「名前は桂川佑」
その時、母の眉がぴくりと動いたように見えた。聞き覚えのある名前だったのだろうか。
しかし、別段口を挟むわけでもないので、雷馬は彼女の胸の内を知る由もなく、話を先に進めていく。
「元サラリーマンですが、現在はフリーターで職を転々としているそうです。結構近辺に住んでいたようで、今はすぐそこの警察署に連行されて、取調べを受けています」
「それで、裁判の方はいつ頃になりそうですか?」
母の質問に、雷馬は難儀な顔つきになった。
「裁判ですか、それはまだ先のことになると思いますね。一応事情聴取にはしっかり応じているようですが、その裏取りもきちんとしなければなりませんから」
「そうなんですか。……でも、本当に素早い解決、ありがとうございます。灯もきっと天国で喜んでいることだと思います」
深々とお辞儀をする母。
雷馬はその母の背中越しに、灯の姿をちらと窺った。
母の言う通り、灯はこの劇的な進展に心を躍らせていた。それと同時に、かつそれ以上に、間もなく復讐が実行できるという不敵な意気込みも内在していたが。
灯は雷馬に向かってはっきりと頷き、彼はそれ見て、母に優しく声をかけた。
「ええ、私もそうだと思いますよ」
「ところで本当に、報酬は必要ないんでしょうか? なんだか申し訳なく思うんですが……」
顔を上げた母が、おずおずとそう漏らすと、雷馬は口角を上げた。あの営業のような笑いの仮面だ。
「それに関しては、以前に申し上げた通りですよ。探偵はあくまで趣味の範囲なんですから。それでお金を取るなんてことはできません」
丁重に断りを入れた雷馬は、すまなさそうに眉を八の字にしている母に別れを告げて、彼女の家を後にした。それに灯も続く。
二人で警察署に向かう途中、雷馬から再び母と一つ屋根の下で生活を始めた印象を尋ねられ、灯は率直にその思いを吐露した。
「嬉しい……けど、なんか、複雑な感じっていうのかな。ここにいるっていうのに、お母さんには気付いてもらえないし、私がいつもみたいに起きてリビングに行っておはようって言っても、その返事が返ってこないのが、なんていうか、虚しくて……」
きっと、もっとポジティブな話を聞けると予想していたのだろう。雷馬は沈痛な表情になった。
「そうか……。でもまあ、死んでもまだ一緒にいられるチャンスが出来たって考えたら、そこまで悪いことじゃないんじゃないか?」
「そうかもしれないけど……」
けど――、
その後に続く言葉が、灯の辞書の中にはなく、彼女はまごついた。
雷馬も別にその先に言及するわけでもなかった。
二人とも口を噤んでしまい、それが気まずい雰囲気を醸し出す。
なんとなく、話しかけるのが億劫になり、それから灯も雷馬も互いの顔を見ようとせず、敢えて周りの景色を眺めながら歩いた。
幸いにも、ものの数分で署に到着すると、雷馬は勝手知ったる自分の庭とばかりに、堂々と階段を上がり、正面玄関から中に入っていく。
しかし、灯のこれまでの人生は警察署とは無縁のもの。近くに立ち寄ったことすらなかったから、玄関の両脇で睨みを利かせている二人の警官に怯えて、雷馬に引っ付くような有様であった。
扉をくぐると、すぐそこがロビーになっている。思いの外殺伐とはしておらず、市役所のそれのように、事務仕事に追われている署員がデスクに噛り付いている。待合スペースの革張りソファに腰掛けている一般市民も、ちらほら見受けられた。
その光景を尻目に、雷馬はずかずかと奥へ進んでいく。関係者以外立ち入り禁止の札も華麗にスルー。構わずに階上に赴き、どんどん内奥へと侵入していく雷馬に、灯は不安を訴えた。
「ちょっと、勝手にこんなところまで入っていいの?」
「人聞きが悪いなあ。勝手じゃないって」
雷馬は彼女にはまるで取り合わず、取調室の隣の部屋へ、横柄にもノックすらせずに入り込んだ。
中にいた強面でごつごつした山男のような刑事が、それに気付いて扉の方に目だけで凄みを利かせたが、それも一瞬間。
雷馬だということを認めると、なんだお前かと言わんばかりに溜息を零した。
「おい、入る時はノックをするのが世間の一般常識だろ」
しかしそれは、無礼を咎めるようなものではなく、冗談の色合いを帯びていた。
雷馬は仁王像のような厳めしい顔の刑事に気圧されることなく、片手を挙げてラフに応える。
「ああ、まっちゃん、事情聴取に立ち会いたいなんて無理言って悪かったね」
「ま、まっちゃん!?」
灯は度肝を抜かれて、素っ頓狂な声を上げてしまった。
この自称探偵は、警察のこんないかつい人に向かって、それもかなりの年上に向かって、あろうことかまっちゃんなどと愛称で呼んでいるのだ。
「ああ、彼は松凪唯人警部――」
雷馬が何気なく灯に紹介しようとしたため、松凪は眉間に皺を寄せた。それも当然だ。彼にしてみれば、ここにいるのは自分とその隣にいるもう一人の刑事と、そして雷馬の三人だけなのだから。
「どうした?」
「え、ああ、いや何でもないんです。こんな無理が通るなんて、流石は、かの松凪唯人警部です」
適当に誤魔化した雷馬は、冷や汗たらたら苦笑を覗かせ、歯の浮くような世辞を連ねている。
それに気を良くしたのか、松凪は今の不審な行動などとりわけ気にも留めず、豪快に哄笑を飛ばした。
「ははは、そうだろうそうだろう。まあ俺も、快藤君にはいつも世話になってるからな。このくらいの我儘は聞いてやらんとな」
胸を反らして得意げである。
高校生に世話になっているというのに、彼は特に恥だとか面目丸潰れだとかいう敵対心は抱いていないようで、むしろ雷馬と好意的な関係を保っているように見えた。
灯は悟った。どうやら、この松凪こそ、雷馬が以前言っていた捜査状況を知るつてであり、知り合いの刑事ということだろう。
しかし、隣にいたもう一人の刑事のほうは、あまり快く思っていないらしく、顰めっ面のままだ。一歩離れたところで、うるさそうに二人の掛け合いを横目に見ている。それでも、その不満を声に出すことはない。松凪よりも階級が低く、彼に楯突くことができないのだろうか。
「それで、桂川の聴取はどうなってるんです」
自慢話はどうでもいいと冷淡にあしらう雷馬のつっけんどんな態度に、松凪は天狗のように伸ばした鼻をすっかり萎縮させて、ガラスの奥を指差した。
雷馬に続いて、灯もその指先に視線を動かす。
そこからは隣の取調室の様子が窺えた。コンクリート打ちっぱなしの、物寂しく寒々とした印象を受ける室内。テーブルを挟んで、ネクタイを締めたワイシャツ姿の若い筋肉質な刑事と、桂川と思しきほっそりした冴えない無精髭の中年男が相対している。部屋の奥には、壁に向かってなにやら作業しているもう一人の制服警官がいた。二人が喋るたびに手を動かしている。恐らく調書でも書き留めているのだろう。
隣室の三人は誰一人として、覗き見をしている灯たちを意識していない。
どうやらこのガラスは、マジックミラーになっているようだ。
ドラマで見たことのある取調室そのままだったので、灯は柄にもなく、まるで自分がそのドラマの主人公にでもなったような心持ちになった。
刑事がテーブルを力強く叩き、桂川に詰め寄る。
「それで、彼女を殺害した後、その死体をワゴン車に詰め、奥多摩の方に捨てに行ったんだな?」
「ひっ、……は、はい、そうです。間違いありません」
桂川はその音に怖気づいて、身体を縮ませながらこくこくと小刻みに首を縦に振った。
更に刑事はずいと顔を桂川に寄せ、唾が掛かりそうな勢いでまくし立てる。
「正午過ぎ頃にお前が部屋から出ていくのを、近所の人が目撃していた。だが、お前が犯行に及んだのは一時頃。それまで何をしていた?」
桂川は刑事から視線を逸らして、おどおどしながらも答えた。
「ま、待ってました。灯さんが家から出てくるのを」
その様子を見てから、松凪は雷馬に向き直った。
「――とこんな感じだ。まあなんというか本当に、何の抵抗もなくぺらぺらと喋ってるよ。証拠は揃ってるし、これならすぐに送検できそうだ」
それを聞いているのかいないのか、雷馬はガラスに額をくっつけるほどに、熱心にまじまじと桂川の表情を観察している。
「随分と顔色が悪いですね」
それを受けて、松凪は腕を組んで神妙な顔付きになり、もっともらしく言った。
「まあ、犯罪者として警察に連れてこられて、顔色いい方がおかしいとは思うがね。それにしても、なんというか、全く信じられんよ。あんな気弱そうな男が、年端もいかないような若い娘を殴り殺すなんてな。俺の目からすれば、あんな奴にとてもそんな肝っ玉が据わってるとは思えんのだが……。俺の目が狂い始めてきているのか、世の中が末なのか……。全くやりきれん話だよ」
「ええ、本当に仰る通りですよ」
雷馬が松凪に同調する。と、またバンとわざとらしくテーブルを大きく叩く音。
「それで、どうして彼女を殺したんだ」
桂川に詰問する若い刑事。
びくっと震え上がった桂川だったが、その質問には何の躊躇もなく返答した。
「はい、実は、牡丹灯さんのお母さん――真子さんとは、同郷の出身なんです。昔から彼女のことが気になっていて、何度か関係を迫ったんですが断られました。結婚して上京したらしいのですが、その旦那が死んだと聞いて、不謹慎ながらこれはチャンスだと私も東京に向かいました。それから何度も電話を入れたり手紙を送ったり、仕事の帰り道を狙って話しかけたりとしたんですが、全く取り合ってもらえず……。そのうち、もしかすると娘さんがいるから、周囲の目を気にして、私との関係を作りたくても作れないんだと思うようになりました。それで、灯さんがいなくなりさえすれば、私の方を振り向いてくれるんじゃないか……と」
項垂れながら、か細い声でぼそぼそと喋る桂川。
やはり母は、この男のことを知っていたのだ。それを雷馬に言わなかったのは、自分の嫌な記憶をほじくり返されるのを避けたかったのだろう。
しかし灯はそれに気を回している余裕がなかった。
どこまでも身勝手なその動機を聞いているうち、灯の視界が真紅に染まっていった。
いい歳して昔の女に未練たらたらで、振り向いてもらえないのを私のせいにして……!
灯は痛みを忘れるほど拳を握りしめ、下唇を噛みしめた。
たかだか壁一枚挟んだ向こうにいる気弱な中年男。命を奪ったその男に、灯は心中に抱いている殺意と憎悪の全てを差し向けた。
「典型的なストーカーだな。おい、この事、牡丹真子から裏付けとって来い」
松凪が隣で見ていたもう一人の刑事に命令すると、彼は威勢のいい返事をして、駆け足で部屋を飛び出していった。
雷馬がそれに気を惹かれた隙をついて、灯は壁を通り抜け、取調室にいる桂川の真後ろに回り込んだ。彼女は、既に理性の箍を外してしまっていた。
「おい、何してるんだ!?」
灯の異変に気付いた雷馬が叫ぶと、突然の奇矯な行動にいよいよ松凪が不審感を募らせた。
「どうした? なんかお前、さっきから様子が変だぞ?」
「ああ、いえ、本当になんでもありませんよ」
仕方がないので、雷馬はその場はあっさりと引き下がった。
灯はもはや我を忘れていた。口が勝手にぶつぶつと動き始める。
「許さない。私はあなたを、絶対に許さない。絶対に」
全ての意思を得体の知れない何者かに乗っ取られたように、怨念に身を任せて、憤怒を言葉に乗せて、呟きを繰り返す。
すると、桂川が背筋をぶるりと一際大きく震わせた。その首筋がぶわっと、一瞬にしてぶつぶつした鳥肌と化す。
青褪めていた顔からは、完全に色が消滅した。既に死人になったかのように、血気が失せ、だらだらと異様なまでに脂汗を噴出している。
「ん? どうした?」
若い刑事がその異変に気付いたが、桂川自身にもまだその原因はわかっていないようだ。彼は生唾を呑み込み、腕をさすって消え入りそうな小さな声を捻り出した。
「いえ、ただ何か……ぞっとするほど寒気を感じて」
怯えを見せる桂川だが、そればかりでは、灯の気はまるで済まない。
まだだ。まだまだこんなものじゃない。
私の怒りを、悲しみを、お前も知るべきなんだ。
他人の人生を奪っておいて、自分はのうのうと生きているなんて。
許せない。許さない。許すつもりもない。
一生を悔いて詫び続けろ。もう二度とまともな生活を送れないようにしてやる。生き地獄を見せてやる。
灯の念が彼女の脳味噌を沸騰させる。抑えが効かなくなり、頭からエネルギーが洪水のようにどばどばと放出される。彼女の長い髪の毛が、その力にふわりと軽く持ち上げられている。
その目には見えない力は、さらに机の上の茶碗をごとごとと揺らし、蛍光灯を明滅させた。風もないのに、窓に下がったブラインドががたがたと音を立て始める。
「な、なんだ……!?」
突如発生した異常現象に、刑事も筆記係も慌てふためいている。
「許さない許さない許さない許さない」
灯の怨霊としての力が、これまで以上に活性化され、現実世界にもその影響を及ぼし始めていた。
読経のように抑揚なく口から繰り返される同じ文句が、だんだんと空気を揺るがし始めた。
そしてその微細な波長が、すぐ側にいた桂川の耳元に届いたらしい。
はっとした彼は、音源へと顔を向けると、その瞬間、ムンクの叫びのように顎が外れんばかりに口をかっ開き、ぎょろぎょろした目玉を飛び出させんばかりに見開いて絶叫した。
「すまなかった、すまなかったよう。頼む、堪忍してくれえ。許してくれえ」
地震でもあったかのように頭を抱えると、取り調べ机の下に潜り込んで、亀のように丸まってしまう。
その一連の動作に、刑事たちは呆気にとられているばかりだった。
「な、何だありゃあ……。薬かなんかやってるんじゃないか? とにかくこんな調子じゃ、とても取り調べどころじゃないな。今日はこれくらいにしよう」
しかしその後、桂川の喋りは完全に狂気の沙汰に変貌してしまった。自発的に口から出てくるのは、脈絡のない譫言のような単語の羅列で、刑事が何を訊いても許してくれの一本調子。
薬物検査も行われたが、当然のごとくその結果は白。困惑した捜査官たちが頭を抱えてしまうのも無理はなかった。
その日の夕刻のニュースで、始めて桂川のことが報道された。もちろん、そこでは発狂したことは伏せられていたが。
しかしこれが原因で、さらにわけのわからない状況に陥れられるのである。
その夕刻の報道を見た栃木のガソリンスタンド店員だという女性から、警察へ目撃情報の連絡が入ったのだ。
八月二十二日の午後三時半頃、彼女の勤めるスタンドに給油しに来た桂川佑を目撃したという情報が。それも、彼女だけでなく、そのスタンドの店主、さらにはその時偶々居合わせた近所の男性までもが、桂川のことを覚えているというのだ。なんでも、桂川が真っ青な顔をしていたものだから、心配になって声をかけたらしい。それで偶然覚えていたのだ。彼らは以前に桂川と面識があったわけではないため、彼に協力して虚偽の目撃譚をしているわけではない。
おまけに、殺害現場の路地裏からそのスタンドまでは、車や電車ではどんなに頑張っても二時間半かかり、死体遺棄現場からスタンドまでは三時間半かかるというのだから、この目撃情報がどれほど重要なことか、お分かりだろう。
つまり、桂川佑が八月二十二日午後一時三分に殺害した牡丹灯を、奥多摩の渓谷に棄てに行っていては、同日の午後三時半に栃木のそのスタンドに出没することなど、絶対に不可能なのである。また逆に、午後三時半に栃木のスタンドに姿を現した桂川が、遺体発見の午後六時までに奥多摩に死体を遺棄しに行くのも、到底不可能。
その上、桂川佑は人付き合いが苦手で、死体遺棄なんぞに協力してくれるような人間関係など皆無。協力者がアリバイ作りのために片腕を担ったとは考えられないのだ。
死体が勝手に奥多摩の山中まで移動したとでも言うのだろうか――。
探偵、快藤雷馬の登場により、あっさりと幕を引くかに思われた事件は、こうして思わぬ形で犯人に鉄壁のアリバイが生まれ、暗礁に乗り上げる羽目になったのだった。




