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第8話 再会は心痛と共に

 すっかり日が暮れて、辺りには夜の帳が下り始めていた。濃紺に染まり始めた空に、ちらほらと星も輝き始めている。

 とはいえ、東京の街並みは夜でもその脈動を止めることはない。建物の窓からは照明の光が漏れ、商店の看板は騒がしく煌めき、道路は等間隔に植えられた街灯で照らされ、道行く車はどれもこれも眩いヘッドライトの目玉をぎょろつかせている。

 灯の家は、そんな光の喧騒から少し離れ、それらを臨めるような小高い丘の上に立つ団地の一室だった。

 築数十年は経たんとしている、古びた鉄筋コンクリートの団地の壁は経年劣化でひび割れ、色もすっかり褪せている。階段の手すりは塗装が剥げて、代わりに錆が表面を覆っていた。

 その階段を上がって、すぐ左側の二〇一号室が灯の生家だ。


「先程連絡しました、探偵の快藤です」


 ボタンとマイクとスピーカーだけというシンプルなインターホンを押した雷馬が、部屋の中にいるであろう、灯の母に向かって声をかける。

 扉の向こうで、ばたばたと忙しなく廊下を駆けるスリッパの音。がちゃがちゃとドアのチェーンを外すやかましさの後に、ぎいと金属の軋みを伴ってドアが開き、そこから数日ぶりに見る母の顔が、灯の視界に飛び込んできた。

 灯の母――牡丹真子(まこ)は、扉を開けると、ちょっとだけ面食らったような顔になった。


「どうかされましたか?」


 雷馬の問いに我に返ると、母は扉を大きく開け直し、散らかった玄関を申し訳程度に片した。


「いえ、ただ、お早い到着でしたので、驚いてしまいまして」


「やはり、ご迷惑でしたか?」


 雷馬が気遣う素振りを見せたが、母は首を振って、彼を招じ入れた。


「いいえ、そんなことは……。本来なら仕事の時間でしたけれど、灯が死んでしまって、お休みをいただけましたから……。どうぞ、お上がりください」


 雷馬とともに、灯は小さくただいまを言いながら室内に入り込む。

 玄関は数日前に灯が出て行った時と、何らの変化もなかった。家の掃除にかまけていられない母の忙しさを代弁するかのように、掃除用具やら傘やらが無造作に転がっている、生活感溢れる玄関。短くて暗い殺風景な廊下。その先の開いた扉から垣間見える、狭いリビング。その間には、風呂場とトイレのドアに並んで、灯の名前が刻まれたプレートのかかったドア。

 灯は感慨無量だった。とても信じ難いような事象の只中にいた灯だったが、自分の領分であるこの室内に足を踏み入れた瞬間、絶対的な安心感が彼女の身も心も優しく包み込んでくれるのだ。

 差し出したスリッパに履き替えた雷馬を、母が先導してリビングに案内した。その背中は微妙に丸まっていて、身体を前倒した勢いで歩いているような状態だった。足は殆ど上がっておらず、スリッパを床に擦らせて歩いている。


「散らかっていて申し訳ありません」


 中へ入れながら、彼女は小さくぺこりと頭を下げる。

 その言葉は謙遜ではなく有りのままを表しており、確かにリビングは雑然としていた。棚の上には記念写真やら花瓶やらぬいぐるみやらが雑多に飾られ、テーブルの上には読みかけの新聞が置かれているし、飲みかけのコーヒーもそのままの状態だ。統一感のない色彩のカーテンや家具、カーペットや壁紙が、余計にそのごちゃごちゃした様子を助長させる。


「いえ、構いませんよ。突然連絡を入れた私が悪いんですから」


 雷馬は勧められるがままに椅子に腰掛け、その対面に母が座った。灯は雷馬の後ろに立って、その様子を見守る。


「それで……、お話したいこと、というのは?」


 母が口火を切った。

 彼女の話す調子は暗く、その声はまるで喉元を圧搾されているかのように低かった。

 こうしてまじまじとその表情を見てみると、殊更いつもと変わった様子は見られない。頬がこけているとか、目が虚ろだとか、そういうあからさまな変容はない。ただ、灯とは違って活動的に動けるようにするため、いつも短くしている髪の毛の白髪が、ちょっとだけ目立っているような気がした。うっすらと目の下に隈もあるだろうか。


「ええ、やはり娘さんの死は他殺によるものでした。そして、実を言うと娘さんを殺害した、その犯人を突き止めまして――」


 すると、俄かにぱあっと母の表情が明るくなる。


「本当ですか!? よかった……。これで、あの娘も少しは浮かばれると思います。それにしても、依頼してからまだ一日足らずですのに、もう犯人を捕まえるに至るなんて、流石、名探偵と評されるだけのお力がおありなんですね。本当に、ありがとうございます」


 早合点して一人で勝手に話を進めてしまう母を、雷馬は慌てて制した。


「待ってください。まだ突き止めたというだけで、逮捕はできていません」


「はあ……そうなんですか」


 あからさまに落胆の様子を見せる母。ぬか喜びさせてしまったことを詫びてから、雷馬は改めて捜査状況を報告し始めた。


「実は犯行の一部始終が監視カメラに映っていまして――」


 会話している二人をよそに、灯は自分の部屋へと入ってみた。

 扉は閉ざされていたが、質量を持たない身体はそれを難なく通り抜け、室内へ入ることができた。

 部屋の中は、これもまた、灯が最後に見た時の状態そのままだった。

 小さな本棚はぎっしりと本で埋まっている。どれも読みすぎたせいで、ページもカバーもよれよれのぼろぼろだ。小学生の時に買ってもらった勉強机の上は、学校の宿題プリントが散らかり、ペンだの消しゴムだのがその上に転がっている。女っ気のない部屋に、ささやかながらに彩りを添える、ベッドのそばの熊の縫いぐるみ。そして、友達と映っている体育祭の写真。

 部屋を一通り見回してから、灯は目を瞑った。

 すると不思議と、暗闇の中に映像が浮かび上がってくる。それとともに、音の記憶が鼓膜を震わせた。

 幼い頃にこの部屋で過ごした記憶。小学校に上がって、ここで友達とごっこ遊びをした記憶。中学校に上がって、この部屋で恋話をにやにやしながら聞いていた思い出。

 その映像は時系列に沿って、明滅しては切り替わっていった。

 一雫、頬を涙が伝ったが、灯はそれで止めにした。

 過去にしがみついてばかりいても、もう取り返しはつかない。

 今やるべきなのは、全てを奪った殺人犯への復讐。それだけだ。

 灯は部屋から出ると、リビングへと戻った。


「――というわけですから、ご心配には及びませんよ。犯人はすぐに逮捕されると思います」


「わかりました。ありがとうございます」


「ところで、あの写真に写っている男性は……?」


 雷馬は棚の上に飾られた写真の一つに言及した。それは、灯と両親が揃って写っている、数少ない写真の一つだった。そこに並んだ写真の中では、それが唯一で、他は全て灯だけか、灯と母とのツーショットだったので、彼の目に留まったのだろう。


「ああ、灯の父です。灯がまだ小さい時に亡くなりましたけど」


 母は昔を懐かしむように、遠い目をした。


「亡くなった、と言うと、事故か何かで?」


「いえ、そうではなくて……その……」


 家庭の事情を簡単に口にするのは憚られたのか、母が言い淀んでいると、


「依頼人の情報は外部には漏らしたりしませんから、安心してください」


 雷馬がそう促した。

 それでも母は暫しの間逡巡していたが、やがて観念して口を開いた。


「はあ……。実は、自殺したんです」


「自殺?」


「ええ、折しもその時は不況に見舞われていまして、どこの会社でもリストラがありました。夫もそのご多分に漏れず……。元々、上司から嫌がらせを受けていたようで、そこへ駄目押しでリストラを受けて、精神的にすっかり参ってしまったらしくて」


「それは、奥さんも大変だったでしょう。心中お察しします」


 と形式的に慰めをかけると、母は気丈に小さな笑みを顔に浮かべた。


「いえ、ありがたいことに、夫の保険金がありましたから。ただ、最近はそれも尽きかけてきて……。今の仕事はあまりお給料が良くないのですが、私、朝は体調が悪くて。今のように午後出勤の仕事でなければとてもできないのですけど、そうなるとあまり仕事は選べなくて」


「成程、日本の企業というのは、生活が多様化しているのに、未だに九時五時の労働形式が多くを占めていますからね。本来ならば生活様式に合わせて変化させるべきなんですが」


 自分は仕事に就いているわけでもないただの高校生のくせして、まるで評論家のように口幅ったくのたまう雷馬に、何様のつもりよ、と灯は小さく毒づいた。

 そこで何気なく雷馬は腕時計を見てはっとすると、慌ただしく席を離れた。


「おっといけない、もうこんな時間ですね。では本日はこれでお暇することにします。警察にこのデータを提供しに行かなければなりませんし」


 ポケットから取り出したUSBメモリを、誇らしげにこれ見よがしに掲げた。

 すると、ふと何か思いついたのか、彼は母に向かって尋ねた。


「ああ、そうだ、もう一ついいですか。今日って何日の何曜日だかわかりますか? このテープを提出するのに必要になると思うので、できれば今のうちに確認しておきたいのですが」


 それを受けて、母はリビングの中をぐるりと見回し、さらにポケットの中を弄った。


「ええっ……と」


 しかし、欲しているものがなかったのか、


「すみません、ちょっとお待ちください」


 と断って、リビングを出て行こうとした。

 その時だった。

 母の身体が、リビングのドアの近くに立っていた灯の眼の前でぐらりとバランスを崩したのだ。彼女は灯の真横に当たる壁に、手をついてしゃがみ込んでしまう。


「大丈夫ですか?」


 雷馬も灯も、慌てて彼女の側に駆け寄ってみると、目頭を押さえて苦しそうに喘いでいる。

 しかし、少し呼吸を整えると、壁を支えにして立ち上がり、


「ええ、ちょっと眩暈がしただけです。このところ、あまり眠れていないので……。もう大丈夫です」


 雷馬の差し出した手も借りず、そのまま廊下の奥へと消えてしまった。

 あまり表面には出ていなかったが、やはり身体は正直だ。

 灯を殺されて、その影響が出ているのだ。

 灯は自分を責めた。


「私のせいだよね……。私のせいで、お母さんがあんな目にあってるんだよね……」


 絞り出した蚊の鳴くような声が、灯の喉元から発せられる。

 その心中を慮ったのか、雷馬が棚の写真をそっと手に取り、彼女に声をかけた。


「まあ、辛い気持ちはわかるよ。この写真を見れば、仲のいい親子だったことは手に取るようにわかるし」


 その写真には、灯と母が並んで写っていた。背景に色鮮やかな花の咲き誇っている花壇がある。これは、今年の六月、三者面談の帰り道に、偶然綺麗な花壇を見つけて、思わず二人で並んで撮ってもらった写真だった。

 二人とも、今とは比べ物にならないほどの明るい満面の笑顔だ。先々の不安なんて微塵も感じられないその表情で、仲良くピースサインをしている。こうして見てみると、自分は母の遺伝を大きく受け継いでいるのだと灯は実感した。

 似たような体型に、笑うと頬に現れるえくぼ。右目の下の泣きぼくろ。反面、父の面影はあまりない。

 幼い頃から、近所の人からも、灯ちゃんはお母さん似なんだね、とよく言われたことを思い出した。

 ただ、どちらかといえば勝気で芯の強い性格の母に比べると、灯は消極的で弱気で陰気と、全くの正反対なのである。

 この性格こそが父譲りのものなのだろう。

 灯は繁々とその写真を眺めていたが、そこへぱたぱたとスリッパを鳴らしながら母が携帯を手に戻ってきた。


「すみません、お風呂場に携帯を置きっぱなしにしていたみたいで」


 携帯を操作し、母は画面を見て言った。


「ええと、今日は八月二十四日の土曜日ですね」


「お手間を取らせて申し訳ありません」


 雷馬は深々と頭を下げた。


「カレンダーとかは飾ってなかったんですか?」


 彼がそう訊くと、母は携帯をポケットにしまって、


「今は携帯があればわかりますから」


「それもそうですね。おっと、こうしてはいられません。今度こそ本当にお暇します。では」


 雷馬は灯とその母に見送られ、玄関を出た。

 しかし、灯はあることを思い出し、玄関をすり抜けて、靴を履き直している雷馬の前に立ちはだかった。


「どうかしたか?」


 体勢を元に戻した彼が、灯に気付いて片眉を上げる。


「このまま貴方がいなくなったら、もう私、貴方と連絡取れなくなっちゃうでしょ。そしたら、事件の解決をちゃんとこの目で見届けられないじゃない」


 雷馬の住まいがどこで、その連絡先が何番なのか、それさえも灯は知らないのだ。

 これで捜査は終了、お疲れ様でした。というわけにはいかない。是非とも犯人に直接会いたいのだ。

 直接会って、そして――、


「犯人が逮捕されたら、またここに来るよ。その時は、一緒に警察署に行ってみよう。君は映像で見た限りは面識ないって言ってたけど、直接容疑者と面通ししたら、何か思い出すかもしれないからな」


 雷馬は灯の心情を見抜いているのかいないのか、ともかくそう約束して、ジャケットを羽織り直した。


「うん……、そうだね」


 ――どくり。

 灯はその時、妙な胸騒ぎを覚えた。

 それは愈々犯人に相対することができるかもしれないという、武者震いから来ているのだろうか、あるいはもっと別の何か、具体的にそれが何かはわからないが、本能的に察した何かなのだろうか。


「じゃあな」


 雷馬は片手を挙げて、階段の先に消えていった。

 灯は暫く妙な胸騒ぎが収まらず、不安げにそこに立って、団地の立つ丘から駅へと向かう坂道を下って行く雷馬の背中を見つめていた。


 それにしても、日本の警察の優秀な事。それからたった二日ほどの間に、このおよそ一千万人が住まう狭窄であり広大な東京において、たった一人の犯人を見つけ出し、逮捕に踏み切ったのである。

 容疑者の名は桂川佑かつらがわたすく――。彼のマンションの部屋からは、殺害時に灯の着ていた制服が見つかり、彼の所有するワゴン車は、映像の中に出てきたものと型が一致。さらにその内部からは、犯行に使用された、歪んだ鉄パイプが発見された。血は洗い流されていたが、そこからは血液反応がはっきりと現れ、証拠は既に十二分。

 逮捕、拘留された桂川は観念したのか、警察の取り調べにも素直に応じ、犯行を認めたのである。

 これにて事件は一件落着。

 後は検察に送られ、裁判を待つばかりとなっていた。

 しかし――、あの時の灯の胸騒ぎは、まさしく第六感の為せる業だったとでも言おうか。その予感通り、思いもかけない波乱が、灯と雷馬を待ち受けているのだが、それはもう少し先の話である。

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