第6話 現場は血痕と共に
一時間ほどして、ようやく灯は、自分の生まれ育った街へと戻ってきた。
あの山の中で何日も放浪していただけあって、二十三区から離れた郊外の小さなこの街でも、よっぽど都会に見える。たかだか数日ぶりの故郷でも、灯にとっては目に見るもの何もかもが、愛おしく映った。
駅前の年代を感じさせるちょっと寂れた商店街や、並び立つマンションや一軒家の街並み。ベビーカーを引いて愉しげに会話を交わす夫婦。道行く買い物帰りの親子。はしゃぎながらふざけあう小学生の集団。排ガスの臭いに電線でごちゃごちゃした空さえも。
本来なら、もう二度と見ることのなかった景色。
その事を噛み締めながら、灯はいつも以上に周囲を眺めながら歩いた。
しかし、自分と同じ制服を着た女子高生が通りかかると、彼女ははたと足を止めた。
「部活マジたるすぎ~」
「ね、せっかくだし、この後カラオケ行かない?」
それは、灯に見覚えのある二人だった。同じクラスの吹奏楽部に所属している二人。特に親交が深かったというわけでもないが、街で見かければ声をかける程度のことはしていた。
その二人が、灯のことなど気付くこともなく通り過ぎていく。
もしかしたら、雷馬のように自分の姿が見えているかもしれない。どこかでそんな期待を抱いていたが、それはついぞ叶わなかった。
彼女たちが駅の方に歩いていくのを、灯は羨望の眼差しで傍観することしかできない。
もう彼女たちと自分とは、存在している世界が違うんだ。
それを痛感させられた。
中天に煌めき、あわよくば手が届きそうにも見える星々が、その実何万光年も離れた遥かに遠い遠いものであるように。
こんな事件なんかに巻き込まれなかったら……。
これまでに何度となく浮かんでは消えたその言葉だが、この時ほど辛く胸に突き刺さったことはなかった。
肩を落とす灯に、雷馬は声をかけあぐねているようだった。
何を言ったところで、自分も灯とは違う世界の存在であることに変わりはない。それを余計に感じさせてしまうだけ。
そう思ってか、彼女が再び歩き出すまで、何も言わずにそこで待ち続けていた。
*
二人が例の路地裏に辿り着く頃には、すっかり陽は傾いて、建物ででこぼこした地平線を鮮やかな橙で染めあげようとしていた。
「ここです。ここで、私、殴られたんです」
それは灯の家である団地からは、歩いて僅か五分足らずのところにある、電気店と喫茶店の間だった。
どちらの店も三階建てのビルに入っているため、路地の中にまで日差しは届いていない。明るい外側から見ればなおのこと、路地はそこだけが切り取られてしまったように純粋な闇が支配している。
この時間に路地に入ることはなかったため、灯の脚は怖気づいて、根が生えたように動けなかった。
中に誰かが潜んでいるような気がする。
それまでは、そんな風に感じたことなどなかった。ただのショートカットのための道。それだけだ。
だが、ここで灯は襲われ、そして殺された。
それを考えると、そんな恐怖に囚われてしまうのは無理もないことだった。
そしてその想像を、眼前に広がる暗闇が増長させる。
誰かがこちらを見ている。観察している。舌舐めずりしながら獲物を待ち構えている。そして、間抜けにも中に入り込んだ人間を、殴り殺すんだ。
慄然として、灯の肩がぶるりと震えた。
それを見兼ねて、雷馬が先に路地に足を踏み入れた。
周りが見えないのか、壁を触りながら、石橋を叩いて渡るごとくに慎重な足取りである。
が、どうやら誰も中にはいないらしい。
手招きで灯を呼び寄せると、屈みこんで地面を探り始めた。
「何かあった?」
手招きに応えて、灯はそろそろと中に入っていく。
身体が影の中に飲み込まれた瞬間、何とも言えない寒気を覚えた。視界を完全に奪われて、ぞぞと背筋が粟立つ。
ここで私は襲われたんだ。
その時の光景がフラッシュバックして、背後がどうしても気になる。
灯はちらちらと後ろを伺いながら、雷馬に近づいた。
路地裏は、夏とは思えないほどじめっとしていて薄ら寒い。灯は自分を抱くようにして身体をさすった。
犬のように四つんばいになりながらコンクリートに顔を近づけていた雷馬だったが、急に灯の方を振り向いたかと思うと、地面を指頭で指し示した。
「見てくれ、これ」
そう言われても、まだ夜目の効かない灯には、ただ闇の中を示されたにすぎない。
雷馬の肩越しに目を窄めて凝視してみると、次第次第に暗さに慣れてきたようだ。薄ぼんやりと周りの輪郭が掴めるようになった。
ビルの壁。コンクリートのひび割れた地面。雷馬の指先。
そしてその先に――、
「血痕だよ」
反応がないのを、灯にはそれが何かわからなかったと思ったらしく、雷馬が説明した。
「恐らく、君のものだろう。よく見れば、壁にも幾つかある」
今になって、灯はようやく彼の示していたものを見つけた。暗灰色のコンクリートに、さらに濃度の高い模様が点々と飛沫している。すっかり乾いて凝固しているようだが、彼の言う通り、それは血の跡だった。壁面に飛び散っている様子も窺えた。
それから雷馬は立ち上がると、上の方を見上げながら、ぐるりと見回す。
灯の背後に視線を移していくと――、
唐突にそこを指さした。
「やっぱりだ。人間以外の証人、見つけたよ」
軽やかな声調で、発見に喜んでいるのがわかる。
灯も首を捻って雷馬が指差した先を見てみたが、そこには看板の上にカラスが一羽とまっているばかり。黒真珠のような光沢を放つ眼光が、こちらを俯瞰している。
「まさか、あのカラスが証人だなんて言わないよね……?」
苦笑を浮かべる灯に、雷馬は何を言っているんだと言わんばかりに大袈裟な溜息を吐いた。
「そんなわけないだろう。見えないの? そのもうちょっと上の方だよ」
カラスからほんの少し黒目を上向けると、ビルの壁に設置されたそれが、灯にも視認できた。事の成り行きには一切関与しようとせず、何が起ころうと傍観者であり続ける、静謐なる目撃者――監視カメラが灯たちの方に向いているのだ。
灯は早とちりで破茶滅茶な発言をしでかしたことに、顔から火が出そうになった。周りが暗いのが幸いだ。
「きっとあれに犯人の姿が映ってるはずだ。事件ももう直ぐ解決だな」
俄かに事件の真相へと続く希望の光が見え始めた。
あの監視カメラがダミーでないことを祈りながら、灯は雷馬に続いて路地を出ると、電気店に足を踏み入れた。