第5話 下山は会話と共に
灯の話に相槌すら打たず、黙って真剣に耳を傾けていた雷馬は、彼女が喋り終わると、顎に手を当てて思案げな顔になった。
「その話が真実なら、君が襲われた現場だっていう、その路地裏に行ってみた方が良さそうだな……」
灯に話しかけるというよりも、思考が口から垂れ流されているかのように、ぶつぶつと独り言ちている。
最初は灯にも伝えようと、声を大にして発していたのが、言葉が続くにつれて、その声量がどんどん小さくなっていく。徐々に自分の世界に入り込んでいるのだ。
彼の言葉をより明確に聞き取るため、灯は耳を近づけようとして、急激に肝を冷やした。唐突に、雷馬がぐるりと身体を反転させたのである。
未だに小さく唸るようにぶつぶつと何事か唱えている雷馬は、来た道を引き返そうとしているのだ。
「あ、ちょっと、現場見に行かなくていいんですか?」
灯は慌ててそう声をかけると、念仏は止まったが、彼は足を止めずに首を振った。
「ああ、死体のあった現場は既に警察が調べているはず。それよりも、君の殴られた路地裏の方が、調べがいがありそうだからね」
人が死んでいるというのに、愉快そうに声を弾ませる雷馬に、灯はまたも不快感を抱いた。
「調べがいって……」
「それだけじゃない。街中なら人通りはそれなりにあるだろうし、そこを通る人間は日常的にその道を使っている可能性が高い。こんな山奥で聞き込みするよりも、そっちの方がよっぽど何か情報が得られそうだ。それに、山奥にはいない、人間以外の証人のいる可能性も考えられる」
「人間以外の証人?」
ペットか何かの動物が証人になり得るとでも言うのか。そんなものが証拠として採用されるなど、到底有り得ないように思うのだが。
確かに先程からの話を聞いていると、人並み以上の推理力があるのは間違い無いだろうが、本当にこの探偵とやらを信頼してもいいものか。
しかし少なくとも、彼に付いていけば、この忌々しい山から下りられるはずだ。
灯は心の中で彼への疑念に押し問答を繰り返していたが、より深く考え始める前に、
「まあともかくそういうわけで、俺は今からその現場に行くから、君、案内してくれよ」
と言う雷馬の言葉に、反射的に首肯で返していて、もはや後には引けなくなったのである。
*
歩いて下山している間、灯は雷馬から事件の概略を聞き出した。
灯の記憶、警察の見解、そして雷馬が聞いた灯の母の話を総合すると、その流れは以下のようになる。
八月二十二日の午後一時少し前、灯が学校の図書館へ出かけ、路地裏で何者かに襲われる。司法解剖の結果、死亡推定時刻は正確性を得るため幅を取ったが、せいぜい八月二十二日の午前十一時半から午後一時半の間で間違いないことが判明しており、これはまさしく、彼女の記憶と合致している。
灯の母は午後一時少し過ぎに家を出て、仕事先に向かった。一時十五分頃から仕事を始め、午後六時頃、休憩を取った際にいつものように仕事で遅くなるため、夕食は適当に先に食べておくようにと灯へ連絡を入れようとしたが、何度電話しても灯が電話に出ない。不審を抱きながらも、忙しくて電話に出られないのかもしれないと思い直し、そのまま仕事に戻った。
しかし、その時既に灯の死体は奥多摩――灯の予想とは違い、ここは東京であったのだ――にあるこの山の谷底に倒れ伏しており、この時母のかけた電話の着信音で、偶々近くを通りかかった登山客が崖下を覗き込み、死体に気付いたのだという。その客は当初、遠目ではそれが死体だとはわからなかったが、人のようなものが倒れていることはわかり、慌てて近くの集落の駐在に駆け込んで、そこにいた巡査を呼び出した。連れてこられた巡査は、崖下に降りるとそれが紛れもなく死体であることを確認し、所轄署の方に応援の連絡を入れたのだそうだ。
灯が襲われた現場からこの山までは、車でも電車でも、片道でおよそ一時間ほどかかるというから、犯人がここへ灯を棄てにきたのだとしたら、それは少なくとも午後二時以降六時以前のこととなる。
しかし、いずれにしても、この辺りを通るのは殆どが登山客だそうで、数日前のことを知っている人間など今はもう皆無。警察も手をこまねいているし、雷馬自身の調査も徒労に終わったという。
「全く、疲れるばかりで何も得られないんじゃ、たまったものじゃないよ。歩き回って、お陰で足はぱんぱん、暑苦しくて敵わないよ」
愚痴を零しながら、雷馬はジャケットを団扇代わりにばさばさと仰いだ。
しかし、暑い暑いと言う割に、汗はあまりかいていない。そういう体質なのだろう。
「この暑い中そんな格好してたら、当たり前だと思うんですけど。山に来るのがわかってたんなら、登山の格好で来ればよかったんじゃ……」
と灯が呆れ顔で至極当然の指摘をすると、雷馬はさらに愚痴を返した。
「そりゃあ俺だってね、そうしたいのはやまやまだよ。でも、俺を知らない人には、フォーマルな格好じゃないと探偵だなんて言っても信じてもらえないからね。特に俺はまだ高校生だし、餓鬼風情が偉そうに刑事の真似事なんてするなって言われるし。でもまあ、この格好なら、少しはマシに見えるし、年も誤魔化せるかなって」
雷馬は手を広げ、自分のスーツを見せびらかした。探偵業の為に大枚叩いて買った一張羅だと自慢げに補足する。
それが何だか鼻について、灯は少々意地悪な嘘を吐いた。
「正直、スーツに着られてるって感じに見えるけど」
雷馬はムッとした表情になって、
「ああそうですか。どうせ君みたいなただの高校生には、この感性はわかりませんよ」
と卑屈に返した。その言い方がおかしくて、灯は小さく笑い、それを見た雷馬がつられて破顔する。
それは先刻見た作り笑いではなく、嘘偽りのない、心底からのものだったように、灯には見えた。
思索に耽っている時の彼は、まるで舞台役者のような整った顔つきのためか、ともすれば二十代にも三十代にも取れるような風格があるが、顔を綻ばせると、その屈託のない笑みに、まるで少年のような印象を受けた。
「それにしても、そんな風に忠告されたりしてるのに、なんで探偵なんかやってるの?」
灯の疑問に、雷馬はあっさりと答えた。
「俺の唯一の趣味だからね。こればかりは、誰に何を言われても辞める気はないよ」
「何がそんなに楽しいわけ? 私にはさっぱりわからないんだけど」
ふと気が付いたら、彼の口調はすっかり崩れたものとなり、いつの間にやら自分もそのペースに持ち込まれていた。
「ふむ、まあ、言うなれば、難しいパズルを解いた時のような達成感や爽快感を味わえるのが醍醐味だね。それならゲームでも小説でもいいじゃないかって言うかもしれない。確かにそれらも十分に刺激的だけれど、本物の事件は犯人との一騎打ちの真剣勝負。犯人は失敗すれば逮捕される。逆に俺は失敗すれば冤罪を生み出した人間として社会的に責められる。どちらもやり直しはきかない。そんなまさしく背水の陣の環境でやるからこそ、創作物などでは到底感じられないスリルを味わえるんだよ。それが何よりも面白いんだ」
さっきも思ったことだが、人が死んでいるというのに、面白いというのは、何か間違っているんじゃないか。不謹慎というやつだ。
灯はそれを口にしようとしたが、まるで彼女の心の声を察したように雷馬が続けた。
「不謹慎だって思っただろ。まあ、そう思っても別にいいけどね。ただ、文句を言うなら、俺じゃなくて、犯人に言って欲しいよ。事件を起こしたのは、他でもない犯人なんだから。それに、俺のやってることは少なくとも人の役に立つ行為。事件を解決すれば、自分自身の知的好奇心を満たすばかりではなく、犯罪者に法の鉄槌を下すことができるし、それで少しは被害者やその遺族も浮かばれる。ただ面白がって事件に群がるだけの野次馬とは違う」
「それはそうかもしれないけど……」
理解はできる。だが、灯の道徳心や倫理観では、彼の主張に心底釈然とすることはできなかった。
役に立っていれば、どんな心情で事件に望んでもいいものだろうか。仮に彼が楽しさを前面に押し出していたとしたら――?
遺族だって、とてもそんな人間に捜査を頼もうとはしないだろう。私だって御免だ。
そう思っていると、またしても雷馬は灯の心中を慮ってか、こう付け加えた。
「俺だって、流石にいかにも事件を楽しんでますなんて顔して捜査はしないよ。犯人の仕掛けた謎を解くのが楽しいだけさ。人が死ぬことが楽しいわけじゃない」
なんと返したら良いかわからず、少しの間灯は黙って雷馬の後をついて行った。
雷馬との距離感が、ほんの少し詰まったような気がしたが、こうなるとまた退いてしまう。
だいぶ山を降りてきたようで、人通りも多くなり、道路の周りには民家が並び始めた。看板によれば、あと少しで駅まで辿り着けるらしい。
心なしか、灯の地面を蹴り出す勢いも高まる。
ほっと胸を撫で下ろした灯は、ずっと胸に引っかかっていたことを雷馬に尋ねた。
「ところで、お母さんの様子はどんな感じだったの? 事件の捜査を頼まれたってことは、会ったんでしょう?」
しかし、彼の答えは、灯の望んでいたものではなかった。
「いや、まだ直接会ってはいないよ。電話越しに依頼されただけだからね。でも、声の調子ではそこまで窶れているような感じではなかったよ。まあ、他人に電話するんだから、気丈に振る舞っていたのかもしれないけど」
「そう……」
灯が物憂げに俯いていると、雷馬はそれを見兼ねたのか、ぶっきらぼうな調子で、
「そんなに気負う必要ないんじゃないかな。確かに親よりも早く死ぬなんて、そりゃ親不孝者だって言われるかもしれないけど、君の場合は自分で意図したわけじゃないし。お母さんだって、君のことを信じてるからこそ、自殺は有り得ないと思って俺に捜査を頼んだのかもしれないしね」
灯のことを憂慮して、慰めているつもりらしい。
こういう行為は自分には似つかわしくないと思っているのか、雷馬は気恥ずかしそうに首筋をぼりぼりと掻いていた。
それでも灯には、その気持ちがなんだか少し嬉しかった。
「お母さんのこと、やっぱり心配なんだ?」
雷馬の問いかけに、灯はこくりと頷いた。
「うん、私が小さい時に、お父さんが死んじゃって、その時もお母さん、随分参っちゃってたから。毎日あんまり眠れてないようだったし、夜になると、もうたくさんとか、こんな仕打ちはもう勘弁してちょうだいとか、お願いだから赦してとか、祈るみたいに何度も繰り返してて。子供ながらに、何か尋常じゃないことが起きてるんだと思って、怖かったんだ。今回もそうなってるんじゃないかと思うと、気が気じゃなくて」
「まあ、大丈夫さ。幸運にもお母さんは俺に依頼してきたわけだからね。すぐに解決してみせるさ」
自信過剰もここまでくれば大したものだ、と灯は目を丸める。
「さっきからそう言うけど、どこからそんな自信が出てくるわけ」
「才能、かな」
至って真面目に答える雷馬がおかしくて、灯はふっと吹き出した。
気まずさが少しだけ薄れて、二人は事件から離れ、ちょっとした世間話に花を咲かせながら、駅までの残りの道のりを歩いた。
世間話と言っても、基本的には灯が学校の出来事だとか、最近読んだ本だとかのことを話し、雷馬はそれに合いの手を入れるだけだ。というのも、雷馬が喋ると、どうしても自分の携わった事件の話に持って行こうとしてしまうからだった。
しかし、その駅までの僅かな間に、灯は自分の置かれた状況をすっかり忘れることができた。
幽霊ではなく、一人の高校生として、まるで放課後に二人で並んで学校から帰っているような、そんな感覚を抱いていた。
だが、駅までくると流石に人もたくさんいる。こんな状況で雷馬と話していると、周りからは灯の姿が見えないのだから、雷馬が変に思われてしまう。
電車に乗りこみ、自分のよく見知った最寄りの駅に着くまで、彼女はただ黙って外の景色を眺め続けていた。




