第4話 聞き込みは写真と共に
その青年の出で立ちは、こんな山中にはとてもそぐわない、ぴしっとした正装だった。かと言って、一昨日見た刑事の格好とも異にしている。ジャケットはくたびれてはおらず、まだ新品のように見えるし、ネクタイもしていない。夏には暑そうな黒のハイネックに紺のスーツ、そして黒革の靴。熱を帯びた紫外線を一身に集約しているが、その額には汗ひとつない。
おおよそ七三に分けた落ち着いた髪型だが、毛先は適度に遊ばせてあり、それなりにお洒落にも気を遣っているようだ。やはりこれも、一昨日の男臭くてファッションには無頓着そうな刑事たちとは違う。
「な、なんですか?」
胡散臭さに思わず身構えながら返答したが、彼は一向構うことなく営業的笑顔を崩さない。歯を覗かせずに、口の端だけを持ち上げている、他人に見られることを計算した、仮面のような笑み。
「私、この付近で少々調べ物をしておりまして。その調査にご協力願えれば、と」
「協力?」
「ええ、こんな山奥の道に、制服姿で一人佇んでいる貴女を見て思ったんですよ。きっとこの近くに住んでいる人じゃないか、とね。こんなところまで、遠方からわざわざ制服姿で来る女子学生がいるとは考えにくいですから。それで、この付近でこの方を見たことがないかと、尋ねようと思いました」
彼は人差し指を立てて得意げだ。まるで、自分は曇りなく物事の真髄を見通すことができるのだ、とでものたまうような、不遜な態度。
しかし灯は、彼が胸の内から取り出した一葉の写真には目もくれず、だらしなく手を振って、外れた推理を一笑に付した。
「それは残念、私、この辺の人間じゃないから」
ぴくりと青年の眉間に皺が寄る。
「……っ。そう、ですか。まあそれでも構いませんよ」
梟のように首を傾げて訝しんでいたが、気を取り直して彼はもう一度尋ねた。
「この写真の方を、ご存知ありませんか? 実は一昨日、この辺りで亡くなってしまったらしいんですが、如何せん目撃情報がないもので。藁にも縋りたいのですよ」
何気なく写真を受け取ろうとした灯は、そこではたと静止した。
亡くなったというワードで呼び起こされた、今の自分の此岸と彼岸の狭間の状態。極々自然に話しかけられたものだから、すっかり頭から削げ落ちていた前提。
それが今やっと、灯の中に大きな疑問を従えて戻ってきたのだ。
この人――、幽霊の私と話をしている。
私の姿が、見えている?
「ど、どうして……」
驚きのあまり、それが口から零れ出た。
しかし彼はそれを、写真を見たことで心が揺らいだと推察したのだろう。
「どうかしたんですか? もしかして、お知り合いとか……」
と写真を見直して、そして彼もまた、そのまま動きを止めた。
今このタイミングで、やっと彼は気付いたのだ。彼が情報を求めている人物と、眼前にいる人物とが、同一人物であるということに。死亡したはずの人間が、立って自分と会話をしているという異常に。
最初は事態をよく呑み込めていない、という風で、何度も何度もバグでも起こしたように写真と灯とを見比べていたが、愈々それが間違い無いと分かると、彼はまたしてもその動きを止めた。
そしてその事実が、彼の笑顔を装った面を、みるみるうちに驚愕で上塗りすることになったのである。
「……え、あれ、なんで……」
失語症を引き起こしてしまったように、彼の口から出てくる言葉に意味などなく、それはただ場を繋ぐためのものでしかなかった。
幾滴もの汗が、彼の頬を伝っている。
目を瞬かせていた彼は、しかし、何か現実的な解答を思い付いたらしく、はっとして、
「あ、ああ、成程、貴女はこの方――牡丹灯さんの、双子の姉妹ということですね。あるいは、ははあ、ミステリーではよくある、死んだように見せかけて、実は生きていたと。でなければ――」
勝手に一人で合点して、矢継ぎ早に結論を繰り出していた。
他人が慌てていると、自然と自分は落ち着きを取り戻せるもので、逆に沈着になれた灯は、彼の言葉の弾幕を制した。
「違いますよ。私が牡丹灯です。姉妹も兄弟もいません。それに、間違いなく死んでいます」
彼は唇を引き攣らせて、ひくひくとぎこちない苦笑いを上げる。
「そ、そういう冗談は、全く面白くありませんよ。俺は幽霊だとかいう、非科学的なものは信じていないんですから」
「それは私にしたって同じですよ。目が覚めて、倒れている自分の死体を見下ろす。一昨日、そんな出来事が起こるまで、超常現象なんて創作か錯覚だと思っていたくらいです」
毅然としたまま応じる灯とは対照的に、彼はさらに狼狽を見せた。
「そうは言ってもねえ、君が幽霊だということを証明してくれないことには、俺だって信用もなにもできないっていうもんだよ」
すっかり取り乱している彼の口調からは、取り繕っていた営業のようなよそよそしい老成した雰囲気は掻き消え、今や少し気取った高校生くらいの喋りに聞こえる。
「じゃあ、見ていてくださいよ」
灯は右手を前に差し出し、そのまま彼の持っている写真を掴もうとした。しかし当然、指は紙を通り抜け、霧を掴むが如くである。いや、どちらかと言えば、手のほうが霧なのか。
それをまじまじと見ていた青年は、遂に眩暈でも引き起こしてしまったようで、ぐらついた足を堪え、目頭を押さえた。
「ば、バカな……。どんなトリックを使っているんです?」
「種も仕掛けもありませんよ、ほら」
灯は認めようとしない青年の手に触れようとしたが、手応えもなくすり抜けてしまう。
「そんなはずは……」
自分でも灯の肩を掴もうとして、やはりできないことに帰着する。
次いで、あたりをきょろきょろと見回し始める青年。どこかから映像を投影しているのではないかと考えたらしいが、それもほんの少しの間だけで、何もないとわかると信じられないとばかりに首を振った。
「ま、まさか、本当に、ゆ、ゆう、幽霊……?」
青褪めた唇を戦かせながら、やっとの思いで彼はそう口にした。灯は素直に頷いたが、彼はしかし、まだ彼女の存在を認めたくないようで、苦虫を噛み潰したような顔である。
大きく溜息を吐いた彼は、渋々という感じで声を発す。
「マジで、嘘だろ」
掌で顔を覆い、天を仰ぐ青年。
「信じられないし、信じたくないけど……。そうじゃないと説明付けられないしなあ……。物体をすり抜ける時点で人間でないのは確かだし、霧も何もない状態で、空気中に映像を映し出す技術なんてまだ開発されていないし、透明なガラスのような液晶があるわけでもない――」
首に手を当てた彼は彼女のぐるりを回り、繁々と観察している。
「それに、そもそもこれがトリックだとして、わざわざ俺にそんなことをする意味もない」
腕を組むとそう呟いて、神妙な顔で黙りこくってしまう。
「やっと信じてくれましたか」
灯は彼の顔を覗き込んだが、彼はまだ渋面でいる。
「う~ん、だから、俺の心情としては、未だに信じたくはないんだよ。君だってオカルト否定派ならわかるだろう、この気持ち」
それまで、現実的で科学的なことのみを信奉してきた青年にとっては、それを認めることイコール自分の信念を歪めることになるのだろう。しかし、これが作為的で科学的なトリックだと証明しようとすればするほど、認めざるを得ない状況へと追い込まれていくのだ。それはつい一昨日灯が味わった、自分の死を認めたくないという感覚に似ているのかもしれない。天と地が入れ替わったような、まさしくコペルニクス的転回。土台となる足元が揺らぐような不安。
灯はそんな彼に同情を寄せた。
「まあ、少しはわかるかも……」
「大体、なんで急に幽霊が見えるようになったんだ。これまで一度だって、そんな事はなかったのに」
青年は頭を抱えてそう訊いてくるが、そんな事は灯にはわからない。
咄嗟に思いついたことを適当に答えていた。
「本当は、元々見えていたんじゃないですか。でも、信じていないから、見えていながらも、それを幽霊だとは思わず、無意識のうちに現実的な解釈を施していた、とか」
彼は腕を組んで唸った。
「それは有り得るな……。しかし、全く頭が痛いよ。まだ信じ難い。死者と対話をしているなんて」
写真を見返す彼。そこに映りこんでいる自分の姿が、彼女の目にも入った。
その時、またしても驚きで追いやられてしまっていた疑問が、再び押し寄せてきた。
「……ところで、どうして私のことを調べているんです?」
彼は一瞬躊躇う素振りを見せた。依頼人の事を他言するのは守秘義務に反するのではないか、と瞬時に考えたからだろう。
しかし、灯は既に死亡しているし、何よりも彼女は、まさしく事件の当事者だ。話さないわけにもいかないと観念したのか、結局彼は事の顛末を話し始めた。
「ああ、実は、君のお母さんが依頼してきたんだよ。娘が自殺なんてするはずがない、きっと誰かに殺されたに違いないって――」
自殺――?
灯には母が彼女の死の真相の調査を依頼したことよりも、自殺という言葉の方が引っかかった。
「ちょっと待って、自殺……ってどういうことですか? 一昨日来てた警察は事故じゃないかって言ってましたけど」
「ああ、最初はそう思っていたみたいだけど、君の財布に帰りの電車代すら入ってなかったから、そもそも帰る気がなかったんじゃないかってことになってね。それから、君の友達数名に聞き込みした結果、君が亡くなる数日前に男にフラれた話を知って、自殺の線が濃くなったから、そう結論付けたんだよ」
財布に電車賃も入っていなかったのは当然だ。
ちょっと前に少ない友人たちと遊びに出かけた時に、思いの外使いすぎて財布の中身はすっからかん。それでもその日は学校の図書室に赴くだけだったのだから、金を入れて持って行く必要がなかった。ただいつもの癖で財布を持って出かけてしまっただけである。
それに、フラれた話も事実だった。
一年の時から同じクラスのサッカー部の男子がずっと気になっていて、その日、友人に背中を押される形で、灯は人生で最初の大真面目な告白を決行したのだった。しかしそれが、いともあっさりとした、ごめんの一言で終結。
女子からもそれなりに人気のあった男子だったから、望み薄なのは理解していた。元々、自分のような陰気な人間は、男子と付き合って青春を謳歌するような柄じゃないこともわかっていた。それでも、流石にその夜は枕を濡らした。
とはいえ、そんなことでいちいち自殺などしない。
勝手にストーリーを作り出し、自分の死を自殺として片付けようとしている警察の暴論に、灯は少しばかり怒りを覚えた。
「そんな……、それで自殺だなんて」
と拳を握り締める灯に、青年はどこか納得した様子で頷きを返した。
「まあ、君がそう言うなら、やっぱり違うんだろう」
「やっぱり、ということは、貴方もそう思ってたんですか?」
すると、待ってましたと言わんばかりに、青年はまた鼻高々に自分の推理を話し始めた。さっき間違えたことなど、もう気にも留めていないという感じに。
「まあね、自殺するならホームから飛び降りるなり、君の住んでいる団地のベランダから落ちるなり、もっと手頃の方法があるのに、わざわざこんなところまで来て死ぬ、というのはちょっと引っかかったし。それに、君の着ていた登山服はまだ真新しかったという話を、この近くの駐在所の警官から聞いてね。これから自殺するって人間が、わざわざ新しく登山の服を買ったりするわけもないと思ったから、自殺ではないだろうと踏んだわけ。まあ、財布の件は確かに妙だから、事故でもないだろう。そうなると、これは殺人の可能性が高いかもしれない、そう思っていたんだよ」
彼の口から次々と繰り出される推理に圧倒され、少し退き気味になりながらも、灯は心内で成程と合点した。
「それで一応、現場を見に来たついでに、誰か君のことを見てないかと思って、調べていたんだ。誰かと一緒に来ていたかもしれないし、もしそうなら、そいつが犯人の可能性も高いから。まあ、昨日警察が既に聞き込みはやってるし、この辺りは山もそれほど高くなく、殆どの観光客は日帰りで登山に来るだけで入れ替わりが激しいから、この通り、何も得られなかったけどね」
青年は欧米人ばりにオーバーに肩を竦めた。
警察が、という他人行儀な言い回しに、灯は問うた。
「っていうことは、やっぱり貴方、刑事じゃないんですか?」
「ああ、俺は刑事じゃなくて、探偵だよ」
そう言って彼は、懐中からスムーズに名刺を取り出した。
何気なく受け取ろうと思って、そうしたくてもできないことを思い出し、灯は手を引っ込めて紙面に目を落とす。
『私立探偵 快藤雷馬』
紙の真ん中に、無機質に淡白にそう印字されている。
「た、探偵?」
紙から顔を上げると、雷馬は肩を竦ませながらはにかんだ。
「って言っても、趣味でやってるだけだけどね。まだ高校生だし」
高校生の探偵。快藤と言う苗字。
灯にはどこか聞き覚えがあった。
「そう言えば、どこかのニュースでお見かけしたことがあるような……」
確か、警察も手を拱いている事件を解決したとして、紹介されていた気がする。
どこにでも天才はいるもんだ、とその時はさして気にも留めなかった。只の地味な女子高生とは、違う世界の話だと思っていたからだ。
それが、まさかこんなところで逢着することになるとは。
しかし、雷馬は急に不機嫌そうな声音になった。
「ああ、あれか。まったく、碌なものじゃないよ。趣味でやっていることだっていうのに、勝手に俺の事を高校生名探偵だなんて特集組んで報道して。まあ、それは事実だろうが」
そっと自画自賛を挟んで、雷馬は不満を零した。
「お陰で余計に目を付けられて大変なんだからな」
「名前が知られるのは、悪いことじゃないんじゃないですか?」
「少なくとも俺には何もメリットがなかったね。警察関係者には面子が潰されて不愉快だから怒られるし、聞き込みでは素性を知られていると、あんた高校生だろ、教える義務はないって門前払いだし。ちやほやとたかってくるのは無関係な人間だけ。まあ、出る杭は打たれるのが常だから、仕方がないことだろうけど」
「でも、それがきっかけで、多分私のお母さんは貴方に事件の依頼をしたんだと思いますけど」
「それも困りものなんだよ。そもそも俺は興味のある事件でしか動かないんだ。依頼なんて特に受けたりもしない。この件を引き受けたのも、暇を持て余していたから、気まぐれに、というだけのことさ」
ただの高校生の灯には、彼のそうした災難などはまるでわからない。しかし、彼の言い草は虫が好かなかった。節々から漂う偉そうな感じが、そうさせるのかもしれない。
気まぐれでやるくらいなら、こちらから願い下げたい気分だ。
そんな彼女の気持ちを見透かしたかのように、雷馬は付け加えた。
「理由は気まぐれだが、引き受けた以上、事件の解決には勿論全力を尽くすさ。心配ご無用。この事件もすぐに解決してみせるよ」
その真っすぐな視線と揺るぎない自信に、灯のほうが後ろめたさを覚えて、思わず視線を逸らしてしまった。
「まあ、兎に角そういうわけだ。事件捜査のため、覚えている限りでいいから、君の話を聞かせて欲しい。何しろ実際の被害者だからな。解決への重要な手掛かりになるはずさ。それに正直、目撃証言が少なすぎて、ちょっと困っていたところだからね」
雷馬に頼まれた灯は、まだどことなく彼への不平がわだかまってはいたものの、結局これまでの記憶を彼に語り始めた。




